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戦国時代/戦国武将コミュの後北条氏により天下統一の可能性について

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コミュ内全体

後北条氏は関東に本拠地を置いていますが天下を統一するだけのポテンシャルはあったでしょうか?
天下を統一出来る可能性があった根拠として
関東は遠すぎるという意見がありますが
関東は日本最大の平野であり、肥沃な大地と日本で最も多くの人口を抱える事が可能な地域であり
頼朝も家康も関東から日本統一を果たしていますから
決して不可能では無かったはずです。

また番外編として
桶狭間で信長が死亡する等して戦国時代が長続きし、地道に関東の開拓を行う等していれば
史実で富士山が噴火した宝永大噴火(1707年)までに統一を果たす事は出来るでしょうか?

ざっと江戸幕府成立(1603年)から富士山の噴火まで100年以上の時間がありますよね。

コメント(200)

北条のトピなのに信長の話ばかりして、申し訳なく存じ上げ候。関東の独立国家構想を指針としていた北条が天下を取るシュミレーションが、なかなか思い浮かばなかったもので、
実在した当主で天下取りを狙うなら、早雲こと伊勢盛時でしょうか。今川氏親の後見人から駿河を乗っ取って関東ではなく西へ進軍して東海を制圧。盛時は素浪人ではなく9代将軍義尚の申し次衆、奉公衆だったので、そのコネとパイプを活かして上洛して、後は信長パターンとかなり無理やりですが。
ただ主家を乗っ取った人物は、斉藤道三も長尾為景も家臣の離反に苦労しているので、駿河をまとめて他国へ進攻するだけでも大変だと思います。が、完全な余所者から関東に根を張った早雲の才と人柄なら上手くやるんじゃないかなあ。(問題はそういうプランの発想が出てくるのか、という一番重要なところですが)。

北条の魅力と真価は天下を取れたかどうかよりも、その善政にあると思っています。
税制を整理し、税の中間搾取を段階的に無くしていっての減税、検地を行って税収を安定させ、飢饉になると徳政令を出し、目安箱を設けて執政に反映させ「敵は徹底的に騙しても、民と家臣を大切にすれば自ずと人は着いてくる」という早雲の教えを堅実に実現させていった。
家族を大切にして一族の争いがほとんどないのも、下剋上の時代にほとんど類を見ない見事な家風と絆です。(そのためドラマの題材には不向きですが)。

北条領を引き継いだ家康が北条の内政の素晴らしさに目を見張って、やがて江戸幕府の政策にも引き継がれましたから、後北条氏は滅んでも関東を五代に渡って統治した実績は価値ある偉業だったと評価しています。
氏康も国府台の合戦で小弓公方の足利義明を討ったことで、古河公方の足利晴氏から北条は関東管領に任じられた、と主張してますよね。(古河公方、堀越公方、小弓公方と支持基盤の事情で、鎌倉公方も乱立してましたからまさに乱世)。
謙信がわざわざ上洛して将軍義輝から関東管領就任の許可を得たり、鶴岡八幡宮で関東管領就任式を行ったのは、関東管領は鎌倉公方ではなく将軍が任命するもので、山内上杉の名跡を継いだこっちが氏康よりも正統だ、というアピールが必要だったからです。(謙信の二度目の上洛は三好、松永の専横を牽制したい将軍義輝の要望に応える為でもありましたが、逆に三好、松永に警戒されて寿命を縮めてしまった)。

将軍の奉公衆だった盛時は、幕府と鎌倉府の対立を利用して、幕府の代理で鎌倉府の勢力を削ぐ名分で勢力を拡大しましたから、氏康の時代にはそれが逆転してしまっているのが歴史の皮肉ですね。
>>[152]
そうですね。もうすでに私が答えるよりも先に、反応している方々が、いくつか意見を書かれているので、そちらの方の説が正しいと思いますよ。

関東管領の座を長尾景虎(謙信)と(北条氏康が)争っていた時期、この頃の関東管領が上杉家の世襲制のようになっているということ、実際は形骸化していたから北条が関東管領を拝命する可能性は低かったと思う(受けなくてもすでにその実力があるから)という断りをした上で、単純な仮定の話をしたのですが……。

実際は、関東管領の座と正統性を巡って長尾景虎と北条氏康の間で、揉めて度々合戦になりましたが、長尾は将軍足利義輝に拝謁した際に管領並の待遇を与えられた後、時の関東管領である上杉憲政から山内上杉家の家督と関東管領を譲り受け、上杉政虎と改名して、鎌倉府の鶴岡八幡宮で就任式を行った訳ですが、北条氏康は、父氏綱が生実公方足利義明を討った功績により、古河公方足利晴氏から関東管領に任命されていると『北条氏康条書』で主張していたからこっちが正統だと言い争いをしていたけれど、最終的には越相同盟で古河公方は足利義氏、関東管領は上杉輝虎だと双方が認めたということで決着していますので、正統なのは上杉謙信なのでしょう。

ただ、ifの話で例え降伏でも上杉憲政が後北条に関東管領と家督を譲ることを条件に助命を願って頼ってきたらどういう判断をしただろうかと気になったのです。受ければ当然、名実ともに正統性を主張出来るし、関東諸将にアピール出来る最高の機会ですし、関東での地位も磐石なものになるだろうと。

過去の遺恨や公方との争い云々もあるから、簡単には首を縦には振れないだろうし可能性が低いとは思いつつも、どうしただろうかと。

まぁ、ほとんど否定的な意見でしたが。
>>[155]

なるほど。あなたが私の意見に否定的なのは、分かりました。

これについては、元々人外さんからの『信長が目指した信長が理想とする政権構想ってのは具体的にどういったものだったとお考えになりますか?どういう統治機構を選んだと思われますか?』とのご質問に対して、私個人の意見として、信長が本能寺の変に遭うことなく生きたとして、どういう理想と統治機構を考えるだろうかと判断して答えました。

それが
1:天下統一による国内騒乱の終止符を打つ。(理想)

2:大阪辺りに織田幕府を開く(統治機構)

3:他国との貿易や海洋国家を目指し(方針)

4:大航海時代へと乗り出していたのではないかと思う(予想)です。

私もあなたに同じ質問をします。

信長が本能寺の変もなく生きていたとして、信長が目指したであろう理想と統治機構と方針と予想をお答え願えますか?

否定するからには、ご自身なりのご意見がおありなのでしょう。
是非ともお聞きしたいものです。

10年や20年ぐらいでは、徳川幕府のような長期安定政権の設立や当時のスペイン、イギリスと並ぶような海洋国家建設と植民地の獲得が成し遂げられると思っていると仰っていますが、ここに書かれていることで合っているのは幕府と海洋国家だけですよ。

しかも寿命の話もしてませんし、当時の平均寿命が40代説(?)を主張されておりますが、それは何を根拠に仰っているのかも分かりませんし、そんなに長くは生きられないから、無理だと決めつけていらっしゃると理解して宜しいのですか?

信長が死んだのは49。
秀吉が死んだのは62。
家康が死んだのは73。

信長は病死ではないので寿命を延ばすでしょう。
信長が死んだ時、秀吉は46歳。信長とそれほど年齢に差はありません。

ところが、本能寺の変で織田家の分裂による優秀な武将同士の同士討ちによる戦力ダウン(明智、柴田、滝川ほか)&四国・中国地方征伐中止&臣従していた北条家の裏切り&徳川家に甲斐国・信濃国を占領される等、織田家の大幅な後退劇と時間の空費があったにも関わらず、その後の歴史はどうでしたか?

秀吉は関白になって事実上、日本の支配者となって統治していますし、海外にまで乗り出していますよ。朝鮮出兵は秀吉の汚点になりましたが、朝鮮国王は逃げ出し、王子を捕らえたし、明の軍勢が来ても持ちこたえ、食糧難と秀吉の死によって撤退はしましたが、そこまでのことは出来ましたよ。

信長が生きていたら、もっと早く天下統一されていた可能性が高いし、私が考える以上のことをしていたとしても不思議ではありません。

ただ、私が個人的に考える信長の目指した大航海時代への道は、貿易主体ではないかと。

大航海時代イコール植民地という考えではなく、貿易によって経済力をつけて、技術力や武器を輸入し、水軍(海賊船クラス)から海軍(軍艦クラス)へのアップを図り、列強国に負けない海洋国家として異国からの侵略に備えたのではないかという意味ですよ。

そのことは以前にも同じようなことを述べて説明しているのですが、ちゃんと読んで理解して貰えてはいなかったようですね。

またこれは補足ですが、信長一代では無理だったとしても信忠や家臣団に事業を継承していくような組織も信長ならば作っていたのではないかと思います。

>>[165]
>信長が本能寺の変もなく生きていたとして、信長が目指したであろう理想と統治機構と方針と予想をお答え願えますか?

谷口克広氏は『信長の天下布武への道』(吉川弘文館)という著書の中で、信長は天下統一後は、自分の代わりに信忠を将軍か関白の地位につけ、自分は大御所的な立場に立つつもりだったのではないかと主張しておられます。
では、その織田政権がどういうものになったのかについては、私の推測ですが、結局家康が築いた幕藩体制と大して変わらないものになっただろうし、海外進出どころか徳川幕府と同じくいずれ鎖国政策を行なっていただろうと思います。
本能寺の変の当時、日本の過半は信長のものになっていたとはいえ、まだ東海の徳川、関東の北条、東北の伊達、九州の島津などの地域覇権を握っている大名がいくつか健在でした。
ここでも散々話題になっていますが、北条や島津、伊達などを完全に武力で滅ぼすには補給面で多大な困難が伴う以上、これらの大名に一定の自治を認めた上で、織田家が全国の大名の盟主として君臨するという徳川亜幕府のような政治体制が最も現実的だと思います。
あと、海外進出についても、あなたは貿易によって経済力をつけて、技術力や武器を輸入し、水軍(海賊船クラス)から海軍(軍艦クラス)へのアップを図り、列強国に負けない海洋国家を作るなどと絵に描いた餅ばかり並べたてていますが、そんな技術力や経済力が当時の日本にあったのですか。
そもそも徳川幕府が何故鎖国(制限貿易)に踏み切ったというと、海外貿易の結果が、輸出よりも輸入の方が過多であり、貿易赤字が増大して、国内の銀が大量に海外に流出してこのままでは貿易で国が栄えるよりも逆に国が衰退すると当時の幕閣たちが判断したからです。
ただ単に外国と貿易すれば国がもうかって栄えるというのはあまりにも単純すぎる経済観と申すより他にありません。
私もあまり人のことを申せませんが、もう少し経済学もお勉強されたらいかがでしょうか。

>>[160]

たとえ一週間分でも負担してくれる領主・上位権力というのは気前が良いなあと思いました。
信長の政権構想が如何なるものだったかは、謎というほかありませんね。
秀吉・家康の二人と比べ信長の場合は史料が少ないうえ、桶狭間・長篠・安土城・鉄甲船といった格好良くて革新的なイメージに引っ張られてしまうため正当な評価が難しいです。

現存する史料から推測するなら、信長はどちらかというと保守的で、社会制度や政策は旧来のものと大きく逸脱することは無かっただろうと思います。
天下獲る取らないの議論に水を差す様で申し訳ないのですが、それよともっと、明治生まれのカルトに捻じ曲げられてる戦国時代の北条家と三浦家の史跡や歴史の重要性を議論しませんか?
今でも現在進行形で神奈川県黒岩知事による扇谷上杉家の初期の拠点の伊勢原市の糟屋館の地形破壊や、横浜市の林市長が開発利権の為に小机衆の小机城を史跡認定しない事なんかの方がよっぽど歴史好きとしては現実的な問題じゃないでしょうかね?

更に言うと、北条家のライバルだった佐原三浦家を乗っ取った三浦道寸公や三浦義意公や北条家所縁の歴史史跡や霊場や神社仏閣が独身女性を騙して信者増やそうとする自称霊能者とカルト集団に乗っ取られる危機に陥ってる神社仏閣が沢山ありますよ。

天下獲る取らないの議論で現在生きる我々がアホみたいな喧嘩するより、歴史史跡を破壊しようとする開発利権政治家と役人、北条家臣団とライバルの関係先の史跡と宗教施設を乗っ取ろうとしてるカルトを撃退する方が歴史好きの本分でしょう?

今現在、三浦半島を中心として神社庁や曹洞宗や真言宗に属す宗教施設、地域の霊場を我が物顔で乗っ取ろうとして信者引き連れて案内して回るカルトが横行しています。
歴史的な景勝地も歴史が捻じ曲げられ宗教宣伝に利用されています。
明治の小説の架空歴史小説「桜の御所」をパクッてヒロインの架空人物の小桜姫を信仰対象としたカルトと結びついている一族に騙され、三浦郡初瀬和田一帯が戦国時代には北条家家臣の高尾主馬の領地だった事実を無視した水軍考察なんかが出回ってるらしいのだが・・・
欽明天皇以来の勅願所の江ノ島の岩屋と江島神社奥津宮を管理する別当であり北条家相模十四騎筆頭の間宮家の戦国時代の水軍拠点の杉田を治めた間宮家の間宮常信公の名前が間宮信常として紹介されていたり子孫と菩提寺無視した歴史考察も書かれて、更にそれをカルトが利用したりハチャメチャに成ってますよ〜!

太田道灌公の没後に、太田道灌公と共通の親友だった万里集九と北条早雲(伊勢盛時)公が道灌公を御祭神として祀った伊勢原市の太田神社もカルトに既に乗っ取られて久しい状況で、拝殿や幣殿が民家化してしまっています。辛うじて曹洞宗の道灌公菩提寺の洞昌院の旧境内地内の現在の飛地境内に北条早雲公と万里集九公が太田道灌公を改葬した墓地が残っていますがね。

皆さん、歴史好きなら先ずは歴史的な重要性を無視する横浜市教育委員会やふるさと歴史財団と言う第三セクター、それと神奈川県教育委員会に青木城・蒔田城・笹下城・青ヶ台城・永谷城(伊予殿根城砦)等の歴史的に大きな意義を為した武家の極めて重要な城址や史跡を発掘調査と縄張り図作成もしないまま破壊して来た歴史を抗議したり、白備え隊小机衆の拠点小机城址が文化財認定されない事への講義に労力を費やすべきだと思います。
それと源頼朝公が開き足利家歴代鎌倉公方が大切にしていた金沢区瀬戸神社の森だった山を破壊して金沢八景駅を拡大した金沢区の近年数代の区長、奈良時代の蹈鞴製鉄遺跡破壊した上に貴重な横浜市最後の広域蛍生息地の円海山瀬上沢を破壊し宅地開発しようと林文子市長が開発容認姿勢を表明しています。同地は鎌倉早駆け道が幾本も林道として残りますが、林文子市長に成ってから整備保全の手が入らなくなり通行止めが増えています。そして、その道の先には北条幻庵公の屋敷が在った港南区清水橋地区があり同地には風魔忍者の中継基地も有ったと伝わっています。そしてその直ぐ近くには鎌倉時代の和田義盛公築城で戦国時代に安藤良整公達が城代を務めた野庭関城も有りましたが全て横浜市のせいで保護はおろか発掘調査も縄張り図も作成されず破壊されました。
京都の九条関白家や本願寺良如上人や明治天皇達が遊覧に来た間宮家の杉田梅林と笹下城址の梅林を保護せず宅地化させた横浜市教育委員会と神奈川県教育委員会に、せめて小机城址の歴史文化財指定させる様に陳情する方が北条家の歴史を語る上で大切な事ではないでしょうか?
今年、戦国期小田原城の虎口、百姓曲輪も主要部分が宅地開発で破壊されました。残るは大土塁と左手の食い違い状の空堀のみです。
円海山の蛍も林文子が建設利権と結びつき歴代市長が自然公園指定した地域の自然を消そうとしているので風前の灯です。
北条家の歴史を思うのなら、そう言う事にもエネルギーを費やして頂ければ幸いです。













最後に伊勢家流北条家を尊敬し、神仏に等しく毎日礼拝する小生の個人的な意見ですが・・・
絶対に『北条家が天下を獲れる可能性は無かった』
・・・と思います。

内政力低くても戦国時代の徳川家の方が古参を大名に取り立てる給与体制が魅力的でしょ。
更に家臣団のモチベーション維持したまま内政力も高い織田家に勝てるとは個人的に思い難い。
北条家も太田道灌公以来の関東の足軽による集団戦術を重視した様ですし、そこは織田家と遜色無い上に個々の戦闘力は坂東武者の方が上でしょう。モチベーションに問題が有ると思います。
晩年の北条家の給与体制と軍団編成見ると解りますが、各家臣の惣領家を否定する様な給与制度で、鎌倉幕府より更に細かく当主⇔個々の家臣って家を無視した支配体制が確立されてますよね。
江戸幕府に大きな影響を与えた統治機構の設立は素晴らしいですし、公平な徴税手段や領民の意見を取り込む政治姿勢は素晴らしいと思います。
実際に初期の徳川政権下旧北条家臣団は都市の奉行職や鉱山経営で大業績を上げていますし、同じく武田家臣団も奉行職として多大な功績を挙げていますから。北条と武田の遺臣の活躍が無いと、徳川家は三河一向一揆や信州勢の離反が相次いだ様に統治能力が無いまま関東経営に失敗したでしょう。
徳川政権は江戸時代も八代将軍に成るまで、直参旗本達の不正が横行してるのに上訴が死罪扱いの圧政で目安箱の設置も無かったですからね。酷い話で徳川直臣には畦道(あぜみち)まで田畑として申告し正規の徴税権の範疇を超えた年貢を農民から徴収する輩がいましたし。

北条氏綱公までの家臣一族を信頼した軍団編成なら天下を獲るモチベーションを家臣団が発揮できたと思います。
しかし北条氏康公の代での軍団再編成後では、作戦能力も熟練度も上がらず大規模離反は抑えられても大敵が現れた時点で歴史通りの展開に成っていたと思います。
家臣の大名化を恐れた時点で、現在の公務員制度の様に惰性的な仕事のモチベーションしか保てないんじゃないかなと思います。
大きなボーナスも昇給も無く固定給で働き続けるの嫌ですよね?
最後まで忠義を尽くすモチベーション保った古風な間宮家や江川家みたいな家の方が奇跡でしょう。
だから、歴史通りの展開にしか成らなかったと思いますよ。
戦国時代に成らず中世的なまま、こまごました国人領主だらけのままだったら北条家は更に拡大していたかも知れませんが、旗頭にしていた古河公方足利家が足利義昭の京退去の時点で機能不全に成って用を成さなくなり、結局、歴史通りの官僚機構と家臣一族細切れ配置による離反防止を実行せざるを得なかったんじゃないでしょうか?
不正を許さず公平な税制を実現した内政は、鎌倉時代の北条泰時公の法治主義確立並に素晴らしく領民の為には成りますがね〜。

そこら辺は、一次資料も本業と別に趣味程度でしか読む機会の無いド素人の小生より、ここには、よっぽど御詳しい方々が沢山いらっしゃると思いますが・・・
>>[167]
>一週間分でも負担してくれる領主・上位権力というのは気前が良い
私もそんなわけないと思うのでレス>>[160]で「貸付米(利子付けか?)」という言葉を添えてみました。
>>[169]

三浦半島の三浦氏といえば、初代早雲と死闘を繰り広げた一族でしたっけ。
3年間新井城に籠城して耐え、結果的に三浦氏滅亡による相模統一までが早雲の集大成になりましたね。
>>[172]
そうです。
恐らく日本記録の3年超4年弱の継続籠城期間を誇る新井(荒井)城も有りましたが東大の施設建設と油壺マリンパーク建設で破壊され、その際に神奈川県教育委員会が又々見過し未調査の職務怠慢で縄張りは現代では不明です。
そして現代ではカルトに周辺宗教施設や霊場が乗っとられつつあります。

加えて、三浦家攻略や神奈川駅一帯に在った住吉城も神奈川県教育委員会と逗子が調査も保護もせず、最近リゾートマンション建設で破壊されました。
場所は逗子と鎌倉市の市を跨いだ浄土宗大本山天照山光明寺の鎮守の天照山〜住吉神社〜小坪にかけてが住吉城でした。

あと、葉山マリーナの裏の大きな山も三浦義澄公が籠城した平安時代末期からの城廓、鐙摺(あぶずり)城ですが、建設利権の為か出丸の旗立山だけ城認定し不可解にも背後の城址は未だに未調査のまま放置されています。

>>[173]
訂正
神奈川駅一帯に在った住吉城もバツ
神奈川駅一帯に在った権現山の城戦いで北条早雲公が後詰めで籠城した住吉城輪
>>[166]
あなたのご意見を集約すると、
1:織田家が全国の大名の盟主として君臨する徳川亜幕府のような政治体制を目指す(理想&統治機構&予想)

2:海外貿易が輸入過多で赤字が増大し、国内の銀の流出により、国が衰退するから鎖国&制限貿易をする(指針&予想)

になるかと思われますが、それですと1が豊臣、2が徳川が行った政治体制であって、無難ではありますが、あなたの考えというより歴史の流れそのままで、あの信長が果たして鎖国をして、保守的な体制を築くかは疑問ですが、それがあなたの意見なら、それ以上否定はしません。

ただ、ここからは質問に対する答えですので、お答えします。
ご存知の通り、日本の海外貿易は、歴史が古く、戦国時代でも大名や商人などが盛んに交流し、巨額の利益を上げています。歴史学者の真栄平房昭氏さんが試算した所、日明貿易で遣明船一艘あたり、純益が1万8000貫文〜2万5000貫文で、戦国時代末期に例えると5万石の大名の1年分の収入に匹敵したそうです。
だからこそ、幕府が禁止しても大名の密貿易は続けられたし、商人が巨万の富を築いて流通経済や港が大いに栄えて日本の経済を支えたのですよ。

むしろ海外貿易をしていなければ、他国との交流や、世界情勢などの情報、あらゆる技術や商品も入ってこず、新たな文化や技術開発や発展は生まれずに、旧態依然のままの小国に過ぎなかったと思います。

輸入過多は、戦国大名達が戦争の為に各国が競うように鉄砲や硝石を大量に購入していた時期があったり、生糸の重要性に気付き、国内流通の為に積極的に輸入したり、度重なる飢饉などによる米不足などで、それらを解消する為に海外から米を買い付けたり、かぼちゃ、スイカ、ジャガイモなどの品種を海外から輸入して、国内生産する為の前段階としての赤字があった訳で、あなたがその事情を知っていたのかは、文面からは想像出来ません。
また支払い通貨としての銀流出を判断材料になさっているのだろうと思いますが、銀の交換比率の問題などに信長が、何もせずに鎖国(制限貿易)をしたでしょうか?

そもそも鎖国(制限貿易)のきっかけは、キリシタン問題と宣教師や商人達による人身売買の現場を目撃して激怒した秀吉の人身売買禁止政策の継承、貿易独占とライバル国の締め出しの為にオランダ商人による告げ口外交政策によって騙された幕閣たちの失策の一面と幕府による貿易独占と管理の為に行われたのだと理解していたのですが、違いますか?

日本人の賢い所は海外からの技術を活かして、オリジナルを産み出す技術力と結集力があるということです。国産化と量産化です。
それによって、江戸時代の文化が豊かになっていくけれど、海外貿易を制限したことで、幕府の一強体制により国内は安定(戦争がない)し、美術や芸能、伝統文化などが発展したけれど、以後も貿易による銀の流出は続き、海軍力や国防力に至っては、世界情勢から完全に取り残されて、幕末に慌てて海軍を調えようとして、大量の武器輸入などによって、倒幕軍に対抗しようとしましたが、軍事訓練や軍の組織化も間に合わず、巨額の貿易赤字を作って徳川幕府は衰退&滅亡していったのです。

信長は、祖父信定の代より支配下にあった津島港や熱田港で経済と流通や情報や様々な商品を見て育ち、その重要性を知っていて、商人の感覚と目を持った稀有な大名だった。だからスピードも生まれたし、貿易が産み出す金が力になって新兵器や鎧を仕入れて戦力増強し、勢力拡大によって国力が増大したのです。そんな信長が、海外商人や宣教師と交わり、情報や知識を仕入れたのに、海外貿易を縮小するとは、私は思いません。

スペインやポルトガル、イギリスの地図を見た信長が、領土は日本とさほど変わらないのに、遠く海を渡り、中国やインドやアフリカ諸国を支配下にしたり、植民地下していると知ったら、日本を統一し、貿易によって国力や技術力を高めれば、彼らのような国になることも充分あり得ると判断しても不思議ではないと思います。

また海外貿易が赤字でも、国内貿易が黒字なら一応は採算は成り立つし、利益に対する課税をすれば良い訳で、貿易をしていれば、国産化したものを輸出に回せるようになったでしょうし、人身売買やキリシタン問題、銀の交換比率を外交で解決すれば、問題はないと思いますし、少なくとも衰退になるような事態にはならないと思います。

日本の技術力に関しては、例として鉄砲や鉄甲船や城などの建築物などが分かり易いと思いますが、字数制限の為、改めて書きます。


>>[175]
随分長々と長文を書いておられますが、大変失礼ながらその大半が「織田信長は同時代の日本人を超越した革新的な天才」という今では完全に手垢にまみれきった陳腐な信長像に基づいた思い込みと独断に過ぎませんな。
あなたがいうように日本にとって海外交易がそんなに金の生る木ならば、なぜ遣唐船は廃止されたんでしょうか。
また、日宋貿易で巨万の富を蓄えていたはずの平家は清盛の死後、源氏にあっさり滅ぼされたんでしょうか。
日明貿易にしても、足利義満の死後、行われなくなったんでしょうか。
遣明船一艘あたり、五万石の収益ですか。ちなみに江戸時代の日本全体の農地を石高に換算した場合、約二千万石といわれていますから、それと比べるとあまり大した額ではありませんね。
商人が巨万の富を築いて流通経済や港が大いに栄えた?
海外交易で栄えた港って堺と博多以外にありましたっけ?
それに巨万の富を築いた日本の商人たちは例えばヨーロッパの大商人や資本家のように、大規模なプランテーションや家内制手工業などに投資したりしましたっけ?
せいぜい南蛮からの舶来品や高価な茶器を揃えたりしたくらいでしょう。
それのどこが日本経済を支えたことになるんですか?
鎖国についても江戸時代中期に新井白石などが再検討した結果、やっぱり採算が合わないという結論を出したことなどもご存じないようですし、海外貿易が赤字でも、国内貿易(聞いたことない造語ですね。ひょっとして内需のことですか)が黒字なら一応は採算は成り立つとか、貿易をしていれば、国産化したものを輸出に回せるようになっただろうとか、人身売買やキリシタン問題、銀の交換比率を外交で解決すればよいとか手前勝手で無茶苦茶な理屈ばかり並べていますし(内需が黒字、つまり自給自足が可能な自己完結型の経済体制ならば無理に赤字の貿易する必要ないし、人身売買とかキリスト教の布教とか、さらには銀の交換比率とか、そんな近代国家レベルの高度な外交が日本も含めた当時の国々にできるわけないでしょう)。
度重なる飢饉などによる米不足などで、それらを解消する為に海外から米を買い付けたり、かぼちゃ、スイカ、ジャガイモなどの品種を海外から輸入して国内生産する為の前段階としての赤字があった?
戦国時代の日本が外国から米を輸入していたなんて話聞いたことありませんし(タイ米でも輸入していたんですか)、それに貿易赤字になるほど大量にかぼちゃやスイカの種やジャガイモの種芋を輸入していたんですかそうですか。
他にもいろいろと突っ込みどころ満載ですが、鉄甲船とか信長の時代にヨーロッパ列強がインドや中国を支配していたとか、明らかに誤謬とわかることを書きこんでいる時点でお里が知れますな。
歴史好きバツ
知識自慢オナニストのマウント取り合い(笑)輪

そんな下らないエネルギー費やすなら、そのエネルギーを破壊されつつ有る北条家や三浦家関連史跡保護の陳情に使って下さい。

戦国期小田原城遺構の保護。
小机城の歴史文化財指定。
伊勢原市岡崎城の残存部史跡指定。
大庭城の残存部史跡指定。
鐙摺城の縄張り調査と自然公園指定。
横浜市栄区の円海山の鎌倉武士の早駆け道の林道と蛍の生息する瀬上沢周辺一帯の自然公園再認定と宅地開発阻止。

さて、ここで下らない喧嘩してる知識自慢と小生、どちらが本当に歴史好きで先人をリスペクトしているんでしょうかね〜?
トピックを立てると必ず議論したり喧嘩したがる愚者がいますね。
議論や喧嘩に何の価値もない事が分からないとは哀れな…。
そもそもエッセイや小説以外の長文は読む気がしません。
まぁ何というか、議論そのものは悪いことではありませんよ。

建設的であるならば。
>>[166] 続きです。

日本の技術力に関してですが、種子島に鉄砲をもたらしたポルトガル人ピントは『遍暦記』を書きましたが、鉄砲3挺が銀2000枚で売れたことに驚き、翌年も売ろうと持ってきたら、既に80挺もの日本製の鉄砲が出回っていたことに驚いたといいます。彼らの鉄砲はポルトガル製ではなく、ドイツのズール地方で製造されたドイツ製であっただろうといわれ、修理工場はあってもオリジナルの鉄砲を作る技術力は彼らにはなかったから、日本の技術力の高さと学習能力の高さに対する驚きが凄かったそうです。その後の日本の鉄砲生産力は凄まじく、中東から北アフリカを席巻したオスマントルコ帝国と並ぶほど世界最大規模の鉄砲保有国であったと推定されています。

また織田家では丹羽長秀や九鬼嘉隆や滝川一益などが大型船の安宅船や鉄甲船を建造しておりますし、鉄甲船には大砲や大鉄砲も装備されていたそうですから、造船技術も確かで、海外の技術や知識を導入し、日本の職人や元々の技術や知識を結集すれば、更なる技術向上はあったことは、想像に難くないです。

他にも城や神社仏閣や橋などの建築技術の高度さや動員力と経済力も確かですし、日本刀や工芸品、鉄や銅などの加工技術も相当なレベルにあったので、技術的な問題はないと思います。

むしろ、江戸時代に幕府が大型船の建造を禁止してしまった為、日本の造船技術はストップしてしまい、停滞して世界から出遅れました。それでも明治以降に軍艦を作り始め、短期間でロシアや中国を破り、世界最強と言われた戦艦大和を造ってアメリカとも戦うまでになったのですから、時代に関わらず、日本の技術力と学習能力は凄いのですよ。

それと補給論に関しては、私は意見を述べていませんでしたが、困難とは思わない立場ですし、信長なら、秀吉のような悠長な心理戦や位攻めで長期間待つことはしなかったと思います。

それに最初に20万石の米を用意したとしても、それでお仕舞いということもないし、大名も当然各自で用意したり、それぞれ国許から輸送したでしょう。
また、落とした城を整備して拠点や倉庫、保管庫 としていたとも思いますし、豊臣家は輸送に水軍を使用したそうですから、関東までは水軍で輸送したのでしょう。

東北であろうと九州であろうと大軍で港を接収し、制海権を手中に収めてしまえば、そこを拠点にして、次々と城を攻めれば良いだけですから、米や兵をピストン輸送して複数の方向から一気に攻めれば、攻められた方は奇襲の成功や裏切り工作の成功、補給路を絶つか、和議、相手の兵糧不足や雪などによる撤退でなければ国力差があれば、他に打つ手がありません。

上杉謙信による小田原城攻めは武田信玄の川中島進出があった為の途中断念であったことと、味方の大名の中で食糧難に陥った者たちが、無断で撤退した為とも言いますし、武田信玄の場合は、無理強いをせずに威圧行為の意味合いもあったでしょうし、食糧の問題もあったからで、彼らの時と、信長や秀吉の頃では比較にならないほど、戦力の動員力も補給の為の経済力もあったし、敵の背後から、襲う勢力もなく、後北条は打つ手がなかった。小競り合いはあったけれど、本格的に打って出て行ったら、一気に反撃されて、城も落ちていた可能性もあります。

小田原征伐前に後北条が、戦に備えて支城の強化や修復を行い、戦力増加して、それぞれの城に兵を入れて体勢を整えていたからにも関わらず、支城は短期間で次々に落ち、更には首を小田原城外に晒したことで戦意喪失させ、家臣団の結束力が固かった後北条もついに内部崩壊を生み、降伏したのです。

信長が生きていた頃に、毛利との交渉で5ヵ国の割譲と博多港の権利についても言及しているし、長曽我部は土佐一国、上杉も降伏寸前だったとも言いますから、九州の島津も短期間で降伏していたでしょう。国力の差と勢いを理解していれば、戦って滅びるよりも、いち早く恭順して、一大名として生き残る道を選択するだろうという所から、どこかが恭順すれば、雪崩を打って傘下に入ることが起きるものです。

何せ相手は、包囲網を何度も潜り抜けて日本一の勢力と右大臣にまでなっている信長ですから。

以上の理由から、私は信長の天下統一の弊害はないと思いますし、統一後は、海外貿易を奨励しながら、海洋国家を目指し、国内整備と技術革新をしていっただろうと思います。
>>[176]

あー、疲れる(笑)。

貿易は利益を生むけれど、その利益をどう活かすは別問題の話でしょう。

遣唐船の廃止は、唐が内乱で国力が衰えていたのと新羅の海賊がばっこしていたことで安全面の観点からで、民間貿易ですでに大陸文化が輸入されていたから廃止した訳で、その後唐が滅んだ。

日宋貿易も南宋が滅んだから終わったし、平清盛は貿易の利益を背景に日本初の武家政権を築きましたよ。平清盛の死後にあっさり滅んだのは事実ですが、そもそもが、源氏と平家の勢力が拮抗していた上に、『平家にあらずんば人にあらず』の態度で驕っていたことで、人々な反発を買い、敵を作ったこと、後継者が早死にしていたし、飢饉もあったりと不幸が重なった上に、合戦で負けて破れ去っただけです。

日明貿易は、室町幕府3代将軍足利義満が明の皇帝から日本国王に冊封(任命)すると言われたが、義満は面子よりも貿易による豊富な利益という目先の実利を取った為、国内で問題視され、死後に4代将軍足利義持から貿易停止したのです。後に6代将軍足利義教の頃に復活し、利益をもたらすものの、応仁の乱があり、大内氏や細川氏が権益を手にする。民間貿易も利益を上げて、後に朱印船貿易となり、利益をもたらしていたのに、徳川家光の鎖国政策で貿易が終わった。

江戸時代の総石高を上げて語っていますが、徳川幕府の天領は400万石ですよ?しかも、検地や農地改革をしたあとの17世紀末の話でしょうが。
1年分の5万石の収入が船1艘で入ってくるなら10艘で行ったら1往復で50万石ですよ。しかも貿易国は1ヵ国とは限らないのだから、ちょっと考えれば分かるでしょうに。

海外貿易をしていた港や栄えた町が、堺と博多以外になかったと本気で言ってます?大名達が、海外貿易で利益を上げて国力を高めたと言っているのに、堺と博多以外に栄えた港を知らないなんて、こっちが呆れる。

ここまで説明しても、馬鹿馬鹿しいのに、最後まで言わなきゃいけないのかな。ずっとトピずれだし、質問されたから答えてきただけなのに。

プランテーションは日本なら荘園にあたるだろうけど、公家や寺社が権益を独占していたけれど、信長の頃には廃止しているし、徳川幕府はそんなこと許さないでしょう。

あなたは御用商人をご存知ですか?幕府や大名に金を貸したり、様々な物を揃えたり、用立てたりしたのです。貸し付けることにより、大名や幕府は、様々な内政や修築工事、治水工事、災害、飢饉対策、米の買い上げや国内貿易輸送などによって経済を下支えしています。あなたの発言は、彼らに対する侮辱ですね。

貿易の採算が合わないというのは、単なる失政の言い訳にしか聞こえないし、人身売買禁止令やキリシタン禁教令は実際に行われています。銀の交換比率を外交交渉することは、出来るはずがないという否定の根拠もないし。

国内貿易と言いましたが、それは日本がまだ一国という認識ではなく、60余州という国々に別れているという私個人の認識から言いました。そして、それぞれの港間での貿易を言い、それによって利益を上げた商人達に税金を掛ければ良いというやり方で、津島港や熱田港も含めて全国の港間貿易です。

あなたがおっしゃる貿易赤字も生糸や大量の武器や硝石の輸入や支払いの為の銀の流出も抜けていますよ。一部だけ都合よく抜き取って、反論しないで下さいね。

中国やインドを支配していたに関しては、確かに誤植です。この当時はまだ支配はしていません。しかし、フランス東インド会社やイギリス東インド会社が後にインドを支配下に置いていますし、中国のアヘン戦争を引き起こして、中国から多額の賠償金と様々な条件を呑ませましたが。

いい加減疲れた。

きちんと答えてきたつもりですが、あなたと話すだけ時間と労力の無駄でした。

他の方からも批判が出ているので、もう止めます。

皆様、ご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした。
>>[178]

申し訳ありません。疲れたのと、皆さんの迷惑になるのでもう止めます。
しかし、言われっぱなしでは腑に落ちないのと、曲解だったり、決めつけだったり、挑発的な文面だとつい・・・・・・。無視するという手もあったのですが。

以前、自分が持論を述べるのは、自由だと言ったのに、ムキになってしまいました。
すみません。
>>[179]

気分を害し、申し訳ありませんでした。
>>[177]

申し訳ありませんでした。
私も歴史が好きで、本も読みますが、本来は討論は好みません。
ですが、つい熱くなってしまいました。
>>[180]

そうですね。仰る通りです。
議論も建設的なものならばという意見には賛成です。
今回のことで身に沁みました。
長々と続けてしまい、申し訳ありませんでした。
>>[182]
結局要するに、あなたのおっしゃっていることは「信長すごい! 信長が長生きしていれば日本は欧米列強に匹敵する大国になっていただろう」とか、今時まともな歴史家なら誰も主張しない99%自分の願望を並べたてただけの自己願望にすぎないんですよ。
こちらこそ、まともに相手にするだけ無駄だったわ。
意見内容はともかく言い方が喧嘩腰で良くないな。
>>[188]

申し訳ありません。
せっかく皆さんの意見を書いて貰って、面白かったのに、途中から関係のない信長論争をしてしまい、ご迷惑をお掛けしました。

信長の意見も、基本的には私個人の推測と考えですので、お気になさらないで下さい。

当分は参加を控えて、皆さんの意見を見るだけにします。
>>[177]
この埋もれてしまうトピに書く時点でどっちもどっちですね。
賢明なのは独立したトピを立てることです。
それをお勧めしますよ。
さて、ずれてしまったトピを修正するのは結構骨が折れることかと思います。
基本的にこのトピの課題点は、地方の有力大名がどの程度中央に関心があったかということだと思います。
例えば、北条と似たようなレベルでは、長曾我部氏や島津氏、毛利氏が天下をとれるかといったところに相当すると思います。

もう1つは崩壊した秩序に対してどう対応するかではないかと思います。
さらにもう1つ加えると時間軸的な対応ですかね。

以下うだうだと書こうと思ったのですがちょっと出てこなかったので中途半端に止めてしまいますが。
>>[191]
もう一つおすすめするならば、城コミュでトピ立てるのがいいですよ。
あっちは城関係の詳しい人や知り合いに専門家がいる人とかいますので。

戦国時代コミュは必ずしも歴史好き=城が好きっていう人ってわけではないので、関心度はどうしても低くなります。
>>[193]
まぁ、北条に興味の有る人の目に触れたから大丈夫ですよ。
それに城だけじゃなくて自然環境含めた古道や城址の話な上にニッチな人だけしか知らないのは意味が無いんですよね〜。
城オフなんか行くと北条系の人がうじゃうじゃいる(笑)。
>>[181]

私の信長像はタコアシさんに近いです。
常識に囚われない逸材であり、当時では画期的な人物だったと思います。
本能寺の変が無ければ2〜3年で統一していたんじゃないでしょうか。
基本的に降参してくれば許してますし(使える人物か使えない奴かは見ていたらしい)。
毛利は降伏する予定、長曾我部は討伐される直前、上杉は滅亡間近であり、
北条は臣従していたし、関東諸将は滝川一益に出仕し始めていましたし、
東北の諸将も先争って貢ぎまくってましたので、東はほぼ問題無いようです。
毛利が降伏し、長曾我部も攻められて降伏や滅亡するようだと、九州も先争って臣従するんじゃないでしょうか。
意外と早く日本はまとまると思いますよ。

その後朝鮮半島から海外遠征しそうなのは、事業を受け継いだ秀吉をみると間違いなさそうだと思います。
秀吉は海賊を禁止したので水軍の質が落ちてしまったようですが、信長はどうなんでしょうね。
鉄甲船作らせてるくらいなので、信長なら一度失敗したら二度目は絶対勝てる方策を考えて来るでしょう。
惜しむらくは、その信長を当時誰も理解できなかった事。
だから信長が何をしようとしていたのか本人しかわからなかったし、周りは付いていけなかったんだと思います。

信長が桶狭間で討ち死にしていたら天下はどうなっていたか。
本願寺勢力が制圧していたでしょうって冗談もありますね。

秀吉は日本を平定する力量はあったが、統治し続ける能力は無かった。
唐入り、身内の粛清と自滅していきますが、私は徳川家康を関東に移封した事も大失敗だったと思います。
秀吉は家康を三河から遠ざけることで家康を弱体化できると思ったようですが、
三河以来の強力な家臣団は相当な発言力を持っていたようなので、
地元から切り離された彼らの戦力は相当衰えたと思います。
それは逆に家康にとって都合の良い事です。
自由自在に配置換えし、信長のような中央集権の勢力となれますので。
そして唐入りも免除され、じっくりと立て直す事もできました。

では上杉も得をしたか・・・
石高は上がったものの日本海ルートの物流収入が絶たれてしまったのでは?
と思います。

結果的に味方を弱体化させ、真の強敵を自由にさせてしまったと思うので、
私はあまり秀吉を評価していません。
器量が大きく、人懐こいひょうきんな人物であり、身売り同然の身から天下統一したのですから偉大な人物ですよね。
でも最盛期は賤ケ岳の戦い頃であり、その後は緩やかに下りながら天下統一。
そんなイメージです。人間的に輝き魅力溢れていたのが賤ケ岳の頃かなあと。

神君家康。
もうそれだけで充分でしょう。
自分の目が行き届くうちに全部片付けたので悔いはありません。
そんな感じですかね。
画期的では無いけれど着実に、じっくり考えて最善と思われる事をする。
関東を統治した家康公がこれだけ繁栄させたのですよ的なのが、北条贔屓な自分には気に食わないですが、江戸をここまで発展させ、東の京にまでしたのは凄いです。
北条と婚姻同盟した頃は従属に近かったんじゃないの?とか思ってますが、
お家を残し、発展させた方が勝者です。
三方ヶ原とかあの辺で討ち死にして影武者だったんじゃないの?とかいう説がありますが、影武者だったとしても凄いです、はい。
お家騒動を信長使って解決したり、所詮いっぱいあった松平の一つでしょ的で反抗的な家臣を秀吉のお陰で黙らせることができたり、我慢してでも継続は力なりですね。
>>[196] わざわざコメントありがとうございます。

とても興味深いお話で楽しそうなのですが、トピずれなのと、またご迷惑をお掛けすることがあってはとの反省から、今回は意見を控えます。
でも、ご意見が聞けて嬉しかったです。
コメント出来ず、お許し下さい。
地方の有力大名が、天下に対してどういう云々は既にコメントされている通りですが、三英傑との比較無しでは語る事は出来ず、本トピのような展開は致し方ないものと思います。
信長に関して言うと、正直なところ革新・画期という言葉とは程遠い印象を抱いています。
むしろ極めて常識的な人物だったと推測します。
天正10年6月で死んでしまったので、結局何をやりたかったのか分からず終いでした。
秀吉や家康と比較すると判断は難しいと思いますが、少なくとも一次史料で信長の天才性を論じるのは不可能だと思います。
>>[199]
ほぼ同じ意見です〜。
でも常識的と言うより堅実と言った印象が個人的意見です。
出身地旧海部郡〜一宮市〜江南市〜小牧市を回り伝承を拾うと良く解りますが堅実な上に人情深く人懐っこい人物像しか見えて来ません。
俗に秀吉に持たれている印象が信長公の実像に近く、明智光秀公に持たれている生真面目神経質な印象が秀吉の実像に近い気がします。
明智光秀公は軽口が好きだし見通し甘いし、お調子者だったんじゃないかな〜と。

大相国が含まれる戒名なので、朝廷には大将軍ではなく内々に太政大臣に内定していたんじゃないかなと。
つまり足利義昭の面子も立てながらあくまで天皇の家臣として国を復興する夢が有ったんじゃないかな〜と妄想しています。

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