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石原莞爾平和思想研究会コミュの未来を予測して変える

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宝島社から出版された「満州国を作った男」として石原莞爾はインタビューの中で、占領論から、独立論に変わった理由を次のように述べています。抜粋しますと「その第一の理由は、中国人の政治能力に対する従来の懐柔が、再び中国人にも政治の能力ありとする見方への変わり方であった。」

「当時中国は蒋介石を中心とする国内の統一運動が、国民党の組織をその基礎として非常な勢いで延びて行った。生活の根本的な改善からはじまって国民の生活と国家の政治、経済等の直接的な結びつきに依る革命運動は、従来の軍閥のやり方と全然違って新しい息吹を中国へ与へる様に思はれたのである」

「そして、中国人自身に依る中国の革新政治は可能であると言う従来の懐疑からの再出発の気持ちは更に満州事変の最中に於ける満州人の有力者である人々の日本軍に対する積極的な協力と、軍閥打倒の激しい気持、そしてその気持ちから出た献身的な努力、更に政治的な才幹の発揮を眼のあたりに見て一層違ってきたのです。」

「在満三千万民衆の敵である軍閥官僚を打倒することは、日本に与へられた使命であった。此の使命を正当に理解し、此の為に日本軍と真に協力する在満漢民族其の他を見、更にその政治能力を見るに於いて私共は満蒙占領論から独立建国論に転じたのである。」こうして、占領論から独立論へ石原莞爾はかわるのでした。

これについて、ご都合主義であると言われているのです。簡単にいってしまえば、『日本軍に対する積極的な強力』を満州の有力者がしてくれるから、その政治的能力を認め、独立論に変わったと言えます。だが石原莞爾の将来を見据えるとご都合主義ともいい切れない。

石原莞爾の中で、「五族協和」の理念は、これ以降急速に深まっていく。石原莞爾にとってアメリカと戦うためには五族協和・東亜の民族の団結が必要だったのです。石原莞爾は、『満州建国前後の心境』の中で「勿論此の間の経緯は幾多の紆余曲折を経なければならなかったが」と、その占領論から独立論に変わる過程の苦労を語っています。

そして、「民族協和の確信、漢民族に対する信頼、之が満州建国への大きな基礎になっているのである。相手の民族に政治能力が無いのであるならばいざ知らず、之が能力を認め且信頼を置く以上、占領そして之を統治する必要はない」と、日本の政治を明らかに否定しているのです。

これ以降の石原莞爾の行動は変わりません。変わっていくのは軍部中央と関東軍です。満州は昭和7年3月1日に、満州国として建国しました。その時の組閣は1人を除いたすべて満州人である。しかし、石原莞爾が去った後の9月に締結された「日満議定書」では、満州国における日本及び日本国民の既得権益の承認と満州国に対する日満共同防衛のため、日本軍の満州国内への駐屯を容認することになっています。

満州国は実質的に日本の傀儡政権になってしまうのです。それは、石原莞爾の望んだものではないのです。石原莞爾は、関東軍作戦参謀を去った。その後関東軍の内面指導により、満州はほとんど日本の傀儡政権になってしまいラストエンペラー溥儀はお飾りでした。

5年後、関東軍副参謀長として、満州に渡った石原莞爾が見たものは自分の描いていた五族協和の満州ではなかった。日本人は多民族の上に立ち、インテリたちが官僚として君臨していたのです。石原莞爾の怒りは関東軍の参謀長であった東条英機に向けられ対立していくのです。

満州国の傀儡化に拍車をかけていた関東軍の内面指導に対する撤回案を提出するが、これも否定され、石原莞爾は満州を去ることになる。民族協和の意志が、石原莞爾をそこまで動かしたのです。その後の石原莞爾は、政治の中立、経済の一体化、国防の共同を掲げた東亜連盟運動に邁進することになります。

同志である漫画家・江川達也氏は語りますが「石原莞爾の考えが変わるのは天才だからである。未来を予測して変えることが出来る人間なのです。だから、凡人にはついていけないのです。」と石原莞爾平和思想研究会の新年会で語っていました。

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