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石川啄木〜釧路時代の輝きコミュの市子の消息その2  遠藤清一という人物から

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 市子の消息資料を提示する前に、啄木研究者が市子の消息を辿れなかったのかについて、考察する必要があります。

 釧路の啄木に関わる「遠藤姓」について、現在私なりの疑問が2点あります。
箇条書きにしてみましょう

 ・遠藤隆について 北畠立朴氏の著書「啄木に魅せられて」では函館師範簡易科卒になっていること。 何か府に落ちないんです。緻密な研究で知られる北畠氏なのに・・・。師範学校の調査をする際に、何か障害があったのでしょうか・・・。

 ・啄木が釧路を離れたあとの釧路新聞の記事について
  
  小林芳弘氏の著書「啄木と釧路の芸妓たち」の市子の追っかけ資料として釧路新聞を明治42年度まで調べたようです。釧路滞在の時間がなかったせいたろうと思われますが、それ以外に小林氏の調査を曇らせた人物がいたのではないか・・・。

最初の遠藤隆の件については、これからの課題てもありますので、ここでは話をすすめません。

次に啄木離釧後の釧路新聞についてです。

啄木研究者の目を眩ませたのは、誰であろうこの遠藤清一という人物らしいことがわかりました。
明治44年発行の古川忠一郎著「釧路人物評伝」に遠藤清一の紹介があります。

近代デジタルライブラリーの73ページです。→http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/777693

彼は日景主筆のあとに主筆になるのです。

日景主筆は明治43年6月に釧路新聞を退社します。(最近釧路国案内の釧路の消息「新聞と其人」より)

遠藤清一は明治42年7月に釧路に入り釧路新聞主筆として活躍するのです。(最近釧路国案内の釧路の消息「新聞と其人」では晩春と記述)近大デジタルライブラリー23ページです。→http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763035

日景主筆が釧路新聞を去り十勝で新聞社を興しますが、主筆の座をとって代わられた可能性があり、最近釧路国案内の釧路の消息「新聞と其人」の記事には日景主筆の編集姿勢についての批評と遠藤主筆の好意的な評価が述べられています。

日景主筆から遠藤清一が主筆になって、どのように記事が刷新されたのかというと、明治43年以降から、芸妓に対する記事の量が少なくなります。ほとんど見られなくなります。

 日景主筆の芸妓、特に市子と小奴への悪辣な記事に対する反動なのかもしれません。なぜなら、当時の芸妓の相手は釧路政治経済界の主なメンバーの相手をしていますので、芸妓から何らかの苦情があって当時の釧路新聞の責任者であった白石義郎や佐藤国司が動いたのかもしれません。

したがって、明治42年以降明治43年まで釧路新聞を探しても、芸妓に関する記事が少ないので、これ以降は芸妓の消息を辿る調査をしても意味がないと研究者は判断したのでしょう。だから、市子の消息も知られなくなったのです。

市子にとって、遠藤清一の編集姿勢は隠れ蓑になったことになります。まるで女王を守る騎士のようです。

その遠藤清一が主筆の時代はいつごろまでなのかはまだ調査中ですが、皇太子来釧の明治44年9月以降より日景主筆の時代の様な芸妓の記事が復活するのです。

結論がでてきました。

そうです。明治44年9月以降の釧路新聞に芸妓の動向が記事になり、その中で市子(一子)が登場するのです。〜以下次のトピックで




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