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ネット詩を語る会 in フクオカコミュの第5回 荒川洋治「資質をあらわに」

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前回のトピックだてからはや1ヵ月が経った。

これまで、中也、朔太郎、賢治、みすゞと、人気のある近代詩人ばかりをとりあげてきて、次もやはり近代詩人とすべきなのか、それともそろそろ戦後詩人、あるいは現代詩人をとりあげるべきなのかと悩んだのだが、結局、戦後のおわりを象徴して、エポックメイキング的詩人、詩作家と称する荒川洋治に登場いただこうと思う。

とりあげる詩だが、H氏賞を受賞した『水駅』でも高見順賞を受賞した『渡世』でもなく、『一時間の犬』から『資質をあらわに』をとりあげる。

理由をあえて言えば、世界地図を眼前にひろげて、想像の力で詩作をした『水駅』の力業が、おそらく実際の経験を経たうえでどのように変化・変貌を遂げたのかをみることができるのだと思う。井坂洋子はそれを、「さしで向き合う果敢な位置」と書いているが、はてさてどんな印象をあらわにするのだろうか。



(資質をあらわに)

自分だけがこうしていても
雨ひとつないトルキスタン ヒワの旅の日は
雉のように色を撒いて過ぎていく
置いてきた島の国には
まずしい人の麗姿が消えた
蟹工船 キャラメル工場 輸血協会よ
歴史からもさらば
物にみち みちたりたとき
人にはもはや成すことも することもないのだ
あるのは列島の土砂と
モーツァルトを聴くこと
いまはにせのゆたかさだ、
人は心を失っている、これがゆたかさでないと
でもそれは新聞とテレビが書くこと
文字がいま言葉になってすることだ
精神のはたらきなど
もはや誰にも 正確に想像できない
もう
これ以上
人間としてすること
課題を見いだすことはできない
と、人は目の裏で見ている
人間のいらない あの国の
そんなかしわでを聴くことにしよう
ヒワの村の朝焼けのもと
汚れた学生の眠る部屋
目覚ましと化した
はるか上陸のモーツァルトを


いまひとつタイトルと詩の内容との整合性がとれない思いがするものの、詩句は全般的に、直截的に意味と繋がっているところに、この詩の特徴がある。したがって、日記で詩の一次的効用、二次的効用といったことを論じたことがあり、荒川洋治は二次的効用の代弁者といった設定を文章を組み立ててみたりもした。

しかし、むしろ直截性から言って、一次的効用の方に属していると言っていいかと思う。地図を目前にしてイメージした『水駅』的世界の表層とは逆の視線によって、かつて立脚していた日本を、この詩はみている。


コメント(9)

荒川洋治ってすでに忘れられた、かつての流行詩人なのだろうか。

いや、そんなはずはないと思う。
すくなくとも、わたしぐらいの年齢の詩を書く者、詩を考える者にとっては、彼は必ずや欠かせないエポック的存在だと思うのだ。

そりゃ、谷川俊太郎の方が、多様性があるし、ポピュラリティもある、おそらく愛唱性もあるに違いない。そんな万能の詩人・俊太郎を取り上げたなら、それこそ収拾がつかない事態になりはしないかと恐れたのだ。

荒川洋治にしても、一筋縄でゆくほどお手軽な詩人ではない。俗に塗れながらも孤高であり、清濁あわせ呑んで至誠である、こんな詩人はちょっといない。

荒川洋治さんは好きな詩人の一人ですが、この詩はどうも……。
高度成長期の日本に対する捉え方が今から見るとステレオタイプ的でしっくりきません。

 高度成長期の日本人は心を失っていたのでしょうか。経済的にはいろいろなことが考えられます。高度成長期が日本の文化の熟成 成長も行なわれていたとも考えられます。もっともみるべき哲学がなかった事は確かです。インテリのおもちゃのような哲学はなかったかも知れませんが、それなりに文化も熟成していました。見せかけの豊かさというより みんなで足並みそろえてちょっとだけ豊かだったのだと思います。また、豊かな夢を見ていました。そこのどこが悪いのでしょうか と思ってしまします。

 むしろこの豊かさの中でどのような心のあり方を持つべきなのか見当が付かず、過去しか勉強していないインテリと称する人たちが茫然自失となっていたのが、この当時の状況だったのかも知れません。

※バブルの要因は物質至上主義とか拝金主義とかそんな単純なものではないのでここで書きませんが。

そんなことを感じさせる詩です。

それ以上の意味が読み込めるのであれば話しは別ですが。
私には読めません。

ほかけ さん

この詩は、戦中・戦後に書かれたものではありません。
所収の詩集が1991年の発行なのでその数年前に書かれたものと思います。

〈蟹工船 キャラメル工場 輸血協会よ〉というのが
誤解を招く一行になっているかと思いますし、荒川洋治の詩のなかでは
比較的わかりやすい詩であると思います。

……とある蛙さん

コメントありがとうございます。

すこし勘違いされているように思うのは、この詩が書かれた時期が高度成長期ではなくバブル期だということです。物のとらえ方が〈ステレオタイプ的〉であるのかもしれませんが、海外から俯瞰的に捉えた島国・日本なのですから、ある程度は仕方のないことなのかもしれません。

それよりも、『水駅』の空想上の世界観と、実際じぶんの足で立ってみた海外、しかも、そこからみた母国という対比的な捉え方・見方にじぶんは面白みを感じたのでした。

バブル期の日本を書いているのであれば、何となく題名が頷けます。

バブル期の日本は麻薬中毒患者のようです。日本人は土地という元来公共性が強くて資源に限りのある物を投機対象にして、考え方の羽目が外れたのだと思います。

しかし、全てが全てではないことはもちろん、バブルの効用もあるはずなのです(たとえばインフラの過剰な整備ー但しメンテナンス必要)が、見事なくらいそのまま転落しているのが現在の日本です。

あるものの利用が下手ですね。→エコのことではありません。念のため。

もう一度謙虚に誠実な日本に戻るべきだとは思います。

なんか詩の感想ではありませんね(w)
……とある蛙さん

コメントありがとうございます。

脱線ついでにわたしも書きますが、中国マネーが日本の国債や土地を買っている話題がでてきましたね。かつてバブル時の日本もアメリカの企業を買収したり土地を買ったりしたことがありましたが、中国もまったく同じようなことをしていますね。

中国の場合は、華僑という移住団がいて、儲けた資金を母国を送金することをしている話をきいたことがありますけど、海外支店を展開しているいまの日本みたいで、中国やユダヤ人の方が先にそんなことをしていたようにも思えますね。

非常に、直線的な詩であるように感じます。勉強不足で、実は荒川洋治さんは、渡世と空中の茱萸しか読んでいないのですが、その二冊に収録された、呼んだ覚えのある作品から感じていた印象と比べて、この詩は、相当に内容が直線的に頭に入ってきました。タイトルが、少し異質に感じました。誰の何の資質があらわにされているのか。日本人の、でしょうか。固有の文化というものは、結局、他のもっと便利なシャープなものを手に入れやすい状態になれば、そのほとんどは、代換されていき、共通して享受できる大きなトピック(モーツアルトのような)のみが、残るのかな、と、読んでいてふと思い、同時に、いや、結局、そうではなく、もっと長いときが経てば、元の固有の資質に戻ってしまうんじゃないだろうか、とも思いました(なんだか、わかりにくい言葉ですいません)。あと、最初携帯からアクセスしたのですが、携帯で読むと、ちっともピンとこなかったんです。PCからアクセスして読んで、急に、結構わかりやすい内容の詩じゃないのかな、と思いました。
フェイゲンさん

コメントありがとうございます。

「資質」が「あらわ」にされているのは、時を重ねて織りなしてきた果ての日本人の姿でしょう。それがどういうものであるのか、例えばそれは「人にはもはや成すことも することもない」茫然とした姿だったり、「課題を見いだすことはできない」自失した姿であるのでしょう。それが「資質」であるとは可笑しな言い草であって、その奥にある日本人としての一貫した価値観であったり、宗教心の欠如を指しているのかもしれません。

そして、ここにでてくる「モーツァルト」とは、外来文化の象徴なのでしょう。

わたしには、刀を差したチョンマゲ姿の侍が、蓄音機で音楽に耳を傾けている格好がなぜかイメージされます。

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