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史跡コミュの佐賀城跡

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 佐賀県佐賀市城内

 2001年02月28日、佐賀県が史跡に指定。

 https://www.google.co.jp/maps/@33.2453872,130.3007428,17z
 佐賀城の前身は、藤原秀郷の子孫である藤原季善(フジワラノスエヨシ)が仁平年間(1151〜53)に肥前佐嘉(サガ)郡小津東郷内竜造寺村に入った時に設けた村中城です。季善は竜造寺氏を名乗り、関白藤原道隆の子孫で佐嘉郡の武士団棟梁だった高木季経の次男季家が季善の養子となって後を継ぎ、文治3(1187)年に竜造寺村の地頭職を得ました。
 当時はこの一帯が海岸線で、鎌倉時代に有明海干拓が進みましたが、低湿地に位置する村中城は水運の拠点であり、多数の川やクリークが自然の堀の役割を果たしていたため、平城ながら水城に近い性格を有していました。
 竜造寺氏は室町時代になると有力国人領主として抬頭し、村中城は多くの合戦の舞台となります。永正7(1510)年には村中城の東南に隣接して水ヶ江城が築かれて相互支援が可能となったため、村中城は強い防御力を持つ城となって行き、北九州五ヶ国の太守となった竜造寺隆信の居城として全国に名を轟かせましたのです。
 天正12(1584)年、竜造寺隆信の戦死によって竜造寺家執政となった鍋島直茂は村中城を大規模な近世城郭に改造する事を計画しましたが、当主竜造寺政家の同意が得られませんでした。
 天正19(1591)年、直茂は鍋島家領だった西方の蠣久から村中城下へ町人を移し、六座町・伊勢屋町・中町・白山町等の町人町が形成される事となります
 直茂は、慶長7(1602)年に村中城本丸の改修を始め、その際、佐嘉城とも呼ばれていた村中城の名称を佐賀城に改めました。
 慶長16(1611)年には佐賀城大改造が完成、輪郭梯郭複合式の壮麗な平城になりました。内堀の幅は80mにも及ぶ広大な物となり、石垣ではなく土塁で築かれていました。平坦な土地にあるため、城内が見えないように土塁には松や楠が植えられました。さらに城下を無数に走るクリークが外堀の役割を果たし、攻撃にあった際は主要部以外は水没させて敵の侵攻を防衛する仕組みになっていたため、城が樹木の中に沈み込んで見える事もあって「沈み城」の異称で呼ばれる事となります。
 高さ38mに及ぶ外観四重内部五階建ての天守も建造されましたが、この天守は鍋島直茂の子勝茂の居城だった蓮池城から移築されたとも言われています。蓮池城天守は豊臣秀吉の名護屋城へ提供されていましたが、その後、再建されていたのです。
 大身の武士は城内・堀端、及び東方の水ヶ江に居住し、水ヶ江城は廃城となりました。城内の重臣居住地は北の丸とも呼ばれた様です。下級武士は町人と混在して居住し、支藩の武士も大身の者は本藩の武士と交雑して居住するなど、当時は居住地の厳格な定めは無かった模様です。
 慶長20(1615)年閏6月、一国一城令が発せられると佐賀藩内の諸城は佐賀城を除いて全て破却される事となり、直茂・勝茂の本来の居城だった蓮池城等も廃城となりました。
 天和3(1683)年に3代藩主鍋島光茂は三家格式を制定して三支藩に厳しい統制を加え、佐賀城西の丸を藩庁としていた小城藩と佐賀城三の丸を政庁としていた蓮池藩は自領に陣屋を設け、佐賀城下に居住していた三支藩家臣も追い払らわれました。元禄4(1691)年には佐賀城内二の丸に孔子を祭る聖堂が建立されています。
 第3代藩主鍋島綱茂は佐賀城西方に観頤荘(カンイソウ)と呼ばれる別荘を設けて広壮な池泉回遊式庭園を築造しましが、第4代藩主吉茂が財政難解決のため観頤荘を破却して宅地として藩士に分配してしまいました。
 享保11(1726)年に佐賀城が大火に見舞われ、天守閣以下本丸・二の丸・三の丸建造物の大半を焼失する事態となり、享保13(1728)年に新政庁として二の丸御殿が築かれました。宝暦5(1755)年には三の丸も再建されましたが、天守閣以下の本丸は再建されませんでした。
 天保6(1835)年に藩庁であった佐賀城二の丸御殿が大火で全焼したため、第10代藩主鍋島直正は100年以上放置されて荒廃していた佐賀城本丸に御殿を再建して政庁とするプランを実行、天保9(1838)年に本丸御殿・鯱の門等が完成しました。
 明治4(1871)7月に廃藩置県が行われて佐賀県が設置されると、佐賀城はそのまま県庁舎として用いられましたが、同年9月に対馬の厳原(イズハラ)県と佐賀県が合併して伊万里(イマリ)県が新設されると県庁は伊万里へ移されました。
 しかし、明治5(1872)年5月、県庁は伊万里から佐賀城へ移され、伊万里県は佐賀県と改名されています。
 明治7(1874)年2月15日、土佐藩出身の岩村高俊が新佐賀権令として熊本鎮台兵を率いて佐賀城本丸御殿の県庁に入ると、不平士族達の反発が高まり、佐賀の乱が勃発します。16日夜、蹶起した江藤新平・島義勇(シマヨシタケ)等は佐賀城本丸に奇襲を行って政府軍を逐電させる事に成功しましたが、この時に本丸御殿以下、佐賀城の建造物の大半は炎上してしまったのです。
 2月末に政府軍が佐賀城に迫ると、3月1日に佐賀城は開城しました。乱の参加者は8000人と号していましたが、最後に佐賀城に拠った者は300人程度でしたので、城下町を火の海にしての徹底抗戦は無駄である事が明白だったのです。勿論、主要建造物が焼失してしまって佐賀城が弱体化されていたのも大きな原因でした。
 こうして佐賀城は廃城となり、城跡には学校や測候所が建てられ、乱への処罰として廃止されていた佐賀県が明治16(1883)年に復活すると、北の丸に県庁が置かれました。後に城堀の内、東堀のみは埋め立てられています。
 本丸建造物の内、焼け残っていた藩主御座間(ゴザノマ)は明治42(1909)年以降、赤松小学校の校舎の一部として使われましたが、昭和33(1958)年に水ヶ江の大木公園に移築され、南水会館として使用されました。
 昭和32(1957)年には明治時代の建造物「協和館」が天守台に移築されサークル活動等に利用されていましたが、天守の構造物と誤解される事が多かったため、平成15(2003)年に解体されました。
 平成16(2004)年、本丸御殿が木造で復元、佐賀県立佐賀城本丸歴史館として公開されましたが、この際、藩主御座間も元の位置に戻されています。
 現在も本丸土塁や石垣の復元工事が進行中です。

◎佐賀の歴史 古代・中世編
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◎佐賀の歴史 近世編
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◎佐賀の歴史 近代編
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+佐賀城跡の楠群
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・万部塔と六地蔵
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*大隈重信旧宅
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コメント(26)

 3月22日日曜日に訪れました。

北の丸です。

左;県立図書館
中・右; 佐賀県庁
 佐賀県庁舎11階展望ホールよりの眺望です。

左;佐賀県警察本部
中;北堀
右;県立図書館・市村記念体育館

 佐賀県庁舎11階展望ホールよりの眺望です。

左・中;本丸方面
右;三の丸(県立博物館・美術館)方面
左;北の丸の山桜
中・右;二の丸 さがレトロ館
 第9代佐賀藩主・大納言鍋島直正銅像です。
左;鍋島直大種痘の図
中;佐賀県立佐賀商業学校跡
右;史跡碑
 本丸御殿内部です。

左;スペンサー銃
中;エンフィールド銃
右;外書院廊下
 本丸御殿内部です。

左;本丸御殿構造模型
中;外御書院一之間
右;御座間〔佐賀市指定文化財〕
 本丸御殿内部です。

左・中;江戸時代後期の礎石
右;凌風丸模型
 本丸御殿内部です。

左;『葉隠』
中;大納言鍋島直正像
右;佐野常民伯爵書
 本丸御殿内部です。

左;築地反射炉絵図
中;三重津海軍所絵図
右;上野戦争絵図
左・中;本丸西門虎口
右;本丸西側土塁
 三の丸です。

左;佐賀県立博物館
中;佐賀県立美術館
右;岡田三郎助アトリエ
 三の丸です。

左;佐賀県立美術館 茶室 清恵庵
中・右;佐賀県立美術館 庭園
左;観頤荘跡
中;開拓判官島義勇像
右;西堀

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