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史跡コミュの旗本坪内家墓所

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 岐阜県各務原市那加新加納町2104-1

 1968年10月21日、各務原市が史跡に指定。

 臨済宗妙心寺派龍慶山少林寺にある。
 少林寺は応長元(1311)年に、尾張国葉栗郡小網島村(後の岐阜県羽島郡川島町、現在の各務原市川島小網町)に夢窓疎石が南禅寺の末寺として開山した臨済宗寺院で、壮大な伽藍を有していた。
 しかし、尾張・美濃国境のこの地は、頻繁に境川(現木曽川)の氾濫に悩まされており、正中2(1325)年には洪水により特に大きな被害を受けた。
 その後も何度も洪水に襲われたため荒廃したため、明応8(1499)年に至り、尾張国人の薄田加賀守祐貞(ススキダカガノカミスケサダ)等の手で洪水の心配の無い各務原台地上の中山道に沿った厚見郡新加納の現在地に再興され、伊勢守護土岐持頼の子で妙心寺13世住持だった東陽英朝が開山として招かれた。その際妙心寺派に転向したが、永禄8(1563)年に織田信長の美濃攻めにより焼失してしまった。この時の合戦は新加納の戦いと呼ばれ、斎藤龍興軍が竹中半兵衛重治の活躍で信長軍を撃退している。
 当時、松倉城主の坪内利定(ツボウチトシサダ)が境川沿いの蜂須賀小六正勝・前野長康等の川並衆と呼ばれる国人を統括して織田信長の部将木下藤吉郎の傘下に入っており、墨俣城築城や稲葉山城築城で功績を挙げた。坪内氏は加賀守護富樫(トガシ)氏の一族で、頼定の時に尾張に入って代々犬山城主織田氏に仕えていた。
 利定は羽柴秀吉の播磨攻めにも同行したが、秀吉が利定の軍功を他人の軍功と見誤った事などから、信長の死後に秀吉と不和となり、天正12(1584)年の小牧・長久手の戦いでは徳川家康に組した。このため秀吉方の池田恒興の猛攻を受け松倉城に自ら火を放って逐電、天正18(1590)年からは家康の下で上総国・武蔵国において3400石を領した。
 利定は慶長5(1600)年の関ヶ原合戦では東軍東海道本隊(徳川隊)に属し、鉄砲隊を率いて功績を挙げたため、旧領の美濃国羽栗郡・各務郡20村6500石を回復し、大身旗本として松倉城に復帰したが、荒廃が甚だしかったため、同年、少林寺跡に新加納陣屋を築いて遷った。
 そして利定は陣屋に隣接して少林寺を小規模な形で坪内氏菩提寺として再建、以後廃藩置県に至るまで坪内家歴代当主の墓所が少林寺に設けられる事となったのである。
 明治時代になって松倉城跡から戦国時代の坪内家の墓所も発掘され、少林寺の墓所に改葬された。
 少林寺には東陽英朝禅師塔所(タッショ)〔岐阜県指定史跡〕があり、紙本墨書東陽英朝筆辞世偈(ジセイノゲ)〔岐阜県指定文化財〕・東陽英朝禅師頂相(チンゾウ)〔各務原市指定文化財〕・本国加州富樫庶流坪内家一統系図並由緒〔各務原市指定文化財〕が所蔵される。また、稲荷堂〔各務原市指定文化財〕は江戸時代の建築である。

+東陽英朝禅師塔所
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=75990355&comm_id=398257

コメント(2)

坪内家の研究を進めています。よろしくお願いいたします。
>>[001]
書き込みありがとうございます。ここは訪れるつもりだったのに行けなくなった場所なんです。ひょっとして、子孫の方なんでしょうか?

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