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史跡コミュの土佐十一烈士墓

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 大阪府堺市堺区宿屋町東3丁

 1938年08月08日指定

 土佐十一烈士墓は慶応4(1868)年に起った堺事件で切腹した土佐藩士11名の墓です。
 同年1月8日、鳥羽伏見の戦の最中に徳川慶喜が江戸へ逐電したため、明治新政府が西日本の支配権をほぼ掌握しますが、従来、徳川幕府を支援していたフランス公使レオン=ロッシュは、なお徳川家支援の可能性を棄てていませんでした。
 このような中、1月11日に新政府側の備前岡山藩兵がフランス人水兵を負傷させる神戸事件が発生、翌日、英仏等の外国軍が神戸を武力占領するに至ります。1月15日に開国和親を表明して徳川政権からの政権移譲を宣言した新政府は、2月9日に責任者を切腹させて何とか事件を解決します。この間、1月25日には、フランスも米英露等の欧米主要国と共に戊辰戦争に対する局外中立宣言をせざるを得なくなっています。
 ところが、その直後の2月15日、堺港に上陸してきたフランス軍艦デュプレー号の水兵に対し、鳥羽伏見の戦以後に堺の警固にあたっていた土佐藩士がこれを阻止しようとしたものの通訳不在のため意思疎通が出来ず、フランス水兵11名を殺害、11人を負傷させてしまったのが堺事件です。
 当然、フランス公使ロッシュは憤激し、2月19日に明治新政府に対し土佐藩士の斬刑や謝罪を含む五ケ条の要求を提出し抗議しました。その結果、2月23日に土佐藩士隊長箕浦猪之吉ら20人の切腹が妙国寺本堂庭前でデュプレー号艦長プティ=トゥアール大佐等の立ち合いの下で行われました。
 切腹劇は凄惨を極め、箕浦猪之吉は自分のハラワタをトゥアール大佐に投げつけたと言われます。この結果、11人が切腹した時点で、トゥアール大佐は驚愕動顚して切腹の中止を命じ、残りの9人は罪人として土佐に返されることになりました。
 妙国寺は勅願寺であるため罪人の埋葬は許されず、箕浦達11名の亡骸は妙国寺北隣の宝珠院(ホウジュイン)境内に葬られ、墓碑は土佐藩主山内豊範により建てられて後に修復されました。この墓碑の正面には戒名、側面に俗名が彫られています。なお、フランス人水兵の亡骸は神戸市旧居留地外人墓地に葬られました。
 この事件はフランスの新政府に対する姿勢を悪化させ、再び徳川政権支持に向かわせかねない大事件でしたが、11人の犠牲で解決を見た訳です。なお、ロッシュ公使は、その後も徳川家支援の機会を狙っていましたが、フランス皇帝ナポレオン3世は徳川家を見限ってロッシュを解任してしまいます。
 その後、この事件は森鴎外が大正3(1914)年に著した『堺事件』で一躍有名になり、大岡昇平も平成元(1989)年に『堺港攘夷始末』を著しています。小説では、切腹を免れた9人の苦悩が描かれており、実際12番目に切腹予定だった橋詰愛平は舌を噛み切って自決しようとして止められ、明治10(1877)年に天寿を全うした後に、わざわざ11人の隣に葬って貰っています。
 但し、実際には元々フランス側の死者と同じ11人のみを切腹させる予定だったとの説も有力です。
 11人の名前は以下の通りです。( )内は年齢
 箕浦猪之吉(25)
 西村左平次(24)
 池上彌三吉(38)
 大石甚吉(35)
 杉本廣五郎(34)
 勝賀瀬三六(28)
 山本鉄助(28)
 森本茂吉(39)
 北代堅助(36)
 稲田貫亟(28)
 柳瀬常七(26)

*妙国寺のソテツ
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=29268887&comm_id=320240

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