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阪神大震災コミュの『1.17 あの日を忘れないために。』

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 今日で13年になります。

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【阪神・淡路大震災 私の記憶と記録】

 毎年、松の内が過ぎる頃、胸が締め付けられると言おうか、何とも言えない悲しみがこみ上げてくる。人間って不思議だ。意識していなくとも言いようのない脅迫感がこみ上げてくる。それは「忘れたい!」と言う無意識が「忘れるな!」と言う意識を脅迫するという物なのか。

 先日、妻が「最近、近くに<人と防災未来センター>が出来たから、覗きに行かない?」と誘われた。脅迫の正体がハッキリした。

 1995.1.17 AM5:46

その日6,433名 無念の御霊が逝った。

*********************************************

 グラッ ゴゴゴォォォォオオオ! ドッカーン!!!ミシミシ・・・
「なんや!なんや!なんや!!!あかん!倒れる!倒れる!!」

ベッドの上をトランポリンのように何度も跳ね上げられ、ついにベッドから振り落とされた。立つことは当然出来ず、建物の崩壊の恐怖を何とも言いようのない地響きを聞きながら必死に耐えていた。オーディオのスピーカーが頭上に落ち、頭をしたたかぶつけた妻は「早く!子供を見に行って〜!!」と悲鳴を上げた。飾り棚のグラス類が粉々に砕け散ったリビングを隔てて子供部屋に走り、泣き叫ぶ子供達を抱きかかえながら、足の踏み場もなくなった寝室のベッドで待つ妻に子供達を預け玄関に飛び出た。

 シ〜〜〜〜〜〜〜ン・・・。

 街の灯りが一切消えた真暗闇の中、信じられないほどの静寂と寒気・・・。唯一、六甲山頂上にかかった雲の輪郭と月光りが照らす神戸の海に、まるで影絵のように浮かび上がったモノクロームの大型貨物船が見えた。不謹慎にもその息を呑むようなその美しさは、その後起こりうる悲劇のプロローグだったのか・・・。

 すぐ、両隣の玄関を叩き「大丈夫ですか!けが人は居ませんか!」
幸い無事であることを確認し自宅に戻った。寝室では恐怖に震える妻が、状況が把握できずに泣きべそをかく子供達をしっかり抱きしめ私の帰りを待っていた。状況を把握できないのは何も子供だけじゃない。私自身がもっともそうなのだ。

 とりあえず、家族の安全確保のため暖かい衣服に着替えさせ(もっとも前日までスキーに家族で行っていたたので、目の前のスキーウェアーに着替えさせただけなのだが)自治会(マンション)の集会所に行かせた。スクーバーダイビング用の強力ライトを持って集会所に着くと、数組のご近所の家族が集まっていた。少しすると人数が増えてきたので、そこで数名の有志を募り地区の家庭一戸ずつ安否の確認に見回りに行く。

 私の住むマンションは、一区画約300世帯の大型高層マンションだ。そのマンションの有志で、まず住人の中から医療関係のライセンス保持者を募った。医師、薬剤師、看護師、数名で簡易診療所を急遽設置。各家庭に医療機関からもらった薬の残りを供出してもらう。骨折や脱臼の固定用材料はシーツを引き裂き包帯と三角巾。衛生材料は一番清潔と思えたのが女性用生理用品。大きな切り傷の男性にひょうたん型のそれを当てたときは、笑ってしまった。現役ナースの妻は「大丈夫!何より清潔、吸収力抜群!おまけに横漏れまでOK!」なんて言っていたが、目には涙があふれていた。



 次第に空が明るくなり、何とか周囲の状況がぼんやりと飲み込めてきた。勿論、地域一帯は停電、断水、勿論ガスなど有るはずもない。私の住む町はいわゆるニュータウンで、40階建て以上の高層建築物は数棟あるのだが最新の建築法で建って居るとのこと。幸い崩壊や火災は逃れた。しかし、昔ながらの古い住宅街が北の方角にある。案の定真っ黒な煙が立ち上がっている。火災だ。情報が遮断された世界で、この地震の震源地が私の足下であるにもかかわらず、実際何処が震源なのかそこにいる自分自身が分からない。その間、何度と無く余震に見舞われる。その度に泣き出す大人さえ居る。大阪方面は大丈夫なのか?神戸からより安全な地域へ移動の可能性を探しに行こうと、家族を友人に託し見に行こうと考えた。が、一瞬の不安が頭をよぎった。今から考えれば馬鹿げた発想かも知れない。しかし私の歴史認識の片隅にある<関東大震災 朝鮮人大虐殺>がよぎる。

 確かに、今日これだけ成熟した日本社会で、それを恐れることは馬鹿げているかも知れない。しかし、自分史の中で<在日朝鮮人>と言うことを実感として認識した瞬間であった。近所に仲良くしてもらっている数名の友人(日本人数名とアメリカ人、カナダ人)が居る。そのことを相談すると、彼らは一瞬曇った表情を見せたが「何を言っている。そんなことが起きるはず無いじゃないか。」と言いながら「絶対」とは言わない(言えない)のだ。大阪方面は被害が少ないと言うことが、ラジオからの情報で次第に分かったのだが、道程の状態を確認するため前もって見に行くことが必要だった。幸い私は趣味がトライアスロンであるため、普段から週に数度<大阪=神戸間>をランニングしている。結局走って見に行けるのは私くらいなのだ。友人数名に家族を頼み大阪方面へ走っていく。

 そこで見たのは、今思い出しても悪寒が走る地獄絵図だった。
崩壊した家屋の瓦礫の前で、寒空の下、ほこりをかぶり真っ白にまみれたパジャマ姿のまま裸足で呆然と立ちすくむ人。私の腕をつかんで「お願い!助けて!お父ちゃんと、お母ちゃんがまだ家の下敷きになっているねん!さっきまで声聞こえてんけど、もう何回呼んでも応えてくれへんねん!」泣き疲れたのか涙も出ていない・・・。歩道には亡くなった遺体を収容しようもなく毛布にくるみ幾体も並んでいる。瓦礫の中から蚊の鳴くような「たすけて・・・。」と言う声。その声をかき消すような爆音で飛び回る何台ものメディアのヘリコプター。空に向かって「やめろ〜〜〜!」と大声で叫んだ。あちらこちらで火の手が上がっている。この火がこっちに来るとこの人達は助からないのは明らかだ。

 私の住む地区は<灘の生一本>で有名な酒所だ。大手酒造会社もあるが小さな酒蔵も軒を並べている。ちょうど新酒が出来上がった時期だった。酒蔵は古い建造物が多く、しっかり立っていた蔵もあったが多くの蔵はぺしゃんこになっていた。そこから麹の何とも良い香りが漂って来る。多くの貯蔵タンクが壊れ、そこから漂っているのだろう。廃墟となった街には、いかんせん似つかわしくない芳醇な香りがする。私は何故か違う意味で悲しくなり、何か伝統ある日本酒の蔵に長年培ってきた麹菌がこの震災で失われていく・・・。日本の良き伝統が崩壊してしまったような錯覚に陥って居る自分が見えた。かたや人の命が目の前で失われようとしているとき、日本酒の心配をするこのアンバランスさが不思議と自分の中で昇華していく。その不条理さを、今でも記憶の中にバランスよく収まってしまっているのは何なのか?月日を重ねた今でも問い返す。

 暫く東の方向に向かい、阪神間の大動脈、国道43号に出た。
信じられない光景を目の当たりにした。「一体何なのだ!これは!こんな事が本当にあるのか!」目の前にあったのは倒壊した高速道路だった。暫く行くとバスが端っこにぶら下がっている。

 じっと考えた。この光景を子供達に見せることは出来ない。
私は踵を返し、自宅に向かった。自宅はマンションの最上階のため、家族は低層階の友人の部屋に寄り添っていた。水の消費や、燃料の消費を考えれば一つの部屋に出来るだけ多くが集まった方が無駄が少ないことと、何より心強いので4世帯が集まった。日本人家族2世帯、アメリカ人家族、そして私の朝鮮人家族。妻達は子供達に不安を与えないよう、リビングにあったピアノの伴走で子供達と<アンパンマン>を歌っている。ひっきりなしに外をヘリコプターが飛び回る。ただでさえ怖がっている幼児がその音に非常にナーバスになり泣きやまない。

 そうしているうちに夜のとばりが降りてきた。
私は、家族を預けたまま自治会に行く。自治会では各々連絡網を作り、急遽こしらえた診療所では住民から供出してもらった薬が薬剤師によって仕分けられていた。外傷患者は一段落しインフルエンザ大流行の時期で有ったためその診療を行っている。自治会では今後の対策を有志で話し合い、また近隣の自治会との連絡を取るべく策を練っていた。また、住民の中から自主的に大手ゼネコンの一級建築士が数名名乗りを上げ、膨大な設計図、施工図とにらめっこ。そして懐中電灯と共にマンションの重要な基礎部分を点検をし、安全性について討議していた。本当に頼もしかった。

 取りあえず水を確保しなければならない。飲料水は子供達が飲むとして大人はビールだ。各家に缶ビールは結構ある。「冷蔵庫 電気無ければ ただの箱」とはよく言ったもので、腐敗が心配な<生もの>から先に食べる。各家の<生もの>が食卓に並ぶ。皮肉なもので豪勢な食事だ。ビールを飲みながら友人とろうそくの火の元話し合う。道路状況を報告し暫くここにいることを決める。自治会で私は結構頼られていたので、ここにいる間は家族のことをしきりに頼んだ。「心配するな!」と言う返事が私を慰めた。携帯ラジオから流れる被害情報と安否確認がノイズと共に部屋に響いてく。

 突然部屋の電話が鳴った。回線が神戸に集中していたので殆どつながらない。たまたまつながったのだろう。その家の奥さんのご実家からだ。寝静まっているようで皆、布団の中で眠れない時を過ごしていることは知っている。奥さんが小声で安否を伝えている。ラジオの被害情報では時間ごと死者の人数が増えてくる。時々奥さんのすすり泣く声が聞こえてきた。ホノルルにいるアメリカ人夫妻のご両親にもこのことは伝わっているのだろうか?まんじりとも出来ず、夜が明けてきた。



 地震から二日目。頻繁に起こる余震の恐怖にさらされながら、眠れぬ夜を明かした。早朝、集会所には自治会のメンバーが集まっていた。そうしているうちに、自衛隊の給水車がやってきた。長い長い人の列が出来る。ふと思った。妻に「14階にお年寄り住んで居てなかった?」「昨日尋ねたら、息子さん海外出張中で『おばあちゃん一人だから下に降りてきて一緒にいましょ。』って言ったんやけど、どうしても首を縦に振らなかったの。だから、こうしておばあちゃんの分、水の確保用ポリタンク持ってきたのよ。後で届けてくれる?エレベーター使えないからね。」「はいはい、分かりました。」

 自治会で提案した。「次の給水車が来るまで、各家のポリタンクやお鍋に部屋番号をマジックで記入の上、出来るだけ沢山供出してもらいましょう。給水車が来ると誰彼言わずみんなで一斉に水をもらい、一旦集会所に集めましょう。そして再び病人やお年寄り、乳幼児が居る方に優先順位を設けもう一度再配布しましょう。」妻が横で集まったみんなに「すみませ〜ん。この人マルキスト(マルクス主義)ですから。」一斉に笑いが起こった。誰も文句はなかった。ほっとする。そして、その後お弁当や救援物資の配給は皆この手はずでスムースに行った。

 その間色々と有ったが、1日でも早くここから脱出したいと言う家族の意見でその方法論を練った。私は以前にスクーバーダイビングをやっていたので、和歌山県のスクーバー仲間の友人に連絡し船を調達できないか聞いてみることにした。何度も公衆電話で連絡しやっとの思いで繋がった。するとすぐに、大阪岸和田漁協に連絡を取ってもらい漁協からOKを取ってもらえた。しかし、その後行政から「民間で勝手な行動はとるな!」と言う指示が出たため流れてしまった。電話の向こうで「俺が有志募っていくから、待っていてくれ。でも接岸できる場所があるか?」よく思い出すと護岸という護岸は殆ど崩れていたことに気が付く。つまり岸から1メートル以上開いていると、もう誰も船に乗り込むことは出来ないのだ。丁寧に断りを入れた。とうとう4日目の深夜、友人家族4世帯で神戸を後にすることと決める。

 RV車の後ろをフラットにし布団を敷いて、子供達に出来るだけ窓外を見ない様気を配り出発する。とにかく尼崎まで行くとある程度ライフラインも開通していると情報があった。距離で言うとたった20Kだ。ゆっくりランニングで行っても2時間かからない。

 途中、大渋滞の中けたたましく鳴り響く緊急自動車のサイレンの前方に一台の黒塗りのバスがあった。大音量で軍歌を流している。マイクロフォンで「皆様。元気を出してください。我々大日本◎△会が皆さんの安否を気遣い食料を持ってまいりましたぁ〜!」異様に弾んだ声。右翼団体の宣伝カーだ。「何が安否を気遣いだぁ〜!お前のおかげで後ろは大渋滞じゃないのか!」その先頭で右翼と自衛隊の隊員が小競り合いをしている。なんて事無い右翼達は物見遊山の見物に来ているのだ。無性に腹が立ち思わず車から降りその宣伝カーに詰め寄りたくなった。妻が「あかんで!行くつもりやろ!家族のこと考えてや!」その小言で振り上げかけた拳を飲み込んだ。

 武庫川が西宮市と尼崎市を隔てる境界になっている。活断層は西宮から北の方角に向かってのびているらしく、尼崎はビックリするほど何もなかったかのような町並みだ。武庫川を渡った瞬間妻が「あれ見て!自販機に電気がついている!」本当に映画のワンシーンのような光景だった。何かベルリンの壁を越えた瞬間を描いた映画のワンシーンだ。

 何と、尼崎市内に着いたのは8時間後だった。

 私は妻と子供達を大阪市内にある妻の実家に送り届けた。神戸から約40K。そこではパチンコ屋は大盛況、TVから間抜けなアイドル歌手が派手な衣装で「神戸の皆さん!頑張ってくださいね。」・・・。溜め息が出た。これを温度差というのだろう。

 すぐに職場へと向かった。安否確認の電話攻勢だ。一人一人お礼を言った。偶然メディアの仕事をしている友人から連絡が入った。「生きとったか!」「おぅ、生きとった!ちょうど良かった、おまえに頼みがある・・・。」それは、ラジオやTVからひっきりなしに被災者の安否を確認する外部からの問い合わせだ。つまり、たとえばラジオで「芦屋市○×町の△■さん、無事でしたらご両親まで連絡を下さい。」と言う奴だ。私は、本当にこいつらバカか!と思った。連絡できるのならとっくにしている。それより、メディアが被災地に入り、片っ端から被災者の個人情報をつかみだしそれを発信しろ!逆の発信も同時にしろ!と思った。それを彼に伝えると、早速会議に掛けてくれその夜から実行された。私も数回発信してもらった。ラジオで「神戸市○×区・・・、SONG氏ご家族は無事です。大阪に避難されています。」と言う奴だ。翌日から安否確認の電話が半減した。

 夕刻、再び被災地に出向いた。西宮市の朝鮮民族学校だ。友人の教師に出会った。「おぅ!生きとったか!家族は?」「おぅ!お前も生きとったか!俺の家族はみんな大丈夫や!お前は!」「大丈夫や!でも家が燃えてしまった。今着ている服が今の俺の全財産や!」ニヤッと笑う。「でもよかったのぉ!生きていて!」「おぅ!良かった。ほんま良かった!」こんな会話が続いた。

 彼は、白い材木で何か工作をしていた。<棺>だ。「棺桶たりんからのぉ。仏さんいつまでも毛布でくるんだままはかわいそうやろ。」「そうやな。頑張って!俺病人見つけて手当に行くから、手が空いたら手伝うわ。」「それより、裏に自衛隊が来ているから、豚汁でも食っていけ!あいつら嫌いやけど豚汁美味いし、個人個人は良い奴が多いみたいや!お前!喧嘩するなよ!お前がいくら強いか知らんけど鉄砲には勝てんやろ!」「アホか!休み休み言え!」

 その夜遅く職場に戻った。ラジオをつけ缶ビールを抜いた。ラジオから、今井美樹が流れてきた。普段日本の歌手は全くと言っていいほど聞かないが、何気なく聞き入ってしまった。

   【PIECE OF MY WISH】

 ♪ 朝が来るまで 泣き続けた夜も
    歩き出せる力に きっとできる
    太陽は昇り 心を包むでしょう
    やがて闇は必ず 明けてゆくから

    どうしてもっと自分に 素直に生きられないの
    そんな思い 問いかけながら
    諦めないで 全てが崩れそうになっても
    信じていて 貴方のことを

     本当は誰もが 願いを叶えたいの
    だけど巧くいかない 時もあるわ
    希望のかけらを 手のひらに集めて
    大きな喜びへと変えていこう

    愛する人や友達が 勇気づけてくれるよ
    そんな言葉抱きしめながら
    だけど最後の答えは 一人で見付けるのね
    めぐり続く明日のために・・・

    雨に負けない気持ちも 炎もくぐり抜ける
    そんな強さ持ち続けたい
    それでもいつか 全てが崩れそうになっても
    信じていて 貴方のことを
    信じていて欲しい 貴方のことを・・・ ♪



 ラジオを聴きながら職場のシャワーを浴びた。5日ぶりに温かいお湯をかぶる。シャワーの中で何故か、涙と嗚咽が止まらなかった・・・。

**************************************

 その後、多くの友人や恩師、知人達の死を聞かされ、その中には筆舌に尽くしがたい状況での死もあった。鬱状態になったこともあった。商品が散乱したコンビニエンスストアーで、必死に口紅を探す女子高校生を思い出す。瓦礫の下敷きで命を落とした友が荼毘にふされる前に、せめて死化粧をしてあげるのだと言った。

 また、神戸メリケンパークにある<ホテル オークラ神戸>が、部屋のルームライトで「ファイト!」「LOVE KOBE」の文字を浮かび上がらせた時、涙し励まされたことも思い出す。

 「絶望の涙」「希望の涙」「喜びの涙」「怒りの涙」・・・多くの「命の涙」が、今、走馬燈のように頭の中を駆けめぐる。

 6,433柱の、無念の御霊が癒され慰められんこと、そして、今なお闘い続ける被災者の方に、本当の意味での復興を願ってやまない。

 1995.1.17 AM5:46

 わたしは、この日を忘れない。



copyright by Song Eui

コメント(77)

地区の、慰霊碑にお願いさせていただいてます。


被害が酷い地区だったので、あの日が蘇ります。
今日、久々にAM5時前に気がつけば自然と目が覚めていました。


目覚ましが鳴るまでまだ時間があると思いながら布団の中で目を閉じましたが、“なんで寝れんのやろ?”とどうしても眠れず、寝転びながらノートパソコン開いて。

で、先ほど、“あ!今日はあの日か!”と気がつきました。

…当時、オヤジに“今日バイトちゃうんか”とたまたま起こしてもらったことがきっかけで、始電に乗って三宮のバイト先に間に合い、その後いろいろな奇跡が折り重なって助かった命。

震度7の三宮のバイト先の事務所ビル11Fで、とてつもない大きな揺れを経験したにもかかわらず、また、助かったありがたみを忘れてしまっていた自分が情けなく寂しくなりました。

でも、それでも身体は覚えているんだと改めて驚かされました。


・・・自分が被災したフラワーロードビルの目の前にある、東遊園地に行って参ります。
今日震災追悼式典を見に東遊園地に行っていました。

ライブや炊き出し・記帳・献花・1.17の竹にろうそく点火をゆっくり見てきました。

私は東灘区なので一番被災者の多い地区です。

知人友人で亡くなった方・いまだに消息不明の人がいます。

もう14年なんですね。町は一変してしまって普通の町になってしまいました。

これからの神戸をどうするか考えていかないといけませんねダッシュ(走り出す様)
昨年は体調不良のため参加できなかったですが、今年はつどいに参加するため現在東遊園地にいます。
17年間・・・1/17は一度たりも寝ていません
そして今この時も・・・あと3時間少々で再びやってくる1/17 05:46・・・
生涯忘れる事は無いでしょう・・・
竹燈籠への点火の説明が始まります…。
東遊園地に行って黙祷してきました。

同年代の20代くらいの人数が増えたなあと思いました。

まだ17年なのか、もう17年なのか、色々考える一日です。
トピ主です。

 この文章から、また4年の歳月が僕たちの街を通り過ぎました。

 今だこの日にこのトピックがアップされること感謝しています。

 頑張ろう神戸!頑張ろう東北!頑張ろう日本!

 合掌 
17年前、当日の午後から被災地に入って救助作業にあたりました。

自分にとっては、オレンジの作業服に袖を通してから初めての「現場」でした。
あれからそんなに時間が経ったのかと、改めて。
トピ主様のように、文章で語ってくださる方はおられますが、
私は個人的な眼差しで【映像や私的な言葉】を綴った映像作品に纏めました。
当時、写真や8ミリフィルムで神戸を撮影しましたが纏めることが出来ず、押入れの中にしまいこんでいました。
東日本大震災で『やっぱり伝えないと』と思う気持ちが大きくなり、現在、YouTube等で公開しています。
【千代心『第一章〜最終章(第六章)』】
とらさんの書き込みのように【頑張る】…ですかぁ。
私もかっこ悪くても情けなくても【生きてゆくこと】
そう思います。
私は小4でした。家の下に活断層が通り半壊しました。今でもビー玉が転がる程で母は「半壊手当てと全壊手当てと全然違うから、もう少し壊れてくれてたら…」なんて話してましたね。私はたまたま熱を出して仏間で寝てたので、命拾いしました。
自分の部屋は母の重たい書物が全部私が寝てたであろう場所に、倒れ込み更に頭上の細い棚がのしかかり、もしそこで寝てたら頭ぐちゃぐちゃになって死んでたかもわかりません。都市ガスはストップしてたので、プロパンの家にお風呂借りに行ったり(銭湯は行けたもんじゃなかった)5クラスあったクラスも校舎が潰れて3クラスになり、一番ひどかった地区の子が一時的に疎開来て、給食はパン、チーズ、ソーセージ、牛乳パックのみでした。当時の私は子供だったから、尋ね人の番組は糞おもんなくて、深津絵里のドラマが唯一の楽しみで見てました。主題歌が福山雅治♪Helloで。軍水車も来てバケツリレーしたり、今でも忘れません。臼田先生の作った「幸せ運べるように」は学校で歌いました。友達のお母さんも亡くなったし、私は震災を一生忘れる事はないでしょう…
また今年も眠れぬ夜がやってきました・・・
18年目・・・関東から祈ります・・・
もう18年なんですね。

なかなか帰れない故郷へ…。

明日の朝に千葉から祈ります。
18年。未だ心は癒えません。

今年は、静岡より黙祷します。

この経験が、東日本の方のお役に立てればと思っています。



 おはようございます。あれから18年…。決して忘れません。黙祷。
あれから18年。当時の私は18歳。
街は当時の記憶がわからないくらい綺麗になりましたね。

目覚ましをかけて、当日は5時46分に黙祷しました。
黙祷!・・・来年は必ず現地で・・・!
淡路島の実家でしたネ。当時は…

あの日から何年も経つのに、まだ…東遊園地に行けません…
いよいよ20年目の1/17がやってきます・・・
無事休暇が取れたので、久々の現地追悼が出来ます
・・・しかし例年自分が参加してきた場所は今年が最後となります。
主催者の高齢化により存続が不可能となってしまった為です
仕方の無い事とは言え、やはり寂しいですね・・・
最後の慰霊祭を無事に完遂すべく本日より準備に入ります。
今朝三宮に到着・・・宿のチェックイン手続きが完了したら墓参りしてこなくちゃな・・・
携帯が代替機でブラウザ無しの為、黙とうコメ打てんかったけど無事慰霊祭も終了・・・あとは仲間の墓参り済ませて東遊園地で記帳して帰路につきますか・・・
あっという間に40数時間の神戸滞在が終わり、現在無事帰宅しこれを書いています。

新長田の慰霊祭から所用を終えて東遊園地のPM5:46黙祷に参列
偶然隣り合わせた女性と当時の状況を語り合い、共に涙し
いつかの再会を願い別れました・・・

20年経とうとも、いや・・・恐らくは最後の息を引き取るまで
あの日大切な人を失った人間にとっては
1/17の午前5:46と言う時間は永遠にあの日のままなのかも知れませんね・・・
さぁ・・まもなく神戸に向けて出発・・

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