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京都を楽しむ会(^O^)コミュの京都に生きた絵師?(^O^)

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室町時代の水墨画に続き、安土・桃山から江戸時代のはじめにかけて 障壁画(しょうへきが)と呼ばれる絵画が 主流となっていきます(^O^)人差し指
水墨画は、墨の濃い薄いで描いた絵画で 障壁画とは、寺院社にある襖・壁・障子、さらには屏風に描いた絵画を 言います(^O^)人差し指
絵画の流れは、漢画系と大和絵系とがあります(^O^)ぴかぴか(新しい)
漢画系は、古くは『雪舟(せっしゅう)』『曽我蛇足(そが だそく)』『阿弥派』があり、『海北友松(かいほう ゆうしょう)』や『雲谷等顔(うんこく とうがん)』〔毛利氏の御用絵師で、梶原景季の流れを汲む武士(^O^)毛利氏の御伽衆(おとぎしゅう)〕を経て 新漢画系ともいうべき狩野派に発展し、大和絵系は 『長谷川等伯』の長谷川派から、やがて 『俵屋宗達(たわらや そうたつ)』〔通称:野々村宗達、尾形光琳と並び 近代初期の大画家〕へと発展していきます(^O^)電球
戦国時代とも言われる激動の時代に 絵師として、己の作品に魂を込め 命を燃やした代表的な絵師としては、1533(天文2)年生まれの『海北友松』、その6つ年下の『長谷川等伯』、さらに4つ年下の『狩野永徳(松栄の子、元信の孫)』 らが有名ですね(^O^)人差し指
『海北友松』の絵は、建仁寺に多く蔵されています(^O^)
建仁寺に住んでいたこともあるので、『安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)』や『古澗慈稽(こかん じけい)』とも親しかったそうです(^O^)
『友松』は、近江の武将『綱親(つなちか)』の子で 早く東福寺に入り、『狩野元信』に師事したのは 14〜5歳の頃です(^O^)
『元信』は、『友松』の抜群の画技に感嘆して 梁楷(りょうかい=中国の巨匠)の妙があり、自分がおよぶところでないと語ります(^_^;)
しかも『友松』は、画家よりは 武士として生きようとしていたらしく、友人『斎藤利三』が 山崎の合戦で捕らえて 粟田口で磔(はりつけ)にされた時、長槍をふるって衛兵を蹴散らし 『利三』の屍(しかばね)を奪い、真如堂に葬りました(^O^)
その気迫が、絵画にも 躍動しているような感じが 見受けられます(^O^)ぴかぴか(新しい)
『長谷川等伯』は、能登の七尾(ななお)の絵師『道浄(どうじょう)』の子です(^O^)人差し指
従来、『長谷川久蔵』の別名とされていた『信春』は、実は 『等伯』の能登時代の名前であるとの説が 有力となっています(^O^)

コメント(2)

建仁寺の襖絵(*^▽^*)

友松サマの水墨画の龍は、重要文化財。
すご〜く綺麗なんだo(^-^)o
今は、レプリカだっけ……?
この技術もまた、スゴイですね。

武士となってのお家再興を願いながらも、時代は彼を絵師にしました。絵師として素晴らしい絵を残したのですね。
はい(^O^)
長谷川等伯の作品は、
?三宝院〔長谷川派〕(^O^)
?智積院(^O^)
? 妙蓮寺〔長谷川派〕(^O^)
?金地院(^O^)
?大徳寺 真珠庵(^O^)
などが 有名ですね(^O^)人差し指
建仁寺は、友松さんの作品が あります(^O^)

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