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戦史研究室コミュの米海兵隊マキン島強襲について1942年8月

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この本を読んで標題の戦史について興味を持ちました。

戦史に詳しい皆様ならご存知かもしれませんが、自らも中国戦線に赴き毛沢東のゲリラ戦参考にして合衆国海兵隊の強襲RECONのベースをつくったカールソン中佐。北京語で突撃?を意味するGUNHO!を部隊の標語にして、昭和十七年(1942年)八月十七日の早朝、カールソン中佐率いる海兵隊226名は、西太平洋のギルバート諸島のマキン島にある日本軍前哨陣地を攻撃し、守備隊を全滅させた。

ちなみにこの部隊にはルーズベルト大統領の息子ジェームス・ルーズベルトも少佐として作戦に参加。

ちっとショッキングな話も1つ紹介します。

マキン島へ救援に赴いた筆者(谷浦中尉)は、戦場で妙なことに気が付いた。どういうものか仰向けになった屍体が十五〜六あり、しかもすべて下腹部を露出している。死後一週間経っていたため原形は完全に崩れていて、顔の穴という穴はすべて蛆で真っ白である。
どうしてこんな格好をしているのだろう。被弾して苦痛のあまり無意識にズボンをずり下げたのか?

カールソン隊は共産ゲリラの恥すべき蛮行も真似しました。

カールソン襲撃隊は、戦死した日本兵の死体を切り刻み、男根と睾丸とを日本兵の口中に詰め込んだ。

太平洋戦争について熱心な研究者で著書もあり、またテレビの連続番組(戦線、Battle-Line)のプロデューサーであるシャーマン・グリンバーグが、二十年後にカールソン隊員の一人にその時の模様を(テレビで)詳細に語らせている。その隊員は戦友たちのやった蛮行を写真に撮っていた。
(ジョセフ・ハリントン著の「ヤンキー・サムライ」から)

アメリカの退役海兵隊員サイトからも写真ひっぱってきのたのでご覧ください。キャプションでは戦死した陸戦隊員が使用していた38?歩兵銃を使って反攻してきた日本兵を撃ち殺した海兵隊らしいです。写真は輸送に使われた潜水艦内。

ちなみに陸戦隊の指揮官だった第62警備隊マキン派遣隊・金光兵曹長の戦歴や個人的なプロフィールを探しているのですが、どなたか参考になる資料等あれば教えてください。

日本海軍陸戦隊70名対米海兵隊226名。
上手く戦ってくれれば完全勝利はないまでにしても、陸戦隊の装備ならカールソン隊を帰れなくさせられたのに残念です…

しかも現役大統領の息子を戦死もしくは捕虜で生け捕り。
しらずにクウェゼリン島で斬首してたら米国民感情の火に油を注いでいたかも…

いずれにしてもガルバニック作戦の方針に影響を与えたかも?ルーズベルトの息子を捕虜にしたかも?案外大きなマイルストーンになったかもしれない戦闘に負けたけど、敢闘した金光隊に敬礼です。

前夜の酒が響いたね。

コメント(33)

>けい様

はじめまして。トピ立てありがとうございます。
昭和17年8月のマキン奇襲は、時期的にみてガダルカナル戦の牽制作戦のように思えます。
この戦いで、日本軍はギルバート諸島の防衛強化の必要性を認め、マキン、タラワへ兵力を増強することになります。

ギルバートの戦いはどうしてもタラワの戦いが注目されがちですが、けいさんが指摘した残虐行為も含めて、マキンの戦いも忘れてはいけないでしょう。
ガルバニック作戦時(昭和18年11月)のマキン島の日本軍守備隊は693名。うち1名を除いて692名が戦死。同島に送られた朝鮮人労務者も96名が亡くなっています。
フリントロック作戦・・マーシャル攻略作戦ですか。

ガルバニック作戦そのものがマーシャル進攻の足掛かりを作るためのものですからね。米軍内部でもギルバートなど放っておけばいい、という意見が強かったようです。

一方、日本軍がギルバートを攻略したのも、もともとはマーシャル防衛のためだったのですが、その後連合艦隊は、ギルバートを艦隊決戦場の1つと決定します(昭和18年5月頃)。
戦略としては、守備隊が上陸した米軍を引きつけておいて、その間に連合艦隊が洋上の米艦隊を撃滅するというものでした。
このため、陸軍はギルバート放棄を提案し続けたのに、海軍が同地の確保を主張して譲りませんでした。

開戦当初イギリス領だったギルバートを無視していたらどうなっていたでしょうね。マーシャルに対する米軍航空基地としてうるさい存在になっていた可能性はありますが、それ以上にはならなかったかもしれません。
>クワジェリン環礁のクワジェリン島は米軍基地兼飛行場

ミサイル発射試験場になっているようですね。カリフォルニアの空軍基地からクワジェリン環礁を目掛けて、弾道ミサイルを発射し、迎撃をする実験場らしいです。
クワジェリン島の写真がアップされているサイトがありました。
http://www.w1vx.net/ja8ve/v7/v7_31.htm

>故かWW1のドイツの指揮官の写真

マーシャル諸島を発見したのはイギリス人のジョン=マーシャル(この人の名前にちなんで命名)ですが、1885〜1914まではドイツの保護領になっていますから、その関係ですかね。
米軍でもマキンの強襲の意味、成果で賛否両論だったらしいですね、成果の割には不必要に日本の守備を頑強にしたとか…

個人的には金光兵曹長がどんな人物だったかリサーチしたいのですが、なかなか資料が見つかりませんね。

マキン関連の写真見つけてきました。
マキン強襲直前の潜水艦ブリッジから出撃する海兵隊員の写真。緊張な面持ちですね。この後彼らは予想以上の波浪に上に強襲ゴムボート(ヒギンズ?)のエンジン停止の上、火薬の暴発事故があり散々な目にあって上陸したらしいです。

真ん中は、マキン強襲で奪取した陸戦隊の軍旗をルーズベルト大統領に見せている写真です。ちなみにルーズベルトは米大領領では初めての両足が不自由な身体障害者だったらしいですが、公では絶対に車椅子には乗らなかったとのこと。

右はマキン強襲で負傷した兵士、めちゃめちゃ痛そうな顔してますね。
マキン島守備隊 第62警備隊 長 金光久三郎兵曹長

ここまではわかりましたが、それ以上のことは、手持ちの資料でもネットでも検索できませんでした。
nagao eijiさん
ご協力ありがとうございます。

私も断念です…
ん〜残念。次はルーズベルト大統領の息子のその後をおかけってみたいと思います。
あとクワジェリンに連行された捕虜のメンバーとその後。

すいませんディレールに入り込んで・・・
>クワジェリンに連行された捕虜のメンバーとその後

9名の米海兵隊員捕虜は日本本土へ送還される予定でしたが、悪化する戦況のため、本土送還が不可能になり、処置に窮した第6根拠地隊司令部は昭和17年10月16日、捕虜を処分(斬首)してしまいました。
戦後、6根司令官阿部孝壮少将は残虐行為の罪を問われ、2週間あまりのスピード裁判のうえ絞首刑を宣告され、昭和22年6月19日グァム島で処刑されました。

(出典:「孤島の戦闘・玉砕戦」別冊歴史読本 新人物往来社)
12
>ちょっとショッキングな画像を見つけてしまいました・・・
>これより後の1943年にタワラ島の守備隊が玉砕した時の海軍陸戦隊兵士が自決し散華した画像です。


自分で上げておきながら、
ルール違反だったようなので削除いたします。

(11)次に掲げる日記等の情報を投稿し、又は表示する行為。
(ア)人の殺害、傷害現場を撮影した日記等の情報。
(イ)死体を撮影した日記等の情報。
(ウ)その他残虐な行為を撮影した日記等の情報。

興味ある方は、

japanesesuicide tarawa wiki

で検索したら出てくると思います。
3年ぶりの更新ありがとうございます。
写真についてはコメントは控えさせていただきます。

この方たちの家族は見るに忍びないでしょうね。
ただ、何もわからないままよりは、まだいいのでしょうか。
これは遺族の立場にならないとわからないです。
>#11
 >ルーズベルト大統領の息子はこの戦闘で行方不明になったらしいいです。

 ルーズベルト大統領の子息ジェームズは「マキン襲撃作戦」に副指揮官(少佐)として参加していますが、戦死したり行方不明にはなっていません。45年に海兵大佐として現役を退きましたが、海兵予備役の准将になっています。1991年まで健在で83歳で亡くなりました。
リトルーE さま

そのようですね。
間違った情報をの記載しておりました。大変申し訳ない。

http://en.wikipedia.org/wiki/James_Roosevelt

マキン以外で沖縄戦のも従軍していたんですね・・・
nagao_eijiさま
階級章を見る限りだと、手前の方が一等兵曹で、桜の紋章がモノクロの写真で濃く映っているので、マゼンダ(赤)系の色が濃いと想定すると、恐らく衛生科もしくは技術科所属だったのではないでしょうか?

奥の方が三等兵曹のようですね。

http://page.freett.com/zaj17637/18/kaigun.html

タラワ島で戦った部隊

第3特別根拠地隊本隊(司令官:柴崎恵次 少将)902名
佐世保第7特別陸戦隊 1669名
第755航空隊基地員 30名
第111設営隊 1247名(主に軍属。朝鮮出身の労務者を含む。)
第4艦隊設営派遣隊 970名(同上)

目黒の防衛研究所図書館で調べたら、かなり絞り込めるかもしれませんね。

これらの資料が早くオンラインでも閲覧できるようになることを望むばかりです・・・

しかしこれくらいの位の下士官だと善行章をもらっているはずですが、戦闘服には善行章はつかないんでしょうかね・・・?

http://page.freett.com/zaj17637/18/kaigun.html
余談ですが、カールソンは大変興味深い人物ですね。

1933年3月〜8月までの米第4海兵師団情報将校としての上海勤務、1933年8月〜1935年7月までの在北京海兵分遣隊副隊長勤務、そして帰国後のウォームスプリングス(大統領静養地)警護担当海兵隊指揮官勤務等々。

1937年7月15日(盧溝橋事件直後)、カールソンはFDRから直接、中国行の指令を受け、横浜・東京・神戸を経て上海に入国しております。中国での活動内容については、FDRの「個人的」中国担当情報官といった方が適切なようであり、当時のカールソンからFDR宛の報告書が約20通、ルーズベルト記念館に保管されているようです。

興味深い点は、『中国の赤い星』で有名なスノーの援助で、1937年12月に延安に潜入し、中国共産党軍に従軍しているところでしょうか。若き頃の南米ゲリラ戦の経験に加え、毛沢東流人民戦争理論は、その後のカールソンに多大な影響を与えたものと考えます。
またまた余談です。

個人的な感想になりますが、カールソンは強烈な「使命感」に突き動かされていたように思います。ビルマで活躍したウィンゲートに近い人種だったのではないでしょうか。
チャーチルはウィンゲートについて「(宗教的とも云える)使命感を持った人物ではないか」と評しておりますが、カールソンにも宗教的(或いは狂信的)使命感をもった人物とのイメージを抱きますね。

また、日本滞在中も精力的に活動し、FDR宛に報告書を送付しております。情報のプロとのイメージも個人的には抱きます。
11の書き込みは削除したほうがいいのでは?

間違った記述ですから・・・

読んだ人が誤解します。間違った旨を書いて削除したほうがいいですね。
>#19&#20 かず色さん

>中国での活動内容については、FDRの「個人的」中国担当情報官といった方が適切なようであり、

 余談の余談になりますが、現在の日本では忘れられている米NBC局製作のミニドラマシリーズ「戦争の嵐」(続編の「戦争と追憶」)の主人公ヴィクター”パッグ”ヘンリー中佐(後に少将に昇進)を思い出しました。

 大戦直前、米大使館付き海軍武官としてベルリンに赴任して、優れた観察力と分析力を発揮して、FDRことルーズベルトから個人的な「欧州情報担当官」のひとりとされ、ヒトラーを始め、チャーチル、スターリンやムッソリーニらと面談する機会を得る「時代の証言者」的役割を果たします。

 原作者のハーマン・ウォークは「ヘンリー中佐」には実在のモデルはいないと明言していましたが、カールソン中佐のような人物が実在していたのなら、案外、モデル(複数の人物を合成した?)も実在していたのではと考えたくなります。


>リトルーEさん

FDRの個人的な「欧州情報担当官」は、若しかしたら複数名実在したのかも知れませんね。個人的には、FDRの政治スタイルは「側近政治」であったと認識しております。

「戦争の嵐」の記憶は大変おぼろげなのですが、確かロバート・ミッチャム演ずる主人公のヘンリー米海軍将校とヒトラーの会見の後、ヘンリー中佐がヒトラーの人物像について、冷静且つ客観的な分析意見を述べるシーンが印象に残っております。
>リトルーEさん

「戦争の嵐」に関する私の上記記述内容が正確であるか、全く自信がありません。間違っておりましたらお許し下さい。
ヘンリー中佐がヒトラーについて語るのは、ヒトラーとの会見前だったような気もします。確か、『我が闘争』の読後感についても語っていたように記憶しているのですが、なんせ随分以前のテレビドラマでしたので・・・・・

明確に(細部を)覚えているのは、アリー・マッグロウとジャン・マイケル・ビンセントのラブシーンぐらいですウインク
 かず色さん


>確かロバート・ミッチャム演ずる主人公のヘンリー米海軍将校とヒトラーの会見の後、ヘンリー中佐がヒトラーの人物像について、冷静且つ客観的な分析意見を述べるシーンが印象に残っております。

 このシーンは公開当時も話題になりました。ヒトラーやナチ政権の高官たちを「単なる無法者や狂人」として描かず、「民主主義大国アメリカ」にとって強力な敵対者となる可能性をもつ相手として描いたからです。


 もし、わたしが第2次大戦を講義する機会を得たのなら、教材のひとつに使いたいのがこの「戦争の嵐」です。当然、メロドラマの部分は削りますが、主人公の米海軍将校ヴィクター・ヘンリーの動向を追っていくと、大戦直前から真珠湾攻撃にいたるまでの米国、特にルーズベルトの思惑が判るようで面白いと思います。ヒトラーの動きも国防軍司令部に勤務する「古きプロシャ軍人」を思わせるアルミン・ルーン少将(冒頭の人物紹介では「准将」になってますが、劇中では「Generalmajor」と呼ばれています。「英米式」のランクでは「准将」相当なので、英語ではそのように表記したのでしょう。)の目を通して、細かく描かれています。このほかチャーチルやスターリンの人物像も細かく描写されていました。

 それだけに7話形式のクライマックスである真珠湾攻撃に先立つ、日本側の動きがほとんど描かれていないのは残念でした。劇中、ヘンリーの息子バイロンの妻ナタリーがスイスから米国への脱出を模索するなか、大使館か公使館でのパーティで日本の駐在武官と語り合っていた米国の新聞記者が、ナタリーに「日本が明日にでも戦争を始めるようだから、急いで脱出をしたほうがよい」と勧めるシーンは印象に残っています。

>リトルーEさん

詳細な解説ありがとうございます。何となく、当時の記憶が蘇ってきました。この番組放映当時は中学生でしたが、家族全員で観ておりました。米テレビドラマでは『将軍アイク』と並んで印象的な作品です。

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ところでトピックの話題に戻りますが、カールソン部隊の蛮行について、私は一概に非難することに躊躇を感じるものです。戦争とは狂気であり、善良な市井の一市民が、極限状況の中で異常行動を行う可能性は当然あります。「戦場神経症」とでも云うものでありましょうかね。

リンドバーグ手記にも太平洋戦争中の連合軍将兵による蛮行が描写されております。戦争の実相というものでしょう。

昨年、父島の小笠原兵団にいた方と偶々、ある会合でお会いした事がありました。堀江参謀の思い出を語っておりましたが、元陸軍士官の穏やかな人格者と感じた次第です。
然しながら、太平洋戦争末期の父島では、有名な「人肉食事件」が起きております。当該事件に先のご老人が関わっていたかは定かではありませんが、事件に連座した将兵の多くは、ごく「普通の人」達だったのではないか、と考えます。
 柳先生

>敵兵の●根を切除して口に押し込むというワザは、

 マフィアの「裏切り者に対する処刑法」としても知られていますね。

>何か根源的なものがある「儀式」なのでしょうか…。

 フランスの百科全書「残虐の歴史」に解説があったと記憶しますが、「生命の
源の象徴」を奪うことで、「復活・再生を否定し、永遠の侮辱を与える」という意味があるようです。
カールソン隊の蛮行は、毛沢東軍の習わしを真似したとも言われていますね。

上の著者の谷浦(兵学校卒で該当事案が発生した時は陸戦隊中尉)氏によると、カールソン隊の強襲を受けた1週間後に味方の腐敗が進んだ遺体を軍医と検死したところ、ずぼんを脱いだ遺体が多く、始めは腹部に銃弾を受けて苦しくてズボンを脱いだのでは?というような仮説を立てたが、何故かずぼんを脱いでいた遺体の多くは口が大きく開いており、当時は遺体の腐敗が激しく何故上にそのようなことになっていのかが分からなかったが、戦後に米軍の書いた文献をで蛮行のことを知り合点がいった、との記述がありました。
フランスの「百科全書」シリーズには、ちょっと考えにくい分野まで納められています。「残虐(行為)の歴史」はその一例ですが、「拷問」「殺人」「猟奇殺人」「大量殺人」「死刑」「児童性愛」「盗賊」などの他、「トイレ」「肛門」「解剖」なんていうものまであった記憶があります。

>敵兵の●根を切除して口に押し込むというワザは、
 の説明の「補足」です。

 これはどの民族でも古くから ●根は「生命の根源」であると同時に、「支配と権力の象徴」「再生の象徴」でもあります。また、これなくして女性を妊娠させることは出来ません。妊娠させることで「命の継続と再生」にもつながる。

 そうした象徴を「身体から切り離すこと」で、「権威の失墜」と「再生不能」とする意味を与える。被害者の口に押し込むのは「侮辱」「軽蔑」を意味するものだと考えられる。女性に対する「陵辱行為」にも同様な意味合いがあるものと考えられる。(戦前の雑誌などに掲載されていた在中国邦人に対する「残虐行為の証拠写真」にもそうした蛮行が見られます。「通州事件」などの現場のそれなどは凄惨の一言ですが、不思議なことに近年はまったく見かけませんね。)

かず色さん
#24への亀レスです。

>なんせ随分以前のテレビドラマでしたので・・・・・

 短縮版の「戦争の嵐」を持っていたので、ある程度記憶しているだけです。

>ヘンリー中佐がヒトラーについて語るのは、ヒトラーとの会見前だったような
気もします。

劇中、ヘンリー中佐はヒトラーと2度あっていたと記憶します。最初は赴任
直後の総統主催のパーティで妻と出席しています。その際、適当な住宅がないと
妻がいうと、ヒトラーが適当な家を見つけましょうと答えます。そこで紹介されたのがあるユダヤ人の実業家の邸宅で破格の安値でした。ここで「ユダヤ人への迫害」が深刻なレベルになっていることを実感します。

次にあったのはポーランド戦後で、欧州の戦火を鎮火させたいとするルーズベルトのいを受けたイタリア系の銀行家と、まずムッソリーニと会見しています。この直後、ヘンリーは大佐に昇進したように記憶します。その後、ヒトラーと面会しますが、ほとんどヒトラーの「独演会」を聞くような形でした。その体験から、「ナチの高官たちは極めて有能であり、その戦力も統治能力を侮れないものがある。しかし、その彼等もヒトラーを前にすると木偶人形のようになってしまう。これから判断すると、この戦争はヒトラー個人の意向に大きく左右されるでしょう。」という報告をFDRに書き送っています。

この間、「ポーランドの侵攻とそれに対する反撃と宣戦布告」について演説するヒトラーを議会で傍聴していますが、ヒトラーと言葉を交わしていませんから、会ったことにはならないでしょう。このとき、議会に彼を乗せて「爆走」させたのが、イギリスのBBC放送特派員アリステア・タズベリー記者の娘パメラでした。彼女の「暴走運転ぶり」は父親だけでなく、ヘンリー息子バイロンの妻となるナタリーの触れていましたから仲間内では有名だったのでしょう。

 パメラはこの長大な物語の最後にヘンリーと結婚しますが、それは別の話でしょう。(彼等はドイツに赴任するときに乗船した「ブレーメン号」で知合っていました。この船上でのエピソードも面白いものがいくつかありますが、それも別の話ですね。)
>32 リトルーEさん

ヘンリー大佐とヒトラーの2回目の会談シーン(独演会)の場面は記憶しております。大変印象的な場面でしたね。

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