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石原莞爾平和思想研究会コミュの昭和天皇・石原莞爾と国柱会

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昭和のみ代のはじめ、内には深刻な不況が襲い、外は東亜の天地に戦雲がたれこめたが、ついに大陸に戦端が開かれ、やがて米英諸国を相手とする大戦争に突入した。日頃、心から平和を望まれている天皇はたいへん遺憾に思い召され、大東亜戦争開戦のご詔勅には、みずから「豈朕カ志ナラムヤ」という一句を加えられたのであった。

戦いは我に利あらず、敗色濃厚となるや、天皇は一身をなげうっても惨苦に悩む国民を救おうと、軍の圧力を押さえて終戦への道をお開きになられた。終戦後のある日、天皇はみずから連合軍司令官マッカーサー元帥をご訪問になられた。

さだめし生命乞いであろうと思っていたマッカーサーを驚かしたのは、「一切の責任は私にある。自分の身は任せるから、国民の飢えを救ってほしい」という天皇の、崇高なお言葉であった。このご境地は、まさに仏の「大悲代受苦」の精神にひとしいと仰がれる。

これほど無私の心に徹した帝王なり指導者というものが、はたして他に有り得ようか。まことに類いまれな、人徳あつき英明な君主であられた。昭和天皇のご誕生は西暦1901年、まさに20世紀の第1年目に相当する。天皇は、この世紀の大部分を日本に君臨された。この20世紀という時代は、人類史上かつてない大きな意味をもっている。

すなわち人類は、この世紀を転機として、過去何千年来の戦争と対立の歴史に終止符をうち、限られた地球空間の中で、統一と平和をめざす新しい世界史の創造に歩みだすことになったのである。

この時期に、昭和天皇は、史上最後といってよいあの戦争を、「万世ノ太平」のために身を挺してこれを止め、人類の前途に新しい光を掲げられた世界平和の開拓者、道の師表であられる。これは国柱会・田中氏が平成元年4月29日に書かれた本から抜粋である。

昭和21年10月、石原莞爾は山形県遊佐町(当時は高瀬村)西山開拓地に入る。以後24年(1949)8月の死にいたる、57歳から60歳までの約3年。日蓮教信仰に集う青年男女の団体、精華会(大正9年以後、先生が所属していた国柱会の青年部)を指導し、死後のための著述を残し、後進の教育に精魂を傾けた。

敗戦後からこの時期にかけ、石原莞爾は『最終戦争論』に重大な修正を加え、最終戦争を回避しつつ永久平和を実現すべき世界の立正安国に向かい、日蓮教の旗じるしを高々とかかげられた。死の前年、昭和23年11月24日、門下有志の求めに応じて撮影された16ミリ『立正安国』は、先生の最後の姿を如実に今日まで伝えている。

石原莞爾が東亜連盟運動に挺身されたのは、石原将軍の生涯の第四期、現実的活動の最も充実した時期であった。先生は『東亜連盟入門』に「大陸の同志数百万」と述べておられる。『東亜連盟』誌を読まれる方がたは、このような歴史理解においてこれを繙かれるよう希望する。

石原莞爾は日蓮宗の宗教グループ国柱会に属していたから、その中には多くの石原信者がいたことは事実で、現在も国柱会の行事に参加すると私の目からも明らかです。石原莞爾においてはそれが戦争史研究と日蓮宗信仰の結合の所産でありながら、それが満蒙問題の解決策とも繋がり五族協和から恒久平和へと結び付けられるところが認められるのです。

石原莞爾は世界の戦争史を跡付けて持久戦争(消耗戦争)と決戦戦争(殲滅戦争)とが交互に繰り返されてきたとし、持久戦争であった第一次世界大戦以後の将来の戦争は決戦戦争となるとみた。しかも、一都市を一挙に破壊する大量殺戮兵器とそれを運搬する航空機が出現したことにより、次に来たるべき決戦戦争こそ世界最終戦争となるであろう、と考えていたのです。

この最終戦争こそ、日蓮が世界統一実現するためにまず「前代未聞の大闘條諍、一閻浮提(人間界)に起るべし」と喝破したところの未曾有の大戦争をさすはずであり、日米決戦がこれに他ならないと見たのです。これが石原莞爾の世界最終戦争論でした。

この世界最終戦を経て世界の文明は統一され、「一天四海皆帰妙法」の境地に到達するはずで、石原莞爾はこの世界最終戦としての日米戦争という着想を信仰上の師、国柱会の田中智学から得ていたのです。

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