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中高年のための京都コミュの考証:神沢杜口(かんざわ とこう)と翁草(おきなぐさ)

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コミュ内全体

江戸時代中ごろ、京都に「神沢杜口(かんざわ とこう)」という「京都東町奉行所」の「与力(よりき)」を勤める武士が住んでおりました。

この神沢さん、かなり長生きで86歳まで生きたのでした。

しかし、20代で養父の後を継いで与力となったものの、40代ソコソコで「早期退職?」してしまい、残りの40数年間は、隠居として、いわばアソんで暮らしたのでした。

その40数年間に「翁草(おきなぐさ)」という、歴史・地理・文学・芸能・有職故実・芸術・工芸・宗教など、あらゆる方面に渡る200巻(原稿用紙換算で1万枚超)にも及ぶ随筆を残したのでした。

終生、洛中に暮らし、非常に健脚で80歳まで1日20劼瞰况砲掘京都の事件や風俗についても記述しました。翁草は18世紀の代表的随筆とされています。

その内容は、現代のSNSの日記、またはブログに近いものがあり、さしずめ江戸時代の「ブロガー (blogger)」とも言えるでしょう。

また最近、何かと話題になる「長〜い老後の生き方」にも示唆を与えてくれます。
もっと脚光を浴びても良い人物だと思います。

このトピックでは、そんな神沢さんと、代表作:翁草のアレコレについて取り上げたいと思っています。

コメント(59)

>>[19] そうですよねexclamation

明治38年まで、神沢家は確実に存在していたのですから、明治20年刊行の人名辞典の記載が最も正確だと考えるのが自然ですよね手(OK)

すなわち「神澤貞幹(カンザワ サダモト)」でしょうか指でOK

ともすれば、我々、国立大学の教授(しかも国文学専攻)の表すほう「カミサワ テイカン」を無批判に鵜呑みにしがちですが、こういうこともあるのですね冷や汗

本が届いたとにこと。杜口の世界を味わってください!

(天明の大火の実態は、杜口が翁草に書き残した現地取材レポートが、最も詳しく正確無比なのだそうですね)
(またUFOを記録に残した最初の日本人とかあせあせ
● 訂正

>>[1] 「まずは最初に神沢さんの基礎知識」の、

神沢杜口 本 名:神澤輿兵衛貞幹(かんざわ-よへい-ていかん)は、
調査の結果、
神沢杜口 本 名:神澤輿兵衛貞幹(かんざわ-よへい-さだもと)とした方が、より妥当性があると考え、訂正します。

● 神沢杜口の勤務先

>>[13] で「神沢貞幹」の読み方に諸説あることを書きましたが、杜口の勤務先についても、いろいろな表記がされています。

杜口は、京都町奉行所の与力でしたが、京都町奉行所は東町と西町に分かれていて、杜口がどちらに所属していたのかについては、かなり混乱があるようです。

町与力職は、いわゆる「一代抱席(いちだいかかえせき)の御家人」なので、家代々、役職・所属所の異動は、原則としてありませんでした。

インターネット・サイトでは「杜口は京都西町奉行所に所属していた」と記している例が、少なからず散見されます。
また「京都町奉行所与力」、あるいは「東西どちらか不明」としているサイトもあります。

インターネット・サイトに限らず、書籍などでは「京都町奉行所与力」とだけ記している例が最も多いようです。
某単行本では「京都西町奉行所与力」と明記しています。

また某有名月刊誌では「京都西町奉行所与力」と解釈しそうな記述となっています。

しかし、杜口の著作「翁草」をひも解くと、どうやら在職中を通して、「京都東町奉行所与力」であったと考えるのが自然かと思います。

以下は、その詳しい理由です(煩雑なら読み飛ばしてください)。

+ ----------------------------------------- +

翁草の「巻六十二 享保六年己来京町奉行組与力役替前録の事」を見ると、享保六年(西暦1721年)以降の京都東町奉行所の人事異動を杜口自身が詳しく記している。

京都東町奉行所、京都西町奉行所という名称は「東御役所」「西御役所」とも呼ばれていた。

ちなみに「大阪東町奉行所・大阪西町奉行所」は、「東の御番所・西の御番所」、また「江戸南町奉行所・江戸北町奉行所」は、「南番所・北番所」とも呼ばれていた。

翁草では、京都東町奉行所を「東組」、京都西町奉行所を「西組」と記しており、杜口は、翁草の「巻六十二 享保六年己来京町奉行組与力役替前録の事」の「東組役替前録」の項に登場する。

それによると杜口は、享保19年(西暦1734年)、養父「神澤彌十郎」の死去により、東組に組み入れられたと書いている(杜口、満24歳)。

ただし、この時の記述では「養子 神澤平蔵」となっている。しかし翌年(享保20年)の人事異動記録では「平蔵こと神澤輿兵衛」と記述されている。

杜口のフル・ネームは「神澤輿兵衛貞幹(かんざわ-よへい-さだもと)」なので、杜口と考えて間違いないと思われる(「平蔵」と記された理由は不明だが)。

その後、享保21年(西暦1736年)、
元文3年(西暦1738年)、
元文5年(西暦1740年)、
寛保2年(西暦1742年)、
寛保3年(西暦1743年)、
延享3年(西暦1746年)、
延享4年(西暦1747年)、
延享5年(西暦1748年)、
寛延3年(西暦1750年)、
寛延4年(西暦1751年)と、東組の神澤輿兵衛の人事異動記録は続く。

そして宝暦3年(西暦1753年)、「神澤輿兵衛」は「退役」、「養子、彌十郎、組入」と記している。その後も人事異動記録は続くが、これ以後は「神澤彌十郎」と記述されている。

結局、杜口は、京都東町奉行所与力の在職約19年、退職時満43歳であったことが明らかである。在職中、東組(東町奉行所)から動いた記録は皆無である。

「国立国会図書館デジタルコレクション」に収録されている「翁草(写本:国会図書館本)」より、該当部分を抜粋↓
・ http://shb.main.jp/kanzawa/lokina62-1.html

● 神沢杜口の勤務先(脚注)

※「一代抱席」は、一代限りの奉公で隠居や死去によって御家人の身分を失うのが原則であったが、実際にはよほどのことがない限り、世襲が認められており、少なくとも男子1人には与力職を相続できた。その代り、代々、与力しかできず、所属所の異動も、原則として無かった。

※ 京都町奉行所は、東町・西町に、それぞれ与力20騎(与力は騎乗できる格式を有するので「騎」と称する)、同心50人が配されていた(合計、与力40騎、同心100人)とのことだが、翁草を見ると、なるほど「与力は原則20名」であったことがよく理解できる。

※ 武士の名前は「家名(苗字)+通称+諱(いみな)」で構成されている。例えば、西郷隆盛は「西郷」が家名、「吉之助」が通称(他人が呼ぶときの名前)、「隆盛」が諱(普段は使用しない)。

※ 通称は、歴代同じ名を使用する場合は多い。(例)「鬼平」こと長谷川平蔵宣以(のぶため)と父、長谷川平蔵宣雄(のぶお)。「神澤彌十郎貞宜(杜口の父)」と、杜口の子「神澤彌十郎(諱不明)」

※「神沢杜口は東町奉行所与力」としていないサイトの例↓
・http://d.hatena.ne.jp/jidai-show/20050514/1116509639
・https://books.google.co.jp/books?id=yJhsHZXgx9gC&pg=PT90&lpg=PT90&dq=%E7%A5%9E%E6%B2%A2%E6%9D%9C%E5%8F%A3%E3%80%80%E8%A5%BF%E7%94%BA%E5%A5%89%E8%A1%8C&source=bl&ots=GY0QttEI2A&sig=q-pR6k5UNGDze0nDyr6Q3LO6XU0&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwjAg77e1avUAhUEU7wKHRUKDs0Q6AEIKzAC#v=onepage&q=%E7%A5%9E%E6%B2%A2%E6%9D%9C%E5%8F%A3%E3%80%80%E8%A5%BF%E7%94%BA%E5%A5%89%E8%A1%8C&f=false
・http://xymtex.com/kyomeguri/kyomeguri-jintan25.pdf
・https://plaza.rakuten.co.jp/camphorac/diary/200802100000/

● 杜口の住まいを特定!

杜口は、京都東町奉行所を退役(退職)してからは、京都市中の借家を18回も転々としましたが、それは「この世が仮の世であることを忘れないためである」とも言われています。

しかし、辞めるまでは(幕府の規則により)、神沢家代々の屋敷に住んでいました。

与力・同心は、奉行所近くに固まって住んでいました(写真,鮖仮函法9掌曜詆椶らの、いわゆる「拝領屋敷」です。与力の宅地面積は全国平均で300坪前後ですが、京都では、それより狭小で180〜200余坪でした。

京都では、宝暦9年(西暦1760年)〜慶応3年(西暦1867年)まで「京都武鑑(きょうとぶかん)」という、大名や幕府役人の氏名・役宅図・石高・家紋などを記した年鑑形式の紳士録が発行されていました。


京都武鑑(慶応3年)↓
http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=MIT-Y01201-370&PROC_TYPE=ON&SHOMEI=%E4%BA%AC%E9%83%BD%E6%AD%A6%E9%91%91&REQUEST_MARK=%EF%BC%AD%EF%BC%B9%EF%BC%8D%EF%BC%91%EF%BC%92%EF%BC%90%EF%BC%91%EF%BC%8D%EF%BC%93%EF%BC%97%EF%BC%90&OWNER=%E5%9B%BD%E6%96%87%E7%A0%94%E4%B8%89%E4%BA%95&IMG_NO=1

その京都武鑑と、現在の地図を重ね合わせると「神沢家」の屋敷地の位置が大体判ります(宝暦9年〜慶応3年の間、屋敷地は不動です)。

写真△蓮京都武鑑の部分拡大写真です。
現在の「御池通」は一直線ですが、当時はかなりギクシャクしていたようです。写真右上が東町奉行所の敷地です。

太赤枠が、神沢家の屋敷地です。その下の下の家が、代々、西町奉行所与力を勤めた「入江家」の屋敷地です。「杜口は11歳の時、入江家から神沢家に養子に入った」とだけ伝わっています。

地図△瞭江家は神沢家と同格、そして近所ということで、当然ココが生家であると推定するのが自然かと思います。

写真は、現在の地図です。写真中央を御池通が通り、写真左端は「千本通」と、JR「二条駅東口」前です。写真△半箸蕕傾腓錣擦襪函⊃逝家の屋敷地は赤枠内「リューブ二条」というマンション付近に相当すると考えられます。

たいへん興味深いことに、写真△凌逝家の前の道と、写真の現在の道は、少し先の曲がり角が変わっていません。当時の道の原形を保っているものと考えられます。

近日中に、実際に付近を歩いてみたいと思っています。
そのうち京都市に申請し「神沢杜口屋敷地跡」という石碑を建ててもらいましょうか?(半分冗談)

※ 杜口は養家の神沢家の先祖については、翁草の巻之四十五でいろいろ語っているが、生家の入江家については何も語っていない。
>>[28]さん この本、本体価格1円(送料250数円)ですが、ナカナカよく神沢杜口のことが書いてあります手(OK)
>>[28]さん オマケ情報?ですが、もし捕物帳がお好きでしたら、

「京都知恵に生きる」の著者:澤田ふじ子は小説家で、神沢杜口のファンでもあり、杜口が勤めていた「京都東町奉行所」と「公事宿(くじやど)」を舞台とした「捕物帳シリーズ」を22冊も書いています。

・公事宿事件書留帳シリーズ:http://www.rsl.waikei.jp/datastk/kujiyado.html

神沢杜口のような登場人物も出てきます。こちらもアマゾンで本体価格1円で買えます。もし興味がありましたら!

https://www.amazon.co.jp/%E9%97%87%E3%81%AE%E6%8E%9F-%E5%85%AC%E4%BA%8B%E5%AE%BF%E4%BA%8B%E4%BB%B6%E6%9B%B8%E7%95%99%E5%B8%B3-%E5%BA%83%E6%B8%88%E5%A0%82%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%BE%A4%E7%94%B0-%E3%81%B5%E3%81%98%E5%AD%90/dp/4331604640
>>[33]さん 三田村鳶魚、懐かしいですね!

私も昔、三田村鳶魚著「武家の生活」とか読みましたね!
https://www.gutenberg21.co.jp/buke_no_seikatu.htm

その他、いろいろな研究家の「江戸研究」の書籍を読みました。
>>[31]
私は捕物帖を読むのがスキなので購入してみます^_^!
>>[37]さん

原作を読まれているそうで手(OK)
何でも原作に当たるのが最良ですね手(チョキ)

テレビの与力は「刑事事件」でしか登場してきませんが、現実の与力は「民事」の処理の方が多いくらいですね。

●訴訟の受付と市中警備を担当する「番方」
●闕所された財物の処分を入札監督などを担当する「闕所方」
●制札や各種証明書の発給や宗門改・鉄砲改・浪人改を行う「証文方」
●建築の届出・確認や道路管理などの都市計画を行う「新家方」
●奉行所内外の監察業務を行う「目付(後に新家方を統合して目付方とも)」
●奉行所内の会計・公的な入札業務及び天領の年貢収納を行う「勘定方」
●一般の刑事・行政を扱う「公事方」
●賀茂川の管理を行う「川方」

刑事事件は「公事方」になるのですね。
杜口も公事方を務めたことがあり、イチバンのハイライトは、有名な大盗賊、歌舞伎にも出てくる「日本左衛門」(歌舞伎では日本駄衛門)のイチの子分を江戸まで護送する任務ですかね(^-^)/‍♂


何しろ日本左衛門の一味は大盗賊団で、総勢200余名もいて、護送班は、隊長が杜口でたった6名なので、道中、取り返しに襲われる可能性大で、杜口も死を覚悟したそうですげっそり

これぞテレビドラマにしてもらいたいものですよ! 何しろ実話なのですからexclamation
>>[37]さん アッ! 書き忘れましたが、この時(護送中)、日本左衛門はまだ捕まっておらず、彼のイチバンの部下でしたから、襲われる可能性は大きかったでしょうね手(OK) 実際は発生しませんでしたが。

日本左衛門が出てくる歌舞伎の演目は、かの有名な「白浪五人男」です。
盗賊護送の話はとても面白いですね(^^);
京都から江戸まで護送したのですか?
1時間5回分くらいの時代劇にできそうですね!
「超高速!参勤交代」みたいに人気出るかもしれませんね!
>>[40] この「悪漢護送中に仲間が奪い返そうとする」という「筋立て」いわゆる「プロット」は、時代劇やウェスタン(西部劇)でもよく使われている人気のプロットですね手(OK)

やはり「保安官以下少数で守り抜く」という欧米でも受けるシチュエーションなのですね手(チョキ)

もっとも、向こうは西武から東部に向かう「荒野」で、こちらは「街道」ですが。
アッ! でも西から東(お江戸)というところはフシギに同じですねあせあせ

しかしできるだけ正確な考証で映像化してもらいたいものですexclamation

杜口は護送中に、盗賊とかなり親しくなって心を通い合わせたことが翁草に記されています。

西部劇でもそんなシーンがあったような泣き顔
コレは一本シナリオ書けそうですね🤔
>>[41] これは面白いですよ! あたりそうですね指でOK
● [44]のリンクが正常に動作しなかったので再掲します


● 神沢杜口の生家について

>>[27] でも少し触れましたが、杜口は「入江家」という家に生まれ、11歳の時、「神沢家」に養子に入り、養父:神沢弥十郎貞宜(さだよし)の娘「香」と結婚。貞幹(さだもと)と名乗り神沢家を継ぎました。

この生家の入江家ですが、杜口は養家の神沢家の先祖については、翁草の巻之四十五でいろいろ語っていますが、生家の入江家については何も語っていないので、入江家とは、どこの入江家なのか確定していません。

しかし、いろいろ推定することは可能で、かなり確証の高い答えを導き出すことは可能です。

まず、>>[27] の写真◆△修靴堂爾涼録渕命燭鮓ると、神沢家の前の通りの向こう側2軒目に入江家という家があります。

この神沢家の前の通りの向こう側は「京都西町奉行所」の与力・同心が住む領域(組屋敷)となっています。

神沢家は、代々、「京都東町奉行所」の与力ですが、同職・同格、また近所でもあるので、この入江家の長男以下に生まれ、神沢家に養子に入ったのではないかと推定できます。

ただ、京都の与力は、「渡邊忠司:近世京都における与力・同心体制の確立 110頁」の添付資料(http://shb.main.jp/kanzawa/yoriki-tei-1.html) の資料,任蓮定員として170騎(人)居ます。

同心も定員411人居ます。この添付資料は、宝暦9年発行の「京都武鑑」から算定された数字です。

同心の家から与力の家に養子に入ることは、まず考えられませんが、一応、京都武鑑に掲載された「与力170家+同心411家=581家」を全てチェックしてみると、「入江」と名乗る家は、京都西町奉行所与力の入江家しかありませんでした。

(http://shb.main.jp/kanzawa/yoriki-tei-2.html) の資料△鮖仮箸ださい。

「京都所司代」や「二条城」に勤める与力家である可能性もあったので調べたのですが、やはり、神沢家に養子として入った入江家の男子(杜口)は、京都西町奉行所与力を勤める入江家の男子であった可能性が濃厚なのではないでしょうか。
>>[46]さん それは、ナンと申し上げてよいか泣き顔

そもそも翁草って、私も詳しくはないのですが、人気のある花らしくて、よく園芸家が栽培しているようです。

だからググると、最初に植物の翁草がズラっと出てきます。
杜口が、独自に名付けた随筆の題名ではなかったのですね・・・

購入された上・下本のうち、私的には下巻のほうがオモシロかったです。京都市中の細々したことが書かれていて、上巻もソレナリにオモシロいですが、有名人ばかりの話が多く、京都マニアとしては下巻ですね手(チョキ)
>>[48]さん 結局、瀧井孝作さんの件にしろ、澤田ふじ子さんの件にしろ、神沢杜口に関する著作がたいへん少ないところが元凶なのでしょうね・・・

要するに杜口の研究は、ほとんど為されていないのだと感じました。
元々、関係本の種類・発行数が少ない故に、巷(ネット上を含む)に出ていないのだと思います。

この2冊の本だって、表紙に堂々と「かみさわ ていかん」とカナ振ってあるのには驚き呆れますね! 「かんざわ さだもと」のほうが妥当性が高いのにね・・・

200冊もの大著を残し、江戸時代の代表的随筆のひとつを書いた人物としては珍しいと思います。

コレは「研究のアナ場」を拾ったかも・・・
大いに、研究の「し甲斐」がありそうです!

現時点では、この「考証:神沢杜口と翁草」が杜口に関して、最も詳しいカモです。
>>[50]さん オオっ! ソレは良かったです
安くない出費の甲斐があったというものです

入江相政氏は、覚えています。
テレビに時々出て、体操ダイスキ人間だったのを思い出します。

今回、杜口の件で、最初こちらの入江家も引っかかって来ました。京都の家だからです。

しかし、こちらの入江家は家格は羽林家という30石3人扶持の、マア下級のお公家さんで、こちらの入江家は、バッチリ系図が残っていて、神沢家に養子に出た記録はありませんでした。(杜口と同い年の相康という人がいますが、元文元年9月20日(1736年10月24日)に死んでいます)

http://www.geocities.jp/okugesan_com/irie.htm
● 神沢杜口の生家について(その二)

>>[45] において、杜口の生家である入江家は、神沢家近隣の、代々、京都西町奉行所与力を勤める入江家であった可能性が濃厚であると述べましたが、これは基礎史料を「京都武鑑」に定め、導き出した結論と言えます。

しかし、京都武鑑には徳川幕府の京都での役職に就く大名・旗本・御家人だけが掲載されており、京都には、そのほか格式の高い門跡寺院・大寺院などに仕えた、いわゆる「寺侍(てらざむらい)」や、公家に仕える「公家侍」と称される武士達も居ました。

寺侍や公家侍に「入江」と名乗る家があったかどうか?は調査中ですが、仮に存在したとしても、これらの家から神沢家に養子に入ったとは考えにくいところです(予断を持ってはいけないが、可能性は薄いと考えます)。

それは、与力家というのは「旗本」のように徳川将軍に「お目見え(謁見)」ができる家柄ではありませんでしたが、家禄180〜250石程というのは、旗本より下位の「御家人」としては最上位に位置しており、400石を超える御家人は存在しませんでした(多くの御家人は、数十石以下)。

それに対して、寺侍や公家侍は甚だ微禄で、多くとも2〜30石以下で、200石取りの神沢家とは釣り合わないからです(そもそも主人である公家や寺院の石高自体が少ない)。

そのほか、生家として少ないながらも可能性があるのは、公家の「入江家」です(もちろん京都在住)。江戸時代、公家は徳川幕府から圧迫を受け、苦しい収入・生活を強いられてきましたが、格式だけは高かったので「婿養子」となる道はかなり開かれていました。

この公家の入江家を調べてみますと、さすが藤原北家の流れを組む家柄(羽林家というランク)であるため、詳細な家系図が現存しており、それを参考にしますと神沢家に養子に入った男子はいませんでした。

偶然、杜口と同じ年(宝永7年[西暦1710年])に生まれた「入江相康」という男子が居ますが、左京大夫、従五位上に任官した後、元文元年9月20日(1736年10月24日)に、25歳で死亡しています(杜口の命日は、寛政7年2月11日[西暦1795年3月11日])

入江家系図:http://www.geocities.jp/okugesan_com/irie.htm

※ 上記、公家の入江家出身で有名な人には、昭和60年に亡くなった、昭和天皇の侍従・侍従長を長く務めた「入江相政」氏がいます。時々、テレビ出演していました。

ちなみに、神沢家近隣の、代々、京都西町奉行所与力を勤める入江家は、『京都武鑑』を見ると入江氏の名と「四つ石」の家紋が記されています。この家紋から調べると、この入江家はおそらく戦国時代、細川氏に仕えた高槻を根拠地とする入江氏の一族と考えられます。

高槻の入江氏:http://www2.harimaya.com/sengoku/html/irie_gen.html
>>[57]さん
最近の係累もホントにいろいろ絡まってますね手(OK)

昔も、冷泉家系図をみると「上冷泉為満」の子供の「冷泉為賢」という人が、藤谷家家祖の「藤谷為賢」となり「藤谷相尚」という人が、入江家家祖の「入江相尚」となり、その子孫が「入江相政」ということらしいです。

冷泉家系図:http://www.geocities.jp/okugesan_com/urinke8.htm#reizei

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