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考える糧ゴリーコミュのコラム 2

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コメント(68)

>>[30]

> ,海了弭夕存海砲いては、その質問はまったく思考実験の目的に関係のない質問、愚問と言える。

そうでしょうか? 各自別の箱を見ながら、皆がそろってそれを「カブトムシ」だという、極めて不自然な状況設定だと思うのは当然の疑問だと思います。

議論に誘っておきながら、「愚問」などという言い方は失礼ではありませんか?
>>[33]

>では、自然な状況設定を教えて下さい。

その思考実験が何を明らかにしようとしているのかが私にはよく理解できなかったので、説明を求めているだけです。

ある人が、「カブトムシは光沢のある黒色で、角が一本生えている。」と言い、別の人は「カブトムシは白色で柔らかくてイボのような足がついている。」、また別の人は「カブトムシは目に見えない。」などと言い出したとしたら、その箱に入っているものが「カブトムシ」であると渡されたとしても、実は各々違うものが入れられていたと気がつくのではないですか?
そうでなければ、カブトムシはいろんな形態をとりうると考えるか、それとも同じものを見たとしても、他人によって言葉使いが違うということでしょうか?

思考実験というなら、その実験によってなにを確かめようとしているのかその意図が明確でなくてはなりません。、前提となる状況設定もその趣旨に沿って丁寧に説明されるべきだと思います。
>>[36]

別に揚げ足をとっているわけでも重箱の隅をつついているわけでもありません。全文を読んでも意味が分からないから問うているのです。

>>[35]の質問を繰り返しますのでお答えください。

ある人が、「カブトムシは光沢のある黒色で、角が一本生えている。」と言い、別の人は「カブトムシは白色で柔らかくてイボのような足がついている。」、また別の人は「カブトムシは目に見えない。」などと言い出したとしたら、その箱に入っているものが「カブトムシ」であるとして渡されたとしても、実は各々違うものが入れられていたと気がつくのではないですか?
そうでなければ、カブトムシはいろんな形態をとりうると考えるか、それとも同じものを見たとしても、他人によって言葉使いが違うということでしょうか?
>>[38]

で、結局、この思考実験で何が明らかになったのでしょうか?
>>[44]

「カブトムシの箱」について私も調べてみました。私の見るところ、あなたの引用した文では不十分であると思います。インターネット上にこの件に関する記事はたくさんありましたが、これが私的言語についてのウィトゲンシュタインの見解を示すものなら、その勘所が未消化のものが多いようにも感じました。

>どんな子供でも、ある時点で彼らの目に映る青い色が他人が見ているものと同じであるかどうか疑問に思う。

上記の趣旨のことを言いたいだけなら、あらためて「カブトムシの箱」を持ち出してくる必要は無いはずです。ウィトゲンシュタインはもう少し踏み込んだことを言っているのです。

箱の中のものが、つねに変化しているかまたは何もないという可能性があるという条件の中で、各人がカブトムシとは自分の持つ箱の中のものだと思っている。ならば、交換可能な情報は「カブトムシ」というラベルの張った箱の中にあるものということだけです。箱の中身についての言及は何の意味もないということです。

このことは、「私の見ているこの赤色は、あなたの見ている赤色とは違うかもしれない。」ということではありません。そのような言表自体が意味をもたないと言っているのです。実は何を言っているのか自分でも意味が分からず言っているということなのです。(私が言っているのではありません。ウィトゲンシュタインが言っているのです。)

ウィトゲンシュタインに言わせれば、命題の意味を理解するとはその命題が真となる条件が分かる(「論考」4.024)ということであります。しかし、「私の見ているこの赤色は、あなたの見ている赤色とは違う。」という言表は、どういうときに真であるかが分かりようがありません。つまり理解不能な言葉であるということになります。

同様なことは「痛み」についても言えます。孫引きですが、「心の哲学まとめWiki」というサイトから永井均さんを引用します。

===== 引用開始 ======
永井は『翔太と猫のインサイトの夏休み』でも以下のように述べている。
転んで膝を擦り剥いて泣いているる子供がいたとするね、その時子供が膝に感じている感覚を定義によって『痛み』と呼ぶんだよ。(中略)痛み以外の感覚を感じている可能性は0.001パーセントもないんだ。なぜなら、そのときその子が感じているものが定義によって『痛み』なんだから、『痛み』という言葉の意味の源泉はそこにしかないんだから
色に関しても同じだよ。消防自動車やトマトや血のような色を、他の色から区別して『赤』と呼ぶんだ。それが各人にどう見えてるかってことは、もともと考慮に入れられていないんだ。(中略)『赤』が『青』く見えてる人など存在しえないことになるんだよ。
『たとえ赤が青く見えていても……』なんて仮定じたい成り立たないって話なんだから。(pp.79-80)。
===== 引用終了 ======

子どもが膝をすりむいた時のリアクションがカブトムシの箱、子どもが内的に感じている「痛み」がカブトムシに相当すると考えていいでしょう。われわれの公共的言語は初めから、箱に張られたレッテルによって構成されているのです。
>>[47]

>>>[43] の私の提案には応じて頂けますでしょうか?

その件についての私の意見は以下の記事で述べています。特に議論したいとも思いません。

「結果を目的と取り違えるべきではない」
https://ameblo.jp/toorisugari-ossan/entry-12280768532.html
>>[54]

>自分の意見は言わずして、他人の意見の批判ばかりである。

もしかして、これ私のことですか?
言葉遣いはもっと慎重であるべきだと思いますよ。
>>[57]

わかりました。ではご自由にどうぞ。
私の方からは、かかわらないことにします。
かなり前に読んだ本だが、福岡伸一の「生物と無生物のあいだ」が面白かった。帯に科学ミステリーとあるので、すっかり学者さんが書いたミステリー小説(フィクション)だと誤解していた。この本は、DNAや動的平衡など最近の科学と科学者達の人間模様を描いたノンフィクションだ。それにしても理系の学者さんに、これほど文学的な文章を書かれると文系の私は穴があればはいりたくなる。それほどに見事な文章だ。

生物とは何かを定義することは難しい。自己複製するもの、というだけでは十分ではない。この本では結論として「生命は機械ではない」と書かれている。それが何故かはここには書かない(書けない)が、筆者は最後を次のような一文で締めくくっている。

「結局、私たちが明らかにできたのは、生命を機械的に、操作的に扱うことの不可能性だったのである。」

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