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仏教コミュの南無阿弥陀仏と称えればその3

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南無阿弥陀仏トピック3周目です。

南無阿弥陀仏3トピックは一部の人書き込み禁止でしたが、こちらはその制約はありません。

宗派問わず、南無阿弥陀仏を称えた味わいを語り合いましょう。ちなみに自分は禅宗です。

コメント(1000)

>>[958]

 欧米の精神科医の中で、「吉本伊信さん」(真宗木辺派)は著名です。日本心理療法の先駆者。木辺派で、「身調べ」という修行があった。断食・断眠・断水という極めて厳しい条件で、自分の行為を振り返り、地獄行きの種が多いか、極楽行きの種が多いかを調べる修行。
 
 それから、宗教色や秘密性、苦行性を取り除いて「内観法」を開発した。自分が母親、父親からしてもらったこと、周りからしてもらったこと、それを徹底的にやる。それから、自分が親や周りにして返したを想起する。(7泊8日くらい)
 そうすると、これまでどんだけ自分が周りの世話になっていたかという感謝と共に、あまりにも自分が報いてないことの懺悔の念が生まれます。人だけじゃなく自然や周りの環境に対してもです。報恩というのは、自然の働きすべてに対してだということに感じています。これは自分が実践したうえでの感想ですが。
>>[962]

言われていること、わかります。
やはり そうですね。
はた と気付く方にも 報恩感謝が顕われる。
自分も同じ道にいます。
入口はそれぞれ違うのでしょうけれど。
面白いですね。

それにしても多種多様な修行の実践をされていますね。
どれが一番しっくり来たものでしょうか。
お聞きしても良いでしょうか。
 生かされてる自分に気付くのは、内観が一番早いと思います。実存の意義を確かめるには早い。多少の不平不満なんてどうってことはない。実生活で、敵意やイヤミ云ってくる人の気持ちが何に起因するものかある程度わかる。だから、和すことができる。生きている間に、動物植物多くの命を頂いて生きた、死しては「遺体を賀茂川に流して魚のエサに」親鸞さん最期の報恩です。母なるガンジスに返すも同様。チベットじゃハゲワシへ。土葬は、四大で地上の食を得た身体を大地へ返す。

 この宇宙万物の大いなる法を、明らかにしよう、「いわゆる三世、私はどこからきていずこへ去るのか」と無常の道理を垣間見手無我を悟るのは、禅が早い。いわゆる神通は、禅とやや違う瞑想法を用いる。(勝手にやると魔境や発狂、自死するおそれがあるので、密の教えでやる。万人に説ける方法ではない) いわゆるインドのサドゥーは、カンジス流れてくる屍(人でも動物)肉を喰らい、片手何十年も上げ続けて自由が利かない、太陽見続けて失明する。これを行と勘違いして、見世物になって布施をもらってその日の糧を得る。人格の向上など二の次さんの次。仏教ではない。仏に、現世利益・自分の願望のみかなえたい、断ち物をする。人情としてわかりますが、あくまでこれも自己本位のこと。願望どんどん膨らんで知足を知らず。色の道。これやってると気質が瞬間沸騰機になります。

 いわゆる悟ったからどうだこうだってのも色。悟りの上に悟りを重ねて境地に安住できないです。悟った気になったらそれ惜しげもなく捨てる。でないと鼻持ちならぬ人になる。それ捨てさせるのが師。あれこれ手出すと、何一つ徹底しないです。自分の日常生活でも南伝は「行動のサティ(気付き)」を徹底させる。北伝「意識せずとも身体が動いてる」の違いくらい。

 各宗派の経典読んで、思考して比較優劣つけてるのは、仏教と何の関係もない。1つ事に徹底するのが一番早いのでは。高祖「一法を得て一法に通じる」と云います。自分の思惑を捨てきって、初めて仏法の一端を知ることがあります。
一つ事に徹底するのが早いと思われているひらさんは、多様の修行から出来ている。
興味深いことです。
お話ありがとうございます。
お身体ご自愛下さい。
>>[957]
他力とか本来の自己とかを知るまでの活動と、それからの活動は、大きく異なる感じがします。
せんでもよかったなーてことが沢山あります。
青い鳥を懸命に探してたら、家に居たみたいな。

そういう前段階の努力も、必要で無いことはないよね。自分が納得せなやってられないので。でもその努力が満ちないと次に行けないというわけではないと思います。
花は、自分を花と知らない、と先人は言ってました。
花が花として開くのが、報恩かなと私は思います。
私たちは自らの小さな考えで「自分とはこういうもんだ。自分らしさとはこのようなものだ」と決めつけがちですが、自らのそうした考えのおよばない所に実は潜在的な自分の種子がいっぱい、未来の自分のありようを開花させるものとして眠っているかもしれない。

日々の、今の一歩一歩の歩みが実は自分の頭では想像もできない未来の自分を開花させるかもしれない。それをあまりに閉じられた自分の思考で枠をはめ、制限してしまうことは、利口のつもりで自分を一番毀損している。
東横インホテルの創業者が内観にはまり内観の団体のパンフレットを部屋に置いてあった
今は経営者が変わったからないかも?
報恩感謝を誰にするかってことになると、
自分以外のすべて、ってことになると思います。

特定の誰かに、ってことはないと思います。

生かされていること、法(すべての物事のつながりみたいなもの)に感謝することになるんだろうと思います。

南無阿弥陀仏
>>[969]

あれは、自己流デタラメに近い内観。やってる内容がまっく違うよ。他人の懺悔録聞かさても効果はないよ。
>>[971]

ひらさんは知見が幅広く豊富ですねえ。
>>[972]

これは単に体験して知っただけの事。まだ精進しなければいけない事は山ほどあります。
新トピ作るなら、
初心者の為の南無阿弥陀仏とか浄土教がいいのかな?
道を歩くさんの933、
自分の阿弥陀くじの考察に似てますというかたぶん一緒、

阿弥陀くじのスタート地点に各人立ちます、
同時にスタートして、道に沿って歩いていくと会う人と会わない人が出てきます。
会ったり会わなかったりを繰り返して最終地点に着きます、

なんとなく龍樹菩薩の関係性の考察だったかなを思い出します。

心地覚心禅師(法燈国師)と一遍上人のこんな問答があったそうです。

一遍上人がある時、心地覚心禅師に参禅した時。禅師に見解(けんげ)を問われた上人は次の歌を提示しました。
  
『となふれば 仏もわれも なかりけり 南無阿弥陀仏の 声ばかりして』

それを受けた禅師は、「まだ徹底が足りない」と、突き返しまし、次の歌を提示しました。
  
『となふれば 仏もわれも なかりけり 南無阿弥陀仏 なむあみだ仏』


このやり取りで、心地覚心禅師は無門慧開禅師より印可を授けたのだそうです。

私にはあまりよくわかりませんが、禅師の歌の方がしっくりきます。

〇△□
>>[954]

そのとおりでもありますが、浄土真宗の信心の場合、二種深信ということが決定的に重要と思います。

いくら疑いがないとか、さまざまな表現で語っていても、二種深信から外れている信心というのは、しょせんは自分で思い込んでいる信に過ぎない、救いにつながらない信だと思うんですよね。
>>[979]

得手勝手で我流で「他力」の安心を得ようとすると、しばしば二種深信を見失っている例を見ますよね。。
>>[970]
一休さんの漫画で一休さんの最後の女性、お森さんが自分と世界との境目が無くなった。自己がどこまでも広がっていくようだ。と話す場面があります。

他力、本来の自己の体得とはこういうことなのでしょうか?
>>[982]

私のうる覚えより下のサイトをお勧めします。
浄土系との関連はないと思います。

https://ja.wikipedia.org/wiki/心地覚心

>>[982]

 法燈国師は、臨済の系統を継ぐお坊さんですが、入宋もしており中国仏教のあらかたの趨勢は知っていたと思います。、国内では宗派にとらわれることなく、道元・律宗、時宗・高野聖など様々な人々との交流がありました。一方、寺にとどまらず農家の下働き人夫に交じり修行をさらに深めた。
 こういった高僧が遷化した場合は、弟子たちによって年譜が作られるのですが、そのような交流があったことはほぼ意図的に禅修行中心に偏り削除されています。特定の宗派に言及した著作はないと記憶しています。語録は残っています。花園の教授に詳しい人はいると思います。
「阿弥陀仏と 心は西に空蝉(うつせみ)の もぬけ果てたる 声ぞ涼しき」
(法然上人)

浄土教においては、三昧発得ということが言われます。

法然上人の上記の歌はその心境を詠んだものですし、一遍上人の徹在の方の歌も、おそらくは三昧発得の心境を詠んだものかと思われます。
善導大師の般舟讃や観念法門には、三昧発得のための方法も記されています。

しかしながら、坐禅がいくら言葉で言っても参考にはなるかもしれないものの自分で徹底して坐らないと意味がないのと同様に、三昧発得も自分自身が念仏三昧にならないことには味わえないものであり、歌を読んでその心境を欣慕のは良いとしても、念仏三昧を実践していない限りはあまり意味がないことのように思います。

日に三万乃至六万回ぐらいの念仏を高度の集中力で称えて、はじめて三昧発得ということは達成できるものではないかと思います。

通常の凡夫がはたして三昧発得を得ることがどこまでできるのかも、極めて疑問なところです。
三昧発得という高度な宗教体験がなくても、聞法によって信心決定すれば平生業成の救いが得られると明らかにしたところに、親鸞聖人のありがたいところがあります。
しかしながら、これも、親鸞聖人が若い時に常行三昧を真剣に行った結果到達した境地であり、実際に三昧発得を得ようと真摯に努力したものでなければ、親鸞聖人のありがたさもわからないのかもしれません。

一遍上人の歌をよろこぶこと自体は良いのですが、真剣に未徹在を突破しようとするならば、自分自身がはたして日に一万遍以上の念仏も称えることができているのか、一遍上人のようにすべてを捨て果てて遊行することができるのかは、一応は自問してみる方が良いのではないかと思います。
一遍上人語録から。好きなので。

また云く、決定往生の信たらずとて、人ごとに嘆くは、いはれなき事なり。凡夫のこころには決定なし。決定は名号なり。しかれば決定往生の信たらずとも、口にまかせて称せば往生すべし。この故に往生は心によらず、名号によりて往生すべし。

決定の信をたてて往生すべしといはば、なお心品にかへるなり。わがこころを打ちすてて、一向に名号によりて往生すと意得れば、おのづから又決定の心はおこるなり。
>>[988]

おっしゃるとおりです。

三昧発得を体験して浄土の荘厳を目の当たりにすることはすごいと思いますが、善導大師も法然上人もそこに主眼を置いてはいないですね。

主眼はあくまで二種深信です。
 大叔父も朝夕と念仏やって休みはよく聞法に行っていた。終戦した後のから。当時は、舗装された道なんかなくて農道や砂利道。5~6キロ先の菩提寺の住職に質問してわからないことがあると、住職の紹介でその師匠筋の住職の聞法で、40~50キロ離れたとこまで自転車で行った。どんどん復興進んでからはバイク、軽トラで通った。あしかけ40年くらい。なかなかマネできることじゃないと思う。
まあでも、仏法僧に帰依しますだから、僧に帰依してもいいのでは?
無視堅皇。カルト男は来なくていい。
一遍上人語録から。好きなので。

また云く、世の人おもへらく、自力・他力を分別して、わが体をもたせて、われ他力にすがりて往生すべしと云々。この義しからず。自力他力は初門の事なり。自他の位を打ち捨て、ただ一念、仏になるを他力とはいふなり。
熊野権現の、信不信をいはず、有罪無罪を論ぜず、南無阿弥陀仏が往生するぞと示現し給ひし時より、法師は領解して、自力の我執を打ち捨てたり。

また云く、極楽はこれ空無我の浄土なるが故に、善導和尚は、畢竟悄遥離有無と曰へり。往生人を説くには、皆受自然虚無之身、無極之体といへり。

されば名号は青黄赤白の色にもあらず、長短方円の形にもあらず。有にもあらず無にもあらず。五味をもはなれたる故に、口にとなふれどもいかなる法味ともおぼえず。すべていかなるものとも思ひ量るべき法にもあらず。

これを無疑無慮といひ、十方の諸仏はこれを不可思議とは讃へ給へり。ただ声にまかせてとなふれば、無窮の生死をはなるる言語道断の法なり。

>>[683] あつし
2018年11月09日 09:06

> インドでつくられた経典を、大乗仏教の場合は経典としています。
>
> したがって、中国でつくられた経典は、偽経として、仏教上の権威ある聖典とは通常はみなさないことになります。


ならば経論釈も同じ事です。
龍樹や天親の経論釈ならともかく
曇鸞が、道綽が、善導が、源信が、法然が、親鸞が、一遍が何と書かれていようが
それだけでは根拠足り得ないって事ですよ。
カルト男さんは、考察ではなく仏道の実践をもって自らを豊かにするとかしないんですかねえ。

仏道をならうとは自己をならうということ

自分の仏道に立ち還ればいいのにと思う。
自分の仏道に立ち還らない論戦は、何もならない言葉遊びにしかならないでしょうし。
とか言いながら、我が身を振り返ると、過去にトラウマ残した嫌いな人々と、気持ちの上ででも仏道に昇華するようなことしないといつまでもトラウマが残りそうと気が付いて、困っていたらしているんですけどね。。自分自身も。
困っているんですよね。。。です。

変換失敗。
どうでもいいけどカルトって礼拝の事だよ。
言ってみれば南無阿弥陀仏は阿弥陀仏カルト、南無親鸞だと親鸞カルトってこと。
理屈はともかく自身を救えないのよね。この人ずっと。

さて新しいトピ作っておくか。

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