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名作を読みませんかコミュの吾輩は猫である 夏目漱石 3

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 我儘《わがまま》もこのくらいなら我慢するが吾輩は人間の不徳についてこれよりも数倍悲しむべき報道を耳にした事がある。

 吾輩の家の裏に十坪ばかりの茶園《ちゃえん》がある。
 広くはないが瀟洒《さっぱり》とした心持ち好く日の当《あた》る所だ。
 うちの小供があまり騒いで楽々昼寝の出来ない時や、あまり退屈で腹加減のよくない折などは、吾輩はいつでもここへ出て浩然《こうぜん》の気を養うのが例である。

 ある小春の穏かな日の二時頃であったが、吾輩は昼飯後《ちゅうはんご》快よく一睡した後《のち》、運動かたがたこの茶園へと歩《ほ》を運ばした。
 茶の木の根を一本一本嗅ぎながら、西側の杉垣のそばまでくると、枯菊を押し倒してその上に大きな猫が前後不覚に寝ている。

 彼は吾輩の近づくのも一向《いっこう》心付かざるごとく、また心付くも無頓着なるごとく、大きな鼾《いびき》をして長々と体を横《よこた》えて眠っている。
 他《ひと》の庭内に忍び入りたるものがかくまで平気に睡《ねむ》られるものかと、吾輩は窃《ひそ》かにその大胆なる度胸に驚かざるを得なかった。

 彼は純粋の黒猫である。
 わずかに午《ご》を過ぎたる太陽は、透明なる光線を彼の皮膚の上に抛《な》げかけて、きらきらする柔毛《にこげ》の間より眼に見えぬ炎でも燃《も》え出《い》ずるように思われた。

 彼は猫中の大王とも云うべきほどの偉大なる体格を有している。
 吾輩の倍はたしかにある。
 吾輩は嘆賞の念と、好奇の心に前後を忘れて彼の前に佇立《ちょりつ》して余念もなく眺《なが》めていると、静かなる小春の風が、杉垣の上から出たる梧桐《ごとう》の枝を軽《かろ》く誘ってばらばらと二三枚の葉が枯菊の茂みに落ちた。

 大王はかっとその真丸《まんまる》の眼を開いた。
 今でも記憶している。
 その眼は人間の珍重する琥珀《こはく》というものよりも遥《はる》かに美しく輝いていた。

 彼は身動きもしない。
 双眸《そうぼう》の奥から射るごとき光を吾輩の矮小《わいしょう》なる額《ひたい》の上にあつめて、御めえは一体何だと云った。
 大王にしては少々言葉が卑《いや》しいと思ったが何しろその声の底に犬をも挫《ひ》しぐべき力が籠《こも》っているので吾輩は少なからず恐れを抱《いだ》いた。

 しかし挨拶《あいさつ》をしないと険呑《けんのん》だと思ったから
 「吾輩は猫である。
  名前はまだない」となるべく平気を装《よそお》って冷然と答えた。
 しかしこの時吾輩の心臓はたしかに平時よりも烈しく鼓動しておった。

 彼は大《おおい》に軽蔑《けいべつ》せる調子で
 「何、猫だ?
  猫が聞いてあきれらあ。全《ぜん》てえどこに住んでるんだ」
 随分傍若無人《ぼうじゃくぶじん》である。

 「吾輩はここの教師の家《うち》にいるのだ」
 「どうせそんな事だろうと思った。
  いやに瘠《や》せてるじゃねえか」
 と大王だけに気焔《きえん》を吹きかける。

 言葉付から察するとどうも良家の猫とも思われない。
 しかしその膏切《あぶらぎ》って肥満しているところを見ると御馳走を食ってるらしい、豊かに暮しているらしい。

 吾輩は「そう云う君は一体誰だい」と聞かざるを得なかった。
 「己《お》れあ車屋の黒《くろ》よ」
 昂然《こうぜん》たるものだ。
 車屋の黒はこの近辺で知らぬ者なき乱暴猫である。
 しかし車屋だけに強いばかりでちっとも教育がないからあまり誰も交際しない。
 同盟敬遠主義の的《まと》になっている奴だ。

 吾輩は彼の名を聞いて少々尻こそばゆき感じを起すと同時に、一方では少々軽侮《けいぶ》の念も生じたのである。
 吾輩はまず彼がどのくらい無学であるかを試《ため》してみようと思って左《さ》の問答をして見た。

 「一体車屋と教師とはどっちがえらいだろう」
 「車屋の方が強いに極《きま》っていらあな。
  御めえのうちの主人を見ねえ、まるで骨と皮ばかりだぜ」
 「君も車屋の猫だけに大分《だいぶ》強そうだ。
  車屋にいると御馳走《ごちそう》が食えると見えるね」

 「何《なあ》におれなんざ、どこの国へ行ったって食い物に不自由はしねえつもりだ。
  御めえ]なんかも茶畠《ちゃばたけ》ばかりぐるぐる廻っていねえで、
  ちっと己《おれ》の後《あと》へくっ付いて来て見ねえ。
  一と月とたたねえうちに見違えるように太れるぜ」

 「追ってそう願う事にしよう。
  しかし家《うち》は教師の方が車屋より大きいのに住んでいるように思われる」
 「箆棒《べらぼう》め、うちなんかいくら大きくたって腹の足《た》しになるもんか」
 彼は大《おおい》に肝癪《かんしゃく》に障《さわ》った様子で、寒竹《かんちく》をそいだような耳をしきりとぴく付かせてあららかに立ち去った。

 吾輩が車屋の黒と知己《ちき》になったのはこれからである。
 その後《ご》吾輩は度々《たびたび》黒と邂逅《かいこう》する。
 邂逅する毎《ごと》に彼は車屋相当の気焔《きえん》を吐く。
 先に吾輩が耳にしたという不徳事件も実は黒から聞いたのである。

 或る日例のごとく吾輩と黒は暖かい茶畠《ちゃばたけ》の中で寝転《ねころ》びながらいろいろ雑談をしていると、彼はいつもの自慢話《じまんばな》しをさも新しそうに繰り返したあとで、吾輩に向って下《しも》のごとく質問した。
 「御めえは今までに鼠を何匹とった事がある」

 智識は黒よりも余程発達しているつもりだが腕力と勇気とに至っては到底《とうてい》黒の比較にはならないと覚悟はしていたものの、この問に接したる時は、さすがに極《きま》りが善《よ》くはなかった。
 けれども事実は事実で詐《いつわ》る訳には行かないから、吾輩は
 「実はとろうとろうと思ってまだ捕《と》らない」と答えた。

 黒は彼の鼻の先からぴんと突張《つっぱ》っている長い髭《ひげ》をびりびりと震《ふる》わせて非常に笑った。
 元来黒は自慢をする丈《だけ》にどこか足りないところがあって、彼の気焔《きえん》を感心したように咽喉《のど》をころころ鳴らして謹聴していればはなはだ御《ぎょ》しやすい猫である。

 吾輩は彼と近付になってから直《すぐ》にこの呼吸を飲み込んだからこの場合にもなまじい己《おの》れを弁護してますます形勢をわるくするのも愚《ぐ》である、いっその事彼に自分の手柄話をしゃべらして御茶を濁すに若《し》くはないと思案を定《さだ》めた。

 そこでおとなしく
 「君などは年が年であるから大分《だいぶん》とったろう」とそそのかして見た。
 果然彼は墻壁《しょうへき》の欠所《けっしょ》に吶喊《とっかん》して来た。

 「たんとでもねえが三四十はとったろう」とは得意気なる彼の答であった。
 彼はなお語をつづけて
 「鼠の百や二百は一人でいつでも引き受けるが、いたちってえ奴は手に合わねえ。
  一度いたちに向って酷《ひど》い目に逢《あ》った」
 「へえなるほど」と相槌《あいづち》を打つ。

 黒は大きな眼をぱちつかせて云う。
 「去年の大掃除の時だ。
  うちの亭主が石灰《いしばい》の袋を持って椽《えん》の下へ這《は》い込んだら御めえ、
  大きないたちの野郎が面喰《めんくら》って飛び出したと思いねえ」
 「ふん」と感心して見せる。

 「いたちってけども何鼠の少し大きいぐれえのものだ。
  こん畜生《ちきしょう》って気で追っかけて、
  とうとう泥溝《どぶ》の中へ追い込んだと思いねえ」
 「うまくやったね」と喝采《かっさい》してやる。

 「ところが御めえ、いざってえ段になると奴め最後《さいご》っ屁《ぺ》をこきゃがった。
  臭《くせ》えの臭くねえのってそれからってえものはいたちを見ると胸が悪くならあ」
 彼はここに至ってあたかも去年の臭気を今《いま》なお感ずるごとく前足を揚げて鼻の頭を二三遍なで廻わした。

 吾輩も少々気の毒な感じがする。
 ちっと景気を付けてやろうと思って
 「しかし鼠なら君に睨《にら》まれては百年目だろう。
  君はあまり鼠を捕《と》るのが名人で鼠ばかり食うものだから、
  そんなに肥って色つやが善いのだろう」
 黒の御機嫌をとるためのこの質問は不思議にも反対の結果を呈出《ていしゅつ》した。

 彼は喟然《きぜん》として大息《たいそく》していう。
 「考《かん》げえるとつまらねえ。
  いくら稼いで鼠をとったって、一てえ人間ほどふてえ奴は世の中にいねえぜ。
  人のとった鼠をみんな取り上げやがって交番へ持って行きゃあがる。
  交番じゃ誰が捕《と》ったか分らねえからそのたんびに五銭ずつくれるじゃねえか。
  うちの亭主なんか己《おれ》の御蔭でもう壱円五十銭くらい儲《もう》けていやがる癖に、
  碌《ろく》なものを食わせた事もありゃしねえ。
  おい人間てものあ体《てい》の善《い》い泥棒だぜ」
 さすが無学の黒もこのくらいの理窟《りくつ》はわかると見えてすこぶる怒《おこ》った容子《ようす》で背中の毛を逆立《さかだ》てている。

 吾輩は少々気味が悪くなったから善い加減にその場を胡魔化《ごまか》して家《うち》へ帰った。
 この時から吾輩は決して鼠をとるまいと決心した。
 しかし黒の子分になって鼠以外の御馳走を猟《あさ》ってあるく事もしなかった。

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