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イーグルスファンコミュの栗原健太が振り返るプロ入りから引退まで〜尽きぬ広島愛と東北愛〜

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野球栗原健太が振り返るプロ入りから引退まで

〜尽きぬ広島愛と東北愛〜野球


野球やり切ったという満足感野球


愛称は“コング”。山形県出身ながらまるで南国育ちのような彫の深い顔立ちと、

豪快なバッティングで人気選手となり、広島の主砲を務めた。故障がつきまとったプロ野球人生。

生まれ故郷の東北でピリオドを打ったが、その表情にはやり切ったという満足感がにじみ出ていた。


熱く優しいハートで多くのファンに愛された。長年過ごした広島に骨をうずめる覚悟もあったが、

自らのプライドをかけて移籍を決断した。

満身創痍(そうい)の肉体にムチを打ちながら臨んだ最後の戦い。

そこにピリオドを打った栗原健太が、穏やかな表情で現役生活を振り返っていく。


──引退会見を行ったのが10月1日ですから、すでに1カ月以上が経過しています。

東北楽天の2軍打撃コーチ就任が決まっており、ご自身にとってはすでに過去の話かもしれませんが、

あらためて引退に至るまでの経緯を聞かせてください。


ファームの公式戦が9月25日に終わったんですけど、引退を決めたのは

その1週間くらい前ですかね。

今シーズン、楽天にテスト入団したわけですけど、自分の中では「この1年」という決意を持って

やっていましたし、結果が出なければ……ということも当然考えていました。

実際、1軍には一度も上がってないわけですから。

やはり、1軍の戦力になれなかったことが、自分の中では大きかったです。


──現役を退くとなれば当然、ご家族にも話したと思います。


妻に打ち明けたのも同じタイミングだったと思います。

僕には3人の娘がいるんですけど、楽天でプレーすることになって、

小学生の上の2人は、広島の妻の実家に預けました。

三女はまだ小さいので、妻と一緒に仙台に来て、3人で暮らしていたんです。

家族離れ離れは寂しいんですけど、僕としてはこの1年が勝負だと思っていたので。


──ついてきてくれた奥様とは、どんな話をされたのでしょうか?


妻は「一生懸命やってきた姿はずっと見てきたし、私も悔いはないよ。お疲れ様」と言ってくれました。

故障が多いプロ野球人生でしたから、妻には苦労させたと思います。



──現役を引退すると決めて、思い浮かんだことなどはありますか?


決めるまでは本当にいろいろ考えましたけど、自分で決めて、周りに報告してからは、

どこかスッキリした思いでした。今まで肩に重くのしかかったものが取れたような、

自分の中では精いっぱいやってきて悔いはないという気持ちです。

良いときも悪いときもありましたが、どんなときでも真剣に野球に取り組んできたつもりですし、

正直、プロに入ったときはここまで長くやれると思っていなかった。

いろいろな方に支えられて長くやってこられましたので、感謝の気持ちでいっぱいです。


──高校を卒業して以来、広島で16年、そして楽天で1年、17年もの間、プロ野球選手として

走り続けてきたわけですが、そうではない自分に戻るという実感はありますか?


いやあ、正直、想像がつかないですよね(苦笑)。オフの期間も含めて、“24時間プロ野球選手”と

いう生活をずっと送ってきました。常に野球中心の生活でここまでやってきましたから。

“選手である自分”と考えなくていいのはラクですけどね。

でも、その一方で寂しい部分ももちろんあります。


──ラストシーズンを地元である東北の球団で過ごした意味。これをどう捉えているのでしょうか?


高校を卒業して広島に行きましたから……。人生で過ごした時間というのは東北と広島、

だいたい半々なんですよね。もちろん、どちらの場所にも愛着があるんですけど、

昨オフに広島を自由契約になって、どの球団に入れるのか分からない状況の中で、

ゆかりのある楽天に声を掛けてもらえました。

小さいころから応援してくれた山形の皆さんが近くにいるわけですから、その分の恩が返せるのかなと

思うとうれしかったですね。

実際に山形では4、5試合、2軍戦があったと思います。

やはり地元ということで大声援をいただけましたし、

生まれ故郷に戻ってきたなという実感がありました。



野球偉大なる先輩の背中を追いかけた日々野球

日大山形高から2000年ドラフト3位で広島に入団した栗原。

この年の1位は河内貴哉(国学院久我山高)で、同じ高校生でも注目度はケタ違いだった。

栗原自身、やっていけるという密かな自信を持って飛び込んだプロ野球の世界だった。

だが、待っていたのは超一流の先輩選手たちと、練習漬けの過酷な日々だった。


──まず、プロ野球の世界はご自身の目にどう映りましたか?


高卒新人として2軍スタート。「ある程度やれるんじゃないか」と思って入ったわけですけど、

春季キャンプで先輩方のスイングや球の速さを見て「レベルが違うな」と思い知らされました。

ただ、その中でも何とかしがみついて、1軍で活躍したいという思いを持ってやってきました。

その気持ちだけは、引退する瞬間まで持ち続けられました。


──カープといえば、猛練習が広く知られるところですが。


練習は本当にキツかった。今思えばよくやったと思えますね。

僕がルーキーだったころの主力といえば金本さん(知憲、現阪神監督)、

野村さん(謙二郎、前広島監督)、緒方さん(孝市、現広島監督)、

そして前田さん(智徳、現野球解説者)とそうそうたる面々がいらっしゃいました。

すごくお手本になるとともに、そんな方々が猛練習しているわけですから。

若い僕らはそれ以上やらないと追いつけないわけです。

洗礼を受けたという意味では、やはり練習量ですね。手にマメができて痛い。

それでも振らなきゃいけない。加えて連日の特守で足腰はガクガク。

高校で猛練習をやったつもりでいましたけど、全然違いましたね。

毎日顔を合わせる打撃コーチ、守備走塁コーチが、冗談抜きで鬼に見えました(笑)。


──厳しい練習を乗り越えて、身も心も赤ヘル軍団と一体になりました。

15年のシーズン後に広島を離れるという決断をしたわけですが、ご自身の中で葛藤はありましたか。


11年、最初のFAの際に残留を決めたのは、やはりずっとBクラスで悔しさを味わってきたので

「このチームで優勝したい」という思いが強かったからなんです。

このFA残留の時点では「カープで(現役生活を)終えるのかな」という思いがほとんどでした。

そう考えると、広島を出るというのはすごく大きな決断になりましたよね。


──今季、25年ぶりのリーグ優勝を果たしたカープですが、

ファンが本当に熱いというイメージがすっかり定着しています。


ここ数年、結果を残してきていますからね。本拠地は常に満員ですし、

2軍の由宇球場にも本当に多くのファンの方が駆けつけてくれていました。

僕がいたころ、カープはずっと優勝ができなくて、そして楽天に移籍した今季、25年ぶりの優勝。

カープを出た時点で、自分の中で一線を引いたつもりなので、

とにかく楽天で頑張ろうという気持ちでプレーしていました。

それでも長く所属してきた球団ですし、

仲間もいっぱいいますから、やっぱり今季の優勝はうれしかったですよ。


野球長く過酷な故障との闘い野球

ルーキー時代に力を蓄え、いよいよカープの主力選手へと成り上がっていった。

優勝にこそ縁がなかったものの、個人成績はグングンと上昇。

08年から2年連続でゴールデン・グラブ賞(一塁手部門)を手にすると、09年には代替選手として

途中合流しWBCの優勝メンバーとなる。

11年には一塁手部門でベストナイン、ゴールデン・グラブ賞の両獲りに成功。

だが、ここをピークに下降線をたどることになる。長年酷使し続けてきた肉体が悲鳴を上げたのだった。


──数々の個人タイトルを手にする一方で、長く過酷な故障との闘いもあったと思います。


ヒジは3回手術していて、そのほかにも椎間板ヘルニアなどいろいろとありましたね。

でも、ケガをしたことについてはまったく悔いがないんですよ。

一生懸命練習してきた中でのことですから。

ケガを怖れて練習をセーブしていたら、ここまでの結果を残すことはできなかったと思いますから。



──最後に1軍の試合に出場したのは13年。そこから引退までの3シーズン、

1軍での試合出場が一度もありませんでした。


ちょうど13年に初めてAクラス入りを経験できたんです。でも、後半戦はほとんど2軍にいましたから。

ほかの選手が1軍で活躍する姿をテレビで見ながら、早く1軍に戻りたいと思っていました。



──それを阻んだのは「変形性右ヒジ関節症」でした。具体的にはどんな状態だったのでしょうか?


ほかの選手にもあると思うんですけど、長くヒジへの負担をかけ続けると骨が変形して、

それが神経に当たって痛みが出る。

病院の先生に診てもらうと、「よくこのヒジでやっているね」と感心される(苦笑)。これは投げること、

打つこと、両方に影響が出ました。僕は右投げ右打ちで、バッティングの際にはやはり右腕が起点に

なるわけです。

利き腕ですから右の力のほうが強いですし、バットを振るときには最後の押し込みにも使う。

右の感覚が繊細なだけに、手術をするとそれが狂ってくる。以来、「なんか違うな……」という

違和感がずっとありましたね。思い通りにいかないし、自分の中で怖がっているということもあり、

徐々に打撃フォームを崩していきました。


──体がブレーキをかけてしまうという状態ですか?


 自分では100%フルスイングするつもりでも、体が、頭がブレーキをかけてやってくれない。

「やってくれよ!」と思うんですけど、こればかりはダメでしたね。


──持ち味はフルスイングですから、それができないのはもどかしい。

 野球選手としては当然のことですけど、フルスイングして全力で走る。

これができないようでは、好結果は生まれませんよね。


──日常生活でも支障が出るほどの状態だったのでしょうか?


重いものを持つ際には気をつけますね。子どもを抱っこするときも自然と左になります。

どの動きで痛みが出るかというのは、体が覚えていますから。それを避けるような動きになりますね。

万全だったころのヒジがどうだったか……もう分からないです。

いまは別の誰かのヒジがついているような感覚で……。


野球新たに始まる指導者としての道野球


10月1日、球団事務所で行った引退会見では涙を見せていた栗原。

長きにわたり真剣勝負に徹してきたからこそ、その舞台から降りなければならない寂しさは

計り知れないものだった。

しかし、すでに気持ちは切り替わっている。

来季からは楽天の2軍打撃コーチとして、指導者生活をスタートさせる。

現役最終年に東北に戻ってくるという不思議な縁。

栗原はこの地で第二の人生をスタートさせることとなった。


──結果的にラストイヤーとなってしまいましたが、楽天で過ごした1シーズンはどんなものでしたか?


ずっと若い選手たちとファームで過ごしましたけど、僕のほうが刺激をもらったり、

逆にアドバイスを求められることもあったし。

ウエスタンとイースタンの環境の違いも経験することができましたし、来て良かったなと思いました。


──広島での16年間、故郷・東北で過ごしたラストイヤー。

それぞれに栗原さんの活躍を期待し、見守ってくれたファンがいたと思います。

そんな方々に送るメッセージがあれば聞かせてください。


広島時代のファンの皆さんの中には、僕が復活した姿を楽しみに待ってくれていた方もいると

思うんです。それをお見せすることができないまま引退してしまうことは残念ですけど、

少しでも僕のプレースタイルだったり、野球へ取り組む姿勢などが皆さんの心に刻まれているなら

こんなにうれしいことはありません。本当にありがとうございました。

またイーグルスファンの皆さんには、1軍の戦力になれず、期待に応えられなかった。


申し訳ない気持ちもあります。それでも、2軍の球場でも、たくさんの応援をいただきました。

ありがとうございます。あとは僕を応援してくれたすべての人に伝えたいのですが、

ケガをしてからは常に頭の中に「引退」の二文字がありながらのシーズンでした。

ダメになりそうな気持ちもありましたが、皆さんに勇気づけられてここまでやってこられたので、

感謝の気持ちでいっぱいです。本当にこの二文字に尽きますね。


──来季からは楽天で2軍打撃コーチを務めることになります。やはり栗原さんといえばバッティング。

そこを鍛え上げるつもりでしょうか?


またグラウンドに立つ機会をいただいたわけですから、今度は違う立場、指導者として

野球に恩返ししていきたいと思います。チームにとっては長打力不足が課題になっています。

でも、“栗原2世”を育てるとか、そんな偉そうなことを言うつもりはまったくありません。

とにかく、若い選手の良い部分を一つでも多く見つけてあげて、

僕も指導者として一緒に成長していければ良いかなと考えています。




野球オコエにファンが殺到「来てくれてうれしいです」野球

オコエが秋季倉敷キャンプで相変わらずの人気ぶりを発揮している。

 第2クールに入った5日は午前中から打撃練習や走塁練習で汗を流した。

最後はタイヤを引きながらの短距離ダッシュで締めた。

サブグラウンドからの移動の際には足を止めてファンにサインを行った。

 これにはちびっ子からお年寄りまでが殺到。警備員も制するのがやっと。

オコエは「いっぱいファンの方が来てくれてうれしいです。

練習の時はサインができなくて申し訳ないです」と頭を下げていた。

シーズンが終わっても“オコエ・ザ・フィーバー”は続いている。





野球オコエ「星野仙一記念館」訪問「いつかオコエ記念館を」 野球


オコエが秋季キャンプの休日を利用し、堀内と倉敷市内の「星野仙一記念館」を訪問した。

 星野仙一球団副会長が母から初めて買ってもらったグラブなど、闘将ゆかりの品々を見学。

「野球の先導者という印象。凄い人だと改めて感じた。

僕もチームとして日本一になるという夢をかなえるため、レベルアップしないといけない」と

気を引き締めた。

同副会長の銅像と記念写真に納まると「いつかオコエ瑠偉記念館を建てられるようにしたい。

月に建てるのも良い。五輪みたいに候補地はたくさんあります」と19歳は壮大なプランを口にして

笑わせた。



野球堀内、星野仙一記念館訪れ「正捕手奪取と地元に記念館の夢できた」野球


堀内謙伍が4日、倉敷市内の星野仙一記念館を訪れ、将来の正捕手奪取と記念館建設を誓った。

倉敷キャンプの休養日を利用し、同期のオコエと星野球団副会長の歴史が詰まった場所へ赴いた。

倉敷商、明大、中日、阪神、北京五輪、楽天と歩んできた闘将の野球人生は常に夢が中心だったことを

学び、自身も「楽天の正捕手になることと、しっかり活躍して地元・静岡の菊川市に記念館を建てると

いう夢ができました」と大きな目標を掲げた。

 “闘将魂”も胸に刻んだ。記念館では半生を描いたビデオも観賞。普段、球場で会う時とは

違った一面を垣間見て、「改めて『勝負師』だったんだなと感じました」。

熱血漢と同じ、熱い気持ちでプレーする重要性も感じ取った。

「いいものをたくさん見られた。今日の学んだ気持ちを大切にしてこれからもやっていきたい」。

夢の実現に向けて地道に成長を続けていく。



野球<楽天ドラ10>西口「期待上回りたい」野球


東北楽天は4日、ドラフト10位で指名した甲賀健康医療専門学校の西口直人投手(19)=

183センチ、80キロ、右投げ右打ち=と大阪市内で入団交渉を行い、

契約金2500万円、年俸600万円で合意した。

 西口は交渉後、「ドラフト会議で名前が呼ばれたときは夢のようだったが、

契約書にサインして現実感が出てきた。将来性を買ってもらっているので、

期待を上回れる選手になりたい」と喜びを語った。

大阪府八尾市出身で、149キロの直球と縦のカーブを武器とする本格派。

愛敬尚史スカウトは「ゆったりした投球フォームや体つきなど

ソフトバンクの千賀滉大投手のようなタイプ。

育成選手からはい上がった千賀投手のように、先発の柱になってほしい」と期待した。(金額は推定)

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