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石原莞爾平和思想研究会コミュの表舞台に立つ石原莞爾

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二・二六事件は、石原莞爾を陸軍の主流に押し上げました。一貫して討伐を主張し、実際に制圧作戦を取り仕切ったことが、軍の内外から高く評価されたためです。大不祥事に直面していた帝国陸軍にとっては、その実行力が頼もしく思われました。だがそれ以上に、石原莞爾が、軍における、国政全体における存在感を増したのは、その企画力、構想力でした。

相沢事件から二二六事件までの経緯を、陸軍の派閥対立から見た場合に、統制派と皇道派と見るのが普通です。一般的に永田鉄山に代表される統制派が、エリートを中心とし、近代化された国防国家の建設をめざし、官僚的であったのにたいして、皇道派は、陸大出身のエリートに反発をする隊付き将校を中心とし、農民・労働者に深い同情をもち、土着的であったとされています。

二・二六事件によって、皇道派が一掃された結果、統制派が軍の主導権を完全に把握した。と、すれば、統制派は、念願の国防国家建設に取り組まなければならなかったはずだったが、統制派のトップである永田鉄山亡きあと、あるべき国防国家の姿を描ける人材は、石原莞爾ただ一人しかいなかったのです。

さらに、二二六事件後の粛軍が、軍首脳部の世代交代を促しました。事件の責任をとって、陸軍の川島をはじめとして、本庄侍従武官長、南関頭軍司令官、そして参議官の林銑十郎、安部信行、荒木貞夫、真崎甚三郎、寺内寿一、植田謙吉、西義一ら、現役の大将10人すべてが辞表を提出したのです。

実際には、現役が中将以下のみになると人事的に支障をきたすので、寺内、植田、西ら3大将は、慰留されてそれぞれ陸軍大臣、関東軍司令官、教育総監に就任したが、いずれにしても、統制派、皇道派の対立を繰り広げた大将たちが、一挙に現役を去ったことに変わりはありませんでした。軍内部の世代交替のなかで、新しい実力者として、石原莞爾は表舞台に立ったのです。

だが、統制派のホープとしての、石原莞爾の足元は、必ずしも磐石ではなかった。事件後の陸軍を牽引したのは、石原莞爾と、鎮圧部隊を率いた梅津美治郎、軍事課を討伐方針に転換させた武藤章の3人であったが、きわめて官僚色の強い後者2人と石原莞爾の関係は、決して堅固なものでなかったのです。

陸大で恩賜の軍刀を戴いたエリートであるにもかかわらず、石原莞爾はメンタリティにおいてきわめて土着的であったし、兵士をはじめとする民衆にたいして深い同情をもっていました。事件終息後も、相沢三郎中佐を獄中に尋ねるなど、個人的にも皇道派との関係は深いものです。石原莞爾が統制派と手を結んだのは、最終戦争にいたる国家体制の整備のためでした。その皇道派的体質のために、当時から今日まで、あれほど旗色鮮明にしていながら、石原莞爾の反乱部隊との共謀説が絶えないのです。

石原莞爾の性格が、官僚的統制と合致しなかったことは云うまでもありません。統制が強化されていく過程で梅津、武藤が代表する幕僚派との軋轢が、結局は石原莞爾の軍人としての経歴に終止符を打つことになるのです。

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