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須田国太郎コミュの戦争期の須田

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 須田国太郎は戦争期にも「海亀」「歩む鷲」「校倉(甲)」
「校倉(乙)」などすぐれた作品を残しています。
須田は戦争期の日本をどう見ていたのでしょう。
須田の戦争期を考えるには資料は少なく、実証を重視して
資料を援用しようとしても印象や心証、想像に頼る部分が
大きくなりがちです。

参考として、わたしの理解している事実を箇条書きに
まとめてみます。
今後、新資料によって見直しを迫られることもあると
思います。

1)須田の同時代への歴史観や政治意識を伺わせる資料は
少ないが、須田寛氏の文章には、須田が積極的に国策に
協力していこうとしていたとある。

「父は決して反戦主義者ではありませんでした。
戦時中は町内会長を務めており『国策への協力』を
多くの人に呼びかけ、自分も率先して防空訓練等を
行い、また出征軍人の家族の援護などに当たって
おりました。」
(須田寛「『学徒出陣壮行之図』余話」:「京大広報」
2006年9月 #615)

(須田が当時書いた代用品などについての文章からも
その一端が伺いしれる。)

2)明治人らしく天皇への愛情と忠誠心が強かったことは
終戦の日の日記からも明らかである。
須田日記の1945年8月15日にはこうある。

「正午君が代に次いで聖上の詔勅を拝す。明瞭には
聴取難き音波であったのは遺憾千万ながら万事休す。
只皇国体護持が唯一の我等に残されたる拠所である。
一億愕然所を失う。三千年の青史に一大汚点を
印し我等をまつもの これ屈辱のみ」

3)戦争画については「戦争画に於いても頗る非常時意識の
無いものもある、と同時に非常時的な一静物画もあり得る
わけである。」(「戦争と芸術―その接触面を考える」)
として、距離を置こうとしていた。
また、一部の戦争画に構想力の乏しいものがあることを
指摘している。
どちらの主張も、戦争初期の画壇では他の論者にも
見られたものと思われる。

1944年(昭和19年)に須田は「学徒出陣壮行之図」
を京都帝大の依頼で描いている。
須田の描いた唯一の戦争画とされる。

前述の須田寛氏「『学徒出陣壮行之図』余話」
(「京大広報」:2006年9月 #615)によれば、
「私の父は当時の多くの画家がした(させられた)ように、
戦時中、戦争画を描くことをたびたび求められました。
しかし、父は、戦争画は写真や戦地の風景を見るだけで
描かざるを得ないが、そのように自分が戦争場面を
実視で描けない絵を描く力はないといって頑なに
断ってきました。従って、この絵は父の描いた唯一の
戦争に関わる絵でありました。実写できたこと、
母校からの依頼、このふたつが執筆の動機だったと
思います。」とある。


4)美術史家として一国の文化の形成には異文化、他民族との
接触が欠かせないとの指摘を戦前から一貫して主張している。
(この姿勢から偏狭なナシヨナリズムには強い反発があったと
 思われる。)

5)残された文章からは西洋に対する屈折した心情は
見られない。
また、日本の近代化を担っている意識は、美術以外の
分野では薄かったと思われる。
(この点、高村光太郎や「近代の超克」を問題意識として
持っていた当時の一部の知識人とは一線を画している。)

6)須田家の経済事情は不明だが、戦前までと違い、かなり
困窮したものがあったのではと想像される。

7)1943年(昭和18年)には美術報国会、日本美術
及工芸統制会が創立され、須田も参加している。
この組織が画材の統制実務を行ったと思われるが、
須田の関わりは不詳。
画材の入手難に文章で触れているが、公開された日記に
関連した記述はない。

わたしが理解している当時の須田の周辺は以上のような
ものです。
もし明らかな誤りや別の事実をご存知であれば、
ご教示ください。また、なにかご意見がありましたら、
教えてください。






コメント(6)

「芸術統制に応じて」(「画論」#1・一九四一年九月号)


「平時に於ても芸術家は何を制作し何を発表しても
可なりということはなかったのである。例えば道徳的な
取締りから風俗を乱すもの、国防上から機密漏洩、防諜に
支障あるもの、政策上よりは思想悪化誘致等に就いて
ある種の制限をうけて居たのである。これは
云わば統制に外ならないので、芸術家はその点絶対の
自由を持っていたのではない。」

「一体統制とは決して不自然なるものであってはならぬ筈で
ある。善悪逆行、本末転倒であるべきではない。堂々たる
国是の大道に立脚するものである。然るに嘗て責任あるべき
要路者が統制とは石が浮いて木の葉が沈む事であると放送
されたのを聞いた時は全く意外の念を打たれたのだ。これは
恐らくは非常時統制の一面強化の結果を逆説的に述べたものと
思われるが、明かに不謹慎の言である。
統制は飽くまで木の葉が浮いて石が沈む建前を離れてはない。
統制下にあって悪が善となり、真が偽りと代わることは絶対
許されない。
只統制が止を得ざることの為めに強制的な禁止、制限等を
規定することは場合によれば不自然を感ぜしむることなきを
保し難い、これは非常時下における一国の政策、経済等の
運行上起こるべき応急的措置であって逆行的のものではない。
言い換うれば国是の遂行に必要なる処置であるから、当然、
その国民には従わざるべからざる正道である。」

「我が宰相は云った。統制は別に変わった困難なことを強いる
のではない、日常の生活制御をそのまま強化する。即ち平常時
よりみて多少不便不自由に堪えることに外ならぬと全くそれで
あるべきである。逆行させるのではなく巡行させるので
ある。」

「我国の芸術は多くの外来影響を蒙っている。そしてよく
日本芸術なるものの姿が造り上げられてきたのである。
従って外国芸術との交渉についても特別の注意が払われ
なければならないのは当然である。このような状態の裡に
成育された我芸術については外部芸術模倣を厳重観取
しなければならない。影響は先ず模倣の姿をとる。但し
模倣のみがどうして独自の芸術を成立せしめ得ようか。
模倣と独創との外形類似は我国のごとき芸術発展の経路を
とるものの最も注目さるべき現象である。
この二者を峻別することこそ、日本芸術推進発展の動力と
なるのである。
そしてこれが我芸術統制の根拠を与えるものでなけれなば
ならない。
芸術家は統制に怯えてはならないが、また統制を免れても
必ずしも安んじてならない時のあることも気づくであろう、
芸術統制の意味は最も芸術家自身が知るべき筈である。
統制の遂行されその効力を発揮せられることは統制の意義を
理解すると同時にまた自らの統制即ち自粛と相俟って始めて
完璧となることを銘すべきである。統制は外から迫られるの
ではなしに、内から加えられるものであるべき道に、解し
たいものである。粛然たる統制、我等はこれに馴れている。」

(福沢一郎が治安維持法で逮捕されたのは一九四一年の
四月で、須田がこの文章を書いたのはほぼその直後である
ことを思えば、検閲に極端に神経を使って
書かれた文章であることは確かでしょう。
国民としての国家意識と作家としての意識が逆方向に
引き合い、国の非常時の中でもたらされる現実を
画家としての自分はどう受けとめればいいかと悩む様子が
伺えます。)


「非常時の芸術」(京都新聞:昭和19年3月31日)

「今日のような情勢になると外面的な動向にのみ依って
浮草のような仕事に身が任せていた芸術家達がどんなにか
みじめな姿を、醜い転向や、時流の陰にかくれて、
否これに竿さして臆面もなく指導的地位に安住しようと
するのであります。こういうものは直に看破されなければ
ならないのです。これが出来ないようでは芸術的には
滅亡です。
 我々がこの大東亜聖戦に勝ち抜くというのには、いつでも
この奥底に潜んでいて変わりなき魂が芸術の上にも
澄み通っていて、如何なる事態に会っても何等動揺する
ことなく、それに応じて誤らない態度が常々に出来て
いるのでなければならないのであります。それは
どういう芸術か、要するにこれは借りものでない芸術
というに尽きます。これさえあれば実に我国の芸術は
絵画であれ何であれ磐石であります。
 只注意しなければならないのは形式は外国のものでも
立派に我々のものになっているものもあれば、大いに
日本的で大和魂の権化のようにみえるものでも、実は
借りものもあるのであります、我々はそれをはっきり
識別する必要があります、借りもの芸術はいつも
確然たる信念が重いために徒らに狼狽します。
 そして早く安全な船に乗りたがるものであります。
我々がもしそういうものに眩惑され、それが本当だと
うっかり思うならばそれは危機であります。
芸術を以ってしても勝たねばならない我々は、実に
信頼すべき芸術家は何であるかを見極め○なければ
ならないのであります。これも云いかえれば見極める
ことにも動揺があってはならないことです。即ち
これが芸術的最強不敗の態度であると信じます。」


「美術統制」(京都新聞:1943年・昭和18年6月9日)

(引用中、○は判読不可能な個所。
テキストは京都府図書館のマイクロフィルムによりましたが、
画面、プリントアウトともにじんでいて読めない個所です。)

「この間の美術報告会結成式場に於いてある来賓から
由来芸術家は個性を重んぜられている、だから滅多に
芸術家が打って一丸となるなどは思いがけないところで
あったが、この度それが実現したといって非常に
珍しがられたが、それがまたこちらには異なものに
感ぜられた。芸術家の個性というものはあらゆるものに
孤立しているものなのであろうか。いや我々の身近な
芸術家からもそういう考えのものが出ている即ち
個性滅却論がそれである。恐らくこのような○○は
個性それも美術上の個性を狭い個人主義、自由主義の
個人、我というものと同位に考え、個人主義排撃の
声に怯えて個性までも放りだそうとしたのであるまいか
我々美術家と称するものが個性を○たなければ
○○の舟に乗り合わすことが出来ないとはどういう
意味だろう。
 美術家がある以上個性はなくならない。個性なき
美術家は考えられない。しかし芸術家はその時代から
離れて住むことは出来ない。芸術的にも皆時代の子だ。
その個性に時代があらわれているのだ。個性はその
中にあって少しも相反するものではない。個性は
我儘ではない芸術的個性は独りよがりのその人だけの
ものとは違う、だから美術家が一つの連盟を造り上げる
ことは少しも各自の個性と抵触することにならない
筈だ。問題はその統制の方針如何にある。
美術報国会の目的達成の第一として皇国芸術観の
確立を挙げている。これ正に報国会の大眼目で
なければならない。この皇国の新しい美術観は
我々が寄って造り上げてゆくべきものである
そこに新時代の新日本美術は○れる、唯もし
皇国美術観なるものを誰かが先に見本を示して
それに従えというならば、そこにはじめて各自の
個性と衝突し個性を解散して唯々一二の首脳者に
屈従せしめなければ話合はあり得ないことになる。
 これからは如何に多数の芸術家を○合しても
何物をも期待することが出来ないのである。
芸術家が総動員されて一つの大きな理想を
○○しようというのには各自にその芸術家
としての本文を尽さしめなければならない。
そこには時代に対する芸術家の強き自覚に
俟たなければならないし、その方向に処すべき
指導ということもはじめて考えられるのである。
美術統制は美術材料統制のようなものであっては
ならない、各自が或る目的のために自らを
統制するのでなければ無意味である。」


「復興東京帝室博物館に希望す」
「阿々土」一九三九年4月号


「かの大震災が無くとも、東京帝室博物館には今日の
威容を我々は要求したであろう。しかも支那事変の最中、
広東武漢陥落直後にその開館をみたのは特に意味が深い。
世は挙げて長期戦の重大時局にも拘わらず、盛んなる復興
記念陳列を以って静かに聖駕を迎え奉り、続いて数万の観衆、
その踵に接したことは、実に我国文化擁護の力は即ち
千万軍を動かすそれであることを痛感したのだった。」

参考までに、関東大震災によって被害を受けた博物館の
復興を現在の国立博物館のウエブサイトは次のように
記しています。

「6年の歳月と700万円を越す工費をかけた東京帝室
博物館復興本館(現在の本館)は昭和12年(一九三七)11月に
竣工し、翌13年11月10日、天皇陛下の行幸を仰いで
開館した。」

(「復興東京帝室博物館に希望す」の主旨は博物館の
運営に関する提言であり、引用した個所は書き出しの部分
でしかありませんが、これまで調べた限りで、須田が戦争の
状況に具体的に触れた唯一と言っていい一文であり、
日記以外で天皇に言及した唯一の文章です。)




「年頭決意」(大阪新聞・昭和18年1月2日)

「いかなる仕事に携わるに拘わらず一時間でも
多く緊張した時を持つことが最も大切である。
これは特に本年度になって気づくことではなく、
いつもかくなければならないが時局はその自覚を
いよいよ強める。首相が昨年の一年は平時の
幾増倍に当るといったのは正にこれである。
我々はこの体験を受動的からではなく能動的に
顕現したいものである。」



 須田が来るべき戦争を具体的に意識して書いたと
思われる文章は、一九三七年の「戦争と絵画」が最初の
ようです(総合工房「雑記帳」十一月号)。
二月には二・二六事件が起こり、七月には盧溝橋事件が
起こった年です。須田は一九一九年の渡欧時、ヴェルサイユ
条約が締結された当時のロンドンとパリで見た美術展に
ついて書いています。

「ロンドンではローヤル・アカデミーを、パリでは春の
サロンを見ることが出来た。共に戦後最初の大展覧会である。
(略)さてその展覧会にあらわれた作品に就いてであるが
ローヤル・アカデミーはさほどでもなかったが、サロンと
きては、戦争関係のものを非常に優遇していることが、すぐに
眼についた。随分ただたどしい程度のものでも、戦争関係の
主題だと堂々と入選しているのみか、必ず何か名誉づけられて
いるのが常で、相当手心が加わっているいることは聞くまでも
ない位であった。」
「この大戦争が絵画に及ぼした影響というのはこれなのか、
大いに迷わざるを得ないのである。(略)画家が非常時に
如何に反響するかということよりも、非常時が如何に画家を
遇するかということをよりよく見せつけられた気がした。
未曾有の大戦が、その当事国の画家に全く無関係ではあり
得ないのは当然だが、それがみな、戦争的な主題をとら
なければならぬということには限らない。
 我々は最も非常時的でない戦争画を持ち得ると同時に最も
非常時的な一静物画のあり得ることを知っている。単純に、
戦争が絵画に与える影響が即ち戦争画となってあらわれると
みるのはいかにも皮相である。」

「欧州大戦の絵画に及ぼせる影響は、サロンの戦争画よりも、
むしろダダの小展覧会にその深刻なものを感じたと告白した
い。
 ダダの発生、その時期、場所を考えあわすと同時に、彼ら
ダダイストの抱擁する芸術的破壊、虚無の傾向は正に、この
大戦のもたらした影響の大なる一面を表現したものと思われ
る。ここで注意すべきことは、その表されたる形式である。
戦争が戦争画となってあらわれた如くに、大戦の悲惨がその
まま現実の姿として必ずしもあらわれるに限らないことが、
芸術に於ける非常的態度が外面的な主題に拘束されない
証拠である。芸術は時代を反映するが、時代は、それが芸術の
形式をなんら予測規定するものではないのである。ここに芸術
の自由が如何なる場合にもで保たれていることを感ずる。」


(須田はこの時代に度々、戦争と絵画について
書いていますが、その原形ともいうべき一文と
おもわれます。)


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