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100分de名著『正法眼蔵』

100分de名著『正法眼蔵』 2016年11月07日 16:14
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NHKのEテレで、『100分de名著 正法眼蔵』が始まります。講師はひろさちやさんという方です。

第1回 11月7日 午後10:25〜10:50 11月9日午後00:00〜00:25再放送
「心身脱落」とは何か?

第2回 11月14日 午後10:25〜10:50 11月16日午後00:00〜00:25再放送
迷いと悟りは一体である

第3回 11月21日 午後10:25〜10:50 11月23日午後00:00〜00:25再放送
全宇宙が仏性である

第4回 11月28日 午後10:25〜10:50 11月30日午後00:00〜00:25再放送
すべての行為が修行である

コメント(93件)

[54]2016年11月10日 15:34
>>[53]

少なくとも初心者が混ぜると危険でしょ?

道元にしても法然にしても勉強するなと言う
のは、ひとつには、このあたりです。
[55]2016年11月10日 15:50
こういう理屈なので禅や浄土は悟りに向かう事は
さほど重視してないんです。

見性とか言うと仰々しいですけど、その程度は
せいぜい数年の話。

問題と言うか実質は、そこからなんです。
[56]2016年11月10日 16:07
>>[51]

人は、安心を見て不安を感じ、不安を見て安心を感じていると思う。
不安にあって、自らの不安を嘆くばかりで自分が見ている安心に気付かず、
安心にあって、自らの安心に酔うばかりで自分が見ている不安に気付かない。

安心も不安も見ないとき、安心・不安の円満がある。
安心・不安の円満見ているとき、本当は何も見ていない。
道元さん言っているのは、そんなところかと思うよ。

仏は輪廻に涅槃を見る。
衆生は涅槃を輪廻と見る。
仏は色を空と見て、衆生は空を色と見る。
往生の相あって、回向の相ある。
択滅の涅槃あって、択法の方便ある。
寂静の静止を知る仏は、だからこそ無常にあって融通無碍の方便法身だ。

往きと還りがあって円満と思う。
[57]2016年11月10日 16:18
>>[56] スター
そりゃ行きと帰りがあって円満だけど、
元から円満なんだよ。

ってか、ずっと前にもそんな会話があったげな笑
[58]2016年11月10日 16:52
>>[52]


「風性常住、無処不周」
というのは、仏性の隠喩かと思います。

弟子が聞く。
「仏性は常住で往き至らぬところなどないと言います。
ならばなぜ私たちは修行などというものをするのでしょうか?」
師は答える。
「お前は仏性の常住を知ってはいても、
仏性の往き至らぬところなどないということを知らないのだ」
弟子は更に聞く
「仏性の往き至らぬところなどないというのはどういうことですか?」
師は黙って、修行をしている姿を見せる。

このような隠喩のように思います。

このような隠喩を示して道元さんは言います。

仏性が常住であれば修行など要らないし、修行しない中でも仏性の中に安住することになると言う人は常住ということを知らず、仏性というものも知らないのだ。
仏性は常住だからこそ、仏教の教えは大地を黄金の浄土に変え、世界を豊かで甘美な食物にも変えてしまうのだ。


これもまた、色即是空 空即是色の道理と言えますね。
凡夫の見ている全ては、実はそのままに空であり諸法実相そのままです。
しかしだからと言って、何もせず、修行もせず、風もあおがずにいるならば、全てはそのままで何も変わることなどありません。
凡夫の見ている全てが実はそのままに空であり諸法実相そのままであるからこそ、仏教の教えは、私たちが生きるこのままの世界を即座に浄土にも変えて見せます。

修証が一如であるというのは、このような論理のように思います。
[59]2016年11月10日 17:00
>>[57]

元から円満だからこそ、元から円満であったと気付くことがある。
元から円満であったと気付くことがあるからこそ、凡夫は仏にもなる。

元から自由だったと分かったら、幸せに生きりゃあええのよ。
元から自由だったと分かって、元に戻って元と変わらぬ不自由で苦しい生活なんぞすることはない。

元から修行なんか要らんかったと知るから、ありがたく修行して生きるんよ。
だから修は証で、証は修なんだと思うよ。

宝徹禅師が言っているのも、道元さん言っているのも、そういうことと思う。
[60]2016年11月10日 17:18
>>[54]

南伝上座仏教は、平常の論理の枠内で教えられるところに従えば、とても親切・安全に仏道を歩ませてもらえるような趣がありますが、
確かに大乗の教えは、とても豊かで優しい側面がありながら、解釈の多義性に常に開かれており、下手するととんでもなく独り善がりの解釈に陥って、驕慢を助長しかねない危なさも持っているように思えますね。
[61]2016年11月10日 17:41
>>[58]、ありがとうございます。
おっしゃるように、扇をあおいでいる宝徹禅師の所に進み出た僧の言う風性なる言葉は、単にこの世の風性を指しているばかりでなく、この僧自身、もっと深い、悟りのようなものを喩えていたのだと受け取れますね。
悟りは常住、あまねく行き渡らぬ所はない。それなのに和尚よ、なぜなおも扇であおぐ必要があろうか。
「お前は悟りは常住で、それの行き渡らない所はないという道理を本当にはわかっていないな」
いったいどういう意味だとおっしゃるのでしょう。
宝徹禅師はただゆらゆらと扇をあおぐばかりだった。

その姿を見て、この僧ははっきりと了解し、宝徹禅師を礼拝していますね。
この世のどこであろうと悟りのあまねく行き渡らない所はない。しかし、かといって何もしないで悟りにあずかれると思うなら、それは道理の履き違えだ。
あまねく行き渡った悟りを自らに向けてあおぎもたらす仏行がそこに必要となるのである。
[62]2016年11月10日 18:40
南無阿弥陀仏には、往相と還相と、2つが揃っていると聞きます。
衆生が往生する相と、如来が救い取る相です。
これで往相と還相の円満なんですが、だからと言って何もせんでいいわけじゃない。
南無阿弥陀仏と称名して初めて円満なわけです。

空海さんは三密を加持するとき衆生と仏と我が即応すると言います。
衆生と仏と我はそもそも結びついていて、それが曼荼羅なわけです。
だから三密を加持するとき衆生と仏と我が即応します。
だから即身成仏がある。

道元さんの修証一如も、同じことを言っているように思います。

そしてもちろん、原始仏教も同じように思います。
原始仏教は往相の説明が圧倒的に多く、還相の説明が少ないですが、
釈尊は「私ほど幸せを求めている人間はいないのだよ」
などといった、還相の説明もたくさんしてくれています。


苦しみを見て、無常を見て、無我なるを見るとき、衆生が涅槃に至る往相があります。
そこから還って、姿勢を正して、口に真実語をたもち、心に感謝と勇気と優しさを持つとき、この世に仏様が現れます。
そのとき、<私>は成仏します。
それで円満かと思います。
[63]2016年11月10日 19:02
称うれば 仏も我もなかりけり 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

往相と還相なんて大げさな。
称名は必要だとしても同時同相よ。

扇いだ時に風。扇いだから風が起きるんでなくて、同時同相で一如。

もちろん分けても一如。分けなくても円満。
[64]2016年11月10日 19:50
称うれば 仏も我もなかりけり 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

私はこの歌を昔、無を歌った歌と思っていました。
今は少し、違って感じます。

「救われたい。救ってください」
という衆生と
「必ず救うから安心しなさい」
という如来。
「すでに救われたよ」
という如来と、
「ありがとうございます、救われました」
という衆生。

その一如を感じます。
[65]2016年11月10日 23:26
たぶんというか、勝手に思うのは、
スターは、煩悩のほうからたどって行って、仏に遭ったんでないかなと思う。
白隠禅師は子どもの時に聞いた地獄の話しが恐ろしくて、それで懸命に修行したので、地獄大菩薩とよく書いた。

俺らは、師匠から最初に仏を見せられたところが、ちと違う。

法然の門下は浄土宗と真宗に分かれるけれど、親鸞は徹底して自己の煩悩を見て、その上で救われるんだが、煩悩の超越ってのがあるんだと思う。

私が知ってる浄土宗は、煩悩とかあろうがなかろうがって感じだし、往相還相ってテーマも強調されない。真宗はそういうの喧しいでしょ。親鸞以外のお弟子たちは、法然に仏を見て、そのまま安心しちゃったんでないかと思うんだよ。
孫弟子の一遍上人は、信不信にかかわらずとか言ってるけど、本人は全然疑ってないのね。その先どうとかこの上どうとか自分の出来不出来がどうとか、少しも心配が無い。
[66]2016年11月11日 05:09
>>[60]

はい、その通り。

一概に大乗が良いとも思って居ません。

まぁ信心ですから、どれがいいと言うものでも無いと思うのですが
我々は文化体質として、こういう文化に育っていると言うことです。

あと、この部分が道元の自分への回答でもあるようです。

あの人が出家するのは、なんでわざわざ出家して修行
しないといけないんのだろう?ってのが疑問だったようです。


[67]2016年11月11日 10:04
まぁ小乗なら仕方ないにしても、日本に
育って悟らないといけないなんて思う
ものかな?ってのは正直に思うところ。

悟りを育てようなら判る文化だと思うけどね。
[68]2016年11月11日 10:31
>>[64]

時間軸の上で、これから起こる救いと、すでに起きた救いの二つがあるように見えることで、
この二つを矛盾対立することと考える人もいますが、
実はこの二つは時間軸の上で起きているのではなく、

今現在の私の身において、表面的には苦しみを抱え、これから救われるべきものでありながら、
その根底においては、すでにあるがままで救われており何の過不足におびえることもない。
人は自らの意識において、この二つの自己のありようを自在に往き来できる。自在に昇降できる。
[69]2016年11月11日 11:21
>>[68]

はい、ですから昇り向けコースと下り向けコースが
起点の違いによって起きる訳ですね。
[70]2016年11月11日 11:42
念仏して悟りを開けとは言わないのは
たぶんパオセヤドーとは起点が違う
話なんだろうなって思わずに
坐禅しても仕方ないですw

けどパオセヤドーみたいな起点で
坐禅する人も多い。
自分の起点に合ったのにするのがよいと
思いますw
[71]2016年11月11日 11:52
>>[68]

そうですね。
おっしゃる通り、少なくとも心の世界においては、過去も未来も現在の中にしかありません。
心の中には、現在の心に思い起こされるところの過去しかなく、
現在の心の思いめぐらされるばかりの未来しかありません。
その他にはありません。

人の現在を救うとは、現在の心に思い起こされるところの過去を救い、
現在の心の思いめぐらされるばかりの未来を救うということでしょう。

残念で無念で憎たらしくて悔しいばかりに思い起こされる過去を、
現在この瞬間において、しかしあの過去があってこそ今の救いに出会えたと思う。

絶望的で不安で無念で憎たらしくて悔しいばかりに思いめぐらされる未来を、
現在この瞬間において、でも今、自分の心を変えることによって素晴らしい未来に変えて行けると確信する。

心の世界の過去・現在・未来を救うとは、このようにあるのだと思います。

「救われたい。救ってください」
という衆生と
「必ず救うから安心しなさい」
という如来。
「すでに救われたよ」
という如来と、
「ありがとうございます、救われました」
という衆生。

人が阿弥陀如来を心から信じて称名念仏するとき、苦しみ、不安、無念さや憎たらしさ、悔しさは、空なる世界に必ず消えていきます。
称名念仏しようと思ったとき、すでに救われています。
そして、阿弥陀如来を心から信じて称名念仏する人には、前向きに生きる、幸せな人生が現れます。
その人の心は即座に浄土に住んで、この世を生きていきます。

これが救われる往相と、救いの世界から戻ってこの世を生きる還相かと思います。

人が誰かにやさしくしたり、強い気持ちで歩いて行けたり、何かを信じて安心できるのは、それはそのまま、その人が幸せだからと思います。
幸せだから、他人にもやさしくできる。
幸せだから、ちょっとやそっとのことではくじけない。
幸せだから、前向きに生きるのだと思います。

このように還相は回向となるのだと思います。


往生の相あって、回向の相がある。
択滅の涅槃あって、択法の方便がある。
寂静の静止を知る仏は、無常にあって融通無碍。
方便法身の如来は、私たちのこの世の幸せな暮らしの中に現生します。

色即是空 空即是色。
一枚きりの輪廻と涅槃。
修は証で、証は修。


私は、このように思います。
[72]2016年11月11日 11:54
>>[69]

原始仏教においては、当時の社会状況のせいもあって、この世から脱すること、この世を捨てることが強調された。
その後、理論的反省と新たな文脈を獲得するに至った大乗においては、この世を脱することの強調に終わらないで、この世を脱した魂(仏教に似つかわしくない表現で恐縮です)が再びこの世を慈悲をもって抱きしめるべきことが確認された。
しかしこの正反対を向いているように見える動きは決して分裂していてはならない。
しっかりと統合されていてこそ、二つの動きはともに豊かで清らかなものとなる。
[73]2016年11月11日 12:33
>>[72]

はい常々そう思っているのですよ。

けど、逆さ向きの話なんですよねw

三界の法に非ずの陣営は三界を少し学べば
いいのにねと思いますけどね。

案外と視座が高いのか低いのか判らない所が、ありますw
[74]2016年11月11日 12:57
現成公安を少し読まれただけでも
三界側からアプローチするのとは
別の話だと判るだけ小乗のほうが
見込みがあります。

いきなり三界の法に非ずと言われて
はいそうですか?って人は三界の
教えって何よ?とも考えもしない。

まぁ最初から混ぜて行けとは言わない
にせよ、坊さんやるわけじゃ無ければ
両方の起点が揃ったほうがいいと
前々から思っていました。

けど中々難しいようですw
[75]2016年11月11日 13:09
最近は、スターさんなども、浄土教を学ばれて、こめんされる 素晴らしいですねぴかぴか(新しい)ぴかぴか(新しい)スマイル
[76]2016年11月11日 13:32
>>[71]

阿弥陀如来から救われるか救われないかということや、
阿弥陀如来からすでに救われているか救われていないかということを超えて、
すなわち、救う者としての阿弥陀如来と救われる者としての衆生ということを超えて、

阿弥陀如来とは衆生であった、
衆生とは阿弥陀如来であった、

という所に立つことはありましょうか。
それとも最後まで阿弥陀如来と衆生との峻別は消えないままでしょうか。
阿弥陀如来と私との峻別は消えないままでしょうか。
[77]2016年11月11日 14:54
>>[76]

ご質問ありがとうございます。

阿弥陀如来とは衆生であった、
衆生とは阿弥陀如来であった、
という地平に立つと、そこには巨大な曼陀羅が現れて、その真ん中に大日如来が見えてくると思います。

即身成仏の一歩手前くらいのように思います。
[78]2016年11月11日 19:03
衆生は、もちろん阿弥陀如来だけれど、
衆生は、もちろん阿弥陀如来では無い。

この二つが同時に成り立ってるから、仏教なんだろうと思います。
同時。あるときA、あるときBでなくてね。
[79]2016年11月11日 19:20
不生不死たる阿弥陀如来がその無量のありようから自ら離れて、心と体をつかみ取り自らを限定する時、
生死ある輪廻の中の衆生が立ち現れる。
[80]2016年11月11日 21:07
>>[79]

こうも言えると思います。

私たちがこの心と体を自分だと思った瞬間、不生不死たる阿弥陀如来がこの世の方便法身の仏としてすでにたち現れている。
[81]2016年11月12日 04:46
>>[80]

初発心時 便成正覚

[82]2016年11月16日 14:33
仏教ではもとより聞思修ということが大事にされているけれど、ブッダの言われたことをよく聞いて、その内容を自らの心でよく考えて、またその教えに従って実践するというこの三つのことが、
道元に向き合う時はおのずから、道元の言われたこと、書いたことをよく聞き、よく読んで、
その内容について自らの心でよく考えてみて、
自らの身において実践する
という形で再現されることを感じないではいられない。

これは図らずも道元さんが独特の形で再現することになった聞思修の一つの形ですね(いや、振り返れば、すべての祖師がそれぞれの聞思修を再現させているとも言えますね)。
[83]2016年11月16日 15:25
道元さん自身、師の言葉を常識通りに受け取らなかったり、中国から入ってきた経典論書を漢文読解の規則通りに全然読まず、むしろ規則を破壊した読み方をしているのは、
お行儀よく、正確とされる受け取り方をするんではなく、
師の言葉や経典論書も所詮は悟りのための材料、小道具に過ぎないのだから、自らの今の境地に亀裂を入れて、まさに新しい境地を切り開くためなら、それらの小道具をきっかけとしてどう自ら工夫しようと、工夫のほうが優先されるし、境地開拓のほうが優先される。
したがってこの道元さんに倣おうとする者が常識通り、規則通りの聞思修を行うなら、それは道元さんの精華を見あやまった、道元さんから常識・規則の側への退行に他ならない。

道元さんの言葉さえ、悟りのための一つの小道具に過ぎないと心得て、自身の境地に亀裂を入れることを優先せよ。
[84]2016年11月16日 16:27
>>[83]

と言うか、そういう文化体質は禅一般に
言えることです。

始祖に逢うては始祖を殺し。なんて言うんですよw
[85]2016年12月05日 19:01
この本、近くの本屋にあったから立ち読みしたんですけど。
「身心脱落」とは何か?について読んでみたらば。

道元さんの悟りは、参禅はすべからく身心脱落のため、とのことで。

要するに、我を落として無我に入る、ということらしく。
道元さん悟った時は、他の方への警策を打つ音で、
それは五蓋である睡眠欲という「我」を落とさなかったら、ということで。

そして、そういう我を落とした時が「無我」と、この本では書いてありまして。

ああ、なるほど!と久しぶりになったので書き込んで見ました。
ずっと無我ってのがピンときてなかったんですよ。そういうことなのねようやく分かったスッキリスッキリ。
[86]2016年12月05日 19:21
>>[85]
いや、その本の解説は眉唾もんと思うな。
[87]2016年12月05日 19:26
>>[86]

マジスカ!?!?せっかくなるほど!ってなったのに。
じゃ、無我ってなんじゃろー。いまいち分からん感じです。
[88]2016年12月05日 19:32
無我
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%88%91

これの「我がない」ってのがピンとこないんですよね。。
「(物質的なそれは)我ではない」は、多分わかると思います。
[89]2016年12月05日 23:50
>>[88]
何かを、無我と呼んだんだよ。
他に適当な言葉がなかったんで。

禅宗では、手を付ける以前のところ、みたいな表現するでしょ?
そういうの含めて、いろんな表現が全部なりたつ所なんだろうと思う。

アプローチとしては、やっぱり、仏道を学ぶとは自己を学ぶことなり、自己を学ぶとは自己を忘ずることなり、ってことで、自己のああだこうだをどうこうしてたら、自己を扱うことになって、忘ずることが難しい。

なんて思うのよね。
[90]2016年12月05日 23:56
>>[89]

あう。お見事に切られてしまった気分。
痛くないけど。笑

あーでも最近、現成公案を忘れた感じになってますね。いかんいかん。
[91]2016年12月08日 18:39
>>[90]

まぁさ道理も少しずつ見えてくるから
心配いらんよ。

脱落しちゃるぅぅでも悟りを開くぜでも何でも
いいから座った奴の勝ちw

けどそういうんだと、どこかで苦しくなるとは
思うけどね。

まぁ最初は、どこかオカシイってw
[92]2016年12月08日 20:37
>>[91]

自分は初期から思うままに座っているのですよ。
多分、自分にはこれが合ってる。w

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