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アルコール依存治療への疑問コミュの「アルコール依存症闘病記」 1・病気発覚

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コミュ内全体

PEMA(飯田 誠)さんの「アルコール依存症闘病記」

をブログと並行して載せていきますので、是非読んでみてください。




 連載日記   



「アルコール依存症闘病記」




1.病気発覚



「飯田さん、診察に来られるとき、いつもお酒の匂いがするのですが、どれくらいお酒を飲まれているんですか?」
主治医はいつになく憐みと諦めがこもった眼をしてそうつぶやいた。
あれは2000年の初夏の陽気が漂ってきた季節の朝だったと思う。もうこの精神科に通院するようになってしばらく経過した時のことだった。精神科の受診はいつも午前中だった。だからこの日も午前中の仕事を半休して、何度か通った横浜の大学病院の精神科を受診させてもらっていたのである。当然昨夜のアルコールも残っている。その上、その頃には朝から飲む習慣も出来ていた。朝起きるやいなや、先ず一杯麦焼酎の麦茶割を一気飲みする。その儀式がないと一日は始まらなかった。会社へ行こうが病院に行こうが構わない。
当然、酒臭い息を撒き散らしての受診である。酒臭い息をしていることは気にならないと言えば嘘になるが、全身が脱力感でいっぱいで、もうどうにでもしてくれと半ば投げやりになっていた。口臭を消す市販の錠剤をいくら服用してもアルコールが体内で消化される際に汗腺が刺激され、臭いが発生する。口臭だけ消しても意味がないのだ。それよりも、どうにかしてほしいのはこの体のだるさだ。入院することができたら、と当時は何度も期待していたものだった。駅前にその病院はあるのだが、歩くだけでも汗が滴り落ちる。午後からの仕事に備えてスーツを着込んでいたのも拙かった。
私は半ば投げやりになっていた。

「はい、毎晩焼酎1Lと、最近は朝から飲むようになっています。」
ごまかしても医者は騙されないだろうと観念して正直に打ち明けた。その女性主治医は何とも気の毒そうに私の目をじっと見つめると、次の言葉を発した。
「それはですね、アルコール依存症です。立派な病気ですよ。昔はアル中って言っていました。治療が必要です。」
初めてアルコール依存症と宣告されても、なぜかピンとこなかった。よくアルコール依存症は否認の病気とも言われているが、むしろ私は喜んでそれを受け入れた。今まで原因不明だった病気に、漠然とした身体・精神のうつ状態ではなく、ちゃんとした病名が付けられたのである。ある種の勲章をもらったような気分だった。
文学の世界ではウィリアム・S・バロウズ、ポー、フィッツジェラルド、ヘミングウェイ、スタインベック。エンターテイメントではエリック・クラプトン、エルトン・ジョン、チャーリー・シーン、ビリー・ホリデイは立派なアルコール依存症者である。日本人としては石原裕次郎、美空ひばり、赤塚不二夫、三笠宮寛仁親王、そして私の大好きな作家、中島らも氏も立派なアル中だ。私はその時、彼らの仲間入りができたと思って内心嬉しかった。病名が付けられるとなんだか嬉しい。アルコール依存症にも治療法があるとその時の私は期待していた。
しかし、次の言葉は衝撃だった。
「アルコール依存症の治療はアルコールを断たないといけません。」
いわゆる断酒というやつである。もう酒が飲めないのか・・・心のうちは心配になる。まだ飲みたい。それが本心だ。主治医はそう言うと、奥の部屋から何枚かのプリントを持ってきて、私に手渡した。断酒会やAAの案内である。当時はそれが何なのかさっぱりわからなかった。


断酒会は、明治時代に始まった禁酒運動に発端がある。戦後、アメリカのAA運動に触発され、それを学んだ者が日本にその運動を根付かせようとして昭和32年に「東京断酒新生会」を発足させた。また、翌年には高知市において、禁酒同盟の小塩完治によってAAと「東京断酒新生会」などの活動が報告され、それに触発されて「高知断酒新生会」が発足した。この2つの東京、高知の断酒会誕生により、その活動が全国に広まったアルコール依存症患者とその家族によって作られた自助グループである。会費制で、組織化されており、外部に対してもオープンな姿勢を取っている日本独自の団体だ。断酒を続けることを互いにサポートし合い、酒害をはじめ、アルコール依存に対する正しい理解・知識を広く啓蒙する活動を行っている。
AAは断酒会の原型である。1930年代にアメリカ合衆国で始まり、世界180か国以上に拡がっている。アルコール依存からの回復のために「ミーティング」と呼ばれるグループワークや、「12ステップ」という回復のプログラムを用いる。プライバシーを守るため、フルネームは名乗らない。日本においてはアノニマスネーム(自分のニックネーム)をミーティングで使う傾向がほとんどである。よって断酒会とは異なり、名簿や会費もなく組織化もされない。追跡調査も行なわれないため、正確なメンバー数を知ることはできない。アルコール依存症者のみが参加できるクローズド・ミーティングと、家族や医療関係者など外部の人も参加できるオープン・ミーティングがある。ミーティングが開催される場所は教会が多いが、AAはどのような宗教、宗派、政党、組織、団体、にも縛られていない。 始まりの発端は一人のアルコホーリク(問題飲酒者)が、もう一人のアルコホーリク(問題飲酒者)にお互いの飲酒の問題について経験を分かち合い、そのときだけは飲酒をせずにいられた、ということによって広がっていった共同体である。AAのメンバーになるために必要なことは、飲酒をやめたいという願望だけである。
「一度参加されてみたらどうですか?」
その時は参加してどうなるものでもでもないだろうと思って聞き流した。もちろん参加の意思はない。参加しても断酒するつもりはなかった。酒の飲みすぎて死んでも後悔なない。それに仕事が忙しすぎて午後7時からの例会やミーティングに出ている暇はなかった。



事の発端は、数週間前、出勤前に歯磨きをしていたときに急に吐き気がして、少量ながらも吐血したことにはじまる。その時は上司に事情を話して早退させてもらったが、それ以前にも吐き気や、異常な発汗、手の震え、下痢の症状はあったものの、アルコールさえ飲めば解決していた。いわば、私にとってアルコールはガソリンみたいなものだったのである。しかし今や並大抵の酒量では解決できなくなっていた。会社に酒を持っていってトイレで飲んだこともある。トイレで涙を流しながら嘔吐した数は数え切れない。
そう言う日が何度も続いたある朝、起床してみると、全身が震えて体が思うように動かなかった。何度も嘔吐を繰り返し、必死の思いで床をはいずるようにして実家に電話をかけたのだが、通じない。仕方がなく結婚している姉に電話をかけて事情を説明し、会社に連絡を入れてもらった。しばらくして社長と奥さんが到着し、救急車を呼んでくれて、病院に運ばれた。救急車に乗ったのはこれが生まれて初めてである。
ところが病院について様々な検査をした結果は何の異状もないと言う。結局栄養剤の点滴一本で帰されてしまった。しかし、体の震えは依然として続いていた。そんな中で、社長の奥さんだけは私の不調に気付いており、総合病院で精密検査を受けるように勧めてくれた。それが冒頭の大学病院である。2つくらい大きな病院を紹介され、私は会社に近い横浜の大学病院を選択した。
後日、会社を早退させてもらって病院へ向かう。今まで大病の経験のない私は多少緊張していた。病院はさすが大学病院だけあってさまざまな科が分かれていた。ひとまず内科の受診を申し込む。初診の医者は私の仕事ぶりと、胃が痛いという言葉から、
「ストレスと過労からくる胃の痛みなら胃潰瘍かもしれないな。」
そう言うと次々に一通りの精密検査の日程が決められていった。
検査は採尿採血、レントゲンに始まって、心電図、超音波、脳波、CT、内視鏡と続いた。しかしながら、結果は特に異常は見られず、唯一、内視鏡で食道と胃を見たときに多少の傷があっただけだった。その時の内視鏡医師に毎晩酒を3合ほど飲んでいると言ったので。
「毎日3合も飲んだらこうなるんですか?」
と言われたが、本当はもっと飲んでいた。
検査の結論としては、何度も嘔吐を繰り返していたのが原因の食道と胃の炎症とされた。しかし、その嘔吐の原因がわからない。内心では酒の飲みすぎが原因だろうと思っていた。


そうしてまず内科の受診が始まった。消化器内科にしばらく通ってガスターという胃薬を処方されて飲んでいたのだが、体のだるさは一向に解決しない。しばらくすると、夜、当時付き合いっていた彼女と一緒に自宅で飲酒していると体の震えと嘔吐が止まらなくなってしまった。救急車を呼べばよかったものの、無理して駅前からタクシーに乗ってその大学病院に行って救急で診察してもらい、胸部と頭部のCTのほか、レントゲンもとって点滴を2本打ったのだが、医師の見解はまたもや原因不明である。
その点滴をしている時に体が小刻みに震えていたので、当直の医者から心療内科の受診を勧められた。ストレスと過労からくる心因性の内臓疾患であれば心療内科の範疇になる。翌日、心療内科の診察を受け、心療内科的な血液検査をした。とりあえずの薬としてデパスを服用していたのだが体の不調は治らなかった。心療内科の医師は諦め顔で、
「これはもう内科の範疇ではありません。精神科を紹介しましょうか?」
と言われ、通院しだしたのが冒頭にあげた精神科である。


続く…


--- OFFICE PEMA −−−

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PEMA(飯田 誠)さんの「アルコール依存症闘病記」

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「アルコール依存症闘病記」




2.幼少時代


私は昭和43年。大阪の下町である東大阪の長瀬で生まれた。しかしながら生まれてすぐに大阪郊外の大東市の野崎に移り住んだので、長瀬時代の思い出は全くない。いまは唯一先祖代々の墓地があるだけである。
大東市という町は、大阪府内の外郭部を通り、大阪郊外の主要都市を結ぶ骨格的な環状道路軸である大阪外環状線が走り、スティーヴン・キングの『クリスティーン』で描かれているような典型的な郊外(サバービア)の荒廃した景観が広がっている町である。寂れた工場や中古車販売所、ガソリンスタンドやトラックターミナル、廃業したボーリング場、ファミリーレストラン、ラブホテルが幹線道路に連なっていた。小学校に通学する途中に大阪外環状線の高架橋の下を通るのだが、何度もホームレスたちの布団が燃やされていたことが強く印象に残っている。人間も殺伐としていたのだ。


周辺の景観はまだ昭和であった。どういう理由で放置しているのかは定かでないが、空き地がいたるところにあり、子供の格好の遊び場となっていた。放置された車やトラックの荷台や木材置き場は子供の恰好の遊び場である。小学校の前の川は黒く濁っていて、時々メタンガスを放出する。町は明らかに荒んでいた。
反面、背後には生駒山系の山が連なっており、野崎観音(のざきかんのん)として知られる福聚山慈眼寺があって緑も多く、小学生時代にはそこで良く遊んだものである。
福聚山慈眼寺の本尊は十一面観世音菩薩である。江戸時代より続く、有縁無縁問わずすべてのものに感謝を捧げる『野崎参り』で知られ、その期間である5月頭は参拝客で賑わう。
野崎観音はまた人形浄瑠璃や落語の作品を通じても知られている。境内には南條神社や役小角像も鎮座し、神仏習合や修験道の歴史を今に伝えている。四天王によって守護される本堂には、十一面観音菩薩、普賢菩薩、文殊菩薩が祀られており、平成11年に完成した壁画「花蝶菩薩」には、黄道十二星座が表現されている。本堂周囲には当寺中興の祖と位置付けられる遊女、江口の君(江口の長者)を祀り、婦人病と子授けの御利益があるとされる江口堂や、一番から三十三番まである河内西国霊場すべてを拝むことができるという三十三所観音堂、釈迦の16人の弟子(十六羅漢、じゅうろくらかん)を祀り、北河内の遊び歌において「野崎観音十六羅漢、うちの親父は働かん」とユーモラスに歌われる羅漢堂などがある。そうした大東市の荒廃殺した殺伐さと豊かな環境に築かれた寺院との奇妙な融合が後々まで私の原風景になっている。依存とのつながりは不明だが・・・

当時の私は、近所の友達と遊ぶよりは一人で遊ぶことが多かったように思う。そのころ住んでいた家には適当な庭があり、そこに土で城郭を作って一人だけのファンタジーに浸っていた。また、世界の偉人伝を読むのが好きで学校が終わると自宅に閉じこもって、むさぼるようにそれらの本を読みあさっていた。
振り返ってみると、幼少時代から私は現実社会から逃避する傾向があった。家庭に居心地の悪さを感じると中途半端な家出を繰り返した。自分の世界はここではないとずっと思っていた。そして、自分ひとりの世界に引き籠る。それは今も変わらない。
初めてアルコールを口にしたのは、はっきりと覚えていないが、4歳か5歳の時だったように思う。父の会社の同僚や友人たちが実家に遊びに来たおりなどに彼らが飲んでいたビールを悪戯心で飲んでは酔っ払い、庭を走りまわっていたと後日両親から聞かされた。また、私の祖母は健康にいいからと梅酒をよく飲ましてくれていた。私の実家は梅の季節になると必ず梅酒を作っていたので私も悪戯心で飲んでいたものである。


その時、どんな感じがしたのかは覚えてないが、酒の味よりもむしろアルコールがもたらす「酔い」や「酩酊」に気持ちよさを感じていたと思われる。つまり私にとってのアルコールは、飲んだ時から味や香りを楽しむ嗜好品としての「酒」ではなく、現実から逃避させてくれるドラッグとしての「アルコール」だった。


続く…
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3.少年時代



小学校5年生の12月、大阪の家が手狭になったので奈良の生駒に移り住み、中学卒業まで両親と共にそこで過ごした。当時の実家周辺は、急速に大阪のベッドタウンとして開発された住宅地である。同じような敷地に整地された区画に同じような家が立ち並んでいる。市民の70%が大阪に通勤通学に行くので地域のコミュニティーは希薄だった。奈良に移り住んで、隣近所の子供と遊んだことはない。大阪外環状線沿線とは趣が違うが、やはりここも郊外だ。大都市の郊外で生まれ育ったのがその後のアルコール依存症になる萌芽とは必ずしも言えないが、私の人格形成には大きく影響している確かなように思われる。
奈良に移住し、中学生になった頃から私は両親から干渉されることに事あるごとに反発し、次第に両親との間に不協和音が響き始めるようになった。親の目を盗んでタバコを吸い、アルコールを飲むようになっていた。それについての罪悪感は全くない。



例えば夏に学校に凍らせたお茶を持っていくのが生徒たちの間に流行った。普通なら麦茶や緑茶を凍らせて持っていくのだが、私はウィスキーの麦茶割を凍らせたものを持って行って、それを飲みながら酔っ払って授業を受けていた。それが中学時代である。
当時の私は「酒」が美味い物だとは全く感じていなかった。単純に倫理に反抗してみたかったのである。喫煙や飲酒は真面目な生徒であることを期待していた両親や教師たちへの反抗以外の何物でもなかった。
当時の私はアルコールよりも喫煙が問題だった。学校に何度も両親が呼ばれたこともあり、そのつど叱責されるのだがやめなかった。タバコに含まれるニコチンは、合法的に市販されている依存性薬物で、未成年の使用は「未成年喫煙禁止法」で禁じられている。興奮作用を持つが、神経が興奮している状態では鎮静の効果 をもたらす。作用時間が短いこともあり、反復使用に陥りやすい。アメリカで1987年、精神障害の分類に「ニコチン依存症」の名が登場する。WHOでも、アルコールや覚せい剤などと同様、中枢神経に作用して依存を引き起こす「薬物」として位置づけられた。肺ガンのリスクや、間接喫煙の害は言うまでもない。形は違えども依存性薬物に依存していたのだ。理由は現実逃避である。「こんな世の中クソ食らえ」。同時に親に反発する快感もあった。



中学3年生の頃になると、両親と一緒に暮らすことが苦痛になり、同級生たちが地元の奈良や大阪、京都の高校に進学するのを横目に、人と同じ事をするのに納得のいかなかった私は、ふと、書店で見かけた全国版の高校案内を購入し、どれどれとパラパラ学校選びをはじめた。私立校ばかりだったが、北は北海道から、南は九州までの学校がずらりと並んでいた。以前にも、中学2年の時の面談でアメリカのハイスクールに行きたいと言い放ったこともあるのだが、さすがにこれは直ちに却下された。それではと、国内でもいいから遠くの学校に進みたい。当時、頭にあったのは、どうしても家から出たい、家族から離れたいという思いだけであった。反抗期の真最中。このまま両親と同居し続けるといつの日か、彼らを殺してしまうかもしれない。かなり危機的な状況だった。居心地の悪さの不協和音はフルボリュームで心の中で響き渡っていた。
しかし、両親を説得させるにはそれなりのネームバリューのある学校で、生活するために寮が完備されていて、なおかつ自分の偏差値で確実に合格できる学校を選んでそこに入学しなければならない。全国くまなく探して、これならと見つけたのが、函館のカトリック系の男子校、函館○○○○。 同系列の学校は鹿児島にもあるが、そこは到底無理。でも、函館ならなんとかなる。そう思うと、その学校に行きたくて仕方がなくなった。「北国」という言葉の響きにも惹かれた。親には内密で学校案内を取り寄せ、願書を出した。そして悲願は実る。



続く…

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