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史跡コミュの御殿山小笠原家廟所

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 長野県松本市浅間温泉1175 

 1985年07月18日、松本市が特別史跡に指定。

 松本城主小笠原右近大夫貞慶(サダヨシ;1546〜95)・信濃守秀政(1569〜1615)・信濃守忠脩(タダナガ;1595〜1615)の小笠原家三代の墓地です。
 貞慶は信濃守兼守護小笠原長時の三男でしたが、天文19(1550)年、武田信玄によって父と共に守護所の筑摩郡林城から駆逐され、各地を流浪した後、永禄11(1568)年に織田信長が入京すると、信長に仕えて信濃奪回を画策、天正9(1581)年頃には旧領の筑摩郡北部回復を約束されます。しかし、天正10(1582)年3月に武田勝頼を滅ぼした信長は筑摩・安曇両郡全域を木曽義昌に与えてしまいました。
 ところが、同年6月2日に本能寺の変が突発すると、越後の上杉景勝が貞慶の叔父に当たる小笠原洞雪斎貞種(ドウセツサイサダタネ)を擁立して信濃へ侵攻、木曽氏支配に反発していた小笠原旧臣や地侍層を糾合した洞雪斎は木曽軍を撃破して同月末には筑摩郡北部の中枢となっていた深志城攻略に成功、7月2日に入城を果たしました。
 一方、小笠原貞慶は徳川家康の支援を受けて南信濃に進出したため、洞雪斎が上杉の傀儡に過ぎない事に失望していた小笠原旧臣は続々と貞慶の下へ馳せ参じます。こうして筑摩郡へ進攻した貞慶は7月16日に深志城攻撃を開始し、翌日になって洞雪斎は降伏、逐電してしまいました。
 かくして深志城主となった貞慶は、家康からの独立を宣言したため、激怒した家康は木曽義昌と結んで筑摩郡北部へ攻め込ませますが、貞慶は木曽軍を撃退、安曇郡の仁科氏を撃滅して筑摩郡北部・安曇郡100000石の支配権を固め、名門小笠原氏を大名として復興させる事に成功したのです。
 貞慶は深志城を松本城と改称し、天正13(1585)年から城を大改修、城下町の整備も進めましたが、天正11(1583)年になると、筑摩郡北部へ再侵攻して来た上杉景勝軍に大敗してしまったため、徳川家康に臣従して所領を守る決意をし、嫡男秀政を徳川家重臣の石川数正に人質として預けて、徳川軍の支援で上杉軍撃退に成功します。
 ところが、天正13(1585)年11月に至り、石川数正が貞慶の息子の秀政を連れたまま突如として関白内大臣羽柴秀吉の下へ出奔すると、貞慶もそれに従って秀吉の家臣となり、筑摩郡北部・安曇郡100000石を安堵されました。その後、天正14(1586)年10月に徳川家康が関白内大臣豊臣秀吉へ臣従すると、翌年、小笠原貞慶は秀吉の勧めで家康の家臣として帰参し、息子の秀政に家督を譲りました。秀政は改めて家康から筑摩郡北部・安曇郡100000石を安堵され、家康の嫡男信康の娘を妻としています。
 一方、隠居した貞慶は、天正18(1590)年の小田原征伐で前田利家軍に従って軍功を挙げたため、秀吉から秀政領とは別に讃岐半国を与えられました。ところが、小笠原家家臣の孫で、秀吉古参の大名でありながら天正15(1587)年に秀吉の不興を買って追放され、北条氏直に仕えていた尾藤知宣(ビトウトモノブ)が命乞いの仲介を依頼して来たため、それに応じたところ、秀吉の逆鱗に触れて改易されてしまったのです。尾藤知宣は秀吉によって手打ちにされています。
 他方、小笠原秀政は家康の関東移封に伴って下総国古河30000石を与えられたため、貞慶は古河で余生を送る事となり、文禄4(1595)年に古河で死去、正麟寺山に葬られました。そして松本城には、従来和泉・河内両国で80000石を与えられていた石川数正が入って、筑摩郡北部・安曇郡100000石の領主となったのです。
 慶長5(1600)年の関ヶ原合戦に際して、小笠原秀政は下野国宇都宮城防衛の任に当たった事を評価され信濃国伊那郡の飯田50000石に加増転封されました。
 慶長18(1613)年に石川康長が改易されると、松本80000石は旧領主の小笠原秀政に与えられ、再び小笠原氏の三階菱の旗印が松本城に翻る事となりました。そこで、秀政は父貞慶の墓所を松本城下東北の浅間温泉にある大隆寺跡に改めて設けました。
 慶長20(1615)年の大坂夏の陣に際して、小笠原秀政は上野国館林藩主榊原康勝軍に属しましたが、5月7日の天王寺口の合戦で大坂方の真田信繁隊の猛攻を受け、嫡男忠脩(タダナガ)が戦死、秀政も瀕死の重傷を負って戦場を離脱した後、その日の内に亡くなってしまいました。
 秀政・忠脩親子は京都で火葬され、秀政の次男で家康の曽孫にも当たる忠真(タダザネ)が松本藩主の座を継承、忠政は父と兄の遺骨を奉じて松本に帰城しました。同年8月、松本城下埋橋(ウズハシ)の臨済寺(後の宗玄寺)に於いて葬儀が営まれ、秀政は臨済寺に、忠脩は戦死した島立貞正等7人の家臣と共に大隆寺跡に建てられた法性寺墓地に葬られました。
 しかし、小笠原忠政は元和3(1617)年に播磨国明石100000石に移封され、更に寛永10(1633)年に豊後国小倉150000石へ移封、名門小笠原氏は以後幕末まで小倉藩主を務め、西国譜代大名の筆頭として九州の玄関口を抑えて外様大名の監視に当たる事となったのです。なお、小笠原氏ゆかりの信濃守の官途は、豊後中津80000石で分家扱いされる事となった忠脩の家系が世襲しています。
 小笠原氏の転封に伴って臨済寺や法性寺も移転したため、小笠原家の廟所は荒廃してしまいましたが、貞享2(1685)年に至り、時の松本藩主水野忠直の呼び掛けにより、小笠原家旧臣の子孫達が協力して九尺四面の御霊屋(ミタマヤ)と五輪塔が建立されました。三基の五輪塔は向かって右から秀政・貞慶・忠脩で、秀政は臨済寺殿・貞慶は大隆寺殿・忠脩は法性寺殿とそれぞれ埋葬された寺名に関係の深い戒名が改めて付けられています。
 御霊屋は天保7(1836)年に焼失し、再建はされませんでしたが、廟所の大きな石垣は平積形式で古く、往時を偲ばせます。前面の平地は大隆寺・法性寺の跡です。
 なお、寛保3(1743)年に松本城下を襲った水害の際、宗玄寺と法性寺跡から秀政と忠脩の骨灰が収拾され、城下東南の里山辺にある信濃守護小笠原家の菩提寺だった曹洞宗龍雲山廣澤寺にも秀政・忠脩父子の墓所として五輪塔が建てられました。

◎城下町松本
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*松本城
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・廣澤寺の小笠原家墓所
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コメント(2)

 夜明け直後だったので、深閑たる雰囲気でした。

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