ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

仏教コミュの仏教の心理療法、「転迷開悟」「抜苦与楽」の方法

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
現代において心の問題を扱う宗教家、カウンセラー、セラピスト等の広義の心理臨床家はそれぞれの専門性の垣根を越えて交流し、協力し学習と経験を深めなくてはならない時代になったと、思います。


宗教、カルト、神秘主義、スピリチュアリズム、カウンセリング、トランスパーソナル心理療法、自己改造、マインドコントロール、洗脳等の心の解放とか変革をめぐる動きが、ますます激しさを増してきています。


仏教を心理療法として見ると、「転迷開悟」「抜苦与楽」の方法を広く万人に公開しています。

どんな方法でも仏教に限らず、実践的性格を持っていて、理論を論じ合うのではなく、どの様に「転迷開悟」「抜苦与楽」を実現するかに主眼は絞られます。



 様々な広義の心理臨床家がいるのですが、既成宗教や伝統宗教には、疑似宗教や似非・類似宗教にはない伝統的な技術やうん蓄が詰まっています。 宗教の危険性や形骸化、観念化の問題や習俗化してしまった既成仏教教団に対する批判は批判として真摯に受け止め、民衆の求める在り方も視野に置かなくてはなりません。
 古代や東洋の諸宗教や諸行法も広義の心理療法として位置付けたケン・ウイルバーの発想は卓見として高く評価したいものです。



 トランスパーソナル心理療法として唯識仏教はそのまんま使えます。
大乗仏教の三大論師と称される、龍樹(ナーガールジュナ)、アサンガ(無着)、その実弟であるヴァスバンドゥ(世親)、この三人は後の大乗仏教を作り出した方々です。
 
 龍樹が中観という縁起の思想を強調し、それを土台に唯識という意識(心)の緻密な整理、分類した無著・世親の兄弟、この三人は最初上座部(小乗仏教)で出家して後に大乗に転向した菩薩として尊敬を集めています。

 根本煩悩という表面的な分類が6つあります。
貪り(貪(トン))
憤り(瞋恚(シンニ))
愚かさ(癡(チ))
高ぶり(慢(マン))
疑い(疑(ギ))
誤った見方(悪見(アッケン))

そして深層に潜在する4つのものがあります。
我癡(ガチ)
我見(ガケン)
我慢(ガマン)
我愛(ガアイ)

これらの視点は現代の社会生活における人間関係やコミュニケーションにおいても重要な気付きを与えてくれます。 下4つは末那識(自我意識)に関係していて中々、気付き辛い心の働きです。


これらは八識説や、四智への変容や十地説や五位説の段階的発達論に展開していくのです。

この発達段階へのアプローチは、ヨ−ガの八支則の方がシンプルで実践的なのでこれから入って徐々に細部を意識した方が賢明だと思います。

この様に垣根に囚われず、広義の心理療法と考えれば、仏教の伝統は活きた知恵として活用できるようになると思うのです。


宗教をどう活かすかという視点に立った時有用だと思うのですが、皆さまはどう考えますか?




コメント(162)

正しく生きたいとか、人間として向上したいとか、
利他の心を大切にしたいとか思えるのであれば、
それがキリスト教だろうがイスラム教だろうが怪しい新興宗教だろうが、
なんでもいいと私は思います。

しかし、同時に、一般社会では宗教をタブー視する傾向があることも実感しています。
例えば某企業では毎朝社員全員で般若心経を読みますが、
求人広告にはそのようなことは書きません。
応募が集まらなくなるからです。

私は、一般に宗教がタブー視されがちな理由は、多くの「信者」が、自分のいただく教えをことさら特別視し、その教えと反する観念・思想を敵視することにあると思います。
私は宗教により人が向上する素晴らしさを肯定するがゆえに、
「信者」のそのような姿を好ましく思いません。
それがどのような宗教であってもです。
どのような宗教を信じる人であれ、他宗教にも、無宗教にも、寛容である姿を美しく思います。
>>[122]よっきさん
>>[123]スター さん

同感です。

物質面だけでは幸せになれない事を皆さん気づき始めていると思います。
求める声が大きくなれば、きっと実現するでしょう。
心に響く、フレンドリーでオープンな宗教番組があったらいいですね。
>>[128]

仏教者が仏教から学び取った生きるための心安らかな道を、
苦しんでいる一人一人のために親しくお手引きできたなら、
それは両者にとってとても豊かな関係ですね。
仏教にとどまらず、すべての優れた伝統宗教が、
この人生の苦しみから脱却するための輝く智慧と光に到達したいという方向性と、
この世のすべての者たちを愛し、いたわり、助けてあげたいという方向性
の二つを持っていると見ることもできますね。
>>[002]

ひとりひとりが、自分の世俗的成功や幸せばかりでなく、広く他者の幸せにも親身に心を開くことは、
私たちの今後の社会のためにもとても大切なことですね。
>>[131]

考えてみれば、苦しんでいる人、逆境にある人、大病を患っている人、罪を犯してしまった人、飢え渇いている人、困窮している人などはみんな、
すべての人の代わりに、
あるいは私の代わりに苦しんでいるのかもしれず、
そういう平等性の中では、

すべての人が苦しみから救われることこそ、私が救われることかもしれませんね。
>>[137]

自分ひとりの解脱、自分ひとりの安楽で満足しようとするものなら、そこに開かれている智慧は必ずしも最終の智慧ではない、完全な智慧ではないという洞察がそこにはあると思います。

縁起の深い理解に立つなら、所詮、自他が明確に区別されて自分だけが真に安楽を味わうに至るなどということがあるはずがない。
自他ともに解脱して真に安楽を分かち合ってこそ、修行道の終わりがあり、完成がある。
>>[138]

>修行道の終わり、完成。

これはどのような事だとお考えですか?


>自他

自他の他とは、おいら達在家が日常生活を送る中で、具体的にどのようなものと、お考えですか?


(-人-)


>>[139]、ありがとうございます。
ここで自他と言うところの他者には、あらゆる人、あらゆる命、あらゆるものの苦しみからの解放が含意されていますから、
そこに至るまで修行は終わらない、完成しないというのは、

実際、私たちにとって永遠に修行は終わらないようなものかもしれませんね。
>>[140]、どうもありがとうございます。


>もともとお釈迦様の教えの中にはそういう要素があるはずなのに


ぼくもそのように受けとめています。
>>[141]

はい、自他の他についての教えは仰る通りだと思います。ただ思っているだけでは伝わらないと思うのです。おいら達在家の人間が、よほど大きな事をしてない限り、関われる人間は限られています。勿論、他というのは、人間の事だけをさしていないと思いますが、仮に仏教徒であれば、伝わり安いですが、そうでないものにはなかなか伝わりません。

修行の終わりというのは、死を迎えたとき。
もし完成という言葉を使うとしたなら、死を迎えたとき、自分は思い残すことがなく逝くことができ、送る側も思い残すことがなく見送れること。これが自分にとっての完成であり、残されたものも、自分が迎えたときもこうありたいと、既に送る側として、このことを理解している状態ではないかと、そのための教えが、仏教ではないかと受けとめています。

(-人-)


>>[143]、ありがとうございます。


>ただ思っているだけでは伝わらないと思うのです。おいら達在家の人間が、よほど大きな事をしてない限り、関われる人間は限られています。勿論、他というのは、人間の事だけをさしていないと思いますが、仮に仏教徒であれば、伝わり安いですが、そうでないものにはなかなか伝わりません。


ぼくは縁起という見方を大事にしているので、
個人は大事業を行わなければ多くの者と関われないという見方ではなく、
実は誰でもが自分の思いもしないすべての人や物とすでに関わっているのであり、
すでに影響し合っているのだと考えています。
だから、自分が悪くなることはすべての人、すべての物に影響し、
自分が少しでも善くなることは同じようにすべての人、すべての物に影響すると考えています。


>修行の終わりというのは、死を迎えたとき。もし完成という言葉を使うとしたなら、死を迎えたとき、自分は思い残すことがなく逝くことができ、送る側も思い残すことがなく見送れること。これが自分にとっての完成であり、残されたものも、自分が迎えたときもこうありたいと、既に送る側として、このことを理解している状態ではないかと、そのための教えが、仏教ではないかと受けとめています。


ぼくは先ほども書いた通り、修行の道は無限と言えるほど、最終目的の実現の遠いものだから、
今生で必死におのれを磨かせていただいても、今生の自分の死がやってくるその時までに目的がかなうか否かは本当にわかったものではないと思っています。
だから、何世も何世もかけても、この目的を実現するのだという熱い祈りこそが自分の生死を超えて貫くものだと思っています。
>>[144]

この世の全てのものとの繋がりは教えの通り、当たり前のことだとは受けとめておりますが、

>自分の善し悪しが全てのものに影響がある。

というお考えはおいらは怖くてできません。


78910さんは輪廻の事を常にお考えになり、簡単に言えば、今世がだめでも来世があると言うお考えもお持ちなんですね。


おいらは今ここ、今の目の前を本気でこなす事を目標としています。
78910さんのお考えで暮らしていたとしたら、おいらは怖くて寝られなくなりそうです。

ご返答ありがとうございました。


(-人-)


>>[145]、どうもありがとうございます。


>78910さんは輪廻の事を常にお考えになり、簡単に言えば、今世がだめでも来世があると言うお考えもお持ちなんですね。おいらは今ここ、今の目の前を本気でこなす事を目標としています。78910さんのお考えで暮らしていたとしたら、おいらは怖くて寝られなくなりそうです。


すべての人、すべての命、すべてのものが、深い禅定の中だけではなく、
現実の日常においても一切の苦しみから救われる時、私の本当の解脱、救われもあるという受けとめに立つ時、

そのための修行や実践の長さや深さは、本当に気の遠くなるほどのものでしょうが、

それ以外に私ひとりで勝手に喜びにひたるのは真の喜びではないのだという深い理解がある時、

生きてゆく真剣さと修行・研鑽の真剣さが生まれてくるものと思っています。

だから、全然自分が未熟なうちに死のほうが先にやってきてしまうなら、これほど口惜しいことはない。
もっともっと成長できたのではないか!
もっともっと真剣に修行できたのではないか!
もっともっと人に優しくできたのではないか!
………


しかし、この未熟な私が何度でも何度でも何らかの生き物として修行を繰り返させていただけるなら、
これほど嬉しいことはありません。
>>[148]

確かにいつ尽きる命であるか誰にもわかりません。
だから今なのではないでしょうか?

今ここで生かされているということ。今を本気であること。
街行く人に対しても同じこと、今すれ違った人が、昼食でいただいたキャベツの生産者かもしれない、この人がお気に入りのスニーカーの紐を製産した方かもしれない、なんて考えながらは生きてはいませんが、事実その方々がいらっしゃる。見知らぬものにも、感謝の念を持っていること。等々も常に本気であること。ではないかとおいらは思うのですが。


具体的に78910さんは、日常生活において、利他とはどんなことだとお考えですか?


(-人-)


>>[146]

>玲さん、78910さん、はなしの中にはいるみたいですが、一体、仏教で言われている 菩薩の利他 とは、どのようなことなのでしょうか?


ぼくはまったくぼくの段階での利他行、すなわち今のぼくが自分の心と言葉と行いにおいて実践しなければいけないと取り組んでいる限りの利他行について、
学びの遅いぼくが皆さんお一人お一人から教えていただきながら向き合うばかりです。

与えられた命と時間を大切にしながら、
仕事や生活で関わる人たちに誠実に真心をもって接しようとしながら、
それでも実際の関わり合いの中ではいろいろ反省する所も多い自分に常に気がつくように注意して、

自分の深い心と、
日常の表層の自分とが本当に矛盾していないか、
分裂していないかに気を配り、
もしそこに齟齬(そご)が見られるようなら、じっくりとあらためて自分の深い光からの指示に心を開き、
日常の思考、計画、目標をあらためて調整しながら、

小さく収縮してしまうことも、地面から足が離れてしまうこともないように気をつけて、

自分に与えられた仕事と生活の特殊性の中で、最大限、普遍性と結び付き、普遍性を呼吸できるように生きさせていただいている所です。
>>[150]

目標を見直して調整するのであれば、目標をたてないのと同じではないかと思うのですが。

おいら達はありがたいことに、こうして仏教というものと巡り合うことができました。その教えの一つを目標にあげ、日々精進すればよいのではないかと思います。一つの目標をあげて精進すれば、いろいろな教えに気づくのではないでしょうか。それは真理は一つだからだと思います。

輪廻が苦となるなら、輪廻など考えない、来世のことなど考えない、死のことなど考えない。答えの出ないことを考えても仕方がないと思うのですが。
これを忘じる。と言うのではないのでしょうか。そしてそれらが自己を忘じるに繋がるのではないでしょいか?

(-人-)


>>[151]、どうもありがとうございます。


>目標を見直して調整するのであれば、目標をたてないのと同じではないかと思うのですが。


ここで目標と言ったのは、日常的、世俗的な個々の目標のことです。
心に浮かぶそうした仕事や生活での個々の目標は、一度立てたら二度と疑わないものではなく、
心が深まりあらたまるに従って調整すべきものだとぼくは考えています。


>輪廻が苦となるなら、輪廻など考えない、来世のことなど考えない、死のことなど考えない。


基本的にぼくは今の生が終わるまでのことを一つの大切な人生と考えているので、輪廻転生を考えて苦しむということはまったくありませんし、
むしろ先ほども言いましたように、むしろ輪廻転生を考えることは心の癒しに他なりません。
また、死についてですが、
死について考えることはぼくは大切な大切なことだと思っています。


>答えの出ないことを考えても仕方がないと思うのですが。これを忘じる。と言うのではないのでしょうか。そしてそれらが自己を忘じるに繋がるのではないでしょいか?


輪廻転生があるかないか、という形で答えを出そうと思って悩むなら、
まさにおっしゃるように証明されえないことに悩んでいると言えるでしょう。
ぼくはこうしたことに有るとか無いとか答えを出そうとしているのではありません。
もちろん有ると主張しているのでもないし、
無いと主張しているのでもありません。
今現在の自分が間違いなく持っているであろう未熟さにしっかりと向き合いながら、
毎日の中で少しでも皆さんに教えられながら、向上してゆきたいと熱望するばかりです。
>>[153]

どうもありがとうございます。
もし仏教が本人において本当に自らをよく助け、浄め、向上させ、新たにするものならば、
立場や職業にかかわらず、そのような人は、自らの心や言葉や行いを通して自分が最もよく信頼するそうした教えを、
決して独りよがりではなく、よくよく研鑽探究した上で、
少しでも人々の心に届いたらいいなあと願うものだと思います。
>>[155]

>結局、仕事をしていれば、その仕事の中で自分の可能な働きをすることしかできないかなと思います。


毎日の仕事という社会との大事な関わり合いにおいて、人さまに尽くす心を行動、言葉、表情、態度において実践することは、自分にとっても、社会にとっても、大切なことですね。


>動機から反省してみても、普段の生活の中で利他という意識はなかなかありません。


普段の生活の中で利他の心が自然に自分の意識の片隅に間違いなく息づいているようになったら、とても素敵なことですね。


>また、他者のためと思いながら、それが本当に利他なのか?と思うこともあります。


これは本当に難しい問題ですね。
単に一方的な思い込みの押し付けにならないように私たちは注意しなくてはなりませんね。
鈴木大拙さんがアメリカで禅について精力的に解説されたことは、アメリカの精神文化に大きな影響を与え、哲学や深層心理学において禅そして仏教との統合を図る大きな流れを生み出しましたね。
それは私たちにとって、仏教に哲学や深層心理学からの新たなメスをあて、新たな光でそれを考え直す機会ももたらしました。
東洋と西洋という垣根を越えて、同じ人間という土台の上で仏教を再確認、再検討することになりましたね。
私たちが生まれてきたこの時代の、この社会の中で、私たちは自分の願望をかなえつつ、この社会の中でうまいこと平和裡に生きてゆこうとする。
そのために私たちは自分の思いと現実とが矛盾したり齟齬を生じたりするたびに、自分に働きかけたり背筋を直したりする知恵を利用しようとする。
さまざまな心理療法や仏教が重なる部分が確かにあるし、また仏教が単に社会に適合的に生きてゆくことを超えて、深く深く人間の真実を開いてゆく部分もある。
そうすると心理学や哲学も、仏教が切り開く地平を見据えて自らの射程距離をさらにさらに広げてゆくということもある。
人間のそれぞれの知がお互いに学びながら人間に資するところが豊かになればいいですね。
、「転迷開悟」、「抜苦与楽」共に大事なことですね・・・。
特に心理療法と言われるものが心のもつれを無意識レベルまで踏み込んでよく観察し、自己の心全体の理解から快方に向かおうとするものであるのに対して、
仏教はそうした個々人に独特のもつれ方をその独自性にそって観察するというよりも、
心全体をひとまとめにして根本的には幻想に過ぎないものとして乗り超えてしまい、涅槃と呼ばれる究極の安らぎと智慧に到達することをこそ本義にしているように思います。
「自律的な一個人であろうとする両親のそれぞれの人間的勇気が、それにみならい同一化しようとする子供のアイデンティティ(自我同一性)の確立過程にとっても、決定的な役割を果たすことになる。」
(ハロルド・F・サールズ『逆転移 2』より。訳文を言い換えさせていただきました。)


西洋で生まれた心理療法におけるさまざまな観察、研究は、少なからず仏教の弱い部分を補っていて、私たちが生きてゆく上で大切な知見も少なくないと思います。
「人が自己のアイデンティティ(自己同一性)のかけがえのなさにこだわっている場合、実は自分が他の人との共生的関係の中でこそ多くを過ごしているのだということを認めることを無意識に恐れて、自らを防衛するためにこのこだわりが機能しているように思われる。
アイデンティティにこだわりながら、実は彼のアイデンティティは非常にあやういものなのだ。なぜなら、実はそのアイデンティティから本当は自由になりたいという無意識の願望があるがために、一層あやういものなのだ。」

(同書。言い回しを変えてあります。)

ログインすると、残り136件のコメントが見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

仏教 更新情報

仏教のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。