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中高年のための京都コミュの考証:神沢杜口(かんざわ とこう)と翁草(おきなぐさ)

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コミュ内全体

江戸時代中ごろ、京都に「神沢杜口(かんざわ とこう)」という「京都東町奉行所」の「与力(よりき)」を勤める武士が住んでおりました。

この神沢さん、かなり長生きで86歳まで生きたのでした。

しかし、20代で養父の後を継いで与力となったものの、40代ソコソコで「早期退職?」してしまい、残りの40数年間は、隠居として、いわばアソんで暮らしたのでした。

その40数年間に「翁草(おきなぐさ)」という、歴史・地理・文学・芸能・有職故実・芸術・工芸・宗教など、あらゆる方面に渡る200巻(原稿用紙換算で1万枚超)にも及ぶ随筆を残したのでした。

終生、洛中に暮らし、非常に健脚で80歳まで1日20劼瞰况砲掘京都の事件や風俗についても記述しました。翁草は18世紀の代表的随筆とされています。

その内容は、現代のSNSの日記、またはブログに近いものがあり、さしずめ江戸時代の「ブロガー (blogger)」とも言えるでしょう。

また最近、何かと話題になる「長〜い老後の生き方」にも示唆を与えてくれます。
もっと脚光を浴びても良い人物だと思います。

このトピックでは、そんな神沢さんと、代表作:翁草のアレコレについて取り上げたいと思っています。

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● 神沢さんの基礎知識

神沢杜口 本 名:神澤輿兵衛貞幹(かんざわ-よへい-さだもと)
       生 年:宝永7年 月日不明(西暦1710年)
       没 年:寛政7年2月11日(西暦1795年3月11日)
       墓 所:京都市上京区出水通七本松東入七番町358 慈眼寺

※ 杜口は貞幹の号。俳号などに使用していた。

神沢さんは、代々、京都西町奉行所の与力を勤める入江家に生まれたと推定され、11歳の時、生家と同格の、代々、京都東町奉行所の与力を勤める神沢家の養子となりました。

享保19年(西暦1734年)、杜口が満24歳の時、養父「神澤彌十郎貞宜」が亡くなり、その後を継いで京都東町奉行所の与力に就任しました。

京都町奉行所は、東町・西町に分かれており、東西1ヶ月ごとの月番制を取っていました。それぞれ与力20騎(与力は騎乗できる格式を有するので「騎」と称する)、同心50人が配されていました。

与力といえば、テレビの時代劇によく出てくる「江戸町奉行」の「大岡越前」「遠山の金さん(遠山景元)」や「火付盗賊改方頭」の「鬼平こと長谷川平蔵」達の部下として、ドラマでも必ずと言ってイイほど活躍する、現代の我々にも比較的なじみ深い役柄です。

「同心(どうしん)」というのも時代劇によく出てきますが、与力は同心の上司、奉行の部下という中間管理職的立場にあり、禄高は200石、現在にすると年収1千万円位ですが、「付け届け(役得)」も多く、正規年収の何倍にもなっていたそうです(現在の公務員は「付け届け厳禁」ですが、当時は、役得として黙認されていた)。そのため、神沢さんもけっこう裕福だったそうです。

町奉行所の職制:奉行 − 与力 − 同心 − 岡っ引き − 下っ引き(岡・下っ引きは正規職員ではありません)

しかし、江戸から赴任する奉行に対して、与力は「現地採用職員・実質代々世襲制」で、神沢さんも退職するまで京都東町奉行所与力から異動することはありませんでした。

宝暦3年(西暦1753年)、杜口が満43歳の時、本人の希望(病弱を理由に)で京都東町奉行所を退職。自分のあとを養子の彌十郎(杜口の養父と同名)に継がせました。

退職した年に妻に死なれますが、その後、養子一家とは同居せず、家禄の一部を現代の年金のように受け取り、京都市中の借家を(本人の弁では18回)転々としながら、市中渉猟や文筆活動に専念しました。

代表作「翁草」200巻は杜口の主著と言えますが、初めの100巻は安永元年(西暦1772年)一応完成。さらに100巻を加えたところ、天明8年(西暦1788年)の「天明の大火」でその大半を焼失、なんと再度編述し直して、寛政3年(西暦1791年)死の4年前82歳の時、完成しました。

友人に、俳人:与謝蕪村、医師・文人:橘南谿がいます。

コメント(174)

● 翁草:盗賊、犯罪の話(五) その二

さて、与力の堀内十次郎、以下約20名は、日本左衛門の本拠地「見付宿」のひとつ手前、「袋井宿(掛川宿の隣り)」に9月17日到着。ここに陣取り、出撃・大捕物の機会を待ったのでした。

すると9月20日の夜、見付宿の某家で、日本左衛門一味の賭場が開かれるとの情報を得ました。

堀内十次郎は、袋井宿から極秘に30人ほどの屈強な人足を集め、総勢50名ほどの人数で、当夜9時頃、賭場を取り囲み、一気に踏み込みました。

結果だけ言えば、最終的に24名を捕えることができましたが、肝心の総大将の日本左衛門は、取り逃がしてしまいました。

火付盗賊改の長官「徳山五兵衛」は、決して無能な人ではありませんでしたが、日本左衛門一味を甘く見ていたフシがあり「与力の堀内十次郎、以下20名程度の編成で良し」としたのは、やはり戦力としてはヤヤ少なかったと言わざるを得ません。

※ 因みにこの徳山五兵衛秀栄は、十代で京都に遊学し、祇園の百合という女性との間に町子という娘をもうけました。この町子が文人画家「池大雅」の妻となった「玉蘭」です。

そして、何とか逃亡に成功した日本左衛門は、全国指名手配の中、美濃から西国諸国を逃げ歩いたのでした。しかし、自分の手配書を見て、逃げ切れぬと思ったのか? あるいは「逃亡者生活」に疲れたのか?

逃げた延享3年(1746年)9月20日の夜から約3か月半後の、翌4年1月7日に、なんと「京都東町奉行所」に自首して出たのでした。

この時、京都東町奉行は、5か月前に「馬場讃岐守尚繁(>>[120] のお白州でサイコロを振らせたあの奉行)」が「江戸南町奉行」に栄転し、「永井丹波守直之(尚方とも)」に代わっていました。

さすがに日本左衛門は「大物」なので、永井奉行自らが取り調べに当たったそうで(通常は「吟味方与力」が取り調べる)、「ナゼ自首したのか?」問うたところ、やはり「自分の手配書を見て逃げ切れないと思った」との供述だったとのこと(と「甲子夜話」に記述あり)。

ところでこの前月か前々月、日本左衛門の「腹心」か「右腕」かと言われていた「中村左膳」も、京都東町奉行所に捕らえられていたのでした。

これは、昨年9月20日、見付宿で捕縛した24名中の一人(幹部の岩淵の弥七)を火付盗賊改の徳山五兵衛が拷問したところ、中村左膳が京都大原「三千院」門跡「梶井宮」様の家来(近習)にバケていると自白したので、京都東町奉行所が左膳を捕縛したのでした。

そして、我らが杜口は、この中村左膳の江戸護送を命じられたのでした(延享3年12月)。

この時まだ日本左衛門は自首する前、一味の残党の半数以上も未捕縛だったので、日本左衛門以下示し合わせて、中村左膳を取り返しに現れる可能性は十分あり得ると、かなり心配されたのでした。杜口も「運を天に任せる覚悟」をしたと翁草に書いています。

【原文】↓
予が一生に運を任せたるは、海道の賊、日本左衛門(本名濱島庄兵衛)が宗徒の党(なかま)中村左膳を守護して東行の時なり

(つづく)

※ 写真:歌舞伎「白浪五人男」 左端が日本左衛門(歌舞伎では日本駄衛門)「知らざあ、言って聞かせやしょう」が名セリフとして有名

●翁草:盗賊、犯罪の話(五) その三

中村左膳の護送隊は、いわゆる「唐丸かご」に左膳を乗せ、京都東町奉行所から杜口、京都西町奉行所から与力「河合理右衛門」、京都所司代から「長谷川総三郎」、この3名をトップとして、他に同心4名、その他小者など、総勢40名弱の編成で12月中旬、京都を出発しました。

東・西町奉行所、京都所司代など、京都の幕府諸機関から人を出していることから、重要事件として取り組んでいることを感じます。

40名というと多人数にも思えますが、日本左衛門一味は、その気になったら最大150名ほどは集められますから、もし途中で待ち伏せされ襲われたら大変なことになります。

杜口も「もし賊徒達が襲ってきたら、ただ公儀の命令のために命を捨てようと決心した」と翁草に書いています。つまり「討ち死」も覚悟したということです。「杜口は剣術が得意だった」とは、どこにも記録がありません。

【原文】↓
「若(もし)賊徒原(ぞくとばら)募り(あつまり)来たらんには、偏に(ひとえに)公命の為に我死を以(もって)せんと心に決断して」

興味深い話ですが、現在、官庁・多くの企業では12月28日が「仕事納め」となっていますが、当時も似ていて、27日中に「江戸南町奉行所」に着くため、通常12日掛かるところを11日で着くよう旅程を組んだとのことです。逆算すると12月17日に出発した計算になります。

そのためけっこう強行軍となり、夜遅く、その日の宿に着いて、翌早朝から出発したとのことです。

杜口達にしてみれば、かなり疲労が重なったとしても、一刻も早く江戸に着いたほうが良かったことでしょう。幸い、どこからも奇襲を受けることなく、予定通り江戸に到着しました。

さて、よく知られているように江戸南北町奉行所は、1か月交代で開いていましたが、この月は南町奉行所が当番であったのでしょうか? 無事、中村左膳を南町奉行所に引き渡し、護送任務を終了しました。

そして、この時の江戸南町奉行は、ホンの5か月前まで杜口の直接の上司、京都東町奉行であった(>>[120]の)馬場讃岐守でした。

馬場は「おう神沢! 久しぶりじゃのう。息災であったか。こたびは大層大儀であった!」くらいは声を掛けたと思います。

これは単なる可能性ですが・・・ 杜口を護送隊員に希望したのは、この馬場讃岐守かもしれません。あるいは杜口は馬場と相性が良かったのかもしれません。

31日大晦日、杜口達は初めて江戸城に登城し「蘇鉄の間」において、大目付「石河土佐守」から銀貨10枚をいわばご褒美(危険手当?)として頂戴したのでした。

そのまま正月も江戸で祝い(羽を伸ばしたことでしょう)、1月5日に江戸を発ち帰途につきました。

さらに帰途にも興味深いエピソードがあります。

「浜松宿」を過ぎるころ、「日本左衛門が京都東町奉行所に自首した」とのウワサが流れてきたのです。

最初、杜口は信じませんでしたが、「鳴海宿」に着いた時、京都東町奉行所から「日本左衛門が自首したので、これを江戸に護送する」と連絡があったのでした。ウワサはホントだったのだと驚いた次第です。

そして、京都のひとつ手前の宿場「大津宿」で、唐丸かごに乗せられ江戸に護送される日本左衛門の一行とスレ違ったのでした。

この時、杜口は護送役の同僚与力「塩津太郎兵衛」に話し、日本左衛門を実際に見せてもらったのでした。

日本左衛門は人相書の通りいかにも剛健そうな大男、自分が護送した中村左膳はいかにも宮様の近習が似合いそうなヤサ男だが、日本左衛門は「左膳にはかなわない」と言った、ということを護送役から聞いた、と翁草に書き残しています。

また最後に、左膳護送中、江戸到着前夜、左膳に別れの気持ちを述べたところ、左膳は涙しながら礼を言い、我々も不覚の涙をこぼしてしまった、とも翁草に書いています。

その翌月、延享4年(1747年)2月11日、江戸小伝馬町の牢屋敷で、日本左衛門、中村左膳ほか4人が斬首されました。このうち日本左衛門、中村左膳ほか2人の首は、元本拠地「見付宿」に晒されたのでした。

こうして日本左衛門一味は壊滅したのですが、当初、一味を放置、無為無策だったとして掛川藩主「小笠原長恭」6万石は陸奥「棚倉藩」へ、相良藩主「本多忠如」1万5千石は陸奥「泉藩」に左遷されたのでした。

※ 写真:唐丸かご

>>[76]のレポート[出水の七不思議 その5 慈眼寺:http://mixi.jp/home.pl#!/diary/2361916/1964333078]を読んでいて、ハタと気が付いたことがあります。

実は、天明8年(1788年)正月のいわゆる「天明の大火」の時、100巻まで完成していた翁草の草稿や、先祖伝来の家宝を杜口は眼前で焼失させているのです。

そしてその後、杜口はなんと「記憶を頼り」に復旧を試み、3年後の寛政3年(1791年)に、全200巻を完成させたのでした。

従って、記憶がアイマイ、または間違って記憶していた部分(特にディティール)が、大いにあった可能性も十分考えられると思いました。
通常、記憶はディティール(細部)から忘失していくからです。

>>[76]など、その一例だったかもしれません。細部が間違っていることと、それが記憶を頼りにした影響であることを考察した文献・論文は、管見の限りでは見当たりません。本トピックが、本邦初かもしれません。


●以下>>[76] 抜粋
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しかし、杜口の翁草では、どこでどう聞き間違ったのか?

エピソードの大筋は合っているのですが、高利は俊次の実弟ではなく、奉公人(丁稚・手代)として、そして高利は、後年「三井家から三井の苗字を譲られた」と、記述しています(下記該当原文、参照)。

たぶん杜口は、誰からか聞いた話だったのではないでしょうか?
「伝言ゲーム」のように、人から人に話が伝わっていく間に、細部が変わっていってしまったと考えられます。

※ 翁草:巻ニ「越後屋八郎右衛門成立の事」該当原文↓
・此(この)八郎右衛門事、元は勢州松坂の者にて、幼年の頃、三井三郎右衛門といふ京町人の方へ奉公に出る
・夫(それ)より八郎右衛門、次第に繁昌に随ひ、後には三井の苗字迄も譲る様に親く成しとぞ

・三井広報委員会「三井の歴史」:http://www.mitsuipr.com/history/edo/tanjo.html
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>>[138] なるほどね!
天明の大火の影響も考えられますね。

この度、マイミクの「ぷーさん」が所蔵されていた「歴史図書社刊 翁草 全4巻(昭和45年版)」を破格な価格で譲っていただくことができました

今まで、明治38年版をコピーしたものらしい国立国会図書館デジタルコレクションの「翁草 全200巻(http://dl.ndl.go.jp/search/searchResult?searchWord=%E7%BF%81%E8%8D%89&facetOpenedNodeIds=&featureCode=all&viewRestrictedList=0&pageNo=1 )」を参照・利用していました。

どちらも内容はホボ同じですが、国立国会図書館デジタルコレクションのほうは、一部、活字がつぶれて判読困難な部分が多く、たいへん読みにくいものでしたあせあせ

これに比べて、歴史図書社刊のほうは、鮮明に印刷されており、たいへん読みやすいです。少なくとも、文字は判読できます。

これにて、さらに研究を進めたいと思います!

※ 最初の写真矢印(右) 国立国会図書館デジタルコレクションの翁草
※ 次の写真矢印(右) 歴史図書社刊の翁草
>>[140]
これはいいですね。
いいものが手に入ったと思います。
>>[142] 「持つべきものはマイミクさん!」ですね顔(笑)手(チョキ)

特に4人のマイミクさんからは、大きなメリットをいただきました手(OK)
>>[138]
>>[136]

杜口は、巻百十七「懸命の話(>>[136] )」のスグあとに「本阿弥の話」という短い話を書いています。

これは「犯罪の話」ではなく、>>[138] の話に関連します。

この話で杜口は、オドロくべきことを書いています。
「明智光秀」を「織田信長」に推挙したのは「本阿弥光正」という人だったと述べているのです。

このような逸話は、聞いたことがありません。
下の写真は「本阿弥の話」の原文で、以下がその現代語訳です。

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  - 本阿弥の話 -

「明智光秀」を「織田信長」に推挙したのは「本阿弥光正」という人である。

「本能寺の変」の後、「神君:家康公(徳川家康)」が本阿弥光正に対し「人を推薦したりすることは、カンタンに行わないほうが良い」「光秀ほどの人物でも謀反を起こすのだから、ましてフツーの人は何をしでかすか判らない。本阿弥家は、いろいろな家に出入りすることが多いのだから、なおさら気を付けなければいけない」と、諭したところ、本阿弥光正は謹んで聞いておりました。

それ以後、本阿弥家では、就職の口利き・世話などはしないことにしました。今も浪人らしい者が、いろいろ頼んで来るが、以上の事情があるので、お断りしていると「本阿弥十郎左衛門」は語った。(高橋 訳)

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本阿弥家というのは、元々、刀剣のとぎ(磨研)・ぬぐい(浄拭)・めきき(鑑定)などを家業とし、足利将軍家に仕え、室町・戦国・江戸時代を通じて名家でした。芸術方面にも進出して「本阿弥光悦」が最も有名です。

本阿弥氏:http://www2.harimaya.com/sengoku/html/hon_ami.html

さて、本阿弥の話の最後のほうに出てくる本阿弥十郎左衛門という人は、該当する人が、スグ見つかりました。

本阿弥十郎左衛門は、フル・ネームを「本阿弥十郎左衛門光蘇」と言い、刀剣の鑑定家として加賀藩に150石で仕えており、享和3年(1803年)に亡くなっています。
杜口は、寛政7年(1795年)に亡くなっていますから、同時代人と言えます。

杜口と本阿弥十郎左衛門は、お互い面識があったかどうかは不明ですが、直接にしろ間接にしろ、上記の話を聞いて「本阿弥の話」として翁草に記したのだと推測できます。

ところが、本阿弥光正という人は、ホントに明智光秀を織田信長に推挙したのかどうか?真偽はともかく、本阿弥家の詳細な系図を調べても見つかりませんでした。

その本阿弥家系図では、織田信長と同時代の本阿弥家に「本阿弥光二」という人がいます。あの有名な本阿弥光悦の実父になります。大永2年(1522年)生まれ、慶長8年(1603年)12月27日没、享年80歳。

光二は、永禄年中に今川義元に仕え、今川家の人質となっていた徳川家康(当時:松平竹千代)とも親交があり、「桶狭間の合戦」で義元が織田信長に討たれると信長に仕えるようになったそうです。

信長死後、天正年間(1573〜92)には、越前の前田利家(加賀藩)から知行を受けるようになったとのこと。

この光二という人なら、徳川家康や織田信長とつながりがありますし、また明智光秀は、信長の家臣になる以前、足利将軍家に仕えていましたから、同じく足利将軍家と関係が深い光二と面識があったとも考えられます。

杜口の記す光正というのは、実は光二のことだったのではないでしょうか?
だとすると、周知されていないことですが、ホントに、光二は織田信長に明智光秀を推薦した可能性も考えられます。

そしてここでも、杜口の「記憶に頼った結果、細部を間違えた」という一例が出てきてしまっていることも考えられます。
>>[146] 顔(笑)

『本阿弥の話』、面白いですね

織田信長、歴史上の人物の中で好きな人の一人なんで、色んな話、読み聞きしてましたけど、初耳です
>>[147] 私も、日本史には随分詳しいと自負しておりますが、こんな話は聞いたことがありませんあせあせ
テレビや書籍には、まず出てきてない話ですね!

事実かどうかは、わかりませんが、あり得るかもしれないと思うと、ナゼか?楽しくなってきますよ顔(笑)
>>[148] 顔(笑)

歴史ミステリーロマンですね(笑)ウインク

これからも、珍しいお話、楽しみにしてまするんるん

(聖徳太子、義経、写楽〈あんまり、京都とは、関わりないけど〉など、すきなんで、よろしゅ〜ですウッシッシ
>>[146] 本阿弥光二が「織田信長に明智光秀を推挙した」というのは新発見なのではないでしょうか?
>>[150] また調べてみたら、本阿弥光二だったら、明智光秀を織田信長に推挙した可能性は高いと思いました(もちろん光二の勧めだけで、信長は光秀の採用を決めたわけではないと思いますが・・・)

下記のサイトを読むと↓
https://www.sankei.com/west/news/151028/wst1510280088-n2.html

●光二が織田信長の勘気をこうむったとき、妻の妙秀は鹿狩に出かける信長を追い、馬上の信長に夫の冤罪(えんざい)を直訴した。鐙(あぶみ=足をかける馬具)で蹴られながらも必死に訴える様子を見た信長は、ようやく勘気を解いた。

●家康は今川義元の人質だった幼少時から光二と昵懇(じっこん)で、、ムスコの光悦にも目をかけていた。

とのことで、信長や家康とは、かなり親しかったようです。

また光二は、父の本阿弥家七代当主「光心」が、永禄2年(1559年)2月2日64歳で死んだ後、本阿弥家八代当主を継いでおり、当主は代々、足利将軍家直属でもあるので、足利将軍家に仕えていた明智光秀と懇意であったことも十分考えられます。

※ 光二は光心の実娘「妙秀」と結婚して、光心の婿養子となって、本阿弥家八代当主を継いだが、後に、八代当主を「光刹」に譲り、別家を興した。
>>[151] 顔(笑)

ふと、思たんですけど…

文章を書き写すときに、『二』が、くずし字で、その斜め左したあたりに、汚れかなにかがついて『正』の字と間違えたってことは、ないでしょうか?(笑)ウッシッシ
>>[152] う〜ん! スルドイ点を突かれましたね!

何しろ杜口は「天明の大火」で、翁草の大半を焼失してしまい、また記憶を頼りに再度、執筆し直したことや、人からの「聞き書き」が多いことから「話の大筋は正しいが、細部にマチガイが散見される」のですが・・・

しかし、この「本阿弥の話」に限っては、「誤植」の可能性も否定できないですね!

本阿弥家人物事典:http://meitou.info/index.php/%E6%9C%AC%E9%98%BF%E5%BC%A5

>>[151] 後年(本能寺の変以後)家康が光正(=光二か?)に、わざわざこのような話を蒸し返すということは、光正の発言(推挙・推薦)が信長の光秀採用にかなりの影響力をもっていたことの証(あかし)なのではないでしょうか?
>>[154] さらに光正(=光二)について調べてみますと、下記のように室町幕府・織田信長・徳川家康と深い関係にあり、諸方にかなりの影響力があったかもしれないですね!

•光二は、応仁の乱の当時、京極家出身で2度に渡って室町幕府京都侍所所司代を務めた名所司代として知られる「多賀高忠」の孫と伝えられている。

•光二は、まだ越前府中領主であった小身の頃の信長家臣「前田利家」とも交流があり、利家が出世すると扶持をもらうようになった。

それが光山(光二から4代目の光甫の五男)に引き継がれ、光山の系統は「加賀本阿弥」と称された。翁草の「本阿弥の話」をした「本阿弥十郎左衛門光蘇」は、光山の孫である。

•光二は、信長の御前に毎日罷(まか)り出たという。

•今川義元が竹千代(徳川家康の幼名)に脇差を作ってやる際に、光二が木型を造り、それを島田鍛冶国房に渡し二振り作らせた。出来のいいほうに光二に命じて拵えを作らせ竹千代に与え、もう一振りは光二が拝領したという。これは5代後の光伝まで代々差料としたという。

しかし残念ながら、明智光秀の記録の多くは抹殺されているので、光二と光秀が直接・間接に接触した事実は見つかっていません。
>>[152] にのほさんの推理、調べましたところけっこうアタリ!のようです。

というのは、現在、私が所有している昭和44年歴史図書社版「翁草」は、明治38年に「池邉義象」「柴田顕正」という人が「藤井五車楼本」をメインとし、「富岡鉄斎所蔵本」「京都府立図書館本」などの「手書き」の写本を突き合わせて、製作された版(明治38年池邉校訂本)を基にしており、歴史図書社自体が「誤植が多少ある」と序文に書いておりました↓
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「巻五十八、江戸城雨溜桶の事」の「椎名(しいな)」を「推名」としたような「誤植が他にないとはいえない」と書いてあります。
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私がまた他に見つけたマチガイとしては「巻二十七、信長公三好長慶を賺(だま)す事」で「斎藤義龍(よしたつ)」を「斎藤義就(よしなり)」と誤植していた事例でした。

斎藤義龍は、戦国時代有名な「まむしの斎藤道三」の息子で、義就と名乗った事実はありません。戦国時代のスタートとなった「応仁の乱」の時、主要人物だった「畠山義就」という人が居ます。
>>[156] 顔(笑)

おぉ

調べていただいたんですねexclamation ×2

昔は、手書きで、癖字やったり、達筆すぎたりやったんでしょうねウインク

先日、高橋さんにいただいた「歴史研究」を読まさせていただきました。会員随想「長い老後を生きた神沢杜口」は、現代社会と照らせ合わせた生きた随筆となって居ます。やはり、屋敷図がモノを言いましたね。養子の背景や京都西町奉行所与力の推測など貴重な文献などから史実を見出すのもなんか歴史の流れの中で宝物を発見する喜びが見受けられて感服いたしました。「翁草」の現代語訳もなく苦労しますね。頑張ってください。ご丁寧にここのコミュの紹介もあり微笑んでしまいました。
神沢杜口のような孤高の人生は歩めませんが、ぼんやりと草花や空を眺めて死ぬまで生きて観たいと思いますよ。感謝♫

追伸:他の会員さんの随想も中々興味深いですね。文字が小さいのでハヅキルーペを買ってから熟読したいと考えて居ます。
>>[158] どうも拙著を読んで下さり、御礼・感謝申し上げます!

「神沢杜口の現代性」については、十分書くスペースがなかった(400字詰原稿用紙5枚迄)ので、改めて書きたいと考えております。

当時の85歳(満)は、現在の100歳にも相当しますが、その年齢の現代性だけではなく、「スゴい金持ちでもなく、スゴい貧乏人でもなく」、ちょうど「現在のサラリーマン定年退職者」の多くに酷似しています。

今、サラリーマン定年退職者は、国から年金をもらって老後を過ごしますが、杜口は、跡継ぎの娘夫婦から年金のように生活費をもらって生活しています(最近はやや状況がキビしくなっていますが)。

早々と退職し、健康(オタク?)に気を遣い、80歳過ぎまで元気に市中徘徊に精を出して、趣味の翁草執筆にチカラを注いでいるところも現代的! まさに江戸時代のブロガーです。

実娘夫婦が居るにもかかわらず、退職後、40数年間、ひとりで貸家を借りて、都会の片隅に住んで、気ままに暮らしたところも極めて現代的であります。「大家族主義・田舎嗜好」はありません。

神沢杜口には「現代と似た極めて都会的な匂い」がするのであります。

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ところで、拙著には、実家を「近所の入江家」に推定していますが、最近、別の「入江家」を京都で見付けました。

公家の家政・警護を担当する「諸大夫」と呼ばれる人達がおりますが、「五摂家」のひとつ「一条家」の諸大夫と、「清華家」のひとつ「三条家」に、入江という家があります。いずれも「清涼殿」に昇殿できない、つまり天皇と会えない「地下家」と呼ばれる身分の低い(多くは五位以下)公家達(約460家)であります。

神沢家も「徳川将軍」とは会えない「御家人」の家柄なので、なんとなく似た家柄と言えなくもありません。

しかしやはり、「武家」と「公家」の養子縁組は考えづらく、やはり同業の入江家から神沢家に養子に入ったと考えるほうが自然だと考えざるを得ません。

●地下家一覧:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E4%B8%8B%E5%AE%B6%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7

>>[160]

地下家一覧をザッと観たけど、呆れるほど厳しい身分制度を作らないと成り立たない時代は、長続きしないもんだ。しかし、現在の京都観光地は、それらの身分制度の名残を俺たちは、楽しませて居るのも事実。
>>[161]


昔は、公家の公卿(三位以上)、殿上人(五位以上)、地下人(五位以下)、武家の旗本(将軍お目見え)、御家人(お目見え以下)など、

また公家では、1摂家、2清華家、3大臣家、4羽林家、5名家、6半家(諸大夫家)と細かく家格が分かれ、煩雑極まりないですね表情(あせり)

マア現代の我々は、確かにこういうのを調べるオモシロさはありますね手(OK)
本阿弥光悦とご子息と一族のお墓なら鷹峯の光悦寺にございますね。
今ならアオモミジが美しいことでしょう。

光悦寺は、元和元年(1615)に本阿弥光悦が徳川家康から鷹峰一帯の地を寄進され、その地に本阿弥家代々の位牌堂を建てたのに始まる。光悦は、桃山・江戸時代の芸術家で、この地に親族縁者や工匠などと移り住み、芸術家村を築いた。光悦は、刀剣の鑑定のほか芸術指導者として活躍。晩年は創作、雅遊の日々を送り寛永14年(1636)八十歳で同地で没している。翌年の寛永15年(1637)に日慈上人(本法寺の十二世)を開山に請じて寺に改められたもの。境内には光悦の墓碑が見られる。

◎光悦寺の所在地など
・住所:京都市北区鷹峰光悦町29
・電話:075−491−1399
・拝観時間:8:00〜17:00(11月10日〜13日は拝観不可)
>>[130]

森 鷗外は、東京大学医学部卒で陸軍軍医の体験もあるのでこれらに関係して着眼したのも当然な流れでしょう。小説家として特異な位置に居られます。

また、京都国立博物館で池大雅夫婦(妻:玉瀾(ぎょくらん))の合作も見物できました。彼は天才ですね。しかし自由奔放に生きた夫婦でした。それゆえ尋常でない高みを極めたのでしょう。
>>[164] 森鴎外(林太郎)は、スゴい人というか、スーパーマンですね�手(チョキ)

日本の近代二大文豪というと「夏目漱石」と「森鴎外」ということになっているし、鴎外は軍人としても陸軍軍医の最高峰(トップ)の「軍医総監」にまでなったのですから、まさに二刀流の人生ですよね指でOK

軍医総監の階級は「中将」ですから「師団長」と同じです!

その鴎外は、翁草の記述から「高瀬舟」「興津弥五右衛門の遺書」の二つの作品を書いているのですから、翁草もナカナカのものです手(チョキ)

私も京博で「池大雅」展を観ましたが、玉蘭さんが、火付盗賊改方「徳山五兵衛」が京都遊学中に作った娘であるということをどこにも書いてないことに不満をもちました泣き顔
>>[146]からの『本阿弥の話』、
つまり、『翁草』に「明智光秀を織田信長に推挙した本阿弥光正」の話が載っており、本阿弥光正とは本阿弥光二のことではないだろうか?

という情報を最近「本能寺の変431年目の真実(文芸社文庫)」で、注目を浴びている著者の明智憲三郎さんにお知らせしたところ、非常に興味深い情報で、ご自分も研究してみるとのご返信をいただきました!

https://blog.goo.ne.jp/akechikenzaburotekisekai/cmt/c3385b3638dad52cc45831333a1b0101

誠に光栄なことですが、これを見ても『翁草』が、いかに研究されていないか解るような気がします。

●写真:本能寺の変431年目の真実(文芸社文庫)
>>[166]
熟読拝読いたしました。
明智光秀と織田信長の関係が見えてくるようです。
この語の研究を楽しみにしています。
>>[166] exclamation ×2

スゴいですね…

テイスティさんの研究、深くなっていきそうですね〜うれしい顔
>>[167] 明智さんの分析力はスゴいので、新しい事実が出てくるかもしれません!🤔
私もたいへん楽しみですわーい(嬉しい顔)
>>[168] ありがとうございます顔(願)‍♂

ここから先はナカナカ進むのが大変ですが、自分なりに調べていこうと思っています

明智さんに期待するところ大ですが逡
>>[166] やはり新発見でしたね!

再び書きますが、後年(本能寺の変以後)家康が光正(=光二か?)に、わざわざこのような話を蒸し返すということは、光正の発言(推挙・推薦)が信長の光秀採用にかなりの影響力をもっていたことの証(あかし)なのではないでしょうか?
>>[172] ウーン! よく考えてみると、その可能性は否定できないですね手(チョキ)
>>[152] に
>しかし残念ながら、明智光秀の記録の多くは抹殺されているので、光二と光秀が直接・間接に接触した事実は見つかっていません。
と書きましたように・・・

 光二が、徳川家康、織田信長とかなり親しい関係にあったことは「本阿弥行状記」に記録として残っているのですが、残念ながら肝心の明智光秀との接触・交流の記録はナカナカ見付かりません。

ただ、ひとつ引っかかったのは・・・

光秀の「筆頭家老」で「光秀の右腕」とまで言われている「斎藤利三」という人物がいます。利三は、美濃斎藤氏の一族で、美濃土岐一族の光秀と同様に室町幕府の「奉公衆」の出身、明智家との縁戚関係もあり、あの「春日局」の実父でもあります。

「本能寺の変の主導的な役割を担ったのは利三」との説も存在しているくらい、光秀に食い込んでいる人物です。

実は、その利三の祖父や曽祖父は、刀剣のいわば研究家で、刀剣の研究書(刀剣書)を書いているのです。そしてその本の最後には、「天文十四年(1545) 卯月五日 本阿弥 花押(サイン)」と書き込まれていて、本阿弥家が所持していました。天文14年当時の本阿弥家の当主は光二の父「光心」と考えられます。

このあたりから「光秀と光二の交流」が、何か判るかもしれません・・・

曽祖父:斎藤 利安 「簗氏正長銘尽 写」 この本の最後に本阿弥のサインがある
祖父:斎藤 利匡 「往昔集」
https://kougetsudo.info/koten/
※利匡・利安は、叔父・祖父など、諸説あり。

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