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呪縛から逃れてコミュの麦と毒麦 その2

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コミュ内全体

 『このたとえの中で明らかに教えられていることは、人間や天使に対して、神ご自身がどのような取り扱いをされるかということである。

サタンは欺く者である。サタンが天で罪を犯した時に、忠実な天使たちでさえ、彼の品性を見抜くことはできなかった。そのために、神は、直ちにサタンを滅ぼされなかったのである。もし、滅ぼしてしまわれたならば、聖天使たちは、神の義と愛とを認めることはできなかったことであろう。神の慈愛に対する疑惑は悪の種のように罪と悲しみの苦い実を結んだことであろう。このようなわけで悪の創始者は滅ぼされることなく、その品性を十分にあらわす期間が与えられた。神は、幾世代に及ぶ長い悪の活動をながめて、心を痛め、カルバリー山上で、イエスという無限の賜物をお与えになった。こうしてサタンがどんなに誤ったことを伝えても、人々がそれに惑わされないようになさった。毒麦を引き抜けば、必ず大切な麦まで引き抜いてしまう危険があるからである。わたしたちも、天地の主がサタンに対して忍耐なさるように、兄弟に対して忍耐深くあるべきではなかろうか。』(キリストの実物教訓p.50-53)


初代教会について考えてみる必要があります。

 『教会内にクリスチャンの名に値しない人々がいるからといって、世の人々がキリスト教の真理を疑ってもよいという理由にはならない。また、クリスチャンもにせ兄弟がいるからといって失望すべきではない。

初代教会ではどうであったであろうか。アナニヤとサッピラは、弟子たちの仲間に入っていたのである。魔術師シモンもバプテスマを受けた。パウロを去ったデマスも信者であるt思われていた。イスカリオテのユダは、使徒の一人に数えられていた。あがない主は、魂を一人でも失うことを望まれないのである。イエスとユダとの経験は、かたくなな人間の性質をイエスがどれほど偲ばれたかを示すために記録されたものである。主は、私たちにも、ご自分とともに偲ぶことを命じておられる。にせ兄弟は、世の終わりにいたるまで、教会の中に残るであろうと主は言われるのである。』(同上)


中世時代のカトリックにおいては、自分たちの信条に聞き従わない者たちを投獄、拷問、死刑などに処せられました。彼らにこのような行動をさせたのは、もちろんサタンの霊です。キリストのみ霊ではないことは明らかです。こういう強制的方法はサタン自身の方法であります。
つまり、このような処置というのは、神に対する誤解を人々に与えるためでした。

 『キリストのたとえは、私たちが人を裁いたり、罰したりしないで、へりくだった気持ちを持って、自己過信に陥らないことを戒めている。畑にまかれた種が全部よい麦ではない。ただ教会の中にいるだけで、その人がクリスチャンだという証拠にならない。・・・・収穫時になると、価値のない雑草は、穂がよく熟して、その重みで頭を下げる麦とは少しも似ていない。敬虔の形をした罪人は、しばらくキリストの真の弟子の間に混じっている。そしてクリスチャンとよく似ているために、多くの人を欺くのである。しかし世界の収穫の時には、善と悪との間には何の類似もないのである。その時、教会には加わったが、キリストにつながっていない者は、明白にわかるのである。』(同上)

★マラキ3:18
18 その時あなたがたは、再び義人と悪人、神に仕える者と、仕えない者との区別を知るようになる。

 『毒麦は麦の間で生長し、同じように太陽の光や雨に浴することが許された。・・・・天の家族とともに住む価値のある者がだれであるかを決定するのは、主ご自身である。主は各自の言葉と行為によって、お裁きになる。口で言うことには何の値打ちもない。運命を決定するのは品性である。』

毒麦の結末。

 『やがて毒麦が、全部麦になる日が来るということを、救い主は教えておられない。麦と毒麦とは、収穫すなわち世の終わりまで一緒に成長する。そして毒麦は束ねて、火に焼かれ、麦は神の倉に収められるのである。「そのとき、義人たちは彼らの父の御国で、太陽のように輝きわたるであろう。」「 人の子はその使たちをつかわし、つまずきとなるものと不法を行う者とを、ことごとく御国からとり集めて、 炉の火に投げ入れさせるであろう。そこでは泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。 」』(同上)


清い教会、清い組織なんてものは、このサタンの支配する世の中に存在するはずもありません。なぜなら、私たちはすでに生まれた時から罪有りとされて生まれているからです。義人は一人もいないとパウロも言っている通りであって、その罪人が組織を清くするなど僭越な考えを持つこと自体が間違っています。裁きは主のもの、人に目を向けてあら捜しをするのではなく、まず人は自分自身に注意を払う必要があるということではないでしょうか。

★1テモテ4:17
16 自分のことと教のこととに気をつけ、それらを常に努めなさい。そうすれば、あなたは、自分自身とあなたの教を聞く者たちとを、救うことになる。

この言葉は私の座右の銘としています。

この譬えの全体から学ぶことは、人が人を裁いたり、罰したりせず、謙った気持ちをもって、
自己過信に陥らないこと。

麦と毒麦から学ぶことをまとめてみます。
1.畑は、世界の中にあるキリストの教会を意味する。麦と毒麦は収穫まで一緒に成長する。
2.神の国と人類を救済する神の働きに関するものであり、教会によって行われる。すなわち、神の倉に収められるようになるのは、教会の中において。
3.忍耐とやさしい愛が必要。神がただちにサタンをほろぼされなかったように。
4.教会内の人々はそれぞれの立場で偽クリスチャンだとか、にせ兄弟といって失望すべきでない。外部の人も、にぜクリスチャンがいるからといって、キリスト教の真理をうたがってもよいという理由にはならない。
5.麦と毒麦の根のからみを覚えておく。
7.神ご自身の、人や天使の取り扱いを覚えておく。
8.運命を決定するのは、品性。



強制はサタンの方法です。私たちには自由が保証されていて、自由に選択できるのです。
組織から出ても、神の愛はご自身の上にとどまります。一日も早く組織からでて、真のキリスト教によって自由を得られますように。純粋な人ほど、強制されるようなところにいれば、精神がやんでしまいます。
一人でも多くのJWの方が、組織のまちがいに気づいてそこから出られて、真実の意味で自由になられますように。

アーメン!!




 

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