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詩は表現ではないコミュの合評2 作品2

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非常階段



ここから闇
爪先で探って
階段を降りていく
片足ずつ降りていく
とりあえず降りていく
外へ出ようと降りていく
風の吹くなかを降りていく
あれを忘れたけど降りていく
爪を噛むのをやめて降りていく
いつ死ぬのか考えつつ降りていく
その部屋の臭いを逃れて降りていく
失った水分を補給しようと降りていく
誰のことも信じないつもりで降りていく
瓶のふたが閉まらなくなる前に降りていく
違う物語を聞かせてもらうために降りていく
嘘つきよ愛してるでもさようならと降りていく
死んだ金魚をトイレに流せなかった夜 ここは踊り場
スピーカーから恋の歌が流れる街へと降りていく
嘘つきよさようならでも愛してると降りていく
焦げた蜜を何度も味見したあとに降りていく
私の作るものはつまらないから降りていく
他人の美貌を花に譬えながら降りていく
弱いものしか認めないまま降りていく
心を病む友が愛しいので降りていく
鏡のない場所を探して降りていく
あれを捨てるために降りていく
過ぎてゆく時間を降りていく
遠くへ飛べずに降りていく
さようならと降りていく
愛してると降りていく
深い所へ降りていく
階段を降りていく
ここは踊り場
この後も闇

コメント(18)

横書きじゃないと意味ないものです。
横書きで作るからこういうのができてきました。

前の作品の評も続けてほしいですが、
とりあえず提出しますので、ご意見ご感想よろしくお願いします。

「とりあえず挨拶用?」にも書きましたが
今の私の詩はため息のようなものです。
さて、これは
非常階段なのだろうかと思う。

確かにある一定の切迫感をともなって降りていくのだし、
それは避難に似た足取りではある。
しかし、「非常時」とするには
あまりにこの道は通りすぎているのではないか、と僕は思う。

本人も言う通り、
ため息のような詩なのだろう。
それは割合リスクの少ない避難経路でとても通りやすい。
それでいいのかな、と思うけど
この道しか今は知らない、と言われそうだなぁ。

まぁいいや、作品の話ではないし。

この作品でよいと思ったのは
踊り場の存在で、それが全体を引き締めることに成功している。
逆に言えば、踊り場がなければここには
ほんとうに何もないと思う。

切迫しているのは分かるけれども、
その切迫感は決して共有されることなく
また、共有されることを望んでいないように思える。
それだけの詩だったら、おそらく
作品として本人から外化される必要はなかっただろう。
だけれど、踊り場という、避難経路の残余物が
語り手の持っている切迫感を一時的に
語り手だけの所有物であることをやめさせ、
「また、歩くけど、今だけ持っててね」と言われたような気がする。

踊り場というどこにも行けない場所だけが
かすかな慰めになっている。しかし、救いではない。
一時的に預けられた切迫はまた、語り手に返されるわけだから。

正しいけど、よろしくないなぁと思うが
そういう感想を抱かせるのはこの作品としての成功であって
限界なのかな。
ひらがなの形っていかれてて楽しいですよね。横置き縦置きそれぞれいかれてる。

踊り場がこの作品を支えている。それは楽しい。いかれた形がそこで途絶えてまた続く。

書かれた言葉がその楽しさに見合ったいかれ方だったらなあと。
上り下りが何度もしたくなるような、それでいて足の裏がすっとこそばゆくなって踏み出すのが恐ろしいような言葉がつまっていたら。

非常階段へ追い立てられるように。もっと切羽詰ったいかれた言葉が読みたいです。ひらがなの形を踏んで歩かざるを得ないような。
誰かが使っているような言葉ではなく、作者の方の、非常階段を下りていく体が出した言葉を。

踊り場までの前半の言葉は、降りていく体が発する息吹を感じるのですが。
こんにちは。作者です。

今までに評を書いてくださった三人のかた、ありがとうございました。まだ他の評者のかたがいらっしゃるので、評に対する作者の返信というのは、いただいた一週間が終わったあとに書きますね。

インターネットに文芸作品を投稿したのは、これが初めてです。
投稿即掲載、という仕組みを、なんだか不思議に感じています。
普通(というか昔?)なら、作者から作品が表に出されるまでには、規模の大小はあっても、何人かの観賞を経ることになり、その後に推敲することもよくあると思うんです。
それに、作品が表に出ると、雑誌でも書籍でも、たいていはこのように作品単体ではなくて、付属要素がついてきますよね、キャッチとか、著者紹介とか、他者による軽い観賞/解説文とか。「○○賞受賞作品」という肩書きの場合もありますね。
で、インターネットで文芸、というスタイルだと、ホームページのある方はいいのかもしれませんが、正体不明の無名の人が1コの作品だけを出すのは、なんか足りない気がしてしまいます。

そういう媒体だからそうあるべきなのかなぁ?
個人的には、それで満足なスロー&キャッチの文芸鑑賞ができるのかなあ、と思ってしまう。なんだか、とても不自然な感じがして。

それ以前に、作者以外の誰の観賞も経ないものを不特定多数に向けて発表するのは、作品批評に値するものかどうかの審査すら経ないで発表するということで、それが佳作なのか便所の落書きなのか、わからないということですよね。
作者の私は、数少ない昨今の自作の中で佳作と思われたので出しましたが、自分だけの判断なんてとても信用できない。

私が詩作にかなり入り込んでいたのは10年ほど前のことで、しかも発行部数100部前後の小さな同人誌の他は、コンクールに応募→入選、または他薦というごく当たり前の発表方法しか取ったことがないのでこう思うのかもしれませんが、モヤモヤが消えません。

今回の作品を出して、そういう仕組みについて色々考えるにつけ、これは簡単にしてはいけなかったかも、と正直思い始めてます。

まあ、ここはサークルのようなものだと思うんですが、お互いを知らない同士が、観賞どころかいきなり批評しあうというのは、するほうもされるほうも難しいものですよね。この後何かの媒体を目指すような共同作業というわけでなく、たとえばこの作品をこう直したほうがよいと言う意見を交換するのとも少し違うスタンスで、批評しあうというのは。立ち位置に、非常に迷ってしまう。

モヤモヤしてたまらないので、モヤモヤのまま書き込んでしまいました。
みなさんの中には、インターネットで文芸というスタイルに慣れてらっしゃるかたもいると思います。詩評とはまったく別のことで、馬鹿なこと訊くようかもしれませんが、こういう疑問符に対しても、もし助言をくださるかたがいればありがたいです。

というか、便所の落書きじゃん。と思ったら、今後の評者のかたは無理に批評しないでくださいな。私も事前に考えずに行動をとってしまったと思うので、今回の私の作品については、ぜひともそういうことでお願いいたします。すみません。
> 帽子屋エッコさん

私自身は、たとえば一般の合評会の延長のように考えてますので、あんまりモヤモヤしていません。また、そういう意味では、発表場所がインターネットであろうと他の場所であろうと、なんら変わることはないと考えています。私自身がオンラインでもオフラインでもこういった合評会を多数経験していますので、違和感がないというのもあると思います。また、観賞であろうと批評であろうと、基本的に「他の作品を読み込んで自分の意見を持つ」という行為に変わりないと考えていますので、個人的には、観賞と批評との間に大きな違いを感じることはありません。


あるいは逆に考え方を変えて、この場が、「何人かの観賞を経ることになり、その後に推敲することもよくあると思うんです。」とおっしゃる場合の「何人かの観賞を経る」段階だと考えるのもいいかもしれません。その場所がたまたまインターネットであるというだけであって。「自分だけの判断なんてとても信用できない」とありますが、だからこそ、このように他の人の判断を仰げる場所があり、また、必要なのだと思います。
>帽子屋エッコさん

私はこの場が何人かの鑑賞を経る段階だという考えで参加表明させてもらいました。自分mixi初心者なので、コミュニティってのはその為にあるんだろうと勝手に思い込んでまして。

まあ、ここで発表した作品は誰の目にも触れますけど。でもコミュニティの主旨としてここはそういう場だという前提があっての合評なのだろうと。
自分だけの判断なんて信用できないということは身にしみます。自分自身、よーするに自己模倣じゃねーかよ自分の書いてる作品なんてと、やさぐれてますし。

でももっと本音を言えば、こういう形式に挑む人ならすごい作品を携えてきてくれるんじゃないか。その後の発展を目の当たりに出来る機会が与えられるのではないかと、そんな下心満載です。

帽子屋エツコさんの作品を追い続けられる機会を掴んだのかもと思うと、今ものすごくわくわくしてます。
ほんのささいな関わり方であっても、いやなくても、その場に自分がいたということには、なにかの意味があるんじゃないかなどと考えていたりしておりますので参加表明してよかったよと。

自分としては、そんな立ち位置です。
個人的に、コンクリート・ポエトリー(具体詩)自体に辛口でして、
そのぶん評価も厳しくなってしまいます。ご容赦を。
(コンクリート・ポエトリーという言葉を知らない人は、訊く前に調べてくださいな)

このような作品、一般にビジュアル・ポエトリー(視覚詩)と呼ばれるものは、
もちろん具体詩の中の一形態であって、
1950年代にムーブメントとして発生して以降、やり尽くされた感があります。
なので、少なくとも斬新さはこの作品に見当たらない。
たとえば草野心平の「冬眠」は、あの時代に発表されたからこそ評価されたのであって、
現在においてあんなのを出しても、誰も見向きもしません。
具体詩を扱う場合は、
そういった、「時代性」を考慮する必要があると私は考えています。
現代の時間軸の中で敢えて具体詩を著す意義、必要性が作品内にあるかどうか。そういう部分。

で、斬新さ云々はおいといて、
(別に作者が斬新さを念頭にこの作品を書いたわけではないので)
それでも、具体詩には具体詩としての(現在における)評価軸があります。
根本にあるのは、簡単に言えば、形だけを見せようとする作品は具体詩としての評価が低い。
現在において、形だけにこだわる具体詩はすでに評価の対象にすらならない可能性が高いです。
タイポグラフィーと具体詩はすでに分離され、
具体詩には具体詩としてのポエジーが求められているからです。

この作品においては、まず、
形から非常階段が想起できるかどうかは、じつは問題ではありません。
作者内における非常階段のイメージが現れているかどうかは、
厳密に言えば読者に想定できるものではなく、
それを論じる行為はすでに「評する」という行為から離れるものであるので。
それよりもまず問題とすべきは、
使用されている語彙、描写、つまり言葉の意味が、
その「非常階段」としての形、イメージを、
肉付け、あるいは補完しているものであるかどうか。
形だけで非常階段が示されているのではなく、
言語の意味においてもそれが示されているかどうか。
そこに(現在における)具体詩の評価軸があると考えています。
前述のとおり、
そこに神経が行き届いていない具体詩は、
「詩」ではなくタイポグラフィーに成り下がってしまうので。
(敢えて「成り下がる」という表現を用いました)

それを考慮してもう一度作品に目を向けると、
やはり、言葉が弱いとしか言えません。
形を作るためだけに各行の描写があるのではないのは確かですが、
(そこまで何も考えずに作られた作品ではありませんが)
「非常階段」を示すには具象性が足りない、
あるいは逆方向に進むならば、
このままでは抽象性が中途半端だと思います。
みなさんこんにちは。作者です。
ここのところ忙しかったので、見るのが遅くなってすみません。
お返事ですが、思うまま少しずつ書こうと思います。

途中ではさんだギモンにお返事をくださったかた、ありがとうございました。みなさん、こういう形態をご自分なりに納得されて参加されてるのですね。
私にはやはりどうも、顔を見ないで合評、というか会話ではない合評がピンとこないのです、実を言うと。
なんか、ごめんなさいね。

あとはランダムに書きますね。
まず、いとうさんの最後の評ですが、たぶん、タイトルを変えようよ、というのが大きいのかなと思いました。
タイトルは作ったときから2回変わって、「階段」→「失恋階段」→「非常階段」になったんですが、最初の「階段」は特に意味のないタイトルでした。で、「失恋」がつくと先に種明かしするみたいだと思って、人生唯一の失恋経験は非常時なので「非常」をつけました。でも、一般名詞だったから、既存の意味を超えたりひねったりした解釈が示されないと、読むほうに満足感がない、ということなんでしょうねえ。
タイトルは、今後あるときイイのが降りてくるといいな、と思います。ご指摘ありがとう。
visual poetryであることが一番、みなさんの目を引いてしまったのが、私としては意外でした。なぜかと言われてもわからないけど、figureがある詩を作っても、それより内容かなと思ってるんだと思います。

言葉が弱い、日常言語、誰かが使っているような言葉、と評をくださったかた全員が指摘しているのは同じことだと思うのですが、日常言語を使うのは、意識してそうしています。(歳をとったせいか、特に造語なんかは恥ずかしくて使えない、というのもあります。)私は子供向けに詩を書いていたこともあって、ある種幼い、わかりやすい言葉が好きだというのもあると思います。
みんなが使っている日常言語で、学があろうがなかろうが、子供だろうがおとしよりだろうが、読んでいいなあと思ってもらえるような言葉が書けたらいいんですけどねえ。言葉が弱いというご指摘は批評ですからなんともお答えできません……力の足りない作品なんだろうと思うばかりです。
pnd/aさん、返歌ありがとうございます。でもやっぱり意味がわかりません。ごめんなさい。

失恋経験にまつわる共感を呼べないかと思ったんですが、あまりそうは読めなかったでしょうか。
しまのりつこさんには「踊り場までの前半の言葉は、降りていく体が発する息吹を感じるのですが。」とご指摘いただきましたが、この階段は下へ向かう階段ですが、前半は内から外へ向かって降りていきます。踊り場で方向転換して、また内側へ向かって降りていってしまいます。なので、前半はポジティブで後半はネガティブなんです。「別れるわ!」→「これでいいのかしら……」って。(非常に蛇足な説明ですみません。私は合評会や、自分の文章の編集担当者と話すときは、いつもこんな、古池や、に「音の聞こえてなお静かなり」と付ける的な、しつこい説明をしてしまいます。イケてないとは思うのですが、誰にでもわかるように言いたいという本能があるようで、特に舞台裏ですと、もう……)
最初の評のほうでいとうさんが指摘してくださった「切迫感」は、全体を通して同じように進む時間には確かに追われているので、あると言えばあるんですが、前半は自力で、後半は他にどうしようもないから仕方なく降りている感じなので、作った自分ではあまりよくわかりません。ああ、でも、別れを決めるという気持ち、今まさに相手から自分を引き離そうとしている気持ちには、決定的ではないけど諦めと切迫感がありますわね、確かに。
というのを、たぶんリアルの合評会で会話で進めたら、すぐに活発なやりとりがあるんでしょうけれど……。「いや、君の意図はこのあたりでわからんようになる」とか「その意図に沿うなら、特にこの行がよろしくない」とか。前向きに推敲に取りかかりたくなるような具体的な指摘などがきっとあると思うのですが。
詩を表に出すとき、編集者なり推薦者なり選者なり同人なりが、作品をよくすることを目的に(それが自分の為にもなる立場の人ってことですが)あれこれ言う段階と、このスタイルの合評は、やっぱり大きなへだたりがあるような気がします。

あと、concrete poetry自体についてですが、私はチャーミングなスタイルだと思うので、好きなんです。やりつくされているというか、5・7・5と同じように、もうそういうスタイルとしてあるものだと思っています。生まれる前にいっぱい書かれたものだからこそ、たとえば70's調のハイカラーのブラウス、とか50's風のロックンロール、とかと同じように魅力的です。21世紀になって、レトロ趣味で踏襲してるのは、甘ーい!と怒られるかな。

正直な気持ちを言うと、自分にとっても、読んでくださったみなさんにとっても、ろくでもないことをしたとへこんでいます。私なんぞが書いたものでみなさんの舌は満足させられないし、ここみたいに虎の穴のようなところではお話にならんということなんでしょうねえ。
オメヨゴシ失礼しました。本当に。
今は詩を作る姿勢が、手なぐさみというか、本当にダダ漏れさせるような感じなのですが、もしいつかまた何かを見つけ、ちゃんとした姿勢で詩を書くようになったら、自分の背丈に合った媒体を探すようにします。
私は、このコミュニティのどこかで誰かがバカにしていたポエムさんなのかもしれません。
でも、ポエムさんでも印税もらえる詩が書けることもあるし、どこかの、作者と同じように大したことない人間に、ちょっとした勇気やら希望やら、しみったれた感動やらを与えたりもできるかもしれないのです。書き手も読み手もレベルが低いと鼻で笑う人もいるかもしれないけど、そういうコミュニケーションを自分ができるってことは、奇跡のように喜ばしいことではないでしょうか。

ちなみにちょっとだけ自己紹介をしますと、詩や文章ではなくて、今は帽子を作っています。ホームページ作っても、帽子は載せるけど、今の詩はやっぱり載せないと思います。ということはやっぱり、ここだろうがどこだろうが「特定複数」ではなく「不特定多数」に見せられるようなものは持ってなかったんだろうと思います。
ああ、私の結論は、やっぱりそれです。
ポエムだから馬鹿にするとかそういうことはないと思いますが
それ以前に失恋のお話だとはまったく、思いませんでした。
それならもっと分かるようにしてもらいたいなぁとは、思います。


言葉が弱い、というのは誰の言葉か分からないのですが
それは結局、言葉の必然性がどれだけあるのかとか
作者だけが消化してしまっていないかとか、
そういうことだろうと思います。

僕としては下降線しか見えなくて
それが具体的な内容をともなっているようにも見えなかったので
単に感覚だけを受け取ったのです。

僕は実のところなぜへこんでいるのか分からなかったりします。

ネットってのは面倒ですが、
また、ここで改めて作者の意図が明かされてから
もう一度はじまるやり取りもあると思います。
まぁ、面倒ですけど。

「特定」のなかにあらためて
ここの人間を含めてみることをしてはいかがですか。
面倒ですが(しつこいなぁ)

でも、人がへこんでるのを見ると
どうしようもなく哀しくなってしまうので困ってしまいますね。
飛ぶ鳥を知らない人みたいだ。
テツさん、ごめんなさい、私、いただいた評をなぜかいとうさんが書いたと間違えてました。

>失恋のお話だとはまったく、思いませんでした。
>それならもっと分かるようにしてもらいたいなぁとは、思います。

って、まぢっすか! ・・・絶句です。
もう、笑うしかないです。わはは。
ますます、ああ、ろくでもないことをした、と思っちゃいます。
でも、へこむのはみなさんのせいじゃないですから、悲しまないでくださいね。

この詩は、
前半は「愛してるでもさようなら」なんです。
後半は「さようならでも愛してる」なんです。
私もしつこいですが、誰でもわかる言葉で、ひねらず、素直に書いているつもりなんですけどね。それゆえ力が足りないというのならわかるけど、mmm......。

まあねえ、でも、おっしゃるとおり面倒ですから、執念をもってネットで会話を続ける人は、なかなかいないんじゃないかと思います。しかも今、俎上に乗ってるのは大したことない作品なわけで。欠伸が出るかたもいるくらいですものね。
傑作を書けたと思ったとき、みなさんはすぐにネットで発表したりするんでしょうか? しないんじゃないかと思うのですが……。

特定複数に入るべき人は、自分の詩と自分にもう少し近い人かなと思うんです。同じ目的を持ってるとか、旧作のどれかを気に入ってくれた人とか、お互いをよくわかってるライバル同士でもいい。傑作とは言わなくても、いい作品があったら、まずそういう人を探すでしょ?
でも、ここではそうはいかないですよね。
感想を言い合う観賞会とも違いますしね。

大変微妙な問題で、受け取り方の違いでしかないとは思いますが、私にはどうも、一人ひとりの間の距離が遠すぎるように思えるのですが。これから近くなるのかどうかも不安なんです。

だから、ああ、場所を間違えたかも、と思ってへこんでしまうのですよ。
いや、僕はわりと面倒だ、と言いながら
面倒なことをしてしまう質ですので、全然気にしなくてよいと思います。

で、なんで失恋の話と思わなかったかと言えば
結局、目に見える形をとってしまうから、
造形のほうに目を、まず通してしまうわけです。
僕は特にその傾向が強いですが、
内容より、形式に目がいってしまうわけです。
ここで、失恋の詩であることを強調するなら
方法は二つで、形式と内容のすりあわせをするか、
この形式を捨て、内容だけがクローズアップされるようにするかの
どちらかでしょう。
ただ、この形式というのも、それなりにエッコさんの中で
必然性をもってあらわれたはずと信じるので、
(それにある種の逃避/移動であるには違いないし
それも降りていく、という下方向へのベクトルというのは
形式として失恋の内容からそれほど離れてはいないはずです)
もっとすりあわせる方向を探すべきでしょう。

踊り場を出して、それが折り返し地点になるのなら
もっと対になる語句を出してもいいと思う。
「愛してる、でもさようなら」
「さようなら、でも愛してる」
という軸があるなら、そうすることはできるはず。

あと、もう一つ、失恋の話と思えないのは
愛の喪失を語るなら相手なんかいらないようにも思えるわけで
失ったものが特定の相手の愛、に思えなければ失恋に見えない。
僕ももっと愛のある生活がしたいなと思いますが
とはいえ、誰か相手がいてそんなこと思ってるわけじゃないわけです。
むしろ、相手がいないからこそ愛が欲しいだなんて思えるわけで。
相手の愛しい息づかいはまったく出てこなくて
かわりに私のため息だけが出てくるのなら、
失恋というよりも、単に、「私」のまわりにに愛がないだけです。

ネットの特徴というのは
「目的」に照準があわさるところだと思ってまして、
だから、時間をかけさえすれば、
そういう人を増やしていくことは可能だと思っています。

僕は発表の媒体なんてネットぐらいしかないということもあって
まぁ、ネットで書き続けますし、これからもそうでしょう。
それはスタンスの違いでもあるかとは思うんですが、
この場所がどういう場所かは使い手が決めていくものだと思います。
(特にいとうさんのスタンスって、参加者の自発性に
まかせてみたい、というところがあるように思うし)
僕、個人の意見としては作品の向上と評の向上、両者が
互いに意見を交わすことによって目指される場だと思っています。

あと、欠伸のでる人がいたら、「馬鹿め」と言ってやってもかまわないはずです。
これは面白いはずだって、言いたいと思うんです。
自分の作品がかわいくない人はいないと思うし、
少なくとも僕は絶対に、自分の作品を擁護します。
胸を張って罵声を浴びて「これでいいのだ」とやってみたいなと思ってます。

なんの話かよくわかりませんね。

まぁ、ともかく居心地の悪い場所のほうが
することや見ることが楽しかったりするんで、
場所を間違えたと思っても、へこまないで、
ここにいてほしいなと思う次第であります。
テツさんの上のコメントにはすごく刺激されてしまいました。
丁寧に書いてくださって、どうもありがとう。

・私のコメントをふまえての批評第2歩、
・ネットで発表すること・ここで合評することについて、
・自作を扱う姿勢について、
と3点について書いてくださいましたね。

自作を扱う姿勢については、テツさんの開き直り(?)はかっこいい。
胸を張ってそう言ってしまいたい自分は、確かに、います。
が……ちょっと後ろ暗いのですよ、とても個人的な理由ですが。

いま、私には本当にゲイジツを書こうという意欲意気込みモチベーションがないのです。
それをなんだか後ろ暗く感じるのです。
やっぱ書くなら、高いところを目指さないと正しくないのではないかと思う自分がいる。
いま目指す目標というかモチベーションになるものは、読んだ人のうち誰かが、その詩をcherishしてくれる可能性というものでしょうか。
アートとしての絵画ではなく、誰かに愛されるイラストレーションを目指して絵を描いているようなものです。(具体詩の形式とはまったく関係なく、比喩としてね。)
だれかが自分の絵を気に入って、携帯の待ち受けにしてくれたらうれしい。
自分のお店のハガキに刷り込んでくれたらうれしい。
そんな気持ちなのです。
ろくでもない、欠伸が出る、という意見に、さもありなんとうなづいてしまう柔らかさが、良きにつけ悪しきにつけ、この姿勢にはあります。だから、テツさんのように強気に出られない自分がいます。
でもね、その強気の意見に、目を開かされましたよ。こういう発言をする姿勢は、他者の尻馬に乗ることや、他者の意見に接ぎ木することしかしない臆病者にはありませんものね。


ネットで発表することは、そうですね、私があまりその方面に明るくないということはもうおわかりだと思うのですが、誰にしてももしいい詩作品ができたのなら、(現在の状況では)やはり活字でも表に出す方法を探ってほしいな〜とは、個人的に思います。ここに良い絵があったとして、美術館に置くのと、他の場所に置くのと、やっぱり少しだけ違うと思う、そんな意味で。詳しくはうまく言えないけど、受け手にとっての何かを手助けできる方法な気がします。でも、売れる売れないとはたぶん関係ありませんね、日本語現代詩の裾野を舞台にした話では。

私の作品が入ったアンソロジーの詩集で、今も絶版にならずに売られている本があります。ネットと比べたら大したことないかもしれないけど、もう6万部刷られたそうです。形態とか版元とかの理由で、図書館とか教育機関に売れそうな本なのですが、まあ、6万人が一応読んでくれたとします。一体その中の何人が、私の作品に揺さぶられたでしょうか。一握り、いれば良い方? それでも、意義がないかと言えば絶対にある、だからこの本はある、と思っています。
また佳作を作れた暁には、同じことを試みたいと思う、自分がいます。そしたら、ツテなんてないけど、経歴書と作品を携えて、編集者か出版社に営業かけますよ。
ネットとこれは同じように機能するかもしれないし、作品が読み手に与える力に差があるわけではないでしょう。それでも、何かが違うと思ってしまう。
作品を表に出す前の、仕上げのしかたが違う。特定複数による、せっぱ詰まった仕込みがある。作者の手を離れきらないままでありながらpublic以前の段階がある。やはり私の考えは、そこに行き着くのかもしれません。

でも、ネットは(私にとっては)新しい方法として、それを選ぶ人を否定する気は毛頭ありません。ポテンシャルは出版物よりはるかに高いのかもしれないですし、ね。
今の私の、だだ漏れの詩、誰かのお気に入りがゴールであるにすぎない詩、そういうものを作者一人の判断でここに出されて、読者が快楽を感じる可能性はあるのか。そんな作品を評者は評したいと思うのか。自分なりの結論がほしいのはそこです。
うーーん。今回最後までやりきるあいだに、考えが固まってくるかしら。


それにしても、詩を評するという行為は、本当にややこしいものですね。
こう言ってしまうと全てが終わってしまうようで、言いたくない気持ちもあるのですが、詩になると、言葉の受け取りかたは読み手の数だけあるものだと思うのです。
もちろん、他人同士が自分の読み方を交換し合い、補い合い、反発し合い、まとめ、ほぐし、絡めていく広がりを否定するつもりは全くありません。論じるという行為は、論材の如何にかかわらず、論者がおのれを語る行為だ、と言い切っていいかしら。私はそう思うのですが、とくに詩の場合、書かれた言葉に読む人が自分の心を乗せて初めて流れる、生きる、そういう種類の快楽であると思うのです。それはきわめて個人的であるからこそ価値があるのではないかと思うんです。
そもそも、人それぞれがそれぞれなりに読む言葉である詩、つまり何通りもの意味やメッセージを持ちうる一連の言葉、それはどんなに具体的な、あるいは逆にどんなに抽象的な言葉を連ねたものであっても、本質的に抽象性をそなえているはずだと思うのです。
そこへ来て詩評は、評される作品が持つ抽象性そのものを決して捨て去ることができず、またしてはならず、ゆえに評者が誠実に意義ある批評を試みるとき(それは、詩作品と同じく読者に向けた詩評、という意味です)個人的領域という名の、他者から見た抽象性が必在し、本当に直截な言葉では詩を語ることができないのかもしれません。
詩の言葉、評の言葉、読み手の心、(合評の場合は書き手の心も、)さらには比喩やら皮肉やら言葉遊びやらがややこしくもつれ合い、それを sort outするだけでも一苦労です。うーん、それらは分別できないものなのかもしれない、それすら私にはよくわからないくらいです。本当に、ややこしいものです。

「傑作」という語彙があります。その名をほしいままにする文芸作品が多々あります。それを読んだ多数が構成や語彙、リズム、表記などに美を認めざるをえない作品であることもあれば、圧倒的な何かが立ち上がってくる、揺さぶられずにはいられない作品であることもあるでしょう。前者のような静的な美は、同じ知識体系を共有する層の比較的多数を納得させられるでしょう。例えば、いろは四十七文字歌がそうでしょうか。しかし後者のような傑作は、いくら圧倒的多数をなぎ倒したとしても、その力は、作品が喚起した個々の読み手の心の反動に拠っているように思えます。うーん、例えば「資本論」とか?
もちろん、両方兼ね備えている作品もありますね。でもそれをそうと選び、認めるのは、私でありあなたです、よね。
どちらが上だというのではありません。ただ、誤字があろうが悪文だろうが後者もまた傑作であり、そうと選ぶ読み手一人一人が作品に力を与えている以上、とても小さな小さな規模でも、作者ではない読者がそうと認めれば、傑作たりうると思うのです。自分の書いた作品が、たった一人の読者にとってでも傑作であれば、ああ、こんなに嬉しいことはないではありませんか?

とはいえ、文芸作品の快楽が快楽以上になるときというのは、そうそう多くない気がします。ぶつかった→揺さぶられた→道が変わった、というほどの幸運な出会いはそんなにあるものじゃないですよね。
でも、書き手としてはそんな出会いを誰かにもたらすようなものを作りたい、そう思って誠実に書くことが、(理想論だけど)まことの書き方なのかもしれません。思い上がりを承知でそんなデカイ夢を追う物書きは、姿勢としてはやっぱり素敵ですね。
実際は、作品と読者の間に摩訶不思議なchemistryがはたらくときというのは、作者の狙いなんか大した役を負わないかもしれないけど、ね。


今日は後半2点について書かせていただきました。
刺激されてちょっと強くなったので、自作を擁護すべく(!)批評第2歩への返信を、日をあらためて書かせていただこうと思います。
次のコメントを素のままに聞きたいので
しばらく耳を傾けて、お口は閉じてます。

(ネットのよくないところは、
好意の沈黙、というのが現実的にありえないところ。)
では、自作を擁護してみますね。

具体詩の形式と書かれた言葉は、もうそのように出来上がっている以上、切り離すことはできません。
内容と具体詩形式をつなぐ必然性はちゃんとあって、「なぜ階段なのか」に答えを与えることはできます。でも、そのつながりの濃さは、私にはコレくらいがちょうどいい。
山の詩だから山の形、愛の詩だからハートの形、は、やりすぎ感があってピンと来ないんです。試みとしての具体詩、の時代に、これこそゴールを通過してしまった気がして。
蛇足ですが例えばこの詩で言いたいことをギザギザハートの形に書くことは、まったく意図からそれてしまうことは言うまでもありませんが、そういう意味で具体詩を作ることは私はしないと思うんです。
内容と形式のすり合わせが、というご指摘ですが、コーヒーとミルクの分量のように、そこはお好みの問題かもしれませんね。

闇の中に伸びるこの階段には踊り場があり、真ん中の踊り場で進行方向が変わりますが、最後の方にはまた踊り場があり、階段はまだ下へ続いています。この先にも踊り場があるかもしれない。闇だから、でも、そこはわからない。いつ外へ出られるのかまだわからないんです。
この踊り場のある下り階段の形に込めた意味は、失恋という意識経験の過程にあり、主体を苦しめる原因となる「逡巡」です。
この詩が二倍の分量で横M字に続いていけば、もっとそれがよくわかるのかもしれません。
やたら長いのも嫌ですし、その場合は踊り場と踊り場の間がもっと短い方がよいと思うけど、うーん、具体詩である以上、figureを変えるなら、推敲と言うより別の作品を一から作ることになりますね。
いや、でも、これ以上短い連の繰り返しで語るには、失恋という主題はそぐわないように思います。そんなにちょこまか方向が変わるものではないですし、うまく読まれた場合に読者の中に喚起された記憶・想像の中の逡巡がたとえ一度であっても、そこに逡巡があることこそが言いたいのですから。それを言葉ではなく形式で表し、形式が言葉を補佐する仕組みにしたのです。

「愛してるでもさようなら」「さようならでも愛してる」
が、主題を表している対句ですが、対句表現は、もしかするとあとで気がつかれたかもしれませんが他にもあります。
「あれを忘れたけど降りていく」「あれを捨てるために降りていく」
が、ストレートな対句です。あとは
「爪を噛むのをやめて降りていく」「鏡のない場所を探して降りていく」
が、主体が自分の肉体と向き合う姿勢という意味でマイルドに対句です。
「外へ出ようと降りていく」「遠くへ飛べずに降りていく」
も主体の心情が対立しているという意味で対句です。
まっすぐ対句なのは2組だけです。私にとってはコレくらいがちょうどよかったので。
でも、それが本当に詩をよりよくするのなら、もっとストレートな対句表現を織り込むのもいいのかもしれません。
ただ、そうすることでまたしても内容の印象を薄れさせ、具体詩形式であることへの必要以上の注意を喚起してしまうのではないかという危惧もあります。

失恋については、テツさんと私のとらえ方の間に差異がありますね。
私は失恋を、主体的能動的な行為であると思っています。失恋する本人の中で恋が失われることは、相手がいなくなったり二人が離れた瞬間にカタがつくものではなく、迷って迷って、戻らない物を惜しんだり、もう要らない物をうとましがったり、まだ欲しい物を諦めたり、怒りや苦しみに目が曇りそうな中を(または曇った目で)何かを決意し、行動することでなされると思うのです。
もちろん、逆に言えば恋をすることも主体的能動的な行動だと思います。ただ、その恋が前進するためには相手の行動もまた不可欠でしょう。私が書く恋の歌には、大きな意味をもって相手が登場するのではないかと思います。
でも、失恋は一人でする行為、という認識があります。そして、不可抗力でその行為へ向かわなくてはならない側面もあります。まだ失いたくないのに失ってしまったものに対する位置づけ・精算を経ずして主体は先へ進むことができない、その過程は迷いながら行動することであり、迷いゆえに主体は苦しむのです。その苦しみは他でもない主体から出るものです。
そして、それまでの「ふたり」に対立する「ひとり」であることの与える苦しさ。これも失恋の痛みの大きな部分をなしているものではないでしょうか。
この詩に「嘘つき」と呼ばれる彼が実際に登場しないのは、主体である彼女の中で、彼は「嘘つき」として一応の精算を経ているためです。実はちっとも精算していないという詩なのですが、彼女は彼を嘘つきと呼ぶことで自分のために虚勢を張ります。そうして彼女は部屋を出て、先のわからない闇のなかへ一人で踏み出し、そこにあった階段を降り始めたところです。
嘘つきの彼と別れる「決意」と、そのあとにやってくるその決意のぐらつきを押し込めるための「諦め」、踊り場の前後のそれぞれは、この二つを表しています。

前半は「愛してるでもさようなら」という決意表明に向かって、自分に追い立てられるようにではあるが前向きに、多少は誇らかな意志を持って、主体は降りていきます。
踊り場の「死んだ金魚をトイレに流せなかった夜」は、また蛇足な説明ですが、終わった恋を手軽に捨てることができないことを意味しています。でも、もうこの恋は死んだ金魚であり、トイレに流そうが庭に埋めて墓標を立てようが、本質的に戻らないものなのです。
「さようならでも愛してる」という決意のぐらつきはすぐにやってきます。彼女はだめになった恋の焦げた臭いを思い、他にどうしようもないと思って闇のなかを仕方なく降りていきますが、諦めのなかでは自分を責めることをするしかありません。ああ、こういうのはうまく説明できません。でも、好きな相手を失って、曇った目で自分を責める気持ちは、それが伝われば複数の人の共感を得る自信があります。こんな説明で何とかわかってもらえればいいのですが。かみ砕いてうまく言えないからこそ文芸に託す心情なのだと思っていただければ、この時点ではまずまずなのかしら……。

この詩では、過去の失恋ではなく、今まさに失恋している最中の気持ちが主題になっています。それまで自分の大きな一部であった相手をもぎ離されてしまった主体が、相手と自分との間の距離を測れるようになる前にまず、一人であることを引き受け、迷いながら降りていく姿がこの詩です。
過去の失恋を語るなら、「嘘つき」はたぶんもっと違った形で他者として精算されたあとであり、主体は彼をまた別の言葉で捕らえ、同時に二人の間の距離もまた語られることでしょう。恋をしていたときの気持ちも、言葉で捕らえることができるようになっているでしょう。

テツさんのコメントで「かわりに私のため息だけが出てくるのなら、」というのは、作者の姿勢と詩の内容が混同されてしまいましたね。これだから詩評はむずかしいと思うんです。

みなさんの評から感じたメッセージは、「もっともっと!」ということです。
確かにこの詩には、色々な意味でのマイルドさがあります。曖昧さを残したつもりはまったくありませんが、あえて程度を抑えた結果、こうなったという事柄がいくつもあります。多くは好みの問題で、カッチョイイことや言葉・典型的なポエジーというものに対する恥ずかしさがブレーキをかけている部分も否定できません。
ここをどう押し進めるか? すべての意見に同調はできませんが、何かを「もっと」進めれば、この詩をよりよくすることができると、私も思います。それは確かに、このゆっくりペースの会話の中で見えてきたことです。他者の意見がもちろん大きいわけですが、自作について話すことでよりはっきりしてくる事柄というのもありますよね。

前向きに推敲に取りかかりたくなる気持ちになるまでは、かくも大変なものでございます。
でも、本当に助けてもらっている気がしています。

これからの別の人の評のときも、前向きな推敲あるいは入魂の次作へつながるような評をしたいものだと思いました。
テツさんに一番刺激されてるのは、そこです。だから、ありがとう。
いや、階段の形ははずしてはいけないとは思ってるんです。
ハートの形とかは確かに気持ち悪いのですが
階段の「降りる」ベクトル、
そして、それが単一方向ではなくて、
行ったり来たりをしながら降りる、
逡巡のベクトルというものに即して
内容もそれを意識しているはずなのだから
それを「もっと」(苦笑)明示できるほうがいいかなと。

これはもちろん僕の読解能力による部分もあるのですが
対になっているのは気づいていても
その真意を読み取ることができないと、
対句が形式上のものを抜け出ないのです。
というのも「愛してる、でもさようなら」と
「さようなら、でも愛してる」の差というのは
とても微妙なものです。
迂闊に読めば、それに差はないと言ってしまいそうです。

もちろん、エッコさんの話を聞くと
それは違うんだ、というのはよくわかります。

今、あらためて読むと構造的に難しい部分がある気もしないでもないです。
というのは階段の下のほうが、
外の街に近づくのに、内容的には残した思いが強く出てくる。
そこらへんも読解を難しくしているのかもしれない。
(ただ、内容の順序はこうでなくてはならないでしょう)

差し出がましいようですが
ひとつ提案できることがあるとすれば
外への逃避のベクトルは、街のスピーカーなどの
私でもあなたでもないところの描写にまかせて
それでも取りすがりたくなるような思いは
「あなた」の裏切り、悪徳について
書けば、言及すること自体が「あなた」への
思いを表現することになるかなと思ったりします。

ただ、ポエジーという点で言ったら
それは十分にあると思います。
わりと美しくできていると思います。
ただ、それゆえに抽象度が高くて、具体的に言うと
「心を病む友」や「弱いもの」とか「あれ」とか
何を指しているのか分からないのです。
ちゅーか、字数の制限が厳しくて難しいのだろうとは思うんだけれども。

あらためて評を書いていくと
詩作はこういう形でなくともいろんな制限があるわけで
見えないルールをルールとして成立させていくところに
世界が開けていくのだなぁという思いにいたります。
めんどくさいやりとり、おつきあいいただきありがとうございます。
もうたぶん、僕の見たところで言う部分は
ほとんどないのでこのくらいで。

次作で会いましょう。
(というより、次は僕が提出する番か)
こちらこそ、貴重なご意見を聞かせていただき、たくさん時間をかけていただいてありがとうございました。
当初に比べると、よくよく色々なことが見えてきましたので、良い経験になりました。

上に書いてある評や返信には、私の今回の作品だけに関わることではない事柄も多くあるので、もし今後もここを通りがかった方も、思うところがあれば、意見交換を続けていただければと思います。

テツさんの次作、楽しみにしてますね。
どうもありがとうございました。

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