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仏教コミュの仏教来歴と将来

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コメント(996)

>>[955]

それって単にアプローチの違いやね。
"出来上がった"オカルトが何処にあるかと言う妄想の違いが
アプローチの違いとして出てるわけ。

この辺の仕組みの理解は三身を理解しないと無理かな。

仏教では真相は「空」であると説かれてるわけなので
「空」そのものにアプローチをかけても結果は同じで
違う事をやってそうで
求めてるものは同じ有りもしないオカルトなのよね。
>>[956]

えとね。
ごーるどまんさんって心理学も多少は舐めてみてはいるんでしょ。
だったらさ、言葉尻や言い回し、言葉のチョイスからでも
「言外の言」を読み取る方法があるって解らないかな。

自分は日本語って結構好きなのよね。
「NOと言えない日本人」なんて言われているけど
いやいや、それは違うねって思うのね。

日本人ってNOと言わずに断りの文句をいくつも用意していると思うのよね。
これが外人にはなかなかに理解しずらいところ。

言うたらステレオタイプの人間が
これを理解しずらいってところかな。

何ですけど、そう言う意味でごーるどまんさんって
自分の中ではかなり解りいい部類の人ですね。
>>[957]

おい? いい加減にバカは黙っていた方が、自己の価値を計られないで済む程度の事は覚えた方が良いと思うぞ?

「色即是空」でモノを騙るならば、基督も仏教も大槻教授も無い訳で、此処での会話も同様だ。

此処での会話に拘る阿呆に、何が「色即是空」だ?

「色」しか見えていない、色眼鏡人間が、一人前の言葉を騙るんじゃない!
>>[958]

私も日本語は、(自国の言語だからでは無く)世界一の言語だと思いますね。

日本語は「混合言語」の究極の進化形で、表現力は他を圧倒してます。

だからこその日本仏教の隆盛に繋がっているとも思っています。

ただね、其れは置いておいて「言外の言」を「意図」と理解しているのならば、意味は無いですよ?

「私の意図が悟り」ではないでしょう?

其れは言外の言では無く、意図を読んでいる「女子力」ですか?と言いたくなりますよ。

「悟り」は私の意図とは無関係ですよ。
>>[960]

> ただね、其れは置いておいて「言外の言」を「意図」と理解しているのならば、意味は無いですよ?

いえ、ありますよ。
意味がないと思うのは単語単語だけを追うからです。
全体的な文脈を読めば見えてくることは変わりますからね。

より多くの発言から文脈を拾い集めればその人のキャラも浮かび上がります。

単語としての「ありがとう。」だと感謝の意としか読み取れませんが
文脈を知り、キャラが解れば
その「ありがとう。」は感謝の意か社交辞令か皮肉かなども解るんですよ。
>>[961]

私は別に貴方の存在を否定している訳では無いですよ。

其の前提で会話しますが、私の「意図」を読んだからと言って、其処に何の意味が在るのでしょう?

貴方は「人間関係」を築きたくて此のコミュにいるのでしょうか?

仮にそうであれば、私の方が邪魔ものですねw

私の「人となり」が「悟り」に関係は在りません。

「不立文字」を発言した人間合わせて「意図」を読んで、何か意味が在りますか?
>>[962]

> 貴方は「人間関係」を築きたくて此のコミュにいるのでしょうか?

それはちょっと違うかな。
このコミュに絡んでいる理由は
ごーるどさんに限らず
自称仏教をやってると言う人たちの思考を知るためってところですかね。

欲しいのはそれぞれの思考の持ち主が持つ
その思考の拠り所としてるものを探るためとでも言いますか
明らかにしたいと言うべきかですかね。

ですから、このコミュ内に現れる誰に対しても
邪魔と言う事は思ったことはありません。

ただ、今はこの人の思考を掘り下げようとしてる時に
割とどうでもいい茶々が入りコメントが埋もれてしまう場合は
多少、今は邪魔だなと思う事はありますが
このタイミングで茶々入れるんだと言うのも
参考にはなるので、それもまたそれかなと。

そのそれぞれの思考を知ると言うのは
確かに現実社会においての「人間関係」を築く上で
互いの利害関係を知る行為に繋がり役に立つからなのですが
ちょっと違うと言うのは
このコミュ内で「人間関係」を築きたいと言う気持ちは毛頭ないってことです。

いや、だってそれはごーるどまんさんも
「貴方が何を言っても私は変わりませんよね?」と言ってるくらいだし
そう言ってる人に、こちらから何かしらの影響を与えようとか
変えてみようとか思うわけがないじゃないですか。

ごーるどまんさんに限らず、ここに来られる多くの方は
自分に対する賛同意見しか欲せず
そうじゃなきゃ悪態をついてくる人たちばかりなのですから。
それはもう物凄いくらいに解りやすくね。

自分にとってのこのコミュ内での活用は
そう言った自分にとって気持ちいい意見しか受け入れませんよ
自分の考えは曲げませんよと言う
狭心で強心で狂信な人たちの思考のサンプル集めと言うのが主軸かも知れませんね。

> 私の「人となり」が「悟り」に関係は在りません。

ごーるどまんさんのと言う話ではなく
仏の十力を見ても解るように衆生の種種(人となり)を知ることって
「悟り」の上でかなりなウエイトを占めてる事が解りますよ。
>>[963]

いや、イエス其の物では無くて、弟子の活動が「政治の臭い」なので、其処はチョット明確にしていただきたいです。

基督の足跡って、本当に残っていないんですよ。

全部、改善・改悪・捏造されまくっていて。

残っているのが「教え(教義)」ではなく、「マニュアル」なんですよね。

まぁ、逆に欧米人は、「マニュアル」の無い日本の「思想」を宗教では無いと言い切りますがw

私は基督其の者を知りませんので、否定の仕様が在りませんが、其れを「継承している」と宣う連中は唾棄すべきクズだと思っています。

あぁ、すいません、言い過ぎでした。

人間の修行の段階では必要なモノです。

問題は「組織」として、一定のルールを強いる愚かさを嗤っているだけです。
>>[964]

面白いです。

チョット面白いです。

相当にチョット面白いです。

うん、貴方が少し見えてきた気がします。

御迷惑でなければ、お付き合いを願います。

中々に楽しい会話って、出来ないので、期待しています。
どもです。

《しあわせ追求論からの離脱》 は、

何を意味しますか?

(此岸での) しあわせは無い。無理だ。

と悟ることでしょうか?

それとも、
実は、もうすでにしあわせと言えばしあわせなのだと。

これ以上のしあわせは、望むべくもない。

と、悟ることでしょうか?
>>[966]

期待されてもなんだかですが

まー
えにーくえすちょんぷりーず
ですかね。
>>[951]

どもです。書き込み、アンカーつけるのを忘れました。前後します。失礼あせあせ(飛び散る汗)あせあせ(飛び散る汗)
>>[967]

>《しあわせ追求論からの離脱》

事態が何を意図しているのかが判らないので、正しい答えは示せませんが、たとえ話として「囚人の悟り」はどうでしょう?

囚人は「肉体」は拘束されていますが、言ってしまえば肉体だけです。
>>[967]

んーと、どうでしょうね。
自分的には「これ以上のしあわせは、望むべくもない。」と捉えるより
単純に幸せを望む場合はそれ相応の苦も同時にやってくると受け取りましたね。

そもそもに幸せや苦を善悪としては語ってないし
禁則事項として設けてもないですよね。

なので、これ以上のしあわせ欲したければ
それ相応の苦労も覚悟しなさいよって事だと思います。

逆に苦で身を滅ぼしそうであれば
望みのランクを下げることにより苦が軽減されるって話だと思います。

>>[968]

>えにーくえすちょんぷりーず

あぁ・・・。

寺の鐘って、叩かないと音が出ないですよね?

私は別に此の世に「何かをしよう」という欲が無いので、私から何かのアクションを起こすのは難しいです。

ブッチャケ、疑問が在れば尋ねて欲しいです。

私は「答えられる範囲で答えよう」レベルで、コミュで遊んでいるだけです。
>>[971]

釈迦には、“しあわせ” という観念は持っていなかったんじゃないか?

という試論も立ちます。

仏教経典で、「しあわせ」に類する言葉を
ほとんど見ることはないんじゃないでしょうか?
>>[974]

ですね。
先の回答は「しあわせ」と言うより「楽」をベースに
代替で答えたというところです。

で、「幸せ」の「幸」の漢字の成り立ちからいくと
手枷をあらわした象形文字ですからね。

なんでも古代中国の王朝では王の絶対的権力で縛られてて
意にそぐわなければ身体の一部をもぎ取られたり惨殺されたとかで
それらに比べれば手枷で縛られるくらいはしあせだと言う事で
幸せの文字をあてられたとか。

まー現代の感覚を持ってすれば
全くもって「幸せ」でもなんでもないって話。

ただ、現代人の持つ感覚としての幸せ感は
「楽」が相当するのかなと思いまして答えました。

ついでに追記なのですが
逆に苦で身を滅ぼしそうであれば
望みのランクを下げることにより苦が軽減されるって話だと思います。

と書きましたが
これはあくまでも今ある苦が
何の望みに相応してるかを理解してでの話です。

大概のケースは何の望みが苦を生み出してるのかすら
理解してないと思います。

ダイレクトにそれを手放せば苦は消滅すると言う方程式ですが
それを探す行為がまた一苦労と言う感じですかね。

的外れなことをやってても苦を取り除くことは出来ないばかりか
余計に苦を重ねることとなるわけです。
>>[976]

あ、どもです。

日本語の、しあわせ の始まりは、
「仕合せ」ですよね。
ま、折り合いがつく、ということだと思うわけですが、
楽、というか、快、というか、言えば、
好き嫌い、と同じような、主観的な感情とほぼ同じで、 「幸・不幸」は、「善・悪」のような、
客観的価値ではない、とオイラは思うわけですが、それについての見解は、いかがですか?
>>[973]

確かに私もイエスの言葉を見て、同様の事を感じています。

ただ其れが余りにも何処にも基督教の教義に残っていないので、「其処まで綺麗サッパリと忘れられるのォ!?」という想いが拭えないだけです。

後継が腐って(組織に順応して)いくのは、仏教も同様にあらゆる組織で見られるものですが、それにしても・・、と言う感じです。

まぁ、「大悟之者」に至る人間が、確率的に考えて歴史上に数人と言う方が変なので、「継承」に成功したのが仏教だけなのかなぁ?と解釈していますが。

「魔女狩り」を見る限り「殺生」を禁じた仏教が残っただけなのかなぁ?と言う所なのですかね。
>>[977]

「幸・不幸」に関していえば
好き嫌い、と同じような、主観的な感情で、客観的価値ではないと言うのは
基本的には同意しますかね。

同意する点は自分が思う「幸・不幸」と他人が思う「幸・不幸」は
必ずしも一致しないからと言うのが理由です。

ただ、難しいのは一般的にも「運・不運」
運がいい人、悪い人って確実に存在しますよね。
これを「幸・不幸」に置き換えると必ずしも
主観的な感情だけでは処理しきれないなと思う事もあるわけです。

願い通りに得られた幸福や望まぬ不幸
予期せぬ幸福に覚悟していた不幸など。

そこでなんですが
最近は俗にいう運のいい人、悪い人、
そして常識的基準と自分自身の普段の判断行動を
見比べるようにしてるんです。

そしたら同じシチュエーション同じ岐路に立った時の
判断行動の違いが見えて来て
なるほどと思えるくらいに興味深いと言うかなんというかです。

そもそもに運は運ぶと書きますが
運は他者から与えられると言うものでも
神がかった偶然性のものではなく
自らの都度の選択により引き寄せて発生させてる事が多いのではないかと。

そう考えると「幸・不幸」は主観的な感情のみならず
「善・悪」に似た「好手・悪手」と言った側面もあるのかなと思ったりします。
>>[979]

「好手・悪手」って、ゲーム用語の、ですか?
>>[979]

《自らの都度の選択により引き寄せて発生させてる事が多い・・・》

堅皇さんの個人的な経験もしくは、思考傾向なのでしょうけれど、

それを客観性の根拠とするのには、かなり厳しいものがありそうです。

運 の語法としては、縁 とか タイミング といった
言葉と共通の使われ方をすると思いますが、
「良運・悪運」という語法もありますから、
「幸・不幸」とは、ちょっとニュアンスの違う観念かな?ともオイラは思います。

それをふまえて、運の良さ悪さを、他人と比べることの意味は、オイラには、まったくわかりませんが、
「幸・不幸」や「運・不運」を、良し悪しや善悪と直結させない、混同しないということが肝要だと、オイラは思います。

しあわせのほうがいい。
良運がいい。

くらいの控えめな価値判断ならいいかも、
ですが、

しあわせでなければだめだ。
運が良くなければだめだ。

というゴリゴリの定言的要請は、非常に危険だと思います。

それらの観念と「存在」が、結びついてくるのです。

to be continued・・・

>>[982]

> しあわせでなければだめだ。
> 運が良くなければだめだ。

他の人がどう思うかは知りませんが
個人的には全くそうは思いません。

と言うのも自分の中での好き嫌いの価値判断で
幸せへの道を選ばずに不幸への道を選ぶ場合がありますからね。

それで当然ながら不幸が訪れたところで
「やっぱりか」とは思うものの
その選択は間違いだったと後悔はしませんし
覚悟を持って不幸への道を選ぶ人を見ても
それがだめだとは思いはしません。

但し、反省や後悔をする不幸はあります。
それは不用意に起きてしまった不幸。
予期せぬ上で起きてしまった不幸です。

要するに原因不明で起きてしまった事柄です。
これは早急に原因を追究しないと
次にまた同様の不幸が訪れてしまう可能性が高いからで
自分の中での価値判断はこれが本当の不幸と言える不幸だと思うからです。

逆にと言うか同様にと言うべきか
不意に舞い込んできた幸せ。
何の労も費やさずに突然降って湧いたような幸せ。

その場、嬉しいと言えば嬉しいのだけど
一度冷静になると、多少の気持ち悪さが残るのです。
何がどうしてこうなったと。

その理由が解らない間はどうもしっくる来ることはなく
手放しで喜べることではないのですよ。

そう言う意味では、自分の中でのしあわせの価値判断は
知るか知らないかに集約されてるところがあります。

基本リアリストですから。
>>[984]

>こんなことをイエスが説いた筈はないと思うので、カトリックによる法解釈の暴走ではないでしょうか

全く持って同感です。

結局、人の世は人の世のルールに従って運営されるので、其の結論は「結局」人の「此の世のルール」に収束されざるを得ないのですよね。

其の中で「不殺生」は、やはり金字塔だなぁ、と思います。

私は全く守っていませんが、其の「思想が存在する」事自体が凄いですよね。
>>[983]

横からお邪魔します。

>幸せへの道を選ばずに不幸への道を選ぶ場合がありますからね

凄く共感します。

何が「幸せ」かは、「其の人の内」にしかありませんから。

・・あぁ・・、DV好きな方は、出来れば救済したいですが・・・。

ただまぁ、ブッチャケ、此の会話って「比較論」ですよね?

・・何だろう?

当事者は兎も角、もうちょっと会話の仕様が在る様な気がします。

あ、此れ、堅皇さんに言っているのではないですよ!!!!!

此処は強調します!!!!

あ、私にはどの様な暴論でも雑言でも一切の遠慮無用です。

むしろ、御馳走w
>>[983]

《不幸への道を選ぶ》のは、
異常心理だと思います。

オイラは、そこは、病理として(改善すべきものとして)見たいと思います。

確かに、人間の「自由」には、「愚行や愚考の自由」もあるとは思います。

しかし、それが過度の愚行である場合、他者が、
厚意として、あるいはパターナリズムとして、その愚行を止めさせる自由と、どちらが優先するのか?という問題があると思います。

極論としては、固い意思による自死を止める根拠を、周囲の人間は持ちうるのか?
ということがあります。

主観優先ならば、自己責任の論理でしょうし、
客観優先ならば、社会に普遍的な倫理規定としての 約束事を作り、それを遵守すべきだ、という論理になるでしょう。

さて、どちらが、ひとのしあわせの原理として
ふさわしいのでしょうか?


>>[986]

> 何が「幸せ」かは、「其の人の内」にしかありませんから。

> ただまぁ、ブッチャケ、此の会話って「比較論」ですよね?

はい、比較論です。

この「幸せへの道を選ばずに不幸への道を選ぶ」と言うのは
厳密に言えば幸と不幸が混載している状況で
その比重、比較に置いて不幸の方がより大きい方を選ぶと言う話なんです。

言うたら僅かの「楽」の為に多大の「苦」を背負いこむって話。

この僅かの「楽」を捨てたくない為に「苦」をも厭わず
「苦」を厭わずいられるのは自分の中で通したい「楽」があるから。

> あ、私にはどの様な暴論でも雑言でも一切の遠慮無用です。

要するにこれはあれでしょ。

相手が暴論、雑言で罵倒してくれれば
悪者が相手にあるように見えるからって話ですよね。
>>[987]

異常心理は異常心理だと思いますよ。

ただこれ事の大小はあれマジョリティーな心理だと思います。
大であれば凶悪な犯罪へと繋がる危惧はありますが
小であればほぼ誰しもが抱く感情だと思いますから。

> さて、どちらが、ひとのしあわせの原理として
> ふさわしいのでしょうか?

どちらがと言うにはどちらか一方を立てるのではなく並立ではないかな。
>>[989]

どもです。

両立すれば理想かも。

でも現実には、2価値が競合したとき、選択を迫られる場合がある。(無いとは言えない)

その時の選択の基準をどこに頼るのか?
という倫理の最前線の問題が残るわけです。

万人が納得できる、共通の倫理的基準があるのかどうか?

オイラは、それは無いと思っているのです。

ギリギリまで悩んだ末に、自分の身体が勝手に反応するように、答えを出すだろう・・・という期待。

身体感覚的な、反射的な・・・
直観よりも、さらにアプリオリな反応が、
選択の根拠であり、原理だと。

とりあえず、自分自身には、そう言い聞かせているのです。
>>[990]

> 両立すれば理想かも。
>
> でも現実には、2価値が競合したとき、選択を迫られる場合がある。(無いとは言えない)
>
> ・・・
>
> 万人が納得できる、共通の倫理的基準があるのかどうか?
>
> オイラは、それは無いと思っているのです。

普通に考えて完全完璧なる両立なんて無いでしょうね。

そもそもに釈迦は「一切皆苦」とも言ってるわけですよね。
〈生によりて老死があり、〉と更にその後に
〈愁・悲・苦・憂・悩がある。かくのごときがこの苦の集積のよってなれるところである。〉
と言ってるわけですよね。

だったら愁・悲・苦・憂・悩から避けて通れる道なんか
有ろうはずが無いって事じゃないですかね。

それが有ると思ってる人が
自分は理に反した狭心に強心した狂信者なんだと思ってますけどね。

世法的にもそういう方々の思考のことを
「行きすぎた正義感」とか「間違った正義感」とも言うではないですか。


と同時にです。
「両立すれば理想かも。」と言うのもまた真実ではある。

となると、考えられるのは交わらない2価値の間を取るしかないではないですか。

仏教は常に中の教え中道を指し示そうとしています。

ならば主観優先、客観優先のそのどちらにも行きすぎず偏らず
その中間となる痛み分けの折衷案を提示していけば宜しいのかと。
>>[988]

幸・不幸は主観ですからねぇ。

ブッチャケ、私はこういった話は、テクニックの範疇の問題だと思うので、心理学の本でも読んでれば良いのではと思うのですよね。

「主観」は自分の主人が自分であれば、どうとでもなる話ですからねぇ。

まぁ、其れが困難だから「幸福論」と言うモノがあるのですが・・。

暴論・雑言に関しては、私には効力が無いだけでなく、対手の心理が丸見えになるので、ある意味「深い会話」が出来ますし、面白いのですよ。

観る人がどう思うかは、あまり興味が無いですね。

大体、私自身が平気で暴言を使いますしw

私はそもそも他者の主観での評価に影響される事がないので、大事なのは「何を言っているか」であって、「誰が(心理状態も含めて)言っているか」には興味が無いのですよ。
>>[992]

なるほど、ごーるどまんさんは
心理学と宗教は別物とお考えの様子ですね。
自分は宗教に使われる儀礼、儀式、用具などを見ると
心理学に通じるテクニックが散りばめられてると思いますけどね。

言うたらあれですよ
現代だと下手な信仰に嵌るよりか心理学の本でも読んだ方数段マシと思うくらいです。
>>[993]

いや、別では無いですよ。

ただ、其のレベルは阿弥陀経の様に、「行動療法」が主眼の段階ですので、宗教でも心理学でもどちらでも変わらない、と言う意味位の話です。

と言うか、「言語化」出来るレベルと言った方が良いですかね。

心理学も宗教も不可分ですが、怪しげな教祖の存在確率が低い分、心理学の方が安全だと私は思います。

ま、心理療法士を名乗る連中にも、色々いますがねww

手を出しまくるのもいますからwwww
>>[994]

> ま、心理療法士を名乗る連中にも、色々いますがねww

そりゃそうだと言うか心理療法そのものが
まだまだ確立されてないジャンルだからね。

加えて言えばそれは医療全般にも言えることなのだが。

ただ心理療法や医療と言うものは
まだまだ不確定、不完全であると言う
前提に立っているものなので
まだ安心と呼べるものではあんだけどね。

不具合が起きた事例が重なれば今ある学説は覆せますから
まだ自浄作用が働いている業界とはいえるので。

対する宗教界はもう手に負えない。
事例よりも宗派としての権威と沽券を守ろうとしてるのは
他の業界の比じゃないからね。

数百年前からのカビの生えた迷信まみれの教えに
なんでしがみ付いてるかねーと思う。
>>[995]

>まだ自浄作用が働いている業界とはいえるので

まぁ、此処ですねぇ。

心理学の本だって学説だって、余りに荒唐無稽なモノは他の学者や研究者から否定される可能性が在ります。

しかし「宗教」となると、否定する事自体が困難ですからね。

でもまぁ、私は「教団」自体に興味は無いですが、先人の残して下さった「知恵」は大事だと思っています。

私のような人間が、何代先に生まれるか判らない人間の為に、一生懸命残したオセロやファミコンの様なゲームみたいなモノですからw

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