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日本キリスト会川崎教会コミュの「恐れるな」〜湖の上を歩く奇跡〜Mk6:45-52

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「恐れるな」

*湖の上を歩く奇跡 マルコによる福音書6:45〜52

 そこで彼は、すぐにその弟子たちを強いて舟に乗り込ませ、向こう岸のベトサイダの近くへ渡らせた。そしてその間に、彼自身は群衆を解散させた。そして群衆に別れを告げ、祈るために山に行った。
 さて、夕方になった頃、舟は海のただ中にあり、彼自身は一人陸にいた。そして弟子たちが船を漕ぐのに苦しんでいるのを見ると―というのも、彼らにとっては逆風だったからである―、夜の第四更の頃(夜をローマ式に四つに分け、そのうちの第四の部分。午前3時頃から午前6時頃までを指す)、彼は海の上を歩みながら彼らのところにやって来る。そして彼らのかたわらを通り過ぎようとした。そこで、彼が海の上を歩んでいるのを見た彼らは、「化け物だ」と思い、大声を挙げた。というのも、皆が彼を目にし、動転してしまったからである。しかし彼はすぐに彼らに語りかけた。そして彼らに言う、「しっかりしろ。私だ。もう恐れるな」。そして彼らのもとに来て舟に乗り込んだ。すると風が萎えた。そこで彼らはなおいっそう心の中で正気を失うほど驚いた。なぜなら彼らは、パンのことに関して悟ることがなく、その心が頑なになってしまっていたからである。
  新約聖書翻訳委員会訳 佐藤 研訳

§「奇蹟物語に込められたメッセージ」

  今日の午後には、川崎リトル・ライト・シンガーズのコンサートがあります。4年間のうちに、少しずつ歩みを進めてきて、共に歌うことを通じて、神さまの愛のメッセージを分かち合えるのは大変嬉しいことです。継続は力なり、という言葉がありますが、続けているうちに、人々の絆が広がっていくというのは、素晴らしいことです。

*マタイによる福音書7:7
 求めよ、そうすればあなたたちに与えられるであろう。探せ、そうすれば あなたたちは見いだすであろう。叩け、そうすればあなたたちは開けてもらえるであろう。

  さて、今日学ぶ箇所も、奇蹟物語です。現代の私たちの捉える真実と、奇蹟物語で伝えられる真実には表現の仕方に大きな違いがあり、その奇蹟をそのまま信じることは、現代人には難しいのは当然だと思います。かといって、奇蹟物語を、ただのおとぎ話だとか、さらに嘘だ、とか思うことはつまらないことです。なぜかといえば、奇蹟物語の中にも、何らかのメッセージが込められているに違いないのです。
 福音書に出てくる奇蹟物語は、様々な病気を治したり悪霊をはらったりする治療の奇蹟、そして、嵐を鎮めたり、湖の上を歩いたり、またラザロのよみがえりのように、死んだ人をよみがえらせる超自然的な奇蹟(自然奇蹟)、の二つに分類することができます。カナの婚礼で水を葡萄酒に替える奇蹟もこの自然奇蹟に入ります。今日のテキストの、「湖の上を歩く奇蹟」もこれに入れることができます。
  主イエスが超自然的な力を発揮する「自然奇蹟」は、エリヤやエリシャなどの預言者のエピソードなどをアレンジして、後の弟子達や教会の人たちが、主イエスが神に近い存在だと言うこと表すために作られていったものです。
  このことを、福音書の記者たちもしっかり認識しながら、編集しているという指摘をしている聖書学者がいます。(大貫隆「聖書の読み方」岩波新書/「イエスという経験」岩波書店)福音書の記者たちは、時々、「要約的説明」をはさみ、今までの出来事を要約しているのですが、その要約の中に、治療の奇蹟は数多く出てきますが、自然奇蹟は一つも出てこないというのです。マルコによる福音書で、このことを確認しましょう。

* 要約的説明1: マルコによる福音書1章32〜39節
   さて、夕方になって、陽が沈むと、人々は患っている者や悪霊に憑かれた者をすべて、次々と彼のもとに運んで来た。そして町全体が、戸口に集まっていた。そこで彼は、さまざまな病を患っている多くの者たちを治し、また多くの悪霊どもを追い出した。そして、悪霊どもには語ることを許そうとはしなかった。彼らが彼のことを知っていたからである。
   さて、彼は朝早く、まだ暗いうちに起き上がって出て行き、荒涼としたところへ行った。そしてそこで祈っていた。すると、シモンおよび彼と共にいた者たちがその後を追って来て、彼を見つけた。そして彼に言う、「皆があなたを探しています」。すると彼は彼らに言う、「この付近の他の町々へ行こうではないか。そこでも私が宣教するためだ。そのためこそ、私は出て来たのだから」。そして彼はガリラヤ全土にある彼らの会堂に行き、そこで宣教し、悪霊どもを追い出し続けた。

   確かに治療の奇蹟しか出てきませんね。しかし、だからといって、ただの作り話だとか、嘘だとか、ねつ造だとして終わってしまっては、聞き手、読者の姿勢がネガティブで、何も生み出しませんね。例えば、童話の「オズの魔法使い」を読んで、「ただの作り話ジャン」、などというのがナンセンスなのと同じことだと思います。「オズの魔法使い」といえば、このお話の中で、主人公のドロシーという女の子は故郷へ帰る方法を、わらでできている案山子は脳みそを、ブリキの木こりは心を、臆病ライオンは勇気をもらうために、オズの魔法使いに会いに行くのですが、この魔法使いはインチキな偽物だということが判明します。しかし、懸命に追い求めていた、自分が本当に欲しいと思っていたもの、故郷、脳みそ(知恵)、心、勇気、そしてこれらをすべて総合したものとしての愛も、もうすでに備えられている、与えられていることに気がつくのです。
  この1900年に書かれた物語は、39年にミュージカルになって、ジュディー・ガーランドが主演し、Over the Rainbowという名曲を生みました。また、この物語を元に、75年には、全てが黒人のキャストのミュージカルThe Wizが作られました。(後に映画化もされました。)チャールズ・スモールズという人が書いた歌詞のなかにこのような箇所がありました。

・Living here in this brand new world might be a fantasy.
But it taught me to love so it’s real, real, real to me.
  ここ、この新しい世界(オズの世界)に住んでいるって言うことは、まぼろしなのかも知れない。
でも、私に愛することを教えてくれた、だから、私には、本物、現実なの。

  これは、フィクションや想像力を使いながら、大切な人生の真理を得られると言うことと、共通していますね。逆に言えば、いかに現実の社会の問題を目にしたり耳にしたりしても、想像力を働かせて、それを自分に結びつけて、深い同情、思いやり(compassion)を感じることができなければ、それは何の意味もないのです。
  ですから、これらの奇蹟物語に込められた、メッセージを読み解くということが大切なのです。先週の嵐を鎮める奇蹟のエピソードについて、詩篇ではこのようば場合、神が風や嵐を叱っていましたが、マルコによる福音書では、イエスがその役を担っています。イエスが、神の業とイエスの業とを行っているのです。
  ここで興味深いのは、当時のユダヤ人の多くが待ちわびていた、ローマの支配からユダヤ人を解放してくれる政治的・王的メシアの姿と、イエスの姿とは大きくずれているということです。政治的・王的メシア(=神の子)に求められていた奇蹟の種類は、石をパンに変えたり、エルサレム神殿の尖塔の上から飛び降りても天使によって守られて無傷ですむ(cf.マタイ4章、ルカによる福音書4章)というような、超自然的で、人目を惹く、「救いの時の接近を告げる『しるし』の奇跡が求められた」(大貫隆)のに対し、イエスが行った奇跡、あるいは奇蹟物語は、病気の癒しや、嵐を鎮めて、舟の同乗者たちを助けたり、嵐のために舟を漕ぐのに苦労している人々に、恐れるな、と語るという種類のものでした。
  政治的・王的メシアを求める人たちは、イエスの奇跡を、自分たちが求める奇跡(しるし)だとは思っていなかったらしく、奇跡物語がたくさん続いた後の8章11節以下で、「天からの徴を彼に要求」します。それに対し、イエスは「この世代はなぜ徴を要求するのか。アーメン、私はお前たちに言う、この世代には徴は絶対に与えられないだろう」(12節)と応えます。
 
 次の箇所も、イエスがご自分が政治的・王的メシアではないこと、またそういう者を熱望することすら間違っているということを語りかけています。

*マルコ13:21〜23
 そしてそのとき、誰かがあなたたちに、「見よ、ここにキリストがいるぞ」とか、「見よ、あそこだ」とか言っても、信じるな。なぜならば。偽キリストらや偽預言者どもが起こり、できるならば選ばれた者たちを惑わせようと、徴と奇蹟とを行なうだろう。あなたたちはしかし、警戒せよ。私はあなたたちに一切をあらかじめ告げたのだ。

 神の国がもう手に届くところに実はあるんだ、もっとも小さな者こそが救われるんだ、ということを説きながら、病気の癒しを行っておられたであろうイエスの価値観は、政治的・王的メシアを望んでいた人々とはまったく違っていました。このことは、戦争での勝利を望む人々とも、まったく価値観が違うのです。心の平和。クリスマス物語で、マタイによる福音書の1章に、「『見よ、乙女が身重になって男の子を産むであろう、そして人々はその名をインマヌエルと呼ぶであろう』。この名は訳すれば、『神、我らと共に』という意味である」とあるとおり、神さまが共にいて、どのような社会の状態にあっても、私たちの心は神の国に住み、神愛に生きることができる、そして、心の平和を得ることができるというメッセージなのです。
§「湖の上を歩く奇蹟」

  この奇蹟物語も、「嵐を鎮める奇跡の物語」と同様に、嵐の中で翻弄され、どうすればよいかわからなくなって混乱している人々は、まさに時代の荒波、戦乱や、社会的な混乱の中にあって、右往左往して道を見失う人々と重なります。そして、そのような中にあっても、神と共にあることによって得られる心の平和を得、流されず、光を見失わない生き方を指し示した神話物語であるとも捉えられると思います。
 私たちは、困難に出会ったり、信仰の危機に瀕するような出来事に出会ったとき、動揺し、理性を失ってしまうことがあります。そのような時は、この物語にでてくる弟子たちのように心が頑なになっていることでしょう。そのようなときに、 「しっかりしろ。私だ。もう恐れるな」、という言葉には大変大きな力がありますね。

*マタイによる福音書28:20
 私があなたたちに指示したすべてのことを守るように、彼らに教えよ。そして見よ、この私が、世の終わりまで、すべての日々にわたり、あなたたちと共にいるのである。

ヨハネの黙示録3:20
「ほら、今ここで私は戸口に立って、戸を叩いている。もし、私の声を聞き、戸を開けるならば、私はその者のところに行って客となり、彼と一緒に食事をし、彼も私と一緒に食事をするであろう。」(小河陽訳)   


2010年 6月20日  礼拝   高橋  誠 
日本キリスト会川崎教会牧師

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