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石原莞爾平和思想研究会コミュの予備役に編入された石原莞爾

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昭和16年3月1日、石原莞爾は特命を仰せ付けられ予備役に編入されました。明治42年12月に歩兵第65連隊に歩兵少尉として任官して以来、30年余りの現役生活の終わりです。京都での石原莞爾の行動に対して憲兵などの監視が行われていました。支那事変以降の軍について批判的であった石原莞爾は、三国同盟問題についても上京して東条英機らの非を断じるなどの行動をとり、そのために予備役に処されたのです。

ここに石原莞爾の軍人としての生活は終わりました。石原莞爾は既に三回ほど辞表を提出しており、軍より身を退きたいという望みを強く抱いていました。そのために特命をきわめて活淡として受け止めました。だが、軍が、祖国が深刻な泥沼に落ち込みつつあることに対しては、耐え難い苦渋を味わっていたのです。その「退役挨拶」に於いてこう言っています。

「私は既に昭和6年末に身を引くべきだと考えました。ニ・ニ・六事件は更に責任の重大を痛感、是非引退すべく決心したのでしたが遂に思いが達せられませんでした。今次事変勃発の時代作戦部長の重職にあった私は申し上げ様もない責任を感じております。『事変はとうとう君の予言の如くなった』とって私の先見である如く申す人も少なくありません。そう言われて私は益々苦しむ外ありません。当時部内すら統制する徳と力に欠けて居た我が身を省みて真に身の措き所に苦しむ次第であります。今度宿望叶ひまして第一線を退かせていただくことになりました。ついては衷心感謝の念に満たされて居り心から御礼を申し上げる次第であります。」

と、以下陸軍の再建策を、「軍人精神の反省」「戦闘力の増進」「軍と政治」など5つの項目を挙げて論じています。石原莞爾が後任者と事務の引継ぎを終えて、煉瓦造りの宇部第十六師団庁舎を歩み出した時、石原莞爾を送りにあらわれた将校は1人もいませんでした。深草御陵も程近い伏見の、未だに膨らみきらぬ桜の蕾の下で、石原莞爾を送ったのは、調理師や用務員、出入りの小商人といった者たちばかりでした。下積みの人たちにたいして、石原莞爾は決して横柄に振る舞わなかったのです。

昭和16年3月に予備役に編入された後、京都に居を構えた石原莞爾は、立命館大学の中川小十郎総長からの懇請に基づき、同大学の教壇に立つことになりました。中川は、西園寺公望の秘書を長く務めた人物で、世相がますます軍主導になる中、石原莞爾のような人物を教員として迎えることに、相応の覚悟が必要だった時勢に、それを担うだけの気骨を持っていた人物です。石原莞爾は、それまでも京都市内で東亜連盟の支部会などで行った講演をもとにした『世界最終戦総論』を立命館大学の出版部から刊行するなどの形で立命館大学と関係を持っていたが、いざ大学の教壇に立つとなると自らの講義だけでは不足を感じざるをえず、中川に頼んで国防学研究所を設立することにしました。教員として長く陸大で戦史の教鞭をとっていた酒井鎬次、伊藤政之助の両泰斗と、国柱会での同志である里美岸雄を教員として招いたのです。

石原莞爾は同研究所の設立にあたっての趣旨を以下のように記しています。「私は少なくとも法律・経済を講ずる大学においては、自由主義時代においても、国防学の講座を置く必要があると永年主張してきたのである。日本においては、明治維新によって国民皆兵に変わったけれども、思想的には古来の文武一途の精神を破壊するに至った。即ち、文を本文とする人々は何日の間に武に遠ざかる結果となった。その根本的原因は、西洋文明吸収の影響によると見なければならない」と。

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