ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

史跡コミュの松前氏城跡

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
 北海道松前郡松前町字松城144・檜山郡厚沢部(アッサブ)町字城丘

 1935年06月07日、松前城跡を史跡に指定。
 1941年05月08日、松前城天守閣・本丸御門・本丸御門東塀を国宝に指定。
 1949年06月05日、天守閣と本丸御門東塀が焼失。
 1950年05月30日、本丸御門が重要文化財に格下げ。
 1963年07月26日、旧松前城本丸表御殿玄関が北海道指定文化財となる。
 1994年06月30日、館城跡を史跡に追加指定し、松前城跡を福山城跡に改名。両者を一つの史跡として「松前氏城跡」とする。
 2001年10月22日、「福山(松前)城と寺町」が北海道遺産に指定。

 徳山館(大館)を本拠として蝦夷地の渡島(オシマ)半島を領有していた蠣崎慶広(カキザキヨシヒロ)は、慶長4(1599)年に松前氏と改名し、慶長5(1600)年秋、本州の戦乱波及への警戒から、天正17(1589)年の火災で破損したままだった徳山館に隣接した福山台地に福山館(フクヤマダテ)の造営を開始した。
 慶長11(1606)年8月、福山館は漸く完成したので松前慶広は徳山館から遷った。徳山館は表向きは廃城となったとされたが、実際には隠し砦として存続し、福山館の詰城の役割を果たす事となった。福山館は松前湊に近い海岸段丘上にあって、北側は徳山館のある山が連なり、東は大松前川、西は湯殿沢が堀の役割を果たしていたが、縄張りは簡素で石垣も無く、防御機能は不充分であった。
 元和元(1615)年の一国一城令は化外の地である蝦夷地には適用されなかったため、勝山館以下の領内の城砦は機能を維持した。なお、福山館は幕府の書類上、陣屋扱いとなっていたが、慶広は領内では城と称していた。
 第2代公広は寛永4(1627)年に福山館に石垣を設けて防御機能強化を図った。
 第5代矩広(ノリヒロ)は元禄年間(1688〜1704)初期に5代将軍徳川綱吉によって7000石格の交代寄合に列されて正式に幕臣となり、享保4(1719)年には8代将軍吉宗によって10000石格の柳間詰め大名とされて、公式に松前(福山)藩が成立した。
 文化4(1807)年、第9代松前藩主松前章広は陸奥国伊達郡梁川に9000石で転封とな
って大名の資格を失い、蝦夷地全域が幕府直轄領となって、松前福山館に置かれた松前奉行所が蝦夷地行政を荷う事となった。文政4(1821)年に11代将軍家斉は再び松前章広に蝦夷地一円支配を許し、松前藩が復活した。
 嘉永2(1849)年、第12代藩主松前崇広(タカヒロ)は、12代将軍徳川家慶(イエヨシ)から城主格を許され、対露防衛用の築城を命じられた。新城は松前福山ではなく、要害地形の箱館に築城するべきという意見もあったが、松前城下の商人から城が移転する事で松前湊が寂れてしまうとの反対意見が出された事や予算が僅少だった事もあって、松前福山館を拡張する方法で落ち着き、三の丸から本丸までが津軽海峡に向けて雛壇式に築造され、ペリー来航の翌年である安政元(1854)年10月に完成した。
 松前城本丸には三重の天守閣が設けられ、海側からの艦砲射撃に備えて砲台を備え、かつ城壁の中に鉄板を仕込んで、城の本丸方の虎口から本丸までの通路は複雑かつ側面から鉄砲などで射撃しやすい構造とした。天守・櫓・門の屋根には、寒さで凍み割れやすい粘土瓦の代わりに銅板を葺いた。通常、天守の壁は柱の間の竹で編んだ骨組みに壁土を塗りこむが、ロシア艦の砲撃に耐えられるように、中に硬いケヤキ板を仕込んで備えとした。本丸表御殿は旧来の物がそのまま用いられた。三の丸には海に向けて七つの台場も設けられている。
 石垣の石は付近の山で採れる、比較的柔らかく加工しやすい緑色凝灰岩が使用され、緑色の石垣に覆われた全国でも珍しい城であった。冬季に凍結した石垣の奥の土が解凍の際に流れ出してしまわないよう、隙間無く石が敷き詰められる等の工夫もなされている。但し、城の中心である福山台地から海岸までは至近距離だったので、大規模な城郭とする事は出来なかった。
 なお、安政2(1855)年には城の東方の台地にある日蓮宗妙光山法華寺直下の岩礁上には筑島台場が築かれて松前藩随一の高性能砲である二十四斤海岸砲が十八斤砲・十四斤砲と共に設置され、法華寺は筑島台場の詰城的役割を担うために大規模な伽藍が整えられた。
 安政2(1855)年に東西蝦夷地が上知され、松前藩の所領は渡島半島南西部のみの狭小な地域に限定される事となったため、厚沢部川流域・天の川流域を農地開発する計画が持ち上がった。
 慶応4(1868)年7月、この農地計画を推進していた若手家臣の下国東七郎(シモノクニトウシチロウ)が、クーデターによって執政に就任したため、厚沢部川流域の館(タテ)への移城が決定された。13代藩主松前徳広(ノリヒロ)の同意を得た上で、新政府の正式許可が下りないまま明治元(1868)年9月に館城築城が開始され、突貫工事の末、同年10月20日に松前徳広は松前城を出発、11月3日に館城へ入城した。このため、松前藩は以後「館藩」と呼ばれる事となる。
 館城は厚沢部川と支流糠野川にかこまれた標高50mの台地上にあり、その構えは城郭と言うよりは陣屋に近く、南方と東方の一部に約200mの土塁と堀が巡らされた。南方の堀を百間堀と呼び、これが四周巡っていた。館城南方の丸山には250ヶ所を数える散兵壕跡が残り、城の防衛ラインとして重要な役割を果たしていた。
 ところが、同年10月21日に榎本武揚麾下の旧幕府軍が蝦夷地に上陸、10月26日に箱館を攻略した後、11月5日昼前に城代蠣崎民部・藩の最高実力者鈴木織太郎以下555名の松前藩兵が拠る松前城に迫った。
 しかし、榎本武揚直率の蟠竜丸・回天丸は筑島台場からの直撃弾を受けて容易に城に近づけなかったため、陸軍部隊を率いた土方歳三が城の攻撃に先立って法華寺を占拠、真下の筑島台場を牽引砲で釣瓶(ツルベ)打ちにして破却する事に成功した。砲台司令池田修也以下の筑島台場守備隊は玉砕している。
 この結果、蟠竜丸・回天丸は松前城目前まで迫って艦砲射撃を実施する事が可能となったが、三の丸台場からの弾は敵艦に届かなかった。
 一方、実戦経験豊富な土方歳三は、松前城大手門からの通路は曲がりくねって城兵の鉄砲の的になりやすい構えであるが、搦手方は直線通路が続き鉄砲狭間も少ない防御力の低い配備である事を見抜いて陸軍部隊主力を城の東方の天神坂と馬坂に投入、さらに城の東北から本丸寺町門に直結する間道である新坂の存在にも気付いて別働隊を向かわせた。
 天神坂門・馬坂門を突破して三の丸北部を制圧した土方軍は二の丸搦手門に迫ったが、搦手門守備隊長竹田作郎は門内に牽引砲を並べて開門と同時に斉射した後、直ちに閉門、次弾を装填してから再び開門する戦術を繰り返し、土方軍の進撃は足止めされてしまった。
 そこで土方は銃の名手20人を選抜して搦手門前に並べ、開門と同時に一斉射撃を実施、砲手を屠って一挙に二の丸へ突入する事に成功した。以後は斬撃戦となったが、新坂からの別働隊が本丸を背後から強襲したため、同日夕刻に至り城代蠣崎民部は抗戦を断念して自ら城下町に火を放ち、北方の江差へ敗走したのである。この際、72歳の高齢ながら奮戦していた松前藩士田村量吉は本丸表御殿玄関で見事な自刃を遂げ、土方を瞠目させている。
 11月10日には松岡四郎次郎麾下の旧幕府軍約500名が五稜郭から館城攻略に向かった。このため、11月14日に藩主松前徳広は奥方と老少男女を引き連れて北方の熊石村へ逃走、16日に館城は落城炎上した。この際、藩の実力者だった三上超順は徹底抗戦を貫いて戦死している。15日には江差も榎本軍が制圧、松岡隊は22日に熊石村を占領するが、松前徳広・鈴木織太郎等71名は既に19日に藩領北限の関内村から長栄丸という250石船で弘前藩領へ逃亡した後で、残されていた松前藩士約300名も投降、これにより榎本軍の蝦夷地平定は完了した。
 こうして旧幕府遊撃隊隊長人見勝太郎が松前奉行に就任して松前城の主となり、捕虜となった松前藩士400人余は浄土宗知恩院派護念山正行(ショウギョウ)寺に収容された。
 この戦乱で松前城下町は四分の三が焼失、以後、本州からの米穀が途絶えたため、領民は厳寒期に途端の苦しみを味わう事となった。この際、松前藩足軽の妻である川内美岐なる女性は阿鼻叫喚の様相を呈した松前城下の情況に悲憤慷慨して鋏で喉を突き自決、靖国神社女性祭神第一号となった。
 人見勝太郎は冬の間に新政府軍来襲に備えて、城の西方約2kmの立石野に新砲台を築造、後背の台地には高さ約1mの胸壁銃座を縦横に設けて防衛体制を固めた。旧幕府軍松前守備隊は約700人であった。
 明治2(1869)年4月9日、乙部に上陸した新政府軍の大反攻が開始され、17日午後には6隻の軍艦による松前攻撃が実施された。即ち、甲鉄・長陽・丁卯・陽春・飛龍の五艦が松前城と立石野砲台へ艦砲射撃を加え、春日は立石野へ西方から迫る陸軍部隊の直援に当たったのである。
 立石野の防衛線は強固で、新政府軍は攻めあぐねていたが、同日夕刻に至り、地理に通じた松前藩兵が松前城西北の山中から密かに城に迫って寺町を突破、本丸を後背から急襲し、一挙に天守閣を奪回したため、立石野にいた人見勝太郎以下の旧幕府軍は箱館への敗走を余儀なくされた。旧幕府軍将兵戦死者は法華寺に葬られている。
 なお、松前城天守台石垣には艦砲射撃の弾痕が残るが、榎本艦隊による物か、新政府海軍による物かは不明である。
 こうして所領を回復した第14代藩主松前修広(ナガヒロ)は館城再建を断念して松前城に入ったが、藩名は館藩の名称が用いられた。
 明治4(1871)年7月の廃藩置県によって館県が設置されたが、同年中に開拓使領に編入された。松前城は開拓使の所有となったが、明治8(1875)年に天守閣等の本丸施設を除く殆どの建築物が取り壊された。この際、旧寺町御門が真言宗海渡(カイト)山阿吽(アウン)寺の山門として移築されている。
 江戸時代当時の建造物で現存するのは本丸御門・本丸表御殿玄関と阿吽寺山門のみであるが、天守閣・搦手二ノ門・天神坂門等が再建されている。

◎城下町松前
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=74377129&comm_id=194642
*大館跡
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=74380378&comm_id=398257
*松前藩主松前家墓所
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=74382229&comm_id=398257

コメント(21)

7月31日水曜日に行って来ました。

左;三の丸天神坂虎口
中;三の丸天神坂門
右;三の丸石垣
左;三の丸土塁
中;模型
右;三の丸台場
三の丸台場です。

左;七番台場
中;六番台場
右;五番台場
左;二の丸搦手虎口
中;二の丸搦手二の門
右;二の丸庭園
左;二の丸多聞櫓跡
中;二の丸搦手虎口
右;本丸御多門
天守閣内部です。

左;扁額 金子鷗亭筆
中;松本家資料〔松前町指定文化財〕
右;松前家伝 銅雀台瓦硯〔松前町指定文化財〕
松前屏風〔北海道指定文化財〕です。
左;榎本武揚&土方歳三
中;天守閣より南方を望む
右;天守閣より東方を望む
左;松前城下図
中;蠣崎波響『夷酋列像』〔北海道指定文化財〕複製 国後アイヌの総帥貲吉諾謁(ツキノエ)
右;史跡碑
本丸表御殿玄関〔北海道指定文化財〕です。
左;本丸御門〔重要文化財〕
中;長尾山樵詩碑 「海城寒析月生潮 波際連檣影動揺 従此五千三百里 北辰直下建銅標」
右;本丸よりの眺望
左;本丸土塁
中;天守台石垣
右;天守台石垣艦砲射撃弾痕 左手の黒焦げ部分
左;本丸庭園
中;本丸表御殿跡
右;松前神社〔県社〕〔北海道遺産〕祭神;松前藩祖武田信広
左;本丸御池
中;月琴堀(西方の外堀)
右;同上
左;松前藩正議隊士田崎東(タザキアズマ;1844〜69)顕彰碑
右;寺町門跡
天守閣遠望です。

左;道の駅「北前船松前」より
中;日蓮宗妙光山法華寺付近より
右;同上
松前城内図です。今回は館城跡には行っていません。

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

史跡 更新情報

史跡のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング