ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

プランタジネット朝コミュのイングランド王 ヘンリー2世

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
プランタジネット朝/アンジュー朝の初代イングランド王(在位:1154年 - 1189年)
アンジュー帝国を築いた創始者。

1133年3月5日、ノルマンディー公/アンジュー伯ジョフロワ(美男公)の長男として誕生。
母はマティルダ(イングランド王ヘンリー一世の娘。元神聖ローマ帝国皇后)
生まれながらにしてヘンリーはイングランド王位につく資格を持っていた。

1151年9月7日、父ジョフロワが熱病で死去。その後を継ぐ。

1152年5月18日、ヘンリーはフランス王ルイ七世と離婚したアリエノール(アキテーヌ女公)と電撃的に結婚し、世間を驚かせる。
これによりヘンリーはフランスの国土の半数近くを手に入れた。
自らの野望を鮮明にした瞬間でもあった。

同年7月、フランス王ルイ七世は、ヘンリーとアリエノールに対し出頭を命じたが、従わないので、ヘンリーの弟ジェフリーを抱き込みノルマンディーに侵攻。
10代の頃より戦場を駆け巡っていたヘンリーは、これを難なく撃退。

1153年1月には、イングランドへ渡航。時のイングランド王スティーブンと王位を巡り交戦。

8月17日、アリエノールが長男ウィリアムを産むという明るいニュースに続き、11月6日、ウォーリングフォードにてイングランド王スティーブンと講和する。
ヘンリーはスティーブンに、正式に後継者と認めさせた。

12月、スティーブンと共にロンドンへ入城し、歓喜で迎えられる。

そして、1154年10月25日、イングランド王スティーブンの死去により戴冠。
この時21歳。
巧みに領土を拡大し、その堂々たる版図は後世に"アンジュー帝国"と形容された。


美しく中肉中背、筋肉質、髪は赤みがかかった金髪で、眼窩はくぼんでおらず、灰色の目は怒ると充血する。

運動神経は劣っていたが、行動力に満ち溢れ、文学に造詣深い。
数多くの外国語を話す。
民衆の苦情にも自ら耳を傾け、帝国の隅々にまで足を伸ばした。
動かないのは寝ている時だけで、しかもほとんど眠らない。


その精力的で決断力に富んだ行動で、当時の西洋で最も強力な王となり、巨大な王国に君臨。

しかし、晩年は専制君主的になり、横暴で尊厳を無視した態度が目につくようになった。
妻アリエノールや優秀な息子たちの反乱に脅かされ、ついにはささいな狩猟上の違反に対しても恐るべき懲罰を科すなど、迷走の末に命果てた。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

○名:ヘンリー2世 / Henry II
○生没年:1133年3月5日〜1189年7月6日
○在位:1154年12月19日〜1189年7月6日
○別号:アイルランド卿、ノルマンディー公、メーヌ伯、アンジュー伯
○王朝:アンジュー朝 / プランタジネット朝
○父親:アンジュー伯ジョフロワ4世
○母親:マティルダ
○妃:アリエノール・ダキテーヌ
○子:ウィリアム、若ヘンリー、マティルダ、リチャード、ジェフリー、エレノア、ジョーン、ジョン

コメント(13)

美しく中肉中背、筋肉質、髪は赤みがかかった金髪で、眼窩はくぼんでおらず、灰色の目は怒ると充血する。

というのも一族と同様彼もまたよくない「黒胆汁(不機嫌のもと)の発作」持ちであった。
運動神経は劣っていたが、文学に造詣深い。
ラテン語を読み、数多くの外国語を話す。

ピエール・ド・サントという大学者のもと作詩法を学ぶ。

九才でブリストルに渡り、学僧マチュー(母マティルダの尚書)に学ぶ。


【王妃アリエノール・ダキテーヌ】の中のヘンリー2世
三月に入るとすぐ、ということは王位に上がって3ヶ月以内に彼はイングランドの地方代官がどのような裁判を行っているか知ろうと自ら調査に赴いた。

いつもの旅の姿で…
たちまち人々は彼に「旅合羽」というあだ名をつけた。
王の短い外套は馬に乗るのに最も適していた。
鷹狩りのとき以外はめったに手袋はせず、彼はたえず旅をしていた。

【王妃アリエノール・ダキテーヌ】の中のヘンリー2世



「彼は馬上にあるときと、食事をとる間以外は決して座らなかった。普通の騎行の四、五倍長い距離を一日で行くこともあった」

側近ピエール・ド・ブロウが見たヘンリー2世
教会の中でさえ、ミサにあずかってる最中に彼は時々思わず立ち上がって、いらいらしながらその場を大股で歩き回ることがあった。
動かないのは寝ている時だけで、しかもほとんど眠らなかった。

ヘンリーは手薄な守りの城の前に突然現れたり、彼がまだ遠くにいると敵に思わせておいて敵の行く手をさえぎったり、夜を日についで移動したりして、相手の士気をくじくことができた。

平和な時にでも彼はこのやり方で成功を収め続けていた。
前もって知らせることなく王領のある町に現れ、そのときまで上がりの悪かった税の計算書を提出させたり、異例の時刻に地方代官を召し出し、自ら厳しい調査に専念する。

これとは逆に民衆に対しては彼らの苦情を辛抱強く聞いてやり、自らの人気を高めることに怠りなかった。

ときにはヘンリーは民衆の間で馬をとめ、彼らが近づいてくるにまかせていた。
彼は自分を愛想のよい、人あたりのよい人物だと見せる術を知っていた。


【王妃アリエノール・ダキテーヌ】レジーヌ・ペルヌー著の中のヘンリー2世
この物語(アーサー王伝説)の虜になったヘンリーは、グラストンベリー地方の発掘を行わせた。
そこには王家の修道院が建てられてあり、人々の語るところによるとアーサー王が眠るアヴァロンの国があった所だとされている。


【王妃アリエノール・ダキテーヌ】レジーヌ・ペルヌー著の中のヘンリー2世
1158年の復活祭には、四年前のウェストミンスターでの戴冠式よりもずっと荘厳な第二回目の戴冠式がウースターで、イングランドとウェールズの大諸侯たちを結集して挙行された。

ヘンリーは西洋におけるもっとも力ある王となった。


【王妃アリエノール・ダキテーヌ】レジーヌ・ペルヌー著の中のヘンリー2世
ヘンリー2世の晩年は哀れを誘う日々であった。

かつては美丈夫で立派な風采の騎士であったのに50歳を過ぎると、馬に足蹴にされて傷を受けた片足を引きずって歩く、ほとんど太りすぎの一老人でしかなくなり、側近の話しによると病気の中でも最もたちの悪い病気、つまりじっとしていられぬ病にかかっていた。
たえず動いており、熱に浮かされたように手を動かすのであった。
彼はいつも身なりを構わなかったが、その無頓着ぶりは年をとるにつれてだらしなくなり、自制心を知らぬ男の内面の無秩序ぶりを表すのであった。

優れた手腕家であったヘンリーも、王国に自分の権威を支配させたとはいえ、秩序を確立させたわけではなかった。

晩年になるとその権威は横暴となり、例えばささいな狩猟上の違反に対して恐るべき懲罰(四肢切断、際限のない投獄)を科したりした。

ますます落ち着きなく動き回る王が側近におくらせている凄まじい生活ぶり。
側近たちは騎行の途中で、しばしば口論した。
それは豚でさえも嫌がるような薄汚い小部屋を夜の寝室として奪い合うためであった。
最も騎行中の王の側近の中には大道芸人、売春婦、博徒、道化役者、物まね師、手品師、居酒屋の主、ペテン師にごろつきといったありとあらゆる種類の人々が入りこんでいたのである。


【王妃アリエノール・ダキテーヌ】レジーヌ・ペルヌー著の中の、ヘンリー2世
アンジュー帝国キーワード集

・ブリュ物語(Roman de Brut) 1155年完成
ウァース(Wace)がヘンリー二世のお后であるエレノア・ダキテーヌに捧げた歴史物語詩。
トロイのブルータス(トロイアの英雄アエネアスの子孫でブリテンの開祖)やアーサー王のお話。

・アングロサクソン年代記(Anglo-Saxon Chronicle)
A.D.1 - 1154(キリストの誕生からスティーブン王の死まで)
9 世紀のアルフレッド大王の時代に成立し、ヘンリー2世の即位までを描いた記録。

全ての文章を現代英語で読む事ができる。
http://www.gutenberg.org/etext/657

・オックスフォード大学
1167年、ヘンリー2世によって、イギリスの学生がパリ大学で学ぶことを禁じられたことをきっかけとして急速に発展。
> あるみーさま

キーワード集ありがとうございます。
アンジュー帝国の文化や成り立ちを考えるに重要な物事だと思います。

日を改めて、トップの紹介に追記させて頂きたいと思います。
ファレーズ協定 1174年
・スコットランドはイングランドに完全に臣従する
・スコットランド南部の城にはイングランド軍が進駐する

トマス・ベケット殺害 1170年

大法官(Lord Chancellor)で後に列聖。
ベケットが暗殺された場所に現在はエドワード黒太子が眠る。
http://newblackys.blog.shinobi.jp/Entry/16/
The history of Ireland from the invasion of Henry II.
「ヘンリー二世の侵攻以降の“アイルランドの歴史”」
http://books.google.co.jp/books?id=ue0vAAAAMAAJ&printsec=frontcover&dq=Henry%E3%80%80II&lr=&as_brr=1&ei=8BMBTPGDKZiolQTeq4CjDQ&cd=1#v=onepage&q&f=false

FAIR ROSAMOND; OR, THE DAYS OF KING HENRY II
「麗しのロザムンド、またはヘンリー二世の日常」
http://books.google.co.jp/books?id=LXsEAAAAQAAJ&pg=PA301&dq=Henry+II&lr=&as_brr=1&ei=oxYBTIboKIfMkwS97dXhDQ&cd=4#v=onepage&q&f=false

それぞれPDFやテキストファイルもダウンロードできます。

ロザムンド・クリフォード:ヘンリー2世の愛人。

伝承とバラ
http://www.green-valley.jp/topics_Myth2.html
ロサ・ムンディ Rosa Mundi
本品種の命名は、イングランドの王、ヘンリー2世(治世1133-1189)の愛人であった、ロザムンド・クリフォード/Rosamund Clifford(1150-1176)に由来するという説が有力です。
ロザムンド・クリフォードの墓碑:
此処に、上品ではあるが、純潔ではないばらが眠っている、
香りは高いが、匂いは、本当のばらの香り、ではない。
スコットランド ファレーズ協定 1174年
1189年、リチャード1世の時に廃止。(第三次十字軍の資金集めのため)

アイルランド ダブリン城攻略 1170年
ダブリンを占拠していたヴァイキングを追い出す。

ウェールズ リースとオーウェンを招集 1157年、1163年
ブルート・ウ・トゥヴィソギオン(ウェールズの年代記)
クローゲンの戦い
11世紀後半はグウィネッズ、ポウィス、デハイバーズの三公国時代。
ルウェリン・アプ・ヨーワース(大ルウェリン)
ジョン王時代の人。1217年にウェールズをほぼ統一する。

この後はジョン王の孫、エドワード1世の時代に再びスコットランド、ウェールズを臣従させる。
ウェールズ:1277年
スコットランド:1292年

アンジュー帝国興亡記
http://stanza-citta.com/eu2/index.php?%A5%A2%A5%F3%A5%B8%A5%E5%A1%BC%C4%EB%B9%F1%B6%BD%CB%B4%B5%AD%A1%CA%A5%D5%A5%E9%A5%F3%A5%B9AAR%A1%CB

イングランド王ヘンリー2世愛妾 ロザモンド
http://blog.goo.ne.jp/marifle1010/e/b39d48f9f2d8662f66a2966a548ac851
エルサレムから来た悪魔
http://www.amazon.co.jp/dp/448822203X
http://www.amazon.co.jp/dp/4488222048

1171年のケンブリッジが舞台。

イギリスの推理小説家エリス・ピーターズ女史が生み出した
「修道士カドフェルシリーズ」の時代もアンジュー帝国に重なります。
聖女の遺骨求む ―修道士カドフェルシリーズ(1)
http://www.amazon.co.jp/dp/4334761259

21巻まで翻訳されて出版済み。
http://www.amazon.co.jp/s/ref=nb_sb_noss?__mk_ja_JP=%83J%83%5E%83J%83i&url=search-alias%3Dstripbooks&field-keywords=%8FC%93%B9%8Em%83J%83h%83t%83F%83%8B&x=0&y=0

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

プランタジネット朝 更新情報

プランタジネット朝のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング