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石原莞爾平和思想研究会コミュのパリ講和会議後の新思潮

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裕仁皇太子が、ヨーロッパを外遊したのは、第一次世界大戦終結から3年後のことです。そもそも日本の第一次大戦参加は、日英同盟による参戦義務があったこともさることながら、東アジアにおけるドイツ領を占拠し、従来以上の影響力をもつことが目的でした。

欧米諸国がヨーロッパで苦闘していたとき、東アジアはこれら列強の浸透力が失せて、一種エアポケットに入ったような状態にあり、日本としては連合国の一員としてイギリスに協力し、この地域からドイツ勢力を一掃する好条件がととのったのです。元老井上馨がこれを「天佑」といったのは、いかに日本にとって絶好の機会だったかを示しています。

一方、連合国に与することで、独裁国家から平和を守るという大義名分もありました。対独参戦に際し、大正天皇はイギリス国王ジョージ五世への親書で、「朕は吾人の正義及び自由の大義が充分に擁護せらるるに至まで飽まで戦争を維持するの堅固なる決心において全く陛下と同一見解を有す」と述べています。

ドイツに勝利することは、この自由の擁護とデモクラシーの勝利であると一般に理解されていました。連合軍が勝利して第一次大戦が終わり、パリ講和会議を迎えるにあたって、日本の国際的立場はかなり有利なものでした。

日本の被害をみると、陸軍は戦死416名、海軍は戦死295名、戦費は2000万円であり、遅れて参戦したアメリカの戦死傷者35万名と比べると、日本はほとんど無傷といってよく、しかもドイツ領だった南洋諸島を手に入れました。ヨーロッパが主たる戦場であった戦争で結局大勝利を得たのは、アジアの日本という奇妙な構図だったのです。

日本の赤字財政は解消し、そのうえ旧ドイツ権益を手にし、五大国の一員としてワールド・パワーを自認する国家となったのです。だが、このとき日本は、戦後、世界の風潮が大きく変化し、その影響が日本に押し寄せてくることまでは予想していなかったのです。

第一次大戦によって、帝国主義時代を引っぱっていたドイツ、オーストリア・ハンガリーでは、ハプスブルグ家、ホーエンツォレルン家がそれぞれ崩壊しました。ロシアではロマノフ王朝が倒されて共産主義国家ソビエトが誕生し、王制から共和制への移行は加速した。

その頂点に立った国が、新外交とデモクラシーを唱えるウィルソン大統領率いるアメリカだったのです。63歳になっていたウィルソン大統領は、プリンストン大学の総長をつとめていた政治学者であり、理想主義者でした。大統領は、民族自決、海洋の自由、秘密外交の禁止といった、従来の常識では考えられない外交方針を提唱しました。

つまり大戦後の新秩序は帝国主義の成果ではないことを示し、歴史的ともいえる国際協調システムを作り上げようとしたのです。そして彼は、なんと200名近くのスタッフをつれて、パリ講和会議に臨んだのです。自らの政治理念を実現させるための並々ならぬ姿勢がうかがわれます。イギリスは自由党の闘士ロイド・ジョージが率いていました。

彼は開戦から2年後に保守党と労働党との連立政権で首相となり、強力なリーダーシップを発揮しました。日本が驚いたのは、パリ講和会議でイギリス代表となったロイド・ジョージが、南洋諸島に対する日本の信託統治について積極的にこれを認める発言をしたことです。信託統治という考え方は、勝者が敗者から領土を奪うという旧外交を破るものです。

ロイド・ジョージは戦後の世界秩序に関して、アメリカと妥協していたのです。このときウィルソンと対決したのは、講和会議の議長となった78歳のフランスの老首相クレマンソーであり、彼は対外強硬論を主張していました。講和会議はウィルソン、ロイド・ジョージ、クレマンソーの三人を中心に動いたのです。

日本の首席全権は、若いころにパリに留学し、クレマンソーとも親交があった元老のひとり、西園寺公望でした。日本は勢いこんで代表団をパリに送り、ブリストル・ホテルを全館貸し切りにしました。しかし会議参加に乗り気でなかった西園寺は、大正8年1月から始まった会議に1ヶ月以上も遅れて出席したのです。

本来なら、時の首相、原敬が行くべきだったのですが、数カ月もの政治的空白をつくることは許されない状況だったのです。事実上、日本側をとりまとめたのは外務省出身の全権、牧野伸顕であったのでした。

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