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NHK大河ドラマ 平 清盛コミュの平家武将所縁の史跡の画像紹介をしませんか?

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意外に身近な所に平家方の武将所縁の史跡や所縁の地が在ると思います。平家武将所縁の史跡を画像付きで紹介しませんか?

コメント(120)

◎日野誕生院(ひのたんじょういん)

浄土真宗 本願寺(西本願寺派)   京都市伏見区日野西大道町
http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000011576359&owner_id=9873863

この地域は、古代の行政区分では山城国宇治郡日野と呼ばれ、藤原北家のなかの日野家の伝領地である。日野家は、儒道や歌道などで代々朝廷に仕えた公家で、藤原真夏(まなつ)が始祖とされている。この日野家、室町時代には日野業子が3代将軍義満の正室(業子が亡くなると姪の日野康子が後室に)となったのを初めとして、日野康子の妹の栄子が4代将軍義持の正室に。さらに日野宗子が6代将軍義教の正室(後に政略離別させられ、妹の重子が側室)となった。そしてよく知られた日野富子が8代将軍義政の正室となった。このように、日野家は将軍家との縁戚関係を深くもった家柄。江戸時代には家禄千百石余りで、子孫は日野家を筆頭に、広橋家、柳原家、烏丸家など12家を数える。

この日野家は、浄土真宗の親鸞聖人も輩出している。親鸞は、平安時代末期の承安3年(1173)、日野有範(ありのり)を父に(母は清和源氏の八幡太郎義家の孫娘の吉光女(きっこうにょ)と伝えられる)この日野の里で誕生し、東山区粟田口の青蓮院で得度する9歳までこの地で過ごしたと伝えられる。後に、比叡山で修学し、建保2年(1214)に常陸国(茨城県)で浄土真宗を開く。


・住所:京都市伏見区日野西大道町  ・電話:075-575-2258
・拝観:9:00〜17:00  見学所要時間 約 10分(車椅子による見学は不可・石段と段差あり)
・交通:地下鉄東西線「石田」駅下車、東へ徒歩約20分、京阪バス8系統「日野誕生院」下車すぐ
・駐車場:自家用車2台分 無料


誕生院本堂背後(北東傍)に日野家代々の廟所(日野畑出町)がある。廟所中央の五輪塔が親鸞聖人の父日野有範(ありのり)の墓で、傍らに吉光女(きっこうにょ)の墓がある。誕生院を含めて、この一帯は浄土真宗門徒の聖地の一つとなっている。この他、”日野の里”には「方丈記」の著者鴨長明が隠棲していた方丈庵跡がある。

一の谷の合戦で破れたすえ木津川のほとりで斬殺された平清盛の五男、重衡(しげひら)の墓もある。

また、法界寺山門前の道を北へ行くと、同じ真言宗醍醐寺派の一言寺、さらに北には醍醐寺がある。

◎法界寺(ほうかいじ) 通称:日野薬師 (ひのやくし)

真言宗醍醐寺派  山号:東光山   京都市伏見区日野西大道町19
http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000011577804&owner_id=9873863

京都市伏見区日野の地は親鸞の父である日野有範(ありのり)の居住地、また「方丈記」の鴨長明の隠居地などで知られています。

法界寺のあるこの辺りは醍醐寺の南側、“日野の里”と称される地域で静かな山郷の雰囲気が残っている。古くは山城国宇治郡日野と呼ばれ、奈良時代以降は藤原北家の一派である藤原真夏(まなつ)の子孫にあたる日野家の伝領地 にあたる。平安時代は天皇や公家の遊猟地とされ、桓武天皇は何度か猟に訪れていた記録があるという。

法界寺は、平安時代前期の弘仁13年(822)、藤原北家の流れをくむ家宗(いえむね)が慈覚大師円仁から贈られた伝教大師最澄作と伝える薬師如来の小像(約9cm)を山荘に祀り、日野家の至宝として子孫に伝承された。平安時代後期の永承6年(1051)、日野資業(すけなり)がこの小像を胎内に納めた高さ90cmほどの白檀の薬師如来 立像(秘仏・重文)のサヤ仏を造り、そのサヤ仏を安置する薬師堂を建立し日野家の菩提寺としたのが法界寺。
京都・わら天神(敷地神社)

◎平清盛公の塚。
わら天神(敷地神社)境内の南端に古来より清盛塚と俗に称えられた前方後円墳式の古墳あり、改修の際に壇上の岩石を除くと石棺が現れ、東京の帝室博物館に鑑定依頼をするも、平清盛の時代と相違ありとのこと、岩石は六勝稲荷神社の前に移したものが即ちそれであります。
京都市遺跡地図には、古墳時代後期の円墳「衣笠天神森古墳」として載っています。 近世の地誌『雍州府志』(巻10)や『京羽二重織留』(巻5)に、次のような内容が書かれています。「 衣笠山東麓にある六所明神社の南に、平清盛公の塚がある。この地を踏むと、響きがする。土地の言い伝えによると、この地に葬られた平清盛の石棺が響いているのだと云われています。

清盛は六波羅で薨じ、その遺骨は摂津国経の島に納められたと伝わっていますので敷地天神敷地内に在るわけないのですが、平清盛公の塚と伝わっているからには、なんらかの縁があったと考えられる。

結界がはっていて立ち入ることができませんでした。(写真右)
後日、連絡して前方後円墳式の古墳を見学させていただきたいなあと考えています。


■問い合わせ先
京都市北区衣笠天神森町
TEL 075-461-7676
Fax 075-461-8282
■周辺交通機関
・JR京都駅より市バス50号 急行101号、205号
・地下鉄北大路駅より市バス 204号 205号
・京阪三条駅より 市バス15号
・阪急西院駅より市バス205号
いずれも"わら天神"下車すぐ

*所在地やお値段などのくわしい最新情報は、ご自分でネット検索をしてください。

http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000068199587&owner_id=9873863
須磨寺に行ってきました。

一枚目…源平の庭 手前が熊谷次郎直実、奥が平敦盛ぴかぴか(新しい)
二枚目…敦盛の愛笛、青葉の笛ぴかぴか(新しい)

敦盛の鎧兜、敦盛の首を洗ったと言われる池もありました。
家の近くです。

赤間神宮・第二次大戦により社殿を焼失し、昭和40年(1965年)4月に新社殿が竣工しました。

平家一門の墓

耳なし芳一堂(赤間神宮内)
平知盛と壇ノ浦

句碑

下関では碇説の様です
知盛かっこいいぴかぴか(新しい)ぴかぴか(新しい)
「見るべきものは見つ。今は自害せん」ですねぴかぴか(新しい)
壇ノ浦行きたくなってきました。
>まささん

是非、おいでください。
バス停「みもすそ川」のすぐ傍で、わかりやすい所です。
↑の2枚は以前NHKで『義経』が放送されたときに
役者の皆さんがおいでになり、
記念に造られたものです。

反対側に義経の像があり、
タッキーや松坂慶子さん他の手形があります(笑)
しかし、知盛役だった『阿部寛』さんだけありません。

碇は赤間神宮(安徳天皇御陵)と国道を挟んで
海側にあります。

安徳天皇陵はここからは少し遠い、
下関市豊田町 豊田湖の中の島にあります。
きゅうちゃんさんありがとうござます。
今度九州へ行くので、帰り道に寄りたいと思いますわーい(嬉しい顔)
敦盛塚の近くの須磨山上遊園に琵琶を聴きに行きました。

今週末8/25が最終公演です。
http://www.sumaura-yuen.jp/news/info/entry-185.html
山陽電車須磨浦公園駅からロープウェイとカーレーターという
乗り物で山上まで。ロープウェイは清盛号(赤)と義経号(白)。
18:30のステージは今様「遊びをせんとや〜♪」からはじまり
平家物語のうち「祇園精舎」「敦盛」などのハイライト。
19:30のステージは日替わりだそうです。同一の入場料100円で両方聴けます。

素敵な女性の琵琶奏者でした。
宮島の歴史民俗資料館で来年の一月まで平清盛館というのがありますよ。
ドラマの衣装とか小道具とか展示してました。後白河がよく着ている赤色の衣装もありました。
記念撮影コーナーもあって甲冑姿の松ケン(パネルですが)と一緒に写真撮ってきました目がハート
京都・浄土院(じょうどいん)

銀閣寺入口の前に立つと、左手に小さなお寺があります。

それが、浄土院です。

軽い気持ちで参拝させていただいた浄土院は、驚くべきお寺でした。

浄土院(じょうどいん)は、京都市左京区銀閣寺町にある浄土宗の寺院。本尊は阿弥陀如来。山号は清泰山。五山送り火のひとつ「大文字」を管理することから「大文字寺」とも称されています。

この寺は、かつて慈照寺(銀閣寺)の場所に浄土寺という天台宗寺院がありました。この浄土寺の創建年代等については不詳であるが、986年(寛和2年)浄土寺で有明親王(醍醐天皇の皇子)の妃である藤原暁子が出家し、有明親王の子明救(みょうぐ)が入寺しています。

その後、皇室との関係が深かったが、室町幕府8代将軍足利義政が山荘(後の慈照寺銀閣)を建てるにあたり、相国寺付近に移されその後廃絶しまた。その浄土寺の跡を引き継ぐにあたり享保年間(1716年〜1736年)に建てられたのがこの寺とされています。

境内には、丹後局の人形が飾っている社がございます。

平安時代末から鎌倉時代の丹後局(高階栄子、たかしなのえいし、1151? - 1216?)は、美貌の持ち主だったという。後白河法皇の側近・平業房の妻となる。1179年、夫は平清盛に殺害される。その後、後白河法皇の寵愛を受け、源頼朝とも親密な関係にあった。頼朝や義経を利用して源平合戦まで発展させたのが丹後局かもしれません。平清盛に殺害された夫、平業房の敵討ち。(私感です。)

しかし、平清盛と丹後局は、従兄弟どうしなのだ。
丹後局の母親・政子(若狭局)と平清盛の父親の忠盛は兄弟。
また、丹後局の母は後白河法皇最愛の女性・建春門院の乳母の若狭局ではないかと云われている。

6人の子を育てながら後白河法皇に代わり、政治にも深く介入した。「日本の楊貴妃」「女性政治家の先駆者」ともいわれている。政治的な権勢を失ってのち、朝廷から身を退く。後白河法皇没後、尼となり、亡き夫・業房の所領だった浄土寺に隠棲した。浄土寺二位尼・丹後局(立像)も祀られている。

後白河法皇は、数多くの女性に子供を産ませているが、後白河法皇が愛した女性は、滋子(建春門院)と高階栄子(丹後局)だけだと云われている。
後白河法皇が後白河院となってからは後ろ楯に、後白河院との間にできた娘を格上げして門院にした。 覲子内親王(宣陽門院)。
法皇の死後は、長講堂領をはじめとする莫大な所領が娘・宣陽門院に伝領され、それを擁してその後も政治的活躍を続けた。たくましい女性だ。

かわいいところは、後鳥羽上皇の院政開始、近臣の死などにより晩年は勢力が衰え、亡き夫・平業房の所領・浄土寺に住んだ。1216年薨去〔2月または3月〕
平清盛へのクーデターが無ければ平業房と一生過ごしたのかもしれませんね。

http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=16177441&owner_id=9873863
あ!そうそう。嵐山嵯峨野の竹林を散策しておりますと、二尊院に辿り着きます。
近くに「西行井戸・歌碑」の石柱・駒札があります。
ついでに見てもいいかと思いますよ。

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1572912921&owner_id=9873863
先日、和歌山の龍神温泉から高野山に向かうスカイラインの途中で
「平維盛歴史の里」という看板に惹かれてそちらに向かうことに。

維盛は、(平清盛の嫡孫で、平重盛の嫡男)
八島の合戦の最中 逃亡したとも、
熊野水軍の援助を乞いに出向いたともいわれ、
その最後は、
熊野那智の海に入水したとも
生き延びて、護摩壇山のふもとで没したとも言われていて。。。
が、この野迫川村には、
この地で、61歳の生涯を終えたという
維盛の塚がありました。
超イケメンだったという維盛の塚におまいりしてきました。

立派な資料館もありましたがこの日は、
無人で訪問はかないませんでした。
>>[93]

初めまして。
野迫川に行かれたのですね(*^^*)
資料館はいつも無人なので勝手に開けて入る形みたいですよ(笑)確か朝9時〜5時位までの開館です。

次に行かれるときは向かい側の勝手神社も行かれて見てください。

>>[94]
ご丁寧にありがとうございます。
私も検索してみたら、
管理人さんが、朝夕に鍵の開け閉めだけに来られているとか。
ジオラマとかあるそうなので、勇気を出して行けばよかったと思いましたあせあせ(飛び散る汗)
次には、是非。
三嶋神社(みしまじんじゃ)

土火水(土:万物の母、火:万物の大気、水:万物の源)の3つの神徳があり、女性の安産・子宝、夫婦の和合を守護する神といわれ、安産四十一社のひとつにも数えられています。あらゆる生物の出生、生育、放生を守護しています。御祭神は、大山祗大神(おをやまづみのおをかみ)、天津日高彦火瓊々杵尊(あまつひだかひこほのににぎのみこと)、木之花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)の3神。また巳蛇(水蛇=うなぎ)が神の使者として祀られています。


三嶋神社の由緒は、後白河天皇の中宮(皇后)平滋子建春門院様にあります。皇子のないことを嘆いた平滋子は、摂津(大阪府高槻市)の三嶋大明神に祈願したところ、夢の中に白衣の翁が現れてお告げを受け、間もなく後の高倉天皇をお産みになりました。

喜んだ後白河天皇は、この地に邸宅・小松谷邸を持っていた平重盛(平清盛の嫡男)に命じて社殿を造営し、三嶋大明神を勧請したのがはじまりとされています。

現在も皇室とのつながりがあり、秋篠宮殿下が2度参拝されるなど皇室の子宝祈願にも一役買っています。そのかいあって悠仁親王が誕生なされました。実に41年ぶりの男系男子誕生です。

三嶋神社(みしまじんじゃ)
075-531-5012
京都市東山区東大路通東入上馬町3丁目


◎瀧尾神社の境内に設けられた祈願所
http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000048249586&owner_id=9873863
本宮は東大路通東入に鎮座されているが、かつては三嶋神社の近くに瀧尾神社があったというご縁もあり、「瀧尾神社」の境内内にも三嶋神社の祈願所が設けられ、絵馬の奉納や祈願が行えます。

うなぎを眷属として祀る三嶋神社の信仰には水場が欠かせないが、本宮の近くを流れていた音羽川が枯れ、近くに水場がなくなったことも祈願所の設置には影響しています。


◎小松谷御坊 正林寺
http://photo.mixi.jp/view_album.pl?owner_id=9873863&album_id=500000047587923
五条大橋西詰センターにある牛若丸と弁慶の石像。


五条大橋で牛若丸と弁慶は出合った。

弁慶にとっては、千本目の刀だ。。。

でも、牛若丸に負けてしまい家来となる。

しかし、牛若丸と弁慶は出合った五条橋は、この橋ではない。

五条橋は、現在の五条大橋のもう一つ北側に架かっている松原橋こそが歴史的な五条橋なのだ。

◎松原橋(鴨川に架かる旧五条橋)
http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000049987964&owner_id=9873863

松原橋周辺の六条河原を主戦場に初の源平合戦が火ぶたを切った。
平氏一門が松原橋を壊して盾を作り鴨川東岸で源氏を待ち受けたのだ。源義朝は、東国へ逃亡するも尾張国で殺害され人生に終わりました。勝った平氏一門は、その勢いで栄華を極めていったのだ。

牛若丸と弁慶は、松原橋(旧五条橋)の上で出合ったと云われている。現在の五条通(一号線)の五条大橋の上では戦っていない。当時は、五条大橋は無かったのだ。

http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000074437452&owner_id=9873863
鞍馬寺

鞍馬寺(宗教法人) 京都府京都市左京区鞍馬本町. 線名. 鞍馬山鋼索鉄道. 区間. 山門多宝塔 ... 鞍馬弘教総本山鞍馬寺. 鞍馬寺は、奈良時代の宝亀元年(770)、鑑真(がんじん)和上の高弟鑑禎(がんてい)上人が毘沙門天像を彫し、草堂を結んだのが始まりだと言われています。

鞍馬寺は牛若丸(源義経の幼名)がここで兵法修行したと伝えられていることでも著名であり、牛若丸(義経)縁の遺跡も多く見られます。
平野神社

「第四十回 はかなき歌(10/14)」で紹介された平野神社です。96の三嶋神社(みしまじんじゃ)も紹介されましたね。

平野神社には約50品種のサクラの木があり、3月中旬から4月下旬まで順々に観賞する ことが出来ます。
http://www.asahi-net.or.jp/~cr8y-httr/hirano/

祭神は、以下の4柱である。
今木神(第一殿) -- 染織・手芸・衣の神
久度神(第二殿) -- 竈・台所・食事の神
古開神(第三殿) -- 斉火の神
比売神(第四殿) -- 不明。光仁天皇の妃高野新笠とする説もあった。
今木神の今木は今来のことで、渡来人を意味する。

祭神について「平野大神」「皇大御神」という称号も使用されていた。 例大祭の平野祭には皇太子が奉幣する定めになっていた。また歴代天皇の行幸も円融天皇から後醍醐天皇までの17帝21回を記録するなど天皇家の崇敬も厚くそれに伴い、臣籍降下した源氏・平氏はじめ高階・大江・中原・清原・菅原・秋篠各氏他天皇外戚の氏神であるとされ、臣籍降下の流れを汲む公武に尊崇されました。
平野神社が宮中外に祀られたのは、この臣籍降下と深く関わつているようです。『源氏物語』の光源氏は臣籍降下した一族の繁栄を願った平野大神の顕現であるとの説も一理あるようです。

京都府京都市北区平野宮本町1
京都市営バス - 「衣笠校前」バス停下車、北に徒歩3分
http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000012559507&owner_id=9873863
平家武将の所縁の史跡 というわけではありませんが・・・
清盛が心血注いだ日宋貿易。南宋の都杭州は、水の都です。(今は大都会)
常に水蒸気が立ちこめているのか(はたまたスモッグか?)果てしなく広く茫洋とした景色が広がっています。
年に一度大逆流する銭塘江 と 西湖
鹿ケ谷の陰謀(ししがたにのいんぼう)の舞台周辺。

京都市東山鹿ヶ谷(現在の京都市左京区)
http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000075277151&owner_id=9873863

平安時代の安元3年(1177年)6月に京都で起こった、平家打倒の陰謀事件である。京都、東山鹿ヶ谷(現在の京都市左京区)の静賢法印(信西の子)の山荘で謀議が行われたとされ、このように呼ばれる。近年では、この陰謀が平清盛によってでっち上げられたものだとする説もあり、「鹿ヶ谷事件」と著す学者もいる。

安元2年(1176年)後白河法皇は50歳となり、正月から祝いの行事が続いた。平氏一門も法住寺殿の宴に出席して、法皇との親密ぶりを誇示した。しかし6月に建春門院の病状が悪化して、7月8日に死去した。相前後して、高松院(姝子内親王)・六条上皇・九条院(藤原呈子)が亡くなり、政界はにわかに動揺する。
まず母の死により、皇子のいない高倉天皇の立場が不安定となった。成人して政務に関与するようになった高倉天皇と、院政継続を望む後白河の間には対立の兆しがあったが、12月5日の除目において後白河近臣の藤原定能・藤原光能が、平知盛らを超えて蔵人頭に任じられた。後白河院政派の躍進に対する巻き返しとして、翌安元3年(1177年)正月の除目では平重盛が左大将、平宗盛が右大将となった。建春門院という仲介者を失ったことで、人事を巡り高倉を擁する平氏と後白河院を擁する院近臣勢力は相争うことになる。それでも3月14日に、後白河院が千僧供養のために平清盛が滞在している福原を訪れて平氏に好意的態度を示し、亀裂は修復されたかに見えた。

謀議が事実であったかどうかは当時でも疑問視する向きが多く、西光と成親が清盛の呼び出しに簡単に応じていることから、平氏側(清盛)が院近臣勢力を潰すため、もしくは山門との衝突を回避するためにでっち上げた疑獄事件の可能性もある。清盛が狙いをつけたのは院近臣の中核である西光・成親で、後白河には手を下さず福原に引き上げた。後白河は「こはされば何事ぞや、御とかあるべしとも思し召さず」と白を切ったという。また、清盛も後難を恐れて院御所への出仕を拒む諸臣に出仕を命じている(『玉葉』6月3日条)ことから、この時点で後白河への処分を見送ったと考えられている。
延暦寺攻撃という後白河の命令に清盛が抵抗した理由については次の理由が考えられている。当時の人々からは、神罰や仏罰の存在が真実であると考えられていた。しかも平安京を仏法で守護していると信じられてきた延暦寺を攻撃するともなれば、ただでは済まされず必ず仏罰を受けると思われていた。これは、『平家物語』のこの事件の件において、かつて関白藤原師通が延暦寺大衆の攻撃を命じた仏罰を受けて死亡したという故事を載せていることからも理解可能である。特にそれを命じたのが治天の君であり、「王法」の代表者とされた後白河であったことは、王法と仏法の相互依存によって国家が守護されるという「王法仏法相依」理念の崩壊を意味することにもなりかねない深刻なものであった。実際に攻撃を命じられた清盛の立場からすれば、延暦寺攻撃による因果応報によって自己及び平家一門が仏罰を受けて滅亡するという事態を危惧することは十分に考えられ、それを強制的に平家一門に行わせようとした後白河及び院近臣に何らかの意図を疑う余地があったと考えられる[1]。「延暦寺攻撃命令=平氏一門滅亡の謀略」という発想は、その後の足利義教や織田信長の比叡山焼き討ちの事実を知る後世の人々には突飛に見えても、清盛及びその時代の人々には通用する構図であったと考えられるのである[2]。
一方、重盛は、白山事件で家人が矢を神輿に当てる失態を犯したのに加え、妻の兄が配流されて助命を求めたにも関わらず殺害されたことで面目を失い、6月5日に左大将を辞任した。この結果、宗盛が清盛の後継者の地位を確立した。また、清盛の弟で、成親捕縛時に重盛と共に居合わせた頼盛も、妻の兄弟の俊寛が参加していた事で同じく面目を失い、後白河の院近臣としてただでさえ微妙だった立場がより悪化していく事になる。清盛は山門との衝突を回避し、反平氏の動きを見せていた院近臣の排除に成功したが、清盛と後白河の関係は修復不可能なものとなり治承三年の政変(1179年)へとつながっていく。

「俊寛僧都忠誠の碑」http://ja.wikipedia.org/wiki/ファイル:Daimonji_shunkan.jpg

鹿ケ谷事件〜「平家打倒の謀議」はあったのか?
http://www6.plala.or.jp/HEIKE-RAISAN/jikenbo/shishigatani.html
>101にある
>一方、重盛は、白山事件で家人が矢を神輿に当てる失態を犯した

その神輿は、滋賀県日吉大社にある「山王神輿」だと言われている。
当時の神輿は、平安時代に焼失。現存の神輿は、桃山時代に作られた神輿で重要文化財の指定を受けている。

http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000000561243&owner_id=9873863
第四十二回 鹿ケ谷の陰謀(10/28)「平清盛」紀行で紹介されました。

◎六地蔵巡り
平清盛は西光法師に命じ、街道の入口に六角堂を建て、一体づつ分置し「廻り地蔵」と名付けた。これにより庶民に地蔵信仰が広まり、六地蔵巡りの風習 が室町時代に始まったとされている。
(なお、当初は木幡の里、四ノ宮河原、鳥羽の作り道、西七条 、蓮台野、深泥ヶ池、西坂本の7街道に六体の地蔵尊像を安置したとされ、現在の六地蔵の大善寺、四ノ宮の徳林庵、上鳥羽の浄禅寺、桂の地蔵寺、常盤の源光寺、鞍馬口の上善寺となったのは、江戸時代初期の寛文5年(1665)頃)
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1566569281&owner_id=9873863

写真は、東海道・四ノ宮の徳林庵(山科地蔵) 。俺の住んでいる山科区にあります。
京阪四ノ宮駅下車(徒歩5分) 山科区四ノ宮泉水町16 電話075-583-0353
http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=422201183387419&owner_id=9873863
嵐山・法輪寺(ほうりんじ)。高倉院の寵愛を得ていた小督局ゆかりの寺。

高倉院の寵愛を得ていた小督局は、中宮(建礼門院徳子)が太政大臣「平清盛」の娘であったので、その威勢を憚り姿を隠してしまいました。高倉院は弾正大弼仲国に寮の御馬を与え小督局の行方を捜させ、仲国は嵯峨野に向かいました。

嵯峨野に隠れ暮らしていた小督局は、折からの中秋の名月に琴を弾じて心を慰めていました。その奏でる「相夫恋」の曲を聴き、彼方此方と尋ねあぐんでいた仲国は、小督の居場所を突き止めました。以前仲国は御遊の折々に笛を奏して、小督の局の琴の音を知悉していたからです。

なおも身を隠そうちする小督にようやく高倉院からの文を渡し、返書を受け取った仲国は、舞を舞って小督を慰め帰って行く。

明月の夜の嵯峨野あたりの風情を詠った秋の名曲といえますね。

法輪寺の境内に入ると表門から本堂までの石段を上がると紅葉が見事でした。本堂近くにある展望大から見る京都市街地は見事でしたね。
http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000076942429&owner_id=9873863

◎法輪寺
虚空蔵法輪寺は京都西山・名勝嵐山の中腹にあり、『十三まいり』のお寺として知られています。本尊虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)は嵯峨の虚空蔵さんとして古くから親しまれており、今昔物語・枕草子・平家物語などに記述され、智恵・福徳・技芸上達そして丑寅年生の護本尊の仏様として知られています。また、『針供養』『漆祖神』のお寺として全国から信仰を集めております。また、境内には電気・電波を守護する鎮守社『電電宮』が祭祀されています。

春の新緑の季節には、虚空蔵様の恵を得ようと参詣する十三参りの男女で境内は賑わいます。
http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000076941423&owner_id=9873863


◎小督局ゆかりの法輪寺。
【正式名称】小督塚(こごうづか)
【住所】右京区嵯峨天竜寺芒ノ馬場町
法輪寺に「小督塚」が在ると聞いていたので社務所で拝観できませんかと聞いたら公開していませんとやんわりと断られました。残念。桂川沿いにある「小督庵」は確認できた。あとは、五輪石塔ですね。

右京区嵐山渡月橋の大堰川(桂川)の左岸少し上流にある小督局を弔う五輪石塔。琴の名手小督は高倉天皇(1161-81・応保1―治承5)の寵愛をうけるが建礼門院(平清盛の娘)の嫉妬で2度も御所追放。塚の場所(法輪寺)は最初の隠棲地。東山区の高倉天皇陵のそばにある清閑寺には、小督局を弔う宝篋印塔がある。
◎清閑寺(せいかんじ)《平家物語ゆかりの寺院:清閑寺(せいかんじ)》
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◎NHK大河ドラマ「平清盛」ー源平に翻弄された女達の運命ー
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◎祇王寺の哀しい物語(祇王寺(ぎおうじ・往生院))

現在の祇王寺は、昔の往生院の境内であります。往生院は法然上人の門弟良鎮に依って創められたと伝えられ、山上山下に亘って広い地域を占めていたが、いつの間にか荒廃して、ささやかな尼寺として残り、後に祇王寺と呼ばれる様になりました。
祇王寺に隣接する 滝口寺は、平家物語「維盛高野」の巻で語られている滝口入道と横笛に由来する。奥には、竹林に隠れるように滝口入道と平家一門の供養塔が建っています。
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白拍子(しらびょうし)祇王(ぎおう)の話は、“祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり…”で始まる「平家物語」の巻第一「祇王」で語られている。平安時代末期、時の権力者であった平清盛(1118〜1181)に寵愛されていた白拍子・祇王は、ある日の出来事で突然捨てられてしまう。悲しみの祇王は、母と妹とともに都を去り、山里で尼となり生涯を送ったという悲しい話。

白拍子の祇王は近江国(滋賀県)の生まれ。野洲江辺庄の庄司の父が北陸へ流されたことで母・刀自(とじ)に連れられて、妹・祇女(ぎにょ)とともに京へ出て白拍子の生活を始めた。祇王18歳の時である。白拍子とは?平安時代後期に流行した歌舞の一つで当世風の今様(いまよう)をいう。また、それを歌い舞うことを職業とする物腰柔らかな舞をみせる女性を含めて白拍子と言うようになっている。本来の意味は声明の拍子の名称で、普通の拍子とか伴奏を伴わないということ。この今様の熱烈なファンが後白河法皇であったといわれている。

 白拍子の装束は、蝙蝠(かわほり)と呼ばれる扇子の一種を持ち、立烏帽子(たてえぼし)、白い水干(すいかん:当時の下級役人の普段着)に長袴で、太刀を腰に差した男装。今様の語義は、「当世風」の意味をもち、前代からの神楽歌や催馬楽、風俗などに対して「今めかしさ」をそなえた即興的歌謡であった。  話を本題に戻す。都へ出て来た祇王の歌と舞いの見事さは、たちまち評判となり、当時の最高権力者である平清盛の知るところとなる。ある日、清盛に呼ばれた祇王は御前で舞うこととなる。清盛は、祇王の見事で気品のある舞い、そして何よりもその美貌に心を奪われ、直ちに自分の別荘・西八条殿に住まわせ寵愛(ちょうあい)(特に目をかけてかわいがる)したのです。 英雄、色を好むです。。。

清盛の寵愛を得た祇王は、母や妹の面倒までもみてもらい何不自由の無い生活が始まる。そこへ現われ出たのが加賀国(石川県)から出てきた16歳の仏御前という名の白拍子。仏御前の舞いも見事なもので評判となり、その自信からか仏御前は清盛の屋敷へ行き、舞をお目にかけたい申し出る。祇王を寵愛していた清盛は「祇王より上手い白拍子がいるはずも無い」と門前払い。それを見ていた優しい祇王は、仏御前を不憫に思い「一度だけでも…」ととりなしたのである。寵している祇王の申し出に、清盛も仕方なく仏御前の舞いを観ることにした。 最初はイヤイヤ見ていた清盛も、見事な歌と艶やかな舞いにたちまち心を奪われ、昨日までの祇王への寵愛はどこえやら、心は仏御前に移ってしまい、祇王を屋敷から出ていくように言い出す始末。仏御前は、それは本意ではない「舞いをお見せしたかっただけ、自分が帰る」と願い出たが聞き入れられることではなかった。あろうことか清盛は、「仏よ、祇王に遠慮するな。お前がそのように言うのは、祇王がいるからだな」と祇王を屋敷から追い出してしまった。祇王は、あまりにも突然の清盛の心替わりに驚き、涙ながら屋敷を出てという。
>105の続き

その後も清盛は無神経さを発揮している。ある日、祇王の家へ清盛の使者が訪れ「仏が退屈しているので参上して慰めてほしい」という。祇王には行く気もないので断ろうとしたが、母に諭されてやむなく参上し舞うこととなる。元々、祇王に気のない清盛は、一舞いすると帰してしまう。この清盛の無神経さ、悔しさ、悲しさに祇王は自害しようとするが母の必死の説得で自害は断念するも、世を捨て仏門に入るのである。この時、妹・祇女そして母・自刀も髪を剃り、三人で嵯峨の山里にあった小さな庵(今の祇王寺)で念仏三昧の静かな暮しに入るのでした。

時が経ち、秋のある夜のこと。祇王らが住む庵の表戸を叩く者がいた。恐る恐る表戸を少し開け、隙間から覗くと、そこには白い衣で覆った仏御前の姿があった。仏御前は涙ながらに「もともとは、舞いを認めてもらいたい一心で清盛様の前で舞ったもの。心ならずも祇王様を追い出しことになり、悔やまれます」と、切々と自分のとった愚かな行為を憂いた話をした後、覆っていた白衣を脱ぎ捨てる。そこには髪を剃った仏御前。仏道に入ろうと決意してやって来たのである。この姿をみた祇王は、「まだ17歳の若さで現世を捨て、往生を願うは真の大道心」と快く庵へ迎え入れ、その後、朝晩の念仏を欠かさず過ごした4尼は往生したと書かれています。

気がかりは、仏御前のお墓は何処にあるのかな?それらしいのが在るのだが・・・。知りたいです。 
しかし、仏御前は清盛の子を身ごもっていることを知り帰郷。途中吉野谷村の木滑で清盛の子を産むも死産。故郷原町に着いた仏御前は静かに余生を過ごし、21歳の若さで亡くなったと云われる。

仏御前のお墓の所在地
仏御前屋敷跡と墓 (ホトケゴゼンヤシキアトトハカ)
〒923-0075 石川県小松市原町 交通アクセス :小松駅からバスで15分
お問合わせ 0761-47-1241

写真左:平清盛と祗王二十一、祗女十九、母刀自四十五の三人、そして仏御前十七の像の写真。
写真中:祇王寺表門
写真右;:平清盛の供養塔と祇王母娘たちのお墓。(ー人ー)
比叡山延暦寺

当時は、国をも揺り動かした延暦寺の僧兵たちの誇りが息づいていました。
三塔十六谷に住む比叡山の僧兵たちは、まだ朝の勤行に付かぬ未明の夢の中で、ふいに目覚まされた。
「大講堂の鐘が鳴るぞっ〜〜〜〜〜〜!!大講堂の前に集まれーーーーーーーーーー!!」

ごうん、ごううんんんんんん、ごおおんんんんんんんんんんんんんんんんんんんん

鳴り止まない鐘の音を耳にしながら僧兵たちは鎧を法衣の下に着込み妥当「平清盛」と叫びながら太刀を帯び、薙刀を持ち谷々から雲の湧くように大講堂に集まったと云われています。

つまり、武蔵坊弁慶みたいのがうじゃうじゃと・・・・。
当時の僧侶達は裹頭(かとう)(白い頭巾)をかぶり、薙刀を振りかざし武装する「武装集団」でした。もっともその僧兵たちは、農村から口減らしとして比叡山に預けられた人たちで手柄を立てたかったと思われます。寺院や家柄の良いところから出家した修行僧は、学問に明け暮れました。
(法師・僧侶全員が僧兵というわけではないのです。)

写真は、比叡山延暦寺の大講堂と鐘です。
補陀洛山寺(ふだらくさんじ)

西国三十三ヶ所観音霊場で、「六波羅蜜寺」と「総持寺」の山号が「補陀洛山」となっていますが、この「補陀洛(補陀落)」という言葉はサンスクリット語の「ポタラカ」の音訳で、南方の彼方にある観音様が住む「観音浄土」という意味だそうです。

補陀洛山寺は、和歌山県のJRきのくに線の那智駅の側にあります。

平清盛の孫、平維盛は、先週のNHK大河ドラマ「平清盛」に少しだけ出ていました。

補陀洛山寺は、宗教儀礼「補陀洛渡海」で知られる寺。平清盛の孫、平維盛もここから渡海船を出して那智の海に入水しました。「補陀洛渡海」の渡海船は、「発心門」「修行門」「菩薩門」「涅槃門」の死出の四門を表しているとされる。
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ですから、追手の源氏は、補陀洛山寺(ふだらくさんじ)まで来たのだが、見逃した。平維盛は、死出に出たので死者同様ということであるのだから武士の情けと言えるだろう。

平維盛は、那智の海に入水したと言われますが、僧侶でない平維盛は、途中に小さい島に辿り着き余生を高野山で過ごしたと云われています。来年の2月頃に高野山に行きますので裏を取ります。

補陀洛山寺に残る曼荼羅(写真右)からその様子が伺える。
本堂の裏手の道をおよそ150m歩けば、渡海上人 平維盛と二位の尼(平清盛の妻)の墓があります。
今回は、閉門15分前に来たので住職さんの説明を聞いて少しだけ境内を撮影しました。
お墓参りは、後日ですね。

NHK大河ドラマ「平清盛」の史跡巡りは、ほんに人生をおもしろおかしく生きる道やのう。^^

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>108

二位の尼(平清盛の妻)の墓は、補陀洛山寺にあると説明しましたが、信憑性はございません。
時子(二位の尼)の遺体は、山口県の壇ノ浦から、広島県の宮島に流れ着いたとも云われますが、これも信じ難い。宮島観光協会サイトでは、他説もあげています。

当時の女性の名前の読み方や正確な出生日やお墓なども曖昧で確実性はいえない。
青岸渡寺尊勝院「西国三十三箇所めぐり」第一番札所
住所 〒649-5301
和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山8番地
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「蟻の熊野詣で」という言葉があります。
平安時代の中期から定着し始めた神仏習合思想の総本山が熊野三山で、熊野信仰が最盛期を迎えると参詣者が行列のように押すな押すなの有様だったことから、このように形容されたのです。
京都から熊野への往復は約700キロで1ヶ月以上を費やし当時の都人にとっては大変なことでした。四国遍路の約2倍に当たる距離です。

後白河法皇は32回目の熊野御幸の時に次の歌を読まれた由。

 ”忘るなよ雲は都をへだつともなれて久しきくまのの月”

善願寺(ぜんがんじ)

善願寺腹帯地蔵(ゼンガンジハラオビジゾウ)。天台宗。
聖武天皇のころ、光明皇后の発願により行基菩薩が地蔵尊を本尊として一寺としたものと語られている。
現在の本尊・地蔵尊は藤原時代の作で、重要文化財に指定されている。
(〒601-1352)京都府京都市伏見区醍醐南里町33
電話:075-571-0036
E-mail:zenganji@world.ocn.ne.jp
営業時間:拝観時間 09:30〜16:00
アクセス(最寄駅):京都市営地下鉄東西線・醍醐駅徒歩15分
(バス):京阪バス醍醐和泉町停留所・徒歩2分
(その他)旧奈良街道・醍醐寺前を南下1km
駐車場:5台 
地図:http://map.livedoor.com/map/?ZM=11&zoom=7&lat=34.9430555555556&lng=135.818833333333

1156年頃、平清盛5男・重衡(1157-1185)誕生の際に、安産祈願して堂宇が建立されたと云われています。また、重衡の妻・佐の局(藤原輔子)は善願寺の近くに住み、安産祈願し成就した(子はなかったとも)ことから建物を寄進したという。また、佐の局は安産祈願し七条仏所の仏師に造仏させ、本堂も寄進したとも云われています。
http://photo.mixi.jp/view_photo.pl?photo_id=1031132707&owner_id=9873863

平重衡のお墓は、近くにある団地の公園内にひっそりとたっています。
(遺体は法界寺で荼毘に付される。髑髏は高野山に葬られ、遺体は現在地に埋葬されたという。)
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◎「平重衡」の妻、藤原輔子。
平安時代後期の女官・藤原輔子(ふじわらのほし/すけこ、生没年不詳)は、藤原邦綱の3女。平重衡(1157-1185)の妻、第81代・安徳天皇の乳母。従三位典侍・大納言典侍(大納言佐)と称した。1184年の一ノ谷の戦いで平家が敗北すると重衡は捕えられ、京都、鎌倉へ送られた。1185年、壇ノ浦の戦いで平家滅亡後、輔子は入水するが助けられ捕虜となる。その後、日野の姉・邦子(大夫三位)のもとで隠棲した。
 重衡は鎌倉から醍醐路を経て奈良へ送られた。途中、日野で輔子との再会が聞き入れられ対面がかなう。重衡は木津川で斬首され、般若寺門前で梟首された。輔子は夫の亡骸を日野で荼毘に付し、高野山に納めた。自らは出家し重衡の菩提を弔い、大原・寂光院の建礼門院(平徳子)に仕えた。 (安徳天皇は、実は女性だったので実母の建礼門院(平徳子)の側で尼として生涯を送ったという説もあります。)

◎善願寺(ぜんがんじ)
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◎法界寺(ほうかいじ) 通称:日野薬師 (ひのやくし)
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◎雪景色の大原の里と寂光院
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◎興福寺 南円堂(西国三十三ヵ所第九番札所) 2010年11月03日
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◎東大寺
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近所ということもあり、紀行にも登場した京都・若一神社に参拝してきました。

平清盛の別邸だった西八条殿に由来する神社とのことで(西八条殿は実際にはもっと東にあったそうですが)、清盛公の像や清盛が植えたという大楠、清盛ゆかりの銘水など、小さい印象の神社ながらいろいろとあるようです。

平家の栄華にあやかれればと思いつつ、ドラマの主題のように生きることができればと手を合わせてきました。
【番外】壇ノ浦の戦い後の建礼門院


・写真左:『安徳天皇縁起絵図』赤間神宮所蔵。
壇ノ浦の戦い(だんのうらのたたかい)(現在の山口県下関市)から読む。

左側に入水する建礼門院。中央右側下に義経の八艘飛びが描かれている。 壇ノ浦の戦いで源氏にやぶれた平家は壊滅。入水自殺を計った建礼門院は、源氏に助けられ京都の長楽寺で出家し、木曾義仲(源義仲)を恐れて大原の寂光院へ隠遁する。

・写真中:長楽寺収蔵/安徳天皇の図。
どうしても女の子としか思えない。そして同い年の子供達と遊べない境遇も表現されている。
安徳天皇は、女の子だったという説もある。男の子としたのは、「平清盛」らしい策略ですね。また、壇ノ浦の戦いで清盛の正室の時子に抱かれて入水したのは安徳天皇の影武者とも云われている。本人は、お寺に預けられていて、時が来た時、義経に連れられて母親の建礼門院徳子が尼となって隠遁していた大原にあるお寺(寂光院)で、ひっそりと母子一緒に、平和に暮らしたと云われています。安徳天皇が女の子だったので尼寺に入れたというわけですね。
平家の陰謀の役目を終えた安徳天皇を普通の子供に還し、母親と一緒に暮らさせたというわけですね。救われた気分です。そうでないと哀れすぎますね。この説を支持します。

・写真右:寂光院収蔵/安徳天皇像・平家琵琶・平家物語写本 ・大原御幸絵巻(後白河法皇の御幸)
後白河法皇の御幸に「恥ずかしい、消えてしまいたい!」と思いましたが、どうしようもないので、応対しました。
後白河法皇の御幸の図では、後白河法皇の相手をする阿波内侍(あわのないじ・藤原信西の息女?(藤原信西の孫・貞憲の娘?))、そして翠黛山(すいたい)で花摘みをしていた建礼門院(平清盛の息女、高倉天皇の皇后、安徳天皇の国母)と大納言佐(大納言藤原邦綱次女・平重衡の妻)が山から下りてきた絵です。(建礼門院と一緒に下りて来たのは建礼門院の子供の安徳天皇かもです。)

くわしいことは、日記に書いています.
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>111

平重衡と法然の対面の場。重衡は涙を流して、法然から戒律を受けました。(京都・堀川八条)

平重衡は平清盛の五男として生まれ、順調に出世し、従三位まで上り詰めた。文武に優れた好男子であった重衡は女性からも人気があったようだ。

源頼政の反乱や、源行家の反乱を見事鎮圧し、また反乱気風が強かった奈良の南都(興福寺)を攻めた際には総大将として戦果を挙げた。

しかしながらこの戦いの中で大仏殿を焼失させてしまうという事態を招き、南都勢力から恨まれることとなった。時流はしだいに源氏にかたむき、義経の鵯越(ひよどりごえ)で名高い「一の谷の戦い」ではついに敵方に捕らわれてしまうこととなった。

平重衡は、平家からの請け文の内容を聞き、「当然だろう。さぞ一門の人々は私を恨んだことだろう」と思いましたが、後の祭りでした。事実、重衡一人の命を惜しんで、さすがにわが国の至宝・三種の神器を返すとは思えないので、請け文の内容は予想できましたが、返事が来ない間は、何とはなしに心許なく思えました。

請け文が到着し、関東へ送られることに決まってからは、都の名残も今更惜しく思われたのでしょうか、土肥実平を呼び、「出家したいと思うがどうか」と相談しました。実平は源義経に報告し、義経から後白河法皇へ伺いを立てました。後白河法皇は「頼朝に会わせてからでないと、そうもできない。今は出家させるな」とのことでした。

そのことが重衡に伝えられると、「それなら年来、約束をしている聖に今一度対面し、後生のことを相談したいと思うがどうだろう」と告げました。土肥実平は、「聖とは誰ですか」と尋ね、重衡は「黒谷(比叡山西塔北谷の別所)の法然房(浄土宗の開祖、源空、「法然」は房号)という人です」と答えました。実平は、「それなら問題ない。さあ、どうぞ」と許しました。

 よろこんだ重衡はすぐに法然を迎え、泣く、泣く、告げました。

「この度の西国のいくさでどのようにでも成っていた身が生きながらえて捕らわれたのは、再び、上人に会う運命だったからでしょう。さしも、重衡の後生はどうすればよいのでしょう。一門が栄華を極めていた時は、出仕者に名を連ね、政務に携わり、そのうちに、傲慢な心だけが強くなり、斜陽になることなど考えもしませんでした。いわんや、世が乱れ、運が尽きて、都を出てからは、戦いにあけくれ、人を倒し、わが身が助かろうとする悪心に満ち、善心はまったく起こりませんでした」

・続き:http://photo.mixi.jp/view_photo.pl?photo_id=1865006441&owner_id=9873863
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平重衡東下り ・蝉丸神社と逢坂山の関所

京都東インターから一号線に入り浜大津方面に進むと左手に日本一のうなぎの「逢坂山かねよ」の看板が見えてくる。この辺りが逢坂山の関所です。

一の谷の合戦で生け捕りになった平重衡は、京中を引き回された末、頼朝の要求により鎌倉に送られる。平家物語には次のようにある。

「粟田口をうち過ぎて四の宮河原にもなりければ・・・中略・・・思ひやられてあはれなり(巻10・第94句 重衡東下り)」美しい道行文が読む人の心をひきつける。

また四の宮河原については「逢坂の関あたりを四の宮河原と名づけたりといへり」と中世の「東関紀行」にある。現在、駅名として残っている。
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滋賀県・瀬田の唐橋

一号線をそのまま進むと石山駅近くを通る。そこから右に入り京津線の唐橋前駅の踏切を横断して進むと魅力的な唐橋がある。

瀬田の唐橋(せたのからはし)は、滋賀県大津市瀬田の瀬田川にかかる橋。全長260m。滋賀県道2号大津能登川長浜線がこの橋を渡る。 勢多の唐橋とも書き、瀬田の長橋とも言われる。
宇治橋、山崎橋とならんで日本三名橋・日本三古橋の一つとされる。また、日本の道100選にも選ばれている。

琵琶湖から注ぎ出る川は瀬田川しかなく、東から京都へ向かうには瀬田川か琵琶湖を渡るしかない。瀬田川にかかる唯一の橋であった瀬田の唐橋は京都防衛上の重要地であったことから、古来より「唐橋を制する者は天下を制す」と言われた。
本格的には近江大津宮遷都の時に架橋されたと考えられるが、当時は現在の位置より65m南の龍王社・雲住寺を東端としていた。

京阪電鉄唐橋前駅の東約100m、近江八景「瀬田(せた)の夕照(せきしょう)」に描かれていることは、あまりにも有名。瀬田橋(せたばし)あるいは瀬田(せた)の長橋(ながはし)として多くの文学作品に登場し、古くから、日本三名橋の一つしても有名な長橋です。
最初に架けられたのは定かではありませんが、日本書紀に登場しているのでかなり古いものです。昔から、「唐橋を制するものは天下を制する」といわれるほど、京都の喉もとを握る交通・軍事の要衝であり、何度も戦乱の舞台となってきました。現在のように大橋・小橋の形になったのは、織田信長(1534-82)が架け替えてからといわれています。
 昭和54年(1979)に新しく架け替えられた現在の橋は、木造を廃して鉄筋コンクリート製になっています。しかし、クリーム色の欄干(らんかん)に旧橋の擬宝珠(ぎぼし)をつけた橋の造りは、以前の姿をとどめ、古風で情緒深い景観です。

870年1月9日(貞観11年12月4日)に火事(『日本三代実録』巻十六)。
871年12月19日(貞観13年11月4日)に火事(『日本三代実録』巻二九)。
藤原秀郷の大ムカデ退治伝説として有名だが、背景には平将門の乱平定があるといわれる。

治承・寿永の内乱(源平合戦) 1183年(寿永元年)に、木曾義仲(源義仲)対平家、1184年(寿永2年)に源義経対、木曾義仲(源義仲)の合戦があった際に、源範頼が攻める瀬田橋の橋板をはずして守っていたのが今井兼平。宇治で敗れた義仲と合流し、粟津で敗死(『平家物語』)。
写真左・中:木曾義仲(源義仲)の首塚は、京都東山にある八坂の塔の境内にあります。

写真左:時代祭
(写真左)源義経の恋人の静御前でしょうかねえ。白拍子姿のかぶりものを手に持っています。
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(写真中)常盤御前が、幼少の牛若(源義経)ら二人を連れて歩いていました。
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(写真右)平安時代婦人列。先頭は時代祭のポスターなどにもよく登場する巴御前。木曽義仲(源義仲)の恋人でもある。 妻は、ほかの女性。
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『源平闘諍録』によれば、巴御前は、樋口兼光の娘。『源平盛衰記』によれば、中原兼遠の娘、樋口兼光・今井兼平の妹と云われている。

>源範頼が攻める瀬田橋の橋板をはずして守っていたのが今井兼平。宇治で敗れた木曾義仲と合流し、粟津で敗死(『平家物語』)。

木曾義仲(1154〜1184)は、武蔵の国(さいたま)大蔵で誕生。父・源義賢は源頼朝の父・義朝の弟で、義仲は源頼朝の従弟。幼少の時、父・義賢が甥の源義平(悪源太)に殺され、その後斎藤別当実盛らの情により、木曾の山中に匿われ成長。治承四年(1180)、似仁王の令旨によって平家追討の挙兵をし、寿永二年(1183)、砺波山で平維盛を敗り、入京。そこで後白河法皇からその功を賞して「朝日将軍」の称号を与えられた。ところが、その後の木曾義仲軍の粗暴な行為に困った後白河法皇は、とりあえず平家追討の院宣を義仲に与え都から遠ざけ、その隙に鎌倉の頼朝に上洛を促した。密かに頼朝に義仲追討命令をだした。寿永三年(1184)、義仲は頼朝が差し向けた源範頼、・義経軍と戦って敗れ、近江国粟津ヶ原で戦死した。

巴御前は、中にも巴は色白く髪長く、容顔まことに優れたり。強弓精兵、一人当千の兵者(つわもの)なり」と記され、宇治川の戦いで敗れ落ち延びる義仲に従い、最後の7騎、5騎になっても討たれなかったという。
義仲は「お前は女であるからどこへでも逃れて行け。自分は討ち死にする覚悟だから、最後に女を連れていたなどと言われるのはよろしくない」と巴を落ち延びさせようとする。巴はなおも落ちようとしなかったが、再三言われたので「最後のいくさしてみせ奉らん(最後の奉公でございます)」と言い、大力と評判の敵将・御田(恩田)八郎師重が現れると、馬を押し並べて引き落とし、首をねじ切って捨てた。その後巴は鎧・甲を脱ぎ捨てて東国の方へ落ち延びた所で物語から姿を消す。

巴御前が登場するのは軍記物語の『平家物語』『源平盛衰記』のみであり、当時の一次史料や鎌倉幕府編纂書の『吾妻鏡』には、その存在は確認されない。女武将であるという物語の記述は史実としては疑問があり、文学的脚色である可能性が高い。『平家物語』における巴御前の記述は至って簡略で義仲との関係性も書かれていないが、より後の時代に書かれた『源平盛衰記』において大きく人物像が書き加えられている。

ただし、『吾妻鏡』に越後の城氏の一族である坂額御前の健闘により討伐軍に大被害が生じたとの記事があり、当時の甲信越地方の武士の家庭では女性も第一線級として通用する戦闘訓練を受けている例は存在する。鎌倉時代にあっては、女性も男性と平等に財産分与がなされていたことからも、女性であれ認められていた。とはいえ、戦は人の命を奪う非日常的な行為でもあったため、戦国時代でも、戦勝祈願などの神事に、陣幕の内側にまで白拍子、遊女、傀儡女がよばれたことも多く、真偽のほどはわかっていない。
作家の海音寺潮五郎は金刺氏の持ち城に山吹城という城があることから、巴と山吹は義仲の支持勢力である中原氏と金刺氏が一族の中でも優秀な娘を副官・秘書官として派遣したと推察している。
富山県南砺市の他にも、神奈川県横須賀市、長野県木曽郡木曽町、新潟県上越市など各地に巴御前の墓とされるものが現存する。
「平清盛」の終焉の地とも言われている京都市下京区 の「崇仁同和地区」。そして婿殿の高倉天皇の誕生の地とも言われている。近くの通名が高倉通と名付けられている由縁だ。
http://mixi.jp/view_diary.pl?owner_id=9873863&id=1914529389
奈良県 般若寺の夏コスモス2014年7月15日

日本最古のコスモス名所『般若寺』(関西花の寺第十七番)
般若寺は飛鳥時代に創建され、天平のころ平城京の鬼門を鎮護する寺となりました。
以来、般若経の学問寺として栄え数々の文化財を今に伝えています。
またコスモス・水仙・山吹など四季に咲く花の名所です。
今のこの時期に <初夏咲きコスモス> が、花盛りを終えて土を掘り起こし牛糞などの肥料を土に混ぜていたので境内は、臭かったです。w 次は、9月の秋コスモスの満開のときに訪問したい。

一の谷の合戦で生け捕りになった平重衡は、京中を引き回された末、頼朝の要求により鎌倉に送られる。平家物語には書かれているが、歴史とはいろいろあるようだ。

イケメン平重衡の供養塔が般若寺の境内にありました。詳しい経緯は駒札で紹介されています。
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