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石原莞爾平和思想研究会コミュの守り抜く宮沢賢治の原稿

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1941年(昭和16年)12月8日、運命の真珠湾奇襲作戦から、対米戦争が始まりました。最初は破竹の勢いで進撃し、インドネシア、フィリピンなど、アジアの植民地を次々に解放していった。しかし、空母四隻を失うミッドウェー海戦の敗北を機に攻守は逆転します。

ガダルカナルでの消耗戦。補給もなくジャングルを彷徨ったニューギニア戦線。十万人の兵力のうち、七万人が還らなかったという地獄のインパール作戦。無謀な作戦に加え、資源や生産力の圧倒的な差はいかんともしがたく、日本はじりじりと追い詰められていきます。

それに対して米軍は、オーストラリアを基地として、太平洋の島々を着実に攻略していきます。そして1944年(昭和19年)7月、サイパン島陥落。これが、後に石原莞爾自身も指摘した、戦局のターニングポイントでした。これによって、本土が直接空襲にさらされるようになったからです。

翌1945年(昭和21年)3月10日、B−29爆撃機約三百機による東京大空襲が行われた。一晩のうちに、投下された爆弾は約38万発、1700トンにのぼった。10万人以上が焼死し、焼失家屋は約30万戸。東京の3分の1が灰となったのです。そして、その3日後には、大阪大空襲が行われた。

この頃には、日本中の主要都市が、容赦ない空襲にさらされるようになっていた。そして8月6日、広島。8月9日、長崎。人類がはじめて体験する核兵器の惨禍である。もはや日本に、戦い続ける余力は残っていなかった。この間も、宮沢賢治の夢は、確実に広がりつつあったのです。

森荘已池が『宮澤賢治』を発表したのと同じ年の7月に、サイパン島が陥落した。これよりのち、日本は、B−29の本土空襲を受け、主要な都市はことごとく灰になりました。東北の田舎町であった花巻が空襲の被害に遭ったのは、その翌年の8月10日です。その日は朝から暑い日で、空襲は午前と午後に分けられたが、午後になってから本格的な空襲が始まり、機銃掃射や爆弾投下が行われた。花巻駅も火の海となり、多くの人命が喪われた。

宮沢賢治の弟の清六は、遺稿を防空壕に持ち込み、命がけで守った。背中がひりひりと熱くなってきたので、振り返ってみると、三方が猛火の海になっていた。それを見て、もう、一巻の終わりだと思った。原稿はみんな焼けるか、灰になってしまい、その壕の入り口に、自分は骨になって見つかるだろう、と思った。しかし、清六は生き延び、長命した。短命だった宮沢賢治の分まで、命を貰ったのかもしれない。その五日後、日本は降伏し、焦土に玉音放送が流れたのでした。

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