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Bar.の亭主コミュの再会・其の七

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再会・其の七

一九九六年二月二十九日 木曜日
長い地下歩道を抜け、表通りに出ると、陽
はすっかり暮れていた。その日は、近年、ま
れにみる大雪が降り続き、隆盛を誇示してい
たネオン街も、大自然の前では、光りを失
い、静けさだけが続いていた。時間さえ止
まってしまった様な夜。
どこかでマフラーを無くしてしまった私
は、凍えた体と重い足取りで、いつもの酒場
を訪れた。いつもと変わらぬ木の扉の向こう
に、変わった世界が広がっているわけでもな
く、待っている人が居る訳でもないのだが。
灯の消えた酒場から微かに流れ出る『レフ
ト・アローン』。扉を開くと、バーテンダー
が一人、カウンターを磨いていた。
私はこの日、この店で最初の注文をした。
目の前のカクテル・グラスに注がれたのは、
透き通る様な輝きを放ったギブソンだった。
私が空になったカクテル・グラスを置き、
パール・オニオンをもてあそんでいると、酒
場の扉が開いた。そこには、ギブソン・ガー
ルを連想させる様なすらりとした女性と、真
珠の様な白い肌の女性の二人連れが立ってい
た。
二人は、スツールに腰掛けると、スリムな
女性の方がアレキサンダーを、もう一人の女
性はマルガリータを注文した。二人のカクテ
ルが注がれると、アレキサンダーの女性が口
を開いた。
「アラスカのラメックスで飲むフローズン・
マルガリータは、世界一美味しいって
JALの人達の間で評判なんですって。」
その声は、頭に響く雑音のように、店内の
空気を乱すものではなかった。
「あたしは、あまり頂けないから。あなた
は、おくわしいんでしょう。」
続いて、マルガリータの女性が、物語を語る
様な口調で返した。
私は、安心して、バーテンダーにオレンジ
・ブロッサムを注文すると、氷と酒の奏でる
音色に耳を澄ました。
シェークの音が止み、静けさが戻ると、ア
レキサンダーの女性は、悲しげに目を伏せて
語った。
「昔はね。何でも飲んだわ。ウイスキー、ブ
ランデー、ジン。」
「私はだめ。ブランデーも頂けないの。そう
いえば、前に映画の中の話で、病気の御母様
に、ブランデーを飲ませようとして、ミルク
に混ぜたら、一週間で大瓶全部を開けてし
まって、御母様は『家の牛をよそに売ったら
だめよ』ですって。」
「それジョークなの。でも、私が初めて飲ん
だお酒がこのブランデー・アレキサンダー
だったわ。あっという間にとりこになった
わ。」
「そうなの。でも、上等のブランデーを飲む
時は、まず、グラスを掌で優しく暖めて、静
かに回したら、香りを楽しみ、グラスを置い
てお話をするものなんでしょ。」
「それもどこかのジョークなの。」
アレキサンダーの女性は、首をかしげて言
うと目線を宙に浮かせた。確かに、まるっき
りの冗談ではないかもしれないが、酒場の店
主にとっては、複雑な心境のブランデーの嗜
み方だ。
とそういえば、ブランデー・アレキサンダー
といえばどうしても、『酒とバラの日々』を
連想してしまう。あの霧の中へ流れていく様
なメロディーだけでは想像できない様な壮絶
なアルコール中毒の話。酒びたりのジャック
・レモンが妻のリー・レミックに最初に勧め
るのがブランデー・アレキサンダー。やが
て、二人は、苦しみと寂しさを酒で埋めてい
く。ぼろぼろになったリー・レミックとチョ
コに目を輝かせていた頃のリー・レミック
が、クローズアップする。
ふと気ずくと、マルガリータの女性は、ア
レキサンダーの女性にジンを勧められて、口
をつけていた。
「初めはきついけど、ほのかな香りがいいで
しょ。」
「やっぱりだめだわ。前にも飲めなかった
の。」
マルガリータの女性は右手で、首の後ろを
撫でると、首を左右に振った。ジンにむせぶ
彼女の横顔を見ていると、映画『グレン・ミ
ラー物語』で、ジューン・アリスンふんす
る、ヘレン・ミラー夫人が、コーヒー・カッ
プに注がれたジンにむせぶシーンが頭の中を
よぎった。私の脳裏に、『茶色の小瓶』が流
れ、映画のラスト・シーンが蘇る。
「そういえば御存じかしら、マルガリータっ
て死んだ恋人の名前を付けたんですって。」
ジンのグラスの縁に着いた口紅をぬぐいなが
ら、マルガリータの女性が言った。
「そうなの。私も色々あったけど、お酒が飲
めて本当に良かった。もし、何もかもに疲れ
た時、最後の救いの場所があるとしたら、こ
のカウンターだもの。」
アレキサンダーに心の垣根を取り払われた
女性は、涙を一つこぼした。お酒に感情が入
りすぎた様だ。
私は、二人の女性の代わりに、彼女たちの
重ねた、数々のグラスたちと、カウンターに
染み込んだ涙のために乾杯した。
何杯かのグラスを重ねた頃、すでに彼女達
の姿はなかった。私は、初めに何を飲んだか
も忘れようしていた。まぁいい、何を飲んだ
かなんて、バーテンダーが覚えていてくれる
だろう。私はスツールから足を降ろした時、
コペルニクスとガリレオの言葉を実感した。
確かに地球は回っている様だ。
私が、店の扉を開け、表に足を踏み出した
時、私の背中で、ジャッキー・マクリーンの
アルト・サックスが、マル・ウォル・ドロン
のピアノに悲しげに話しかけていた。
『レフト・アローン』の作曲は一九五九年
の春とされている。ビリー・ホリデーの死
は、その年の七月十七日。しかし、その僅
か、数週間の間、ビリー・ホリデーはこの曲
を愛し、ステージで奏でたという。だが、彼
女の唱声を残すレコードは一つも残されてい
ない。
その晩、私は誰も居ない酒場の店内に、ビ
リー・ホリデーの『レフト・アローン』が鳴
り響く夢を見た。


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