ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

ホーム > コミュニティ > 学問、研究 > 仏教 > トピック一覧 > 100分de名著『正法眼蔵』

仏教コミュの100分de名著『正法眼蔵』

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

コミュ内全体

NHKのEテレで、『100分de名著 正法眼蔵』が始まります。講師はひろさちやさんという方です。

第1回 11月7日 午後10:25〜10:50 11月9日午後00:00〜00:25再放送
「心身脱落」とは何か?

第2回 11月14日 午後10:25〜10:50 11月16日午後00:00〜00:25再放送
迷いと悟りは一体である

第3回 11月21日 午後10:25〜10:50 11月23日午後00:00〜00:25再放送
全宇宙が仏性である

第4回 11月28日 午後10:25〜10:50 11月30日午後00:00〜00:25再放送
すべての行為が修行である

コメント(100)

>>[58]、ありがとうございます。
おっしゃるように、扇をあおいでいる宝徹禅師の所に進み出た僧の言う風性なる言葉は、単にこの世の風性を指しているばかりでなく、この僧自身、もっと深い、悟りのようなものを喩えていたのだと受け取れますね。
悟りは常住、あまねく行き渡らぬ所はない。それなのに和尚よ、なぜなおも扇であおぐ必要があろうか。
「お前は悟りは常住で、それの行き渡らない所はないという道理を本当にはわかっていないな」
いったいどういう意味だとおっしゃるのでしょう。
宝徹禅師はただゆらゆらと扇をあおぐばかりだった。

その姿を見て、この僧ははっきりと了解し、宝徹禅師を礼拝していますね。
この世のどこであろうと悟りのあまねく行き渡らない所はない。しかし、かといって何もしないで悟りにあずかれると思うなら、それは道理の履き違えだ。
あまねく行き渡った悟りを自らに向けてあおぎもたらす仏行がそこに必要となるのである。
南無阿弥陀仏には、往相と還相と、2つが揃っていると聞きます。
衆生が往生する相と、如来が救い取る相です。
これで往相と還相の円満なんですが、だからと言って何もせんでいいわけじゃない。
南無阿弥陀仏と称名して初めて円満なわけです。

空海さんは三密を加持するとき衆生と仏と我が即応すると言います。
衆生と仏と我はそもそも結びついていて、それが曼荼羅なわけです。
だから三密を加持するとき衆生と仏と我が即応します。
だから即身成仏がある。

道元さんの修証一如も、同じことを言っているように思います。

そしてもちろん、原始仏教も同じように思います。
原始仏教は往相の説明が圧倒的に多く、還相の説明が少ないですが、
釈尊は「私ほど幸せを求めている人間はいないのだよ」
などといった、還相の説明もたくさんしてくれています。


苦しみを見て、無常を見て、無我なるを見るとき、衆生が涅槃に至る往相があります。
そこから還って、姿勢を正して、口に真実語をたもち、心に感謝と勇気と優しさを持つとき、この世に仏様が現れます。
そのとき、<私>は成仏します。
それで円満かと思います。
称うれば 仏も我もなかりけり 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

往相と還相なんて大げさな。
称名は必要だとしても同時同相よ。

扇いだ時に風。扇いだから風が起きるんでなくて、同時同相で一如。

もちろん分けても一如。分けなくても円満。
称うれば 仏も我もなかりけり 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

私はこの歌を昔、無を歌った歌と思っていました。
今は少し、違って感じます。

「救われたい。救ってください」
という衆生と
「必ず救うから安心しなさい」
という如来。
「すでに救われたよ」
という如来と、
「ありがとうございます、救われました」
という衆生。

その一如を感じます。
たぶんというか、勝手に思うのは、
スターは、煩悩のほうからたどって行って、仏に遭ったんでないかなと思う。
白隠禅師は子どもの時に聞いた地獄の話しが恐ろしくて、それで懸命に修行したので、地獄大菩薩とよく書いた。

俺らは、師匠から最初に仏を見せられたところが、ちと違う。

法然の門下は浄土宗と真宗に分かれるけれど、親鸞は徹底して自己の煩悩を見て、その上で救われるんだが、煩悩の超越ってのがあるんだと思う。

私が知ってる浄土宗は、煩悩とかあろうがなかろうがって感じだし、往相還相ってテーマも強調されない。真宗はそういうの喧しいでしょ。親鸞以外のお弟子たちは、法然に仏を見て、そのまま安心しちゃったんでないかと思うんだよ。
孫弟子の一遍上人は、信不信にかかわらずとか言ってるけど、本人は全然疑ってないのね。その先どうとかこの上どうとか自分の出来不出来がどうとか、少しも心配が無い。
>>[60]

はい、その通り。

一概に大乗が良いとも思って居ません。

まぁ信心ですから、どれがいいと言うものでも無いと思うのですが
我々は文化体質として、こういう文化に育っていると言うことです。

あと、この部分が道元の自分への回答でもあるようです。

あの人が出家するのは、なんでわざわざ出家して修行
しないといけないんのだろう?ってのが疑問だったようです。


まぁ小乗なら仕方ないにしても、日本に
育って悟らないといけないなんて思う
ものかな?ってのは正直に思うところ。

悟りを育てようなら判る文化だと思うけどね。
>>[64]

時間軸の上で、これから起こる救いと、すでに起きた救いの二つがあるように見えることで、
この二つを矛盾対立することと考える人もいますが、
実はこの二つは時間軸の上で起きているのではなく、

今現在の私の身において、表面的には苦しみを抱え、これから救われるべきものでありながら、
その根底においては、すでにあるがままで救われており何の過不足におびえることもない。
人は自らの意識において、この二つの自己のありようを自在に往き来できる。自在に昇降できる。
>>[68]

はい、ですから昇り向けコースと下り向けコースが
起点の違いによって起きる訳ですね。
念仏して悟りを開けとは言わないのは
たぶんパオセヤドーとは起点が違う
話なんだろうなって思わずに
坐禅しても仕方ないですw

けどパオセヤドーみたいな起点で
坐禅する人も多い。
自分の起点に合ったのにするのがよいと
思いますw
>>[68]

そうですね。
おっしゃる通り、少なくとも心の世界においては、過去も未来も現在の中にしかありません。
心の中には、現在の心に思い起こされるところの過去しかなく、
現在の心の思いめぐらされるばかりの未来しかありません。
その他にはありません。

人の現在を救うとは、現在の心に思い起こされるところの過去を救い、
現在の心の思いめぐらされるばかりの未来を救うということでしょう。

残念で無念で憎たらしくて悔しいばかりに思い起こされる過去を、
現在この瞬間において、しかしあの過去があってこそ今の救いに出会えたと思う。

絶望的で不安で無念で憎たらしくて悔しいばかりに思いめぐらされる未来を、
現在この瞬間において、でも今、自分の心を変えることによって素晴らしい未来に変えて行けると確信する。

心の世界の過去・現在・未来を救うとは、このようにあるのだと思います。

「救われたい。救ってください」
という衆生と
「必ず救うから安心しなさい」
という如来。
「すでに救われたよ」
という如来と、
「ありがとうございます、救われました」
という衆生。

人が阿弥陀如来を心から信じて称名念仏するとき、苦しみ、不安、無念さや憎たらしさ、悔しさは、空なる世界に必ず消えていきます。
称名念仏しようと思ったとき、すでに救われています。
そして、阿弥陀如来を心から信じて称名念仏する人には、前向きに生きる、幸せな人生が現れます。
その人の心は即座に浄土に住んで、この世を生きていきます。

これが救われる往相と、救いの世界から戻ってこの世を生きる還相かと思います。

人が誰かにやさしくしたり、強い気持ちで歩いて行けたり、何かを信じて安心できるのは、それはそのまま、その人が幸せだからと思います。
幸せだから、他人にもやさしくできる。
幸せだから、ちょっとやそっとのことではくじけない。
幸せだから、前向きに生きるのだと思います。

このように還相は回向となるのだと思います。


往生の相あって、回向の相がある。
択滅の涅槃あって、択法の方便がある。
寂静の静止を知る仏は、無常にあって融通無碍。
方便法身の如来は、私たちのこの世の幸せな暮らしの中に現生します。

色即是空 空即是色。
一枚きりの輪廻と涅槃。
修は証で、証は修。


私は、このように思います。
>>[69]

原始仏教においては、当時の社会状況のせいもあって、この世から脱すること、この世を捨てることが強調された。
その後、理論的反省と新たな文脈を獲得するに至った大乗においては、この世を脱することの強調に終わらないで、この世を脱した魂(仏教に似つかわしくない表現で恐縮です)が再びこの世を慈悲をもって抱きしめるべきことが確認された。
しかしこの正反対を向いているように見える動きは決して分裂していてはならない。
しっかりと統合されていてこそ、二つの動きはともに豊かで清らかなものとなる。
>>[72]

はい常々そう思っているのですよ。

けど、逆さ向きの話なんですよねw

三界の法に非ずの陣営は三界を少し学べば
いいのにねと思いますけどね。

案外と視座が高いのか低いのか判らない所が、ありますw
現成公安を少し読まれただけでも
三界側からアプローチするのとは
別の話だと判るだけ小乗のほうが
見込みがあります。

いきなり三界の法に非ずと言われて
はいそうですか?って人は三界の
教えって何よ?とも考えもしない。

まぁ最初から混ぜて行けとは言わない
にせよ、坊さんやるわけじゃ無ければ
両方の起点が揃ったほうがいいと
前々から思っていました。

けど中々難しいようですw
>>[71]

阿弥陀如来から救われるか救われないかということや、
阿弥陀如来からすでに救われているか救われていないかということを超えて、
すなわち、救う者としての阿弥陀如来と救われる者としての衆生ということを超えて、

阿弥陀如来とは衆生であった、
衆生とは阿弥陀如来であった、

という所に立つことはありましょうか。
それとも最後まで阿弥陀如来と衆生との峻別は消えないままでしょうか。
阿弥陀如来と私との峻別は消えないままでしょうか。
>>[76]

ご質問ありがとうございます。

阿弥陀如来とは衆生であった、
衆生とは阿弥陀如来であった、
という地平に立つと、そこには巨大な曼陀羅が現れて、その真ん中に大日如来が見えてくると思います。

即身成仏の一歩手前くらいのように思います。
衆生は、もちろん阿弥陀如来だけれど、
衆生は、もちろん阿弥陀如来では無い。

この二つが同時に成り立ってるから、仏教なんだろうと思います。
同時。あるときA、あるときBでなくてね。
不生不死たる阿弥陀如来がその無量のありようから自ら離れて、心と体をつかみ取り自らを限定する時、
生死ある輪廻の中の衆生が立ち現れる。
>>[79]

こうも言えると思います。

私たちがこの心と体を自分だと思った瞬間、不生不死たる阿弥陀如来がこの世の方便法身の仏としてすでにたち現れている。
仏教ではもとより聞思修ということが大事にされているけれど、ブッダの言われたことをよく聞いて、その内容を自らの心でよく考えて、またその教えに従って実践するというこの三つのことが、
道元に向き合う時はおのずから、道元の言われたこと、書いたことをよく聞き、よく読んで、
その内容について自らの心でよく考えてみて、
自らの身において実践する
という形で再現されることを感じないではいられない。

これは図らずも道元さんが独特の形で再現することになった聞思修の一つの形ですね(いや、振り返れば、すべての祖師がそれぞれの聞思修を再現させているとも言えますね)。
道元さん自身、師の言葉を常識通りに受け取らなかったり、中国から入ってきた経典論書を漢文読解の規則通りに全然読まず、むしろ規則を破壊した読み方をしているのは、
お行儀よく、正確とされる受け取り方をするんではなく、
師の言葉や経典論書も所詮は悟りのための材料、小道具に過ぎないのだから、自らの今の境地に亀裂を入れて、まさに新しい境地を切り開くためなら、それらの小道具をきっかけとしてどう自ら工夫しようと、工夫のほうが優先されるし、境地開拓のほうが優先される。
したがってこの道元さんに倣おうとする者が常識通り、規則通りの聞思修を行うなら、それは道元さんの精華を見あやまった、道元さんから常識・規則の側への退行に他ならない。

道元さんの言葉さえ、悟りのための一つの小道具に過ぎないと心得て、自身の境地に亀裂を入れることを優先せよ。
>>[83]

と言うか、そういう文化体質は禅一般に
言えることです。

始祖に逢うては始祖を殺し。なんて言うんですよw
この本、近くの本屋にあったから立ち読みしたんですけど。
「身心脱落」とは何か?について読んでみたらば。

道元さんの悟りは、参禅はすべからく身心脱落のため、とのことで。

要するに、我を落として無我に入る、ということらしく。
道元さん悟った時は、他の方への警策を打つ音で、
それは五蓋である睡眠欲という「我」を落とさなかったら、ということで。

そして、そういう我を落とした時が「無我」と、この本では書いてありまして。

ああ、なるほど!と久しぶりになったので書き込んで見ました。
ずっと無我ってのがピンときてなかったんですよ。そういうことなのねようやく分かったスッキリスッキリ。
>>[85]
いや、その本の解説は眉唾もんと思うな。
>>[86]

マジスカ!?!?せっかくなるほど!ってなったのに。
じゃ、無我ってなんじゃろー。いまいち分からん感じです。
無我
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%88%91

これの「我がない」ってのがピンとこないんですよね。。
「(物質的なそれは)我ではない」は、多分わかると思います。
>>[88]
何かを、無我と呼んだんだよ。
他に適当な言葉がなかったんで。

禅宗では、手を付ける以前のところ、みたいな表現するでしょ?
そういうの含めて、いろんな表現が全部なりたつ所なんだろうと思う。

アプローチとしては、やっぱり、仏道を学ぶとは自己を学ぶことなり、自己を学ぶとは自己を忘ずることなり、ってことで、自己のああだこうだをどうこうしてたら、自己を扱うことになって、忘ずることが難しい。

なんて思うのよね。
>>[89]

あう。お見事に切られてしまった気分。
痛くないけど。笑

あーでも最近、現成公案を忘れた感じになってますね。いかんいかん。
>>[90]

まぁさ道理も少しずつ見えてくるから
心配いらんよ。

脱落しちゃるぅぅでも悟りを開くぜでも何でも
いいから座った奴の勝ちw

けどそういうんだと、どこかで苦しくなるとは
思うけどね。

まぁ最初は、どこかオカシイってw
>>[91]

自分は初期から思うままに座っているのですよ。
多分、自分にはこれが合ってる。w
『七十五巻本 正法眼蔵』「三界唯心」を読む

釈迦大師はおっしゃった。「三界すべてはただ心そのものなのだ。心の他に何かがあるわけではない。
心、仏、衆生(私たち)―――この三者に何か違いがあるわけではない」と。
一つの言葉が表にあらわれるということは、一代の全力がまさにそこには現れている。
一切の力がすべて生き生きと込められてこの言葉がある。
そのような全力の背景が何気ない言語行為にはあらわれるのだ。
したがって、今ここに如来が言われているところの「三界唯心」とは、何気ない言葉のように見えるとしても、如来がその全力をもってことごとくを現成させたものに他ならないと心して受けとめるべきである。
如来の一代いっさいがこの如来の一つの言葉全体に投入されている。
ここで三界とは、ああだこうだ限定されたり定義されたりする限られた対象を指すのではない。あらゆる一切を指して三界という言葉を用いているのだ。
だから、これは決して、心がとらえる三界と心そのものを等しいととらえるような、二つのものを立てて同じだと認識するといった思い込みで理解してはならない。
なぜなら、八面すべてどこまで行っても三界があるばかりだからである。
いやいやこれだけは三界の定義から外れるであろうなどという小賢しさは粉砕され尽くす。
内外中の一切の空間を含み、初中後の一切の時間を含んで三界から外されるものはない。
三界とはあくまでも三界自身が見る通りのものだ。
三界から例えば自分の心をはずした上で、その心がとらえる三界なんてゆうものを考えようものなら、すでに三界を正しくとらえきれないことは明らかだ。
三界を見るものはあくまで三界自身であり、
もともとの姿も今ある姿も三界自身が見るばかりだ。
だから釈迦大師はおっしゃっている。
「三界を見るのに三界ほどの適任は無い」と。
>「三界すべてはただ心そのものなのだ。心の他に何かがあるわけではない。心、仏、衆生(私たち)―――この三者に何か違いがあるわけではない」


世界はすべて私の心でもある。世界とは私の心だ。それは仏そのものだし、生きとし生けるものすべてが仏でもある。
世界はわが心であり、それは仏の当体であり、あらゆる生き物がまさに仏と一致している。
100分de名著、維摩教が始まりました。
名前くらいしか知りませんでしたが、
面白そうですね。
>>[96]

初回だったかなあ。視ましたよ。
やっぱり維摩経は面白いですねえ。
『100分de名著 維摩経』のトピック、立てました。どうぞご利用下さい。
『正法眼蔵』はほんと難しい。「仏性」の巻の狗子仏性のところなんか、何を言っているのか、どうもよくわからない。

逍州大師にひとりの僧が問う。犬にも人間と同じように仏性が有りましょうか。
道元は言う。これは犬に仏性が有るか無いかを問うているわけではない、と。問いの心魂をしっかりととらえなければならない。
この問いは実は、鉄漢もなお学道すべきかを問うているのである、と。
逍州は答えた。無いと。
逍州がこう言ったからこそ、そこに学びの方路が見えてくると道元は言う。

以下、よくわからない。
「山水経」の巻から東山水上行のところ

雲門大師は「東山、水上を行く」と言った。東山とは諸々の山であり、それらが水上を移動して、須弥山など九山が出来上がったのである。
今の中国・大宋国にはいい加減な連中がはびこっていて、ちょっとばかり真実を言ったところで少しも心が動かない。
彼らはこの東山水上行の話などは理解できないからこそ仏祖の語話なのだなどとうそぶいている。
思惟にかかわる語話は仏祖の禅話ではないとか、理解できない話こそ朕兆未萌以前の大悟だなどとうそぶいている。
こんな連中はいまだ正師に出会ったこともなく、仏法を学ぶ眼も持ってはいないのだ。
哀れにも彼らは思惟とは言語であることがわかっていない。言語がどこまでも思惟をつらぬいているのだということを知らない。
かつて私は宋にいた頃、彼らを笑ったものだが、彼らには何ら返す言葉が無かった。
・・・・・・

ログインすると、残り62件のコメントが見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

仏教 更新情報

仏教のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング

mixiチケット決済