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石原莞爾平和思想研究会コミュの現在の東亜聯盟

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日本の天皇制を、世界の中では特別なものだと考えからすれば、戦後の象徴天皇制は受け容れられるものではなかったでしょう。また逆に言えば、戦後の教育が普及していく中で、国柱会が新しい時代に立ち遅れていくのも、当然でした。田中智学の教えは、芳谷からその長男香浦へ、さらに田中暉丘へと伝えられて、現在に至っています。

しかし、天才的な大衆布教家であった田中智学の在世時のようなエネルギーは望むすべもなく、石原莞爾や宮沢賢治をはじめとする田中智学ゆかりの人々を懐旧する団体となっている。団体解散指定を受けた東亜連盟(現・石原莞爾平和思想研究会)は、どうであったかというと。

石原莞爾の東亜連盟論に共鳴した、中野正剛率いる東方会に所属する代議士の木村武雄らによって、1939年、10月8日に結成された東亜連盟は、朝鮮、満州、台湾、中国本土へと広がっていきました。石原莞爾自身が先頭に立ち、反東条英機の政治運動を繰り広げて、終戦を迎えるのです。

1947年5月、極東軍事裁判酒田臨時法廷に証人として出廷するために、石原莞爾は病を押して、鶴岡から酒田へ向かいました。山道は険しく、病躯の石原莞爾は、私の父が曳くリヤカーの上で激痛に耐えていました。リヤカーを曳くそのうちの1人に曹寧柱がおり、曹先生の空手の弟子であった極真会館初代館長の大山倍達もいました。

曹寧柱は、京都帝大の滝川事件に連座して退学、その後、立命館大学に移り卒業した。朝鮮独立運動の志士であり、剛柔流の空手の達人でした。当時の立命館大学の総長中川小十郎は、京都時代の石原莞爾のよき理解者であり、予備役編入になった石原莞爾を、国防学研究所を設けて迎えいれました。曹寧柱は、戦後、在日本大韓民国民団の会長を務めました。

在日朝鮮人であった大山倍達は、曹の許で民族運動に挺身し、東亜連盟の青年部会にも参加していたのですが、米兵相手300人以上にパンチを食らわせ、東亜聯盟から距離を置き、単身でアメリカに渡り、ニューヨークではピストル相手の暗黒街のボスに一撃を食らわし、FBIの格闘の師範をしていたのです。

より強い男を求めて、タイのキックボクシング、バリ島のカマキリ拳法、インドのヨガ格闘技、韓国の借力、中国拳法、ロシアのサンボ、フランスのサパーディ、ブラジルのカポエラなどすべてのチャンピンに試合を申し込んで百戦錬磨でした。人間以外には、虎・熊・牛とも戦っているのです。極真会館は世界的な巨大組織となり、空手界の中でも異彩を放つ存在となりました。それもまた、石原莞爾の遺産の一つと言えないこともありません。

東亜連盟は、戦後間もない1946年2月15日、連合軍マッカーサーによって団体解散指定を受けます。5年後、公職追放解除にともない、満州国軍中将和田勁、皇宮柔道師範の牛島辰熊らによって再建されたときには、石原莞爾はすでにこの世の人ではありませんでした。木村武雄は、山形県出身の政治家で、国会内で取っ組み合いをするなど、戦前から武闘派として鳴らした。

戦後、日本自由党の結党に参加。公職追放の後、政界に復帰し、佐藤栄作、田中角栄の派閥に属した。第一次田中内閣の建設相兼国家公安委員長。元帥の異名をとった。東亜連盟は、木村武雄、和田勁らを指導者として活動を続け、現在は孫たちも会の幹部として、石原莞爾平和思想研究会として存続し政治家を大勢輩出したのですが、日本新党解散後は随分と古参の方たち去って行きました。

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