ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

ホーム > コミュニティ > 学問、研究 > 存在論 > トピック一覧 > 私の宗教観と宗教病理と哲学

存在論コミュの私の宗教観と宗教病理と哲学

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

コミュ内全体

私の宗教観について

 西洋中世における普遍論争は普遍的な概念が客観的に存在するか否かを論じられたものであるが、その場合普遍概念が客観的に存在するという説を実念論(realisim)と呼び(トマス・アクィナス)、それを否定して普遍概念は単なる共通な名称に過ぎないと主張するものを唯名論(nominalism)と呼ぶ(ウィリアム・オッカム)。普遍概念とは複数の事物に適用されうる概念のことで、例えば、人間、動物などである。一般概念、一般名辞とも呼ばれる。名辞とは言語に表現された概念で、伝統的論理学の基本単位である。普遍概念の対義語は一つの個体のみを指示する概念で、固有名詞、あるいは普通名詞に限定を加えて「東京」「この机」などとも表される。個体概念、具体概念、単称名辞とも呼ばれる。簡単な話、普遍概念とは普通名詞のことである。
 冗談に聞こえるかも知れないが、「神」や「仏」という言葉は普通名詞であることはご理解頂けるであろう。つまり普遍概念である。ある宗教を信じ、信仰を持つということは、これらの普遍概念に対して実念論の立場に立つことである。ただ、それだけのことなのである。唯名論は近世初期のホッブスの思想にはすでに明瞭にあらわれている。ホッブスの思想はライプニッツに受け継がれ、人工知能や認知科学に影響を与えた。しかし、西洋における実念論の伝統は極めて強く、フレーゲの如き大論理学者の場合にも実念論的な仮定を捨てることができなかったが、ラッセルの論理学、特にその階型理論(タイプ理論)は実念論と唯名論との微妙な混淆のために論理体系を極めて複雑なものにしている。純粋に論理的な見地からいえば、実念論はすべて排棄してよいものと考えられている。実念論の立場に立つ宗教が非論理的かつ不合理になり、いくら多くの概念を導入しても、整合性のある体系を作ることは不可能になる。信仰が人間の知恵にとっては愚で、誇りにとっては躓きであるため、「不合理なるがゆえにわれ信ず」の語も出てくる。自分の信仰に確信を持つということは、信仰というものの本質からは、考えがたいことなのである。自然科学において、命題論理や述語論理という言葉で使われる「論理」を否定することはできない。唯名論ないしオッカムの立場に反することは、自然科学の破綻を招くことにしかならない。
 別の観点から、フッサールによれば、「神」や「仏」を認識するためには、意識の特性である志向性を向ける必要があるが、「神」や「仏」に対して志向性を向けることは不可能であるから、認識不可能なものであることは認めなければならない。「神」や「仏」を認識ないし理解できるというならば、妄想に過ぎないのである。
 それにも関わらず、自然科学者はある種の神秘感ないし宗教観に近いものを抱いているのも事実である。それは、仏教ともキリスト教ともイスラム教とも異質のものである。私は大学で化学、特に物理化学を専攻したが、物質の状態図、相図、物理定数、自然法則などは、人間が勝手に作ったものではない。何故そうなっているかも人間には理解できないのである。よく誤解されるように、自然を支配できるかのような言い方が為されることがあるが、自然科学者や技術者は、そのような物理定数や自然法則を利用できるに過ぎず、技術開発などに対する制約条件は大きく、そんなに自由が利くような活動ではない。例えば、ギプスの自由エネルギー変化が負にならないような化学反応は絶対に起きず(一例に過ぎない)、そのようなことを弁えなければ、不可能なことを実現しようとして、無駄なことを繰り返すだけであろう。自然法則を、そのようにした、または、作った存在に対し、「神」という言葉で表現すれば、それはキリストでも仏陀でもアッラーでもないのは明らかであろう。もはや、これらの名前は古く過ぎ去ったものであろう。科学カルトのように科学万能を主張する訳でもない。もはや、過去の宗教は個人的な救済に留めるべきであろう。それで安心が得られるならば、それで良いと思う。それ以上のことを求めれば、宗教ではなく、呪術やオカルティズムに堕するだけだろう。
 日蓮や池田大作はカルト集団の教祖であり、創価学会はカルト集団であるのは否定できないことであり、その認識は世界中に広まっている。その実態については、このブログで語れば、語るに落ちるというものであろう。インターネット上にいくらでも公開されており、否定はできないことである。
 
以下にインターネット上での記述を引用しておく。

・基調講演『宗教犯罪と病理』 精神科医:高橋伸吾(JDCC主任理事/東邦大学医学部精神神経学教室 助教授) および
・「宗教学痛論」授業用ハンドアウト(6):現代世界と宗教(2)ーカルト・セクト:教団論(宗教集団類型論)と現代の社会問題 から

 精神病理学は異常心理学とも呼ばれるものです。
 そのなかで以前から宗教現象を精神病理学的に研究する分野がございました。しかし、宗教精神病理という言葉はすでに矛盾を含んでいます。宗教が非日常的で、非論理的であることが社会通念上許容されている限り、その心理過程が正常か病的かという論理的な精神医学的判断が妥当なのかという問題があります。非日常的でない宗教はないわけです。すべての宗教は聖/俗や彼岸/此岸などの世界観、さらには生物学的生存には必要でない祈祷、念仏の類から修行・出家などの宗教行為を伴います。非日常的でないならそれは宗教ではなく、単なる倫理ということになります。
 Schneiderの『宗教精神病理学入門』は個々の患者がもつ宗教体験の諸相を描いたカタログで、病者がもつ宗教体験がすべて病的であると断定する方向へ向かうことになりますが、それは論理的に飛躍していて、教祖が明らかに精神病と思われる既成の大教団もあります。だからといってその宗教性が無効であるというわけでもないわけです。
 “宗教病理と犯罪”ということになりますと、宗教・精神病理・犯罪という3軸が相互に絡んでいっそう複雑になります。そのため宗教病理のいくつかのプロトタイプを列挙し、犯罪との関係をみていくことにしたいと思います。その前に宗教と犯罪とはそもそもいかなる関係にあるのかについて簡単にふり返っておきましょう。
 考えてみれば宗教にはタブーや戒律があります。たとえば紀元前13世紀のモーセの十誡のうち、後半の五つには「殺してはならない」「姦淫してはならない」「盗んではならない」「偽証してはならない」「隣人の家を貪ってはならない」とありますし、また仏教の五戒では殺生・妄語・偸盗・邪淫・飲酒(おんじゅ)が誡められていて、そういう規範意識の強い精神風土であれば、少年非行の芽は事前に摘みとられるであろうことは考えられるわけです。
 一方、法制面から信仰との歴史的関係をみると、世界最古の『ウルナンム法典』成立の経緯は、シュメール地域に大都市が形成され、各都市はそれぞれ守護神を祀り、君主はその守護神によって選ばれる主権の代行者だったことが背景にあります。多くの人が集まれば犯罪も増え、刑罰を必要としました。ウルナンムの流れをうけたのが「目には目を」の『ハムラビ法典』(BC18世紀)で、神の名において法律が成立しています。宗教倫理と法律は、ヒトが社会を形成する時に抱く共通感覚だと考えられます。だから典型的な宗教犯罪は悪をなす意識が加害者にないという特殊な事情があります。
 ところでどちらかといえば、反主流の宗教教団がその時代や社会状況、法律との関係で“犯罪行為”をなし、教祖に対して精神鑑定がなされる場合があります。わが国ではその実例は著者の知る限りでは3件あります。当時、天皇に対する不敬罪、治安維持法によって逮捕されているケースです。大正15(1926)年の大本教の出口王仁三郎に対する今村新吉鑑定、昭和5(1930)年の天理研究会の開祖・大西愛治郎に対する杉田直樹・中村古峡鑑定があり、そして戦後、昭和23(1948)年の宗教団体・璽宇の教祖・璽光尊こと長岡ナカに対する秋元波留夫鑑定があります。璽光尊は、教祖自身が妄想型分裂病であったケースです。双葉山と囲碁の呉清源が入っていた団体です。以上、3件しかございません。
 現在、オウム真理教は検察側の立証が続いていて、まだ弁護側からは何も出ていません。教祖が精神鑑定されるのかには、疑問符が付いています。宗教病理と犯罪の実例のほとんどは、教団ぐるみではなく、末端の信者が個別に関与するものと、一般的な迷信や俗信などの宗教的な精神病理が犯罪を修飾するものがあります。
  宗教病理のプロトタイプ(原型)をどのように論(あげつら)うかということがあります。しかし、体系的に分類することはいろいろ試みましたが難しいのが現状です。さきほど述べましたような宗教病理学が抱える内部矛盾のため、ここでは犯罪に限定して、その病理を摘出するという役目のみを果たそうと思います。その場合、ちょうど Schneider が精神病質人格の無体系的分類で行ったのと同様に、「その病理のため、(信者)自身が著しい葛藤にさらされるか、周囲が多大な迷惑を被るような性質を有するもの」という判断基準をとりあえず与えておきます。そのうち、日蓮、池田大作、創価学会員の場合は、闘争的教説型と呼ばれる類型に相当し、次のような特徴があります。日蓮、池田大作は確かに精神病であったのは確実だと思われます。


.闘争的教説型

 これは政教が不分離である場合にしばしば起こってきます。イスラム圏はいまだ政教不分離であるためテロリズムが日常的です。
 宗教が真に民衆の救済を考えるならば政治と係わりをもとうとする流れがあるのも当然です。日本における鎌倉仏教のなかでも『立正安国論』を記した日蓮は傑出していました。わが国の戦後史で、政治と宗教の関連は創価学会を抜きには語れません。小田晋先生は、1960年代の同教団信者であった病者が、独特の教条主義“正法と三障四魔の闘争”を契機に犯罪へ至った鑑定例を取り上げています。教義のもつ反対集団への敵意が反社会行動として放散される場合があること、および同宗派の有するヒエラルキー構造が組織と個人の葛藤を招き危機犯罪の副次的原因となりうることを指摘しました。
 宗教信念と政治闘争は、現世に住む信者にとっては単純に分類できるものではないのかも知れません。オウム真理教も衆議院選挙に立候補しました。この辺りから教団が闘争型へと変質してきたとされるわけです。
 いちばん問題になるのは、集団への“迫害”です。強引な信者獲得や献金など、自ら迫害の火種をつくっておきながら、教団は社会との葛藤から次第に被害感を強め、追害するものを攻撃したり、一気に“ユートピア”へと逃れたりします。南米ガイアナでの人民寺院事件が典型例です。調査に来た議員ら5人を殺害したのち、137人の子供を含む900人が服毒自殺しております。教祖は麻薬中毒者だったということでした。オウム真理教の一連の事件もこの系列に属すると考えられるのですが、教祖が現世に執着するタイプであったために集団自殺は免れたと考えております。 
 宗教病理のプロトタイプは、挙げればもう少しあります。たとえば“感応”現象の問題があります。あと破廉恥罪も分裂病にはみられることもあります。けれども、マインド・コントロール下での教祖指令による各種犯罪は、別格に扱わなければなりません。なぜかと言いますと、行う行為が犯罪であることは理解できていても、それを制御する行為能力に重大な障害をもっていると、私は思うからです。もちろん、これは東京地方裁判所等では通用しない理屈です。「宗教団体を選んだのは自己責任である」という論議が繰り返されています。
 それぞれの宗教病理をみると、どうしてそのような考え方をするに至ったのか、つまり信念(ビリーフ)の形成についてもっと詳細に検討されるべきですけれども、このためには精神医学のみならず、JDCCのようないろいろな学問分野が集まっているところでディスカッションをすることが望まれます。


社会の病理現象

 竹下節子氏などは「カルト」を集団のあり方・動き方に求め、その集団が表面的・外観的に宗教団体であるか商業・営利団体(「ビジネス・カルト」――竹下氏は韓国の「統一教会」やアメリカの「サイエントロジー教会」も実態はこの「ビジネス・カルト」であると考えている)であるか、環境保全団体であるか(「環境カルト」)、第三世界支援団体、
人道活動団体であるかといったこととは関係がないと考えている(竹下氏は「シンプルライフカルト」「健康カルト」などといった概念も用いている)。彼女によれば、「カルトとは数名以上のグループの動き方の一つを指すもので、集団で閉鎖に向かい、その中の個人」が「健全な識別能力や批判能力を失っている」ものである。「現代のカルト現象の
特徴は、正統と異端の関係の中での「マイナー宗教」という側面から離れたことだろう。カルトは「宗教」社会現象ではなくて、社会の病理現象の一つの形であるに過ぎない。宗教の名を冠している場合も、霊的なものを実際に追求しているというより、救いを求める人々に対する単なる誘い文句であったりすることが多い」。「現代のカルトの実態
は、外部の社会は悪に染まったもの、悪魔の仕業などと決めつけて外界と縁を切らせ、極端な教条主義、ラディカルでピュアイデオロギー、内部では、しばしば社会から弾圧・迫害を受けているという犠牲者の感情が育ちやすい。実は宗教的な看板の裏で、グループの目的の第一義は上層部における「権力」の追求であったりする。その権力は、信者を宗教的な「教え」に帰依させて得るものではなく、事実上、信者を心理操作することでのみ得られる」。「カルトがカルトたる理由は、その教義(宗教カルトであるなしにかかわらず)そのものにあるわけではない。勧誘方法、編成方法、外部からの隔離、脱出の困難さなどにある」「カルトがカルトになるのは、メンバーの自由や人権に抵触するグループの機能の仕方にある。リーダーやメンバーの行動をじっくり観察して良識のフィルターにかけねばならない」

○「カルト」は人々の不安感につけ込む。留学などで一人不安な海外生活を送っているような人がしばしばターゲットにされる。筑波大学のように1年生の多くが親元を離れて初めて一人暮らしをするような大学は、この点で「カルト」のターゲットになりやすいと言える。
○「カルト」は金集め・人集め・権力掌握などの本音をカムフラージュする。孤独を癒すサークル活動、仕事上の能力を育てる自己改革(自己啓発セミナー)、第三世界に中古衣料を支給する慈善団体、難病治療を推進する団体、文化団体などの姿を取ってターゲットに接近する。しかし、もっともポピュラーなのがやはり「宗教」。「詐欺師、ビジネス人間、あるいは妄想や人格障害をかかえたリーダーが、宗教者を装ったり自分で宗教者でだとか神だと思い込んだりしてしまう。もともとカルトと宗教とは親和性があるのだ。/しかし、宗教カルトの本質は宗教ではなくカルトにある」。(基本的に「宗教カルト」としての旨味を享受しつつ、「宗教」が警戒されていることから、さらに別の形態をとっ
てターゲットに接近するという、二重にカムフラージュしたカルト(《本質》金集め・人集め→宗教団体→慈善団体《見かけ》)が多いこと、今後もこの形態がふえるであろうことにも注意を払うべきであろう。)
○それでもなお、「カルト」が「宗教」の姿を取りやすいのには幾つもの理由がある。まず、「宗教」の姿を取り、宗教法人として認可されれば、「信教の自由」という言い逃れを利用して自己保全を図ることができる上、さらに税制上の大きな優遇も受けられるからである。


宗教社会学からの新しい提言

北海道大学の櫻井義秀教授など。

(1)「カルト」には
a)集団の凝集性(内的抑圧と外社会からの分離)
b)成員に対する動員力の強さ(統制と服従)
が共通の特質として指摘されうる。
(2)宗教集団は多くが救済を独占する集団であることから、凝集性が高くなる特徴をもつ。そして、これが、信者や外社会に対する暴力的行為として認識され、社会的批判を受けることが「カルト問題」である。つまり、社会的凝集性と動員体制が強い集団のうちには《宗教的組織》と《非宗教的組織》があり、その《宗教的組織》は、いずれも教祖のカリスマが強く、熱狂的な信仰と献身が存在し、そのカリスマが信者の服従を導く権力の源泉になる危険性がある。しかしだからと言って、そのすべてを「カルト」と名づけて問題視するべきではない。宗教のこのような特徴は、そもそも社会を《活性化/破壊する》という両義的効果を持つ可能性を有するのであり、これをもって、そのような宗教的組織を一概に否定するべきではない。
(3)しかしながら、勧誘・教化過程における精神操作、信者に対する精神的・性的虐待、一般社会や信者からの金銭的収奪が認められ、そのために社会問題化し、法律家や精神医学者が集団に介入する正当性が認められるケースが存在するのも事実である。このような集団(「破壊的カルト」)(A)は、宗教集団の下位類型ではなく、宗教集団が、違法性・病理性を伴うと判断された非宗教的組織(C)のもつ特徴と重なる特徴(それ自体は「宗教的」なものではない)をもつことによって成立する概念である。つまり、問題とされるべき「カルト」は、社会集団一般に起こりうる病理現象(人権侵害、社会秩序からの逸脱、精神病理的行動)を伴うようになった「宗教集団」のみを指し、極めて強力なカリスマと献身とを特徴としていても、病理現象を伴っておらず、社会問題化もしていない宗教集団(B)とは、明確に区別するべきである。
(4)また、当該社会において問題化されなかったが、全体主義集団・国家も、指導者のカリスマや構成員・大衆の熱狂・自発的服従といった総動員態勢があったことが政治学によって考察され、歴史的反省がなされてきた。
(5)そこで、カルト問題の精緻な議論のためには、次のことが必要である。
(i)カルト問題における「カルト」概念を(A)に限定し、(B)の宗教研究、(C)の法律学・精神病理学、(D)の政治学における、それぞれの固有の対象と区別する。「カルト論」「マインドコントロール」などの特殊領域の議論を他の領域に適用しても生産的ではない。
(ii)カルト問題の指標が「人権」侵害、「社会秩序」からの逸脱であることを明確にし、当該社会で、さまざまな出来事がどのような理由・過程で社会問題化されてきたのかを考察することが「カルト問題研究」の主たる課題である。そこでは、社会集団における凝集性のメカニズム、その否定的側面を研究する心理学や社会学が有効である。さらに、教団固有の論理は宗教学が明らかにする。また問題に介入する法律学や精神医学、心理療法が、社会的実践の学としてカルト問題への対処を論じることになる。
(6)まとめ
1)「宗教社会学」は「カルト」はラベルにすぎず、実際にはどこにも存在しないと主張すべきではない。「カルト」は現に存在する。
2)しかし、それは、これまでそのように論じられてきたような「宗教集団」や「教団」の「類型」と考えるべきではない。「カルト」を「カルト」とするのは、病理的現象と社会的批判である。(「宗教社会学」も、これらの存在を否定すべきではない。)
3)その上で、「カルト問題」の研究は、「宗教学」とは区別して、学際的に行われるべきである。

○「カルト」と「宗教」の親和性:宗教においては日常的で利己的な自我に死んで、普遍的絶対的な者との一致を体現する新たな自己を生きることが求められると言ってよかろう。民俗宗教、民俗宗教など、人間の個我の確立以前から存在する宗教の場合、このような古い自我の死と新たな真の自己への目覚めを特に強調しないが、それはこれらの宗教の場合には、そもそもそのような閉じられた利己的自我が存立していない状況を想定しているからであり、初めから各人が普遍的な集合的自己に開かれた状態で生きる世界そのものを表現しているからである。これに対して、利己的個我の確立以後の世界に登場した世界宗教は、この利己的個我の破壊を第一の課題としたわけである。ところで、この利己的個我への執着を絶つことは自己の判断力の全面的な放棄ではないし、そこから生まれる新たな普遍的自己も、当の自我自身の本来の主体として当人の外部にある権力などではありえないのであるが、一見すると、これまでの自己の判断力への依存をはなれて、盲目的に外的権威に依存することと、表面的には類似する点がある。このように、「カルト」は宗教の本質的で重要な局面と本質的にはまったく異なりつつも表面的には類似する点がある。だから宗教もまた十分に注意していなければ、いつでも「カルト」(「宗教カルト」)に転落しうることを銘記しておくべきであると思われる。(竹下氏はローマ・カトリック教会内部のある公認グループがかつてそのような「カルト」へ転落し、公認を取り消されたいうケースの報告も行っている。)


資料

○「反カルト運動anti-cult movement」
「カルト」視される特定集団に批判的な人々や、「カルト」問題を社会的に啓発しようとする専門家によって推進される様々な社会活動。「反カルト運動」という言葉は、「カルト」概念に批判的な宗教社会学者が用いたもので、活動の当事者たちや一般社会ではあまり用いられない。アメリカ合衆国で1960 〜 1970 年代にかけて東洋系の新宗教がオールターナティブな価値観を求める学生や中間層に広まったが、その教義や活動は、アメリカでは非正統的であったため、異端扱い(異様な儀礼としてのカルト)を受けることとなり、家族が子どもを教団から取り戻そうとしたりした。人民寺院の集団自殺事件以降、マスメディアも「カルト」の危険性を報道するようになり、これに精神病理学や臨床心理の専門家が介入するようになり、「マインド・コントロール」という精神操作の概念や「カルト」という全体主義的組織の概念が生み出された。しかし、アメリカ合衆国においては、元信者が教団を訴える裁判において勝訴する例が少なく、脱会カウンセリングが問題視される傾向にある。「反カルト運動」により「カルト」は社会問題であると広く社会に訴えることには成功したが、実質的な司法・行政上の問題介入は避けられている。

最後に愉快なカルトを紹介して、締めくくりとしよう。私は子供の頃からこのカルトで、このカルトは少年マガジンにも紹介されていました。スティーブン・スチルバーグの映画の基本的モチーフになっていますね。

○「UFOカルトUFO cult」
1947 年、ケネス・アーノルド(アメリカの実業家、1915-84)が自家用飛行機を操縦中にUFOを目撃したと主張。また1950 年代、宇宙人にあった(コンタクト体験)、UFOに乗って宇宙を旅したと主張する人が現れるようになる。こうしたコンタクティ(宇宙人会見者)の主張を超越的真理として信じる人々が結成した個々のグループが「UFOカルト」と呼ばれている。代表的なものとしては、次の2つをあげることができよう。
(1)1952 年、カリフォルニアの砂漠で金星人にあったと主張したジョージ・アダムスキー(G.Adamski,1891-1965)を信奉する団体。「日本GAP」はアダムスキー信奉者団体としては世界最大規模である。
(2)1973 年にフランスの中部山岳地帯で異星人エロヒム(Elohim)に会ったと主張するクロード・ボリロン(C.Vorihon,1946-, ラエル)が主宰するラエリアン・ムーブメント。「宇宙人」は既成宗教における神や天使のような存在で、「コンタクト体験」は既成宗教における啓示のような役割を果たしていると見ることができる。




荒井公康
http://www5f.biglobe.ne.jp/~kimmusic/
http://kimiyasu-arai.at.webry.info/


コメント(2)

>冗談に聞こえるかも知れないが、「神」や「仏」という言葉は普通名詞であることはご理解頂けるであろう。つまり普遍概念である。ある宗教を信じ、信仰を持つということは、これらの普遍概念に対して実念論の立場に立つことである。ただ、それだけのことなのである。


冗談には聞こえませんが、確かに神というものを他の存在者と同じように、「身体を持って物理的に存在するもの」として表象している人は多いですね。
実念論と唯名論の間の普遍論争の過程は本当に面白いものですね。
ポルフュリオスがその著書『アリストテレス範疇論序説』で提起した「普遍は果たして実在するか、それとも人間の思考の中にだけ存在するに過ぎないものか」という問いから引き起こされることになったのですね。

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

存在論 更新情報

存在論のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。