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戦国時代/戦国武将コミュの後北条氏により天下統一の可能性について

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コミュ内全体

後北条氏は関東に本拠地を置いていますが天下を統一するだけのポテンシャルはあったでしょうか?
天下を統一出来る可能性があった根拠として
関東は遠すぎるという意見がありますが
関東は日本最大の平野であり、肥沃な大地と日本で最も多くの人口を抱える事が可能な地域であり
頼朝も家康も関東から日本統一を果たしていますから
決して不可能では無かったはずです。

また番外編として
桶狭間で信長が死亡する等して戦国時代が長続きし、地道に関東の開拓を行う等していれば
史実で富士山が噴火した宝永大噴火(1707年)までに統一を果たす事は出来るでしょうか?

ざっと江戸幕府成立(1603年)から富士山の噴火まで100年以上の時間がありますよね。

コメント(221)

>>[176]

あー、疲れる(笑)。

貿易は利益を生むけれど、その利益をどう活かすは別問題の話でしょう。

遣唐船の廃止は、唐が内乱で国力が衰えていたのと新羅の海賊がばっこしていたことで安全面の観点からで、民間貿易ですでに大陸文化が輸入されていたから廃止した訳で、その後唐が滅んだ。

日宋貿易も南宋が滅んだから終わったし、平清盛は貿易の利益を背景に日本初の武家政権を築きましたよ。平清盛の死後にあっさり滅んだのは事実ですが、そもそもが、源氏と平家の勢力が拮抗していた上に、『平家にあらずんば人にあらず』の態度で驕っていたことで、人々な反発を買い、敵を作ったこと、後継者が早死にしていたし、飢饉もあったりと不幸が重なった上に、合戦で負けて破れ去っただけです。

日明貿易は、室町幕府3代将軍足利義満が明の皇帝から日本国王に冊封(任命)すると言われたが、義満は面子よりも貿易による豊富な利益という目先の実利を取った為、国内で問題視され、死後に4代将軍足利義持から貿易停止したのです。後に6代将軍足利義教の頃に復活し、利益をもたらすものの、応仁の乱があり、大内氏や細川氏が権益を手にする。民間貿易も利益を上げて、後に朱印船貿易となり、利益をもたらしていたのに、徳川家光の鎖国政策で貿易が終わった。

江戸時代の総石高を上げて語っていますが、徳川幕府の天領は400万石ですよ?しかも、検地や農地改革をしたあとの17世紀末の話でしょうが。
1年分の5万石の収入が船1艘で入ってくるなら10艘で行ったら1往復で50万石ですよ。しかも貿易国は1ヵ国とは限らないのだから、ちょっと考えれば分かるでしょうに。

海外貿易をしていた港や栄えた町が、堺と博多以外になかったと本気で言ってます?大名達が、海外貿易で利益を上げて国力を高めたと言っているのに、堺と博多以外に栄えた港を知らないなんて、こっちが呆れる。

ここまで説明しても、馬鹿馬鹿しいのに、最後まで言わなきゃいけないのかな。ずっとトピずれだし、質問されたから答えてきただけなのに。

プランテーションは日本なら荘園にあたるだろうけど、公家や寺社が権益を独占していたけれど、信長の頃には廃止しているし、徳川幕府はそんなこと許さないでしょう。

あなたは御用商人をご存知ですか?幕府や大名に金を貸したり、様々な物を揃えたり、用立てたりしたのです。貸し付けることにより、大名や幕府は、様々な内政や修築工事、治水工事、災害、飢饉対策、米の買い上げや国内貿易輸送などによって経済を下支えしています。あなたの発言は、彼らに対する侮辱ですね。

貿易の採算が合わないというのは、単なる失政の言い訳にしか聞こえないし、人身売買禁止令やキリシタン禁教令は実際に行われています。銀の交換比率を外交交渉することは、出来るはずがないという否定の根拠もないし。

国内貿易と言いましたが、それは日本がまだ一国という認識ではなく、60余州という国々に別れているという私個人の認識から言いました。そして、それぞれの港間での貿易を言い、それによって利益を上げた商人達に税金を掛ければ良いというやり方で、津島港や熱田港も含めて全国の港間貿易です。

あなたがおっしゃる貿易赤字も生糸や大量の武器や硝石の輸入や支払いの為の銀の流出も抜けていますよ。一部だけ都合よく抜き取って、反論しないで下さいね。

中国やインドを支配していたに関しては、確かに誤植です。この当時はまだ支配はしていません。しかし、フランス東インド会社やイギリス東インド会社が後にインドを支配下に置いていますし、中国のアヘン戦争を引き起こして、中国から多額の賠償金と様々な条件を呑ませましたが。

いい加減疲れた。

きちんと答えてきたつもりですが、あなたと話すだけ時間と労力の無駄でした。

他の方からも批判が出ているので、もう止めます。

皆様、ご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした。
>>[178]

申し訳ありません。疲れたのと、皆さんの迷惑になるのでもう止めます。
しかし、言われっぱなしでは腑に落ちないのと、曲解だったり、決めつけだったり、挑発的な文面だとつい・・・・・・。無視するという手もあったのですが。

以前、自分が持論を述べるのは、自由だと言ったのに、ムキになってしまいました。
すみません。
>>[179]

気分を害し、申し訳ありませんでした。
>>[177]

申し訳ありませんでした。
私も歴史が好きで、本も読みますが、本来は討論は好みません。
ですが、つい熱くなってしまいました。
>>[180]

そうですね。仰る通りです。
議論も建設的なものならばという意見には賛成です。
今回のことで身に沁みました。
長々と続けてしまい、申し訳ありませんでした。
>>[182]
結局要するに、あなたのおっしゃっていることは「信長すごい! 信長が長生きしていれば日本は欧米列強に匹敵する大国になっていただろう」とか、今時まともな歴史家なら誰も主張しない99%自分の願望を並べたてただけの自己願望にすぎないんですよ。
こちらこそ、まともに相手にするだけ無駄だったわ。
意見内容はともかく言い方が喧嘩腰で良くないな。
>>[188]

申し訳ありません。
せっかく皆さんの意見を書いて貰って、面白かったのに、途中から関係のない信長論争をしてしまい、ご迷惑をお掛けしました。

信長の意見も、基本的には私個人の推測と考えですので、お気になさらないで下さい。

当分は参加を控えて、皆さんの意見を見るだけにします。
>>[177]
この埋もれてしまうトピに書く時点でどっちもどっちですね。
賢明なのは独立したトピを立てることです。
それをお勧めしますよ。
さて、ずれてしまったトピを修正するのは結構骨が折れることかと思います。
基本的にこのトピの課題点は、地方の有力大名がどの程度中央に関心があったかということだと思います。
例えば、北条と似たようなレベルでは、長曾我部氏や島津氏、毛利氏が天下をとれるかといったところに相当すると思います。

もう1つは崩壊した秩序に対してどう対応するかではないかと思います。
さらにもう1つ加えると時間軸的な対応ですかね。

以下うだうだと書こうと思ったのですがちょっと出てこなかったので中途半端に止めてしまいますが。
>>[191]
もう一つおすすめするならば、城コミュでトピ立てるのがいいですよ。
あっちは城関係の詳しい人や知り合いに専門家がいる人とかいますので。

戦国時代コミュは必ずしも歴史好き=城が好きっていう人ってわけではないので、関心度はどうしても低くなります。
>>[193]
まぁ、北条に興味の有る人の目に触れたから大丈夫ですよ。
それに城だけじゃなくて自然環境含めた古道や城址の話な上にニッチな人だけしか知らないのは意味が無いんですよね〜。
城オフなんか行くと北条系の人がうじゃうじゃいる(笑)。
>>[181]

私の信長像はタコアシさんに近いです。
常識に囚われない逸材であり、当時では画期的な人物だったと思います。
本能寺の変が無ければ2〜3年で統一していたんじゃないでしょうか。
基本的に降参してくれば許してますし(使える人物か使えない奴かは見ていたらしい)。
毛利は降伏する予定、長曾我部は討伐される直前、上杉は滅亡間近であり、
北条は臣従していたし、関東諸将は滝川一益に出仕し始めていましたし、
東北の諸将も先争って貢ぎまくってましたので、東はほぼ問題無いようです。
毛利が降伏し、長曾我部も攻められて降伏や滅亡するようだと、九州も先争って臣従するんじゃないでしょうか。
意外と早く日本はまとまると思いますよ。

その後朝鮮半島から海外遠征しそうなのは、事業を受け継いだ秀吉をみると間違いなさそうだと思います。
秀吉は海賊を禁止したので水軍の質が落ちてしまったようですが、信長はどうなんでしょうね。
鉄甲船作らせてるくらいなので、信長なら一度失敗したら二度目は絶対勝てる方策を考えて来るでしょう。
惜しむらくは、その信長を当時誰も理解できなかった事。
だから信長が何をしようとしていたのか本人しかわからなかったし、周りは付いていけなかったんだと思います。

信長が桶狭間で討ち死にしていたら天下はどうなっていたか。
本願寺勢力が制圧していたでしょうって冗談もありますね。

秀吉は日本を平定する力量はあったが、統治し続ける能力は無かった。
唐入り、身内の粛清と自滅していきますが、私は徳川家康を関東に移封した事も大失敗だったと思います。
秀吉は家康を三河から遠ざけることで家康を弱体化できると思ったようですが、
三河以来の強力な家臣団は相当な発言力を持っていたようなので、
地元から切り離された彼らの戦力は相当衰えたと思います。
それは逆に家康にとって都合の良い事です。
自由自在に配置換えし、信長のような中央集権の勢力となれますので。
そして唐入りも免除され、じっくりと立て直す事もできました。

では上杉も得をしたか・・・
石高は上がったものの日本海ルートの物流収入が絶たれてしまったのでは?
と思います。

結果的に味方を弱体化させ、真の強敵を自由にさせてしまったと思うので、
私はあまり秀吉を評価していません。
器量が大きく、人懐こいひょうきんな人物であり、身売り同然の身から天下統一したのですから偉大な人物ですよね。
でも最盛期は賤ケ岳の戦い頃であり、その後は緩やかに下りながら天下統一。
そんなイメージです。人間的に輝き魅力溢れていたのが賤ケ岳の頃かなあと。

神君家康。
もうそれだけで充分でしょう。
自分の目が行き届くうちに全部片付けたので悔いはありません。
そんな感じですかね。
画期的では無いけれど着実に、じっくり考えて最善と思われる事をする。
関東を統治した家康公がこれだけ繁栄させたのですよ的なのが、北条贔屓な自分には気に食わないですが、江戸をここまで発展させ、東の京にまでしたのは凄いです。
北条と婚姻同盟した頃は従属に近かったんじゃないの?とか思ってますが、
お家を残し、発展させた方が勝者です。
三方ヶ原とかあの辺で討ち死にして影武者だったんじゃないの?とかいう説がありますが、影武者だったとしても凄いです、はい。
お家騒動を信長使って解決したり、所詮いっぱいあった松平の一つでしょ的で反抗的な家臣を秀吉のお陰で黙らせることができたり、我慢してでも継続は力なりですね。
>>[196] わざわざコメントありがとうございます。

とても興味深いお話で楽しそうなのですが、トピずれなのと、またご迷惑をお掛けすることがあってはとの反省から、今回は意見を控えます。
でも、ご意見が聞けて嬉しかったです。
コメント出来ず、お許し下さい。
地方の有力大名が、天下に対してどういう云々は既にコメントされている通りですが、三英傑との比較無しでは語る事は出来ず、本トピのような展開は致し方ないものと思います。
信長に関して言うと、正直なところ革新・画期という言葉とは程遠い印象を抱いています。
むしろ極めて常識的な人物だったと推測します。
天正10年6月で死んでしまったので、結局何をやりたかったのか分からず終いでした。
秀吉や家康と比較すると判断は難しいと思いますが、少なくとも一次史料で信長の天才性を論じるのは不可能だと思います。
>>[199]
ほぼ同じ意見です〜。
でも常識的と言うより堅実と言った印象が個人的意見です。
出身地旧海部郡〜一宮市〜江南市〜小牧市を回り伝承を拾うと良く解りますが堅実な上に人情深く人懐っこい人物像しか見えて来ません。
俗に秀吉に持たれている印象が信長公の実像に近く、明智光秀公に持たれている生真面目神経質な印象が秀吉の実像に近い気がします。
明智光秀公は軽口が好きだし見通し甘いし、お調子者だったんじゃないかな〜と。

大相国が含まれる戒名なので、朝廷には大将軍ではなく内々に太政大臣に内定していたんじゃないかなと。
つまり足利義昭の面子も立てながらあくまで天皇の家臣として国を復興する夢が有ったんじゃないかな〜と妄想しています。
三英傑の研究は近年(といってもここ20〜30年くらいでしょうか)急速に進んでいるのですが、一般に浸透するにはタイムラグがあります。
NHKの歴史バラエティですら「本当にそう思ってるの?」と言いたくなるような展開もいまだにありますしね。

以前、大河コミュで信長の兵農分離を否定したら総スカンでしたw
>>[201]
戦国ネタは全体的にこの近年で解釈が変わりつつありますよね。
それでも昔ながらの解釈で通す歴史番組もありますし。
最近ブームの応仁の乱ももっと盛り上がればいいのにって思いますよ。
最新の解釈や説が正しい、ということもないので、新旧交えながら話が進むと面白いのですけど、共通前提を合わせるのがなかなか大変ですわな。
秀吉、家康は、深化した、という感じがしますが、信長に関しては全く同じ史料の解釈が正反対、という状態が続いているようなので、これは別に信長さんには関係ないところの話のような気もします。

父の葬儀で抹香、でいやっ、となげつけるうつけさんは、どういう人物だったか。
尾張時代の信長に関しては良質な専論が増えているようには思いますが、かえって過去にはよく語られた信秀葬儀、道三対面、平手切腹、などが語られておらず、本来ならこのあたりから始めるのが、人物史、とは思うのですけどね。
>>[196]

>秀吉は家康を三河から遠ざけることで家康を弱体化

とはよく言われますね。
でも秀吉と家康が対立していたという史観に立脚しているもので、実際には史料上で証明することはかなり難しいとは思います。

>唐入りも免除

これもよく話に出ますが、渡海直前でしたので否定すべきだろうとは思います。
>>[200]

どうなんでしょうね。
よく分かりませんが、征夷大将軍と太政大臣って並立しないとも限らない気がしますが。

流石に同時はダメなのかな?
>>[202]

呉座本のせいか世間はすっかり応仁ブーム(?)ですが、正直全くついていけません。
>>[203]

信長見直し本ブームも一段落してしまいましたが、振り幅が大きい本ばかり出るよりは良書がポツポツ出てくれた方が有難いかも知れませんw
>>[205]
まぁだから駄目だったんでしょうね。
足利将軍の解任→足利将軍血縁利権の喪失に繋がる藤原一族←太政大臣官途流出への危機感も有ったでしょうから。

しかし作家にはビックリするくらい取材しない人も資料読まない人もいますよね。
生年による年齢の比較すらしないで小説書いてしまう方もいますし。
新撰組の井上源三郎さんの御身内から名籍を継がれた後子孫が、今も天然理心流の先生なんですが・・・
近藤勇さんと実年齢大差無いのにジジィ扱いしてる某作家メガネとかにイラっとしてますからね。
学者ですら駿河伊豆の水軍の事を書いた某学者もカルトに利用されカルトに都合良い事を悪意無く書かされてたり、寺や子孫に確認もせず更に一族武将同士の死没年比較もしないもんだから寛政重修諸家譜の名前の誤記、元号の誤記にも気付かずに本に丸写ししてたりしますからね。

更に凄いのは「小説」を歴史資料と混同した人間が大名の菩提寺に来て失礼な脚色を本気にして失礼な質問を職員にしてるケースも目の当たりにしましたし。
>>[94]

遅いレスですみません。
現代の用語と政治視点で書いたので、民主主義もない中世近世で民意や政治宣伝なんて発想があるか、と誤解を招いたかもしえませんが言及した内容は信長が行った事実のままです。

自身の政策の方針を皆に知れるように振れまわったのは、信長だけではなく優れた戦国大名の多くが行っています。
早雲が使い始めた有名な虎の印章に彫られた文言は、「禄寿応穏」。(信長の「天下布武」ほど有名ではありませんが、)禄と寿は応(まさ)に穏やかなるべし=民の財産と命は我らが護る、という領民を大切にした実に後北条氏らしい宣誓ですね。

家康の馬印は「厭離穢土欣求浄土」。穢れた現世を離れて、阿弥陀如来の極楽浄土への往生を希求するの意味です。こちらも泰平の世を目指した家康らしい指標ですが、阿弥陀様を信仰する浄土真宗、浄土宗の門徒が多かった三河の民への「殿さまもオラたちと同じ理想を持ってるだ(失礼)」と人心を掌握する為の宣伝でもあるわけです。
(三河一向一揆に手を焼いた家康は、浄土真宗を禁止して信徒を浄土宗に改宗させたり宗教政策にも腐心した)。

謙信の旗指物「刀八毘沙門」は、仏の北方の護り主である毘沙門天に成り代り、朝廷と幕府を北の越後から護るという宣言。
信玄の「風林火山」の軍旗は孫子の兵法ですが、長い漢書体をそのままの意匠にしているのがミソで、信玄が中国の思想に精通していて孟子の王道思想を指標としていることも伝わる。

石田三成は「大一大万大吉」(一人が万民の為に、万民が一人の為に尽くせば天下は幸福となる)の旗を使っていましたし、毛利元就が「百万一心」(国人が力を合わせれば、何事も成し得る)を標語としていたという説もあります。
足軽や百姓、町人には文盲も多かったでしょうが、口伝えに領主がどういう方針を持っているかは耳に入ります。
周りは敵だらけで家臣がいつ裏切るかも分からない乱世で、国や家臣や纏めるために戦国大名は宣伝も上手くなければ生き残れない。何よりしっかりした民を導く政の理念がないと人は着いてこないでしょう。
>>[206]
応仁の乱は戦国時代を知るうえで基本中の基本なのでぜひ知ってほしいですね。
ちなみに、応仁の乱の原因の一因を作った畠山氏、戦国末期まで内紛しているんだから、実に100年以上もなんですよね。。。
>>[205]
確か律令制の官位と征夷大将軍など令外官の兼任はできるものとできないものがあったと思います。武官系は兼任をするケースが多いですね。
もう1つは律令制の官位につくと京都から離れにくくなるとかそんなのもあったと思います。
時代によっても違うでしょうけど、信長の時は例の三職推任で単独という意味合いだったでしょうね。
徳川になると家斉が同時になってますね。
これは将軍在位50年という大記録達成のご褒美と言うかついでというか、将軍現役のまま名誉職をもらってしまったという・・
家康、秀忠は将軍返上後、家光は勧められて辞退、その後は神君の先例にならって、という感じでしょうね。

三職推任というと、関白と言うのが唐突な感じがします。
今だと秀吉が関白就任してるのであまり違和感がないのですが、あの時点で「関白に」というのはかなり異常な事かと。その秀吉でも摂家内の争論のおかげで、という段階を踏んでるわけで、一介の大名にいきなりあの三職なんでもどうぞ、というのはどうなんでしょうねぇ、信長ー朝廷は友好関係と言うのが今は多数をしめるようですが、やっぱり何かギクシャクしたものを感じます。

後北条にうまく話がつながらなひ・・
>>[212]
>後北条にうまく話がつながらなひ・・
わざとそういう流れにしているのかと思っていましたが…違うの?
>>[204]

>>唐入りも免除

>これもよく話に出ますが、渡海直前でしたので否定すべきだろうとは思います。

逆じゃないですか?
渡海していないのだから疲弊せず、渡海した諸将は戦費自己負担で多大な疲弊し、秀吉死後に家康を頼っていくことになるのですから。
渡海していないので出費もなく、戦費不足で領内から無理な課税をして現地で戦った大名とは雲泥の差ですよね。
流石に現役の将軍が、形の上でも太政大臣を兼務するというのは難しかったですか。
>>[215]

言葉足らずでした。
「渡海命令は西国大名を対象としており、家康は免除されていた」という解釈を時々見かけますが、それは誤りだろうという事です。
もちろん家康が渡海した事実はありませんが、そうなる可能性は大いにあったと思います。

文禄二年一月の利家が家臣へ送った書状に「高麗表については、我等も渡海することになった」とあり、また同時期の伊達家の史料にも「羽筑・羽久太・羽忠三・左京殿・浅弾、近日天気次第ニ渡海之由、及承候」とか、1番浅野幸長・伊達、2番前田・蒲生、3番徳川という内容の物が見られます。更には、奉行の木下吉隆の書状に「忠三・筑州、近日遣わさるべく候由、家康も右両人相越され候後に遣わさるべき由に候」とあるので、やはり徳川・前田・蒲生・伊達の渡海は決定事項だったのだと思います。
結局、めぼしい大名の中で海を渡ったのが上杉景勝だけだったのは、何故なのか良く分かりません。戦況の目まぐるしい変化か、或いは講和に向けた展開などが要因かも?

もうひとつの事例として、文禄四年正月の島津家史料に「高麗国動御人数帳」の中に、江戸中納言秀忠に対して「高麗城々留守居」として二千、「関白御そば在之衆」として二千、都合四千の動員が割り当てられた事が確認できますね。
結局この年も、渡海命令は撤回されましたが。

もっとも、渡海こそしなかったとは言え、長いこと名護屋に常駐していたわけですから、それなりに軍役を果たしていたとは言えるでしょう。
>>[216]
まあ、太政大臣そのものが名誉職の性格が強いものですしね。
そういう意味では武家が太政大臣になるというのは家柄の家格を上げるという意味では有効だったかもしれません。(貴族では清華家と同じ家格にあたるため)

ちなみにですが、もし北条がいなかったら関東はどうなっていたと考えますか?

参考までに主なものは

享徳の乱(鎌倉公方vs関東管領:1453-1483)
長尾景春の乱(山内上杉他vs古河公方、長尾景春:1476-1480)
長享の乱(山内上杉vs扇谷上杉:1487-1505)
永正の乱1(山内上杉vs長尾為景:1507-1510)
永正の乱2(山内上杉顕実vs山内上杉憲房:1510-1515)
永正の乱3(足利政氏vs足利高基:1506-1512)
関東享禄の乱(足利、山内上杉vs足利、山内上杉:1529-1531)

>>[219]

伊豆、相模西部、武蔵西部は今川・武田あたりに侵食されてたかも?
>>[220]
今川は伊豆や相模の山内上杉領内を侵略した可能性はありますね。過去にも幕命で鎌倉攻撃をした実績もありますし、扇谷上杉とは同盟関係にありますしね。
問題は同時期に並行している遠江侵略とどっちを優先し、占領し続けるかどうかといったところでしょうか。占領した土地を扇谷上杉氏に渡す可能性も否定できないですし。

その点では武田も同じかもしれませんね、もしくは史実と同じで信濃経由で上野に侵略するか。

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