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終戦後の南方での日本人

終戦後の南方での日本人 2016年11月27日 07:28
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日本軍は、降伏後は、現地の治安を維持するために武力をもちいることを固く戒めていました。白人に従うインドネシアの民兵たちは、日本軍の持っている武器、弾薬を要求したが、日本軍は降伏条件を待って、その引き渡しを拒否しました。そのために、日本兵のみでなく、専属、在住の日本人婦女子まで襲撃され、その暴行を受ける事態が発生したのです。それでも日本側は、完全な非暴力、無抵抗主義をとったのです。

多数の日本人犠牲者を生じたインドネシア人による暴力事件に、「ブカシ事件」と「スマラン事件」があります。「ブカシ事件」1945年10月18日。西部ジャワのブカシで治安警備に勤務中の80名の日本軍兵士が、兵器を求めるインドネシア人武装集団に襲われ、ブカシ鉄橋で一列に並べされられ、まったく無抵抗のまま全員竹槍で刺殺された事件です。

「スマラン事件」ブカシ事件と同じ時期に、スマランを警備していた日本軍の城戸隊に、武器の引き渡しを強要し、城戸隊の拒否に対して怒り狂った暴徒軍団は、同地の工事事務所に集結していた日本人婦女子を400人襲い、近くの海員養成所に監禁した。「武器を渡さねば400人を殺す」と脅したが、日本人婦女子400人は石と棍棒で舗装して、一団となって喚声をあげて脱出した。この事件での犠牲者は20数名でした。

さらにスマランのブルーでも同じような事件が発生しました。スマラン陸運局に勤務していた女子を含む日本人70余人が急襲され、ブルー刑務所に監禁されたのです。8畳ほどの獄房2つに、70余人がスシ詰めにされ暴行虐待を受け、1人ひとり呼び出されて射殺されたが、残りの者が騒ぎ出すと、房内へ銃弾を浴びせて全員を射殺したのです。鮮血は廊下を流れ、この血の海の中で1人の日本人(阿部頌ニ)が血のりをもって壁に血書した。「インドネシアの独立に栄光あれ」

この血文字は、インドネシア側暴徒集団に、神を恐れるおののきとともに、巨大な感動をあたえたのです。敗戦後のアジアの各地では日本人に対する虐殺と処刑が続いていたのです。「死生命あり、わが愛する中国によって処刑される。これも天命なり」とほほ笑み、上海刑務所で銃殺された伊達順之助や、前記の阿部頌ニの死に様が、いまや忘却の彼方へ消えてしまったのです。

だが、その後、時は流れ植民地時代に終止符を打つことになるのです。白人に従っていたインドネシア兵士たちも、奴隷となっていた現地人から多大な損害を被ることになるのです。スバラヤ戦争は、インドネシア独立戦争の開戦を告げる狼煙でした。そして、スバラヤ戦争と時期を同じくして『スマラン暴動』が発生して、白人社会からの独立を成し遂げることになるのです。

何百年の間、白人に奴隷として虐げられてきた現地の人々、自由のなかった原住民が、空からパラシュートで地上に舞い降りてくるものを見て「神」が天から救いに来たと思ったら、同じ肌の色をした日本人だったのです。その日本人が大きな白人を縛り上げてケツを蹴り上げている姿を見て、もう二度と奴隷になるものかと解放されたのです。多くの日本人の祖先の血が流れた南方の地で、我々の祖先である多くの日本人が眠っています。

アメリカにおける日系移民の迫害、排斥は深刻なもので、石原莞爾だけでなく日本人全体が憂慮しつつ憤激していました。対米関係を重視し、またアメリカの反日勢力に口実を与えないために、日本の外交当局は、極めて慎重な姿勢を保持していましたが、それでもアメリカ、特にカリフォルニアにおける日本人排斥の風潮はおさまらず、1924年に排日移民法が成立するになり差別を受ける扱いになったのです。だが、人種差別反対だった日本人の思いはこのとき、成就されたのです。

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