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New † クリスチャンコミュの第4シルミウム信条について。

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コミュ内全体

使徒信条にある、陰府降下の概念は、
西方では、古ローマ信条の内、404年に成立した、アクィレイア信条にある、「インフェルナへの降下」からだと言われてます。

で、これは東方からの流入で、
359年の「第4シルミウム信条」が、後に無効とされるまで東方では使われました。

すなわち、

「(主は)十字架につけられ、死して陰府に下り、そこを治め、その門守りもこれを見ておののいた。
三日目に死人の内より蘇り…」

さて、かつての前法王ベネディクト16世は、陰府への降下を、「孤独への降下」と位置付けました。

みなさんは、陰府降下をどう捉えていますか。

コメント(37)

第4シルミウム信条に似た立場なのが、
外典のニコデモ福音書や、最古の典礼文たる、ヒッポリュトスの「使徒伝承」の、
司祭ミサ用奉献文。

すなわち、

「御子は、死を滅ぼして悪魔の枷を打ち破り、陰府を踏み砕いて正しい人を光に導き、…、」

ペトロ書の陰府降下への言及を、セカンドチャンスと捉えた人もいれば、
ルターやカルヴァンらのように、悲劇性を示していると考えた人たちもいました。

皆さんは、どう考えますか。
アクイレイア信条(ティラニウス・ルフィヌスの信経解説)

" われは信ず、目に見えず、苦しむことなき全能の父なる神を、

 また、そのひとり子、われらの主イエズス・キリストを、すなわち、聖霊によりて処女マリアより生まれ、ポンショ・ピラトのもとにて十字架につけられ、葬られ、古聖所に下りて、3日目に死者の中より復活し、天に昇り、父の右に座し、かしこより生者と死者とを裁くために来る。

 また、聖霊、聖なる教会、罪の赦し、この肉体の復活を"

「カトリック教会文書資料集」(エンデルレ書店 p.5)

*********

これはまたマイナーな信条ですな

>>[2]

…と言いつつ、あなたもその資料を所有してるとはw
>>[2] 大体の信条に納得するんだけど、苦しむことなきってどういうこと?
>>[4]

おそらく異端であるモナルキア主義の天父受苦説への否定の文言でしょうね。

天父受苦説についてWikipediaに簡単な説明が出ていますので、ご参考になさってみてください。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%88%B6%E5%8F%97%E8%8B%A6%E8%AA%AC
>>[6] 受難としては苦しまれなかっただろうけど、イエスが傷ついたときとか、私達が道を誤ったりするときに、嘆き悲しまれるから、一概に苦しまれないっていうのはちょっとピンとこなかったです←
>>[7]

現代のキリスト教ドグマが定まった時代の視点で見るのではなく、当時のいろいろな異説が湧き出て論争している中で、教会の信仰とはこうですと選んできた中で、異説の文言を入れてこれを斥けるという形の告白がつくられてきましたね。

現在ニカイア信条と呼ばれるコンスタンティノープル信条(第一回コンスタンティノープル公会議にて採択)ですが、この前にあった第一回ニカイア公会議で採択された信条は、現在「原ニカイア信条」と呼ばれていますが、こちらにもこのような異端の移設を用いた文言がありますね。

"我らは、見えるものと見えざるものすべての創造者にして、
すべての主権を持ち給う御父なる、唯一の神を信ず。

我らは、唯一の主イエス・キリストを信ず。
主は、御父より生れたまいし神の独り子にして、御父の本質より生れ、(神からの神[1])、光からの光、
まことの神からのまことの神、造られずして生れ、御父と本質を同一にして、
天地万物は総べて彼によりて創造されたり。
主は、我ら人類の為、また我らの救いの為に下り、しかして肉体を受け人となり、
苦しみを受け、三日目に甦り、天に昇り、生ける者と死ぬる者とを審く為に来り給う。

また我らは聖霊を信ず。

主の存在したまわざりし時あり、生れざりし前には存在したまわず、
また存在し得ぬものより生れ、
神の子は、異なる本質或は異なる実体より成るもの、造られしもの、
変わり得るもの、変え得るもの、と宣べる者らを、
公同なる使徒的教会は、呪うべし。"

こちらはアナテマまでついていますね。

>>[7]

訂正

>異端の移設を用いた文言



異端の異説を用いた文言
イエスの陰府下降について、エウセビオスの「教会史」の第一巻の「書簡運搬人のアナニアスを介し、トバルケスのアブガルに送られたイエスの返書」という文書に添付されたシリア語の文書からの引用と第五巻のガリアの殉教者たちを扱った記述の中にみられます。

エウセビオスの「教会史」の第一巻から第八巻の著作時期は311年です。

"・・・・十字架にかけられて黄泉に下り、アイオーンのはじめから破られることのなかった仕切り壁を破り、死人を甦らせたかについて、そして、ただ一人で〔この世に〕下って来たが、大ぜいの者とともにご自分の父のもとに昇って行ったことについて、宣べ伝えたいのです」"(第一巻13・20)


第一回コンスタンティノープル公会議より後に書かれたアクイレイア信条のイエスの黄泉下降は、この時突如として現れたのではなく、それ以前よりある程度定式化されていたのでしょう。

この「書簡運搬人のアナニアスを介し、トバルケスのアブガルに送られたイエスの返書」に添付されたシリア語の文書がいつ頃の文書なのかわかりませんが、ある程度知られていたものなのでしょう。


こちらの教会のPDFファイルに若干記述がありましたね。

「きたすま - カトリック北須磨教会 - FC2」
http://cathkitasuma.web.fc2.com/kitasuma128.pdf#search=%27%E3%82%A2%E3%83%96%E3%82%AC%E3%83%AB%E3%81%AB%E9%80%81%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%9F%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%81%AE%E8%BF%94%E6%9B%B8%27

「どちりいな-きりしたん」の「第六くれど「使徒信条」、ならびにひいです「信仰箇条」のあるちいご「信条」の事」


"弟 御主ぜず-きりしとの御あにまの下り玉ふ大地の底と云は、何たる所ぞ。

師 大地の底に四様の所あり。第一の底はゐんへるのといひ、天狗を始めとしてもるたる科にて死したる罪人等のゐる所也。二には少し其上にぶるがたうりよとて、がらさを離れずして、死する人のあにま現世にて果さゞる科送りの償ひをして、其れよりぐらうりあに至るべき為に、その問籠めをかるゝ所有り。三にはぶるがたうりよの上に童のりんぼとて、ばうちいずもを受けずして、いまだもるたる科に落つる分別もなき内に、死る童のゐたる所也。四には此りんぼの上にあぶらんのせよと云所有。此所に古来の善人達御出世を待ちゐ奉られたる所に、御主ぜず-きりしと下り給ひ、彼さんとす達のあにまを此所より召し上玉ふ也。"

(「日本思想体系25 キリシタン書 排耶書」 岩波書店 p.44 どちりいな-きりしたん)

用語

あにま アニマ 魂

がらさ 恩寵

ばうちいずも バプテスマ 洗礼

もるたる科 大罪

ゐんへるの インヘルノ 地獄

ぶるがたうりよ ブルガタウリヨ 煉獄

りんぼ リンボ 自然的楽園・辺獄

せよ 天

あぶらん アブラハム

ぐらうりあ グロリア 栄光
どちりいな-きりしたんを見ると、イエスが下って行ったのは

"。四には此りんぼの上にあぶらんのせよと云所有。此所に古来の善人達御出世を待ちゐ奉られたる所に、御主ぜず-きりしと下り給ひ、彼さんとす達のあにまを此所より召し上玉ふ也。"

との記述により、アブラハムの天という旧約等の義人のいる場所に下って行って、彼らの魂を天に連れて行ったというのが、当時の解釈であったことが見て取れる。

アブラハムの天とは、ルカ福音書の金持ちと乞食のラザロの話しに出てくるアブラハムの懐の事であろう。


>>[13]

シェオルの概念は伝わってなかったんですなあ。

380年に書かれたナジアンゾスのグレゴリオスの「神学講話」に

"・・・死によって死を滅ぼし、葬られたが、復活した。黄泉に下ったがそこで魂を救い出し天に昇り、生者と死者を裁くために、・・・"

(「中世思想原典集成2 盛期ギリシア教父」 平凡社 p.358)

などの記述も見られ、東方でも受け入れられていたのであろう。

>>[14]

シェオール(陰府)の訳語として、すでにハデスがあり、それがさらにラテン語のインフェルノになれば、もはやヘブライ語の語意など、司祭や司教の念頭にはなかったのでしょうね。精々ギリシャ語のハデスどまりでしょう。
>>[15]

西方では、アウグスティヌスが、シェオルとゲヘナを混同しましたが、
東方では、どうでしたかっけ?
>>[17]

ニコライ訳の金持ちとラザロの個所を、今、見直してみましたが、本来ハデスの語の個所が地獄と訳されていましたね。

あと聖書の翻訳について、こちらの資料も役に立つかと

加藤早苗 明治期聖書訳語「よみ」に関する一考察 PDF

http://ci.nii.ac.jp/els/110006406102.pdf?id=ART0008407135&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1479810715&cp=

>>[18]

あ〜東方でも大して区別してないんですなあ。
>>[17]

ハリストス正教会の「記憶録」の永眠者の祈り(パニヒダ)の中のリテヤにこのような一節がありました(p.40)。

"人を愛する救世主や・・・

・・・

なんじは地獄にくだりて繋がれし者の鎖を解きたる神なり。・・・"

>>[19]

「ニコライ訳」と「記憶録」から見るとそのように感じますね。

>>[20]

そういや、中世ヨーロッパには、キリストは地獄降下の時、
最初の罪人エバを助けにいった、とゆー民間信仰がありましたな。
>>[22]

イコンで見た記憶がありますね。
>>[22]

このイコンです。

現在、カーリエ博物館(トルコ、イスタンブール)であるコーラ修道院付属ソーテール(救世主)聖堂の「復活」というタイトルのイコン(フレスコ画)に黄泉下降したイエスがアダムとエバの手を取っている絵ですね。

>>[24]

これ、よーするにセカンドチャンスですなあ…
>>[25]

いや違うでしょうね。

キリスト以前のすべての義人の救霊がローマ・カトリック、東方正教会がメシアを信じ待望した旧約の聖徒たちに限定に限定していると東西に違いはありますが、「キリスト以前の」という前提がありますね。

製法が人類の中の義人という広義にも取れる解釈である(しかし、そこまで広い人類を念頭に置いていたとは思えないが)のに対して、東方が旧約の義人に限っているのはキリスト教的と見えますね。

正教などでは、原罪概念がなく、あくまでも初人陥罪(アダムによる堕罪)ですから、「聖山アトスの修道者シルワンの手記」(あかし書房)などにも「アダムの嘆き」という記述などに見られる神を悲しませた罪を悔い嘆き、涙をもって失った楽園を探し求める人祖観というのは、わたしたちと変わるところがないという感じに見えますね。

これは全くセカンドチャンスとは別なものと言えますね。

>>[25]

訂正

旧約の聖徒たちに限定に限定していると

旧約の聖徒たちに限定しているとの


製法が人類の中の義人という広義

西方が人類の中の義人という広義

ペテロ第一3:19
こうして、彼は獄に捕われている霊どものところに下って行き、宣べ伝えることをされた。

ルーテル派においては和協信条に詳しく出ていますのでそちらも開いてみていただくとして、まずはルーテル派の「キリスト教教義学」から

"ここでは、「獄に捕われている霊どもに宣べ伝える」というのは、福音の宣教ではない。ギリシア語の言葉は、「福音を宣べ伝える」という言葉「エバンゲリゾー」ではなくて、ただ「ケリュソー」という「発表する」あるいは「宣言する」という意味の言葉である。もちろんこの言葉も普通では「福音を宣教する」という意味で用いられている。しかしながら、死後に福音を聞く機会が与えられるということを信じることのできる根拠は何もない。・・・"

続く説明が長いので割愛します。

また、それに続けて

"ローマ・カトリック教会は、このキリストの宣言によって、主の死と復活によって成就される約束を信じて死んだ旧約聖書の聖徒たちが、いわゆる族長霊域から解放され、天に移されたと教える。しかしながら、このことについては、聖書には何も記されていない。"

「キリスト教教義学」(ジェーコブズ著 聖文舎 p.178-180)

>>[26]

カインの妻などは、義人に入るわけ?
>>[28]

まあ、西方ではセカンドチャンスが否定されてますが、
エバなどは義人でも何でもないですなあ。
>>[29]

カインの妻がアブラハムの懐である族長霊域にいた、またはイエスとともに高挙したとする何か伝承でもありましたか?

>>[30] イリア・エレオスさん

アダムとエワ(エバ)の罪は創世記の失楽園の記述だけですね。そもそも原罪概念がありませんから、彼女は誘惑によって堕罪状態をもたらした存在ではありますが、神はアダムとエワに悔い改める時間を与えていましたね。

創世記が伝えるのは、"神の言葉に不従順だったエワの罪"(http://www.orthodoxjapan.jp/tebiki/oshie04.html)
だけで、その後の彼女については聖書は沈黙していますね。

外典や聖伝で東方でどのようなエワ観を継承しているかは正教の人でないとわからないかもしれませんね。

正教会の司祭高橋保行神父の著書

「神と悪魔 ギリシャ正教の人間観」(角川選書)は面白いですね。
>>[31]

>伝承

ない。つーか誰かも知られてないし。

>原罪

東方だと、人の内にある神の似姿がゆがんだ、つーのが原罪概念で、だからマリアの無原罪をカトリックからは導入しなかったわけですが、
しかし、エバが義人であるなんてとても言えないのではないですかね?
エバが何歳で死んだかも知らないし。
>>[32]

>ない。つーか誰かも知られてないし。

正教は文字にされずに形として継承(祈りやイコンなど)したりしますね。

イコンなんかでは、アダムやエワ、族長ら、モーセ、ダビデやソロモンなんが見られますね。


神の肖と像のうち肖は喪失してしまったが、神の像はかろうじて残っているというものですね。

>エバが義人であるなんてとても言えないのではないですかね?

それは西方の流れにあるわたしたちがそう思っても、東方の人たちがそう見ないのですから意味のない疑問ですね。

神秘のペールで捉える伝統に対して、理屈でどうかなるものではありませんから。

東方とはそういうものと飲み込むしかありませんね。

>>[32]

黄泉より悪魔に囚われしアダムとエワ(全人類)を連れ出すことによって、ハリストスによる死からの解放と死の征服者の面を現しているようですね。

正教時報 2009年4月号

http://www.orthodoxjapan.jp/jihou/200904.pdf
>>[34]

930年生きた挙句、死後に悪魔に囚われるとは、
アダムも波瀾万丈ですなあ。
>>[35]


自分の長男は弟を殺し、さすらい人として離れて行き、遠い地でその子らのうわさを聞かされ、若かった体は老いて行き、きれいだった妻は・・・。

啄木じゃないけど、大地は呪われ

はたらけど はたらけど猶 わが生活(くらし) 楽にならざり ぢつと手を見る

波乱万丈ですね。

正教会の黄泉降下の意味付けについては、Orthodox Wiki(英語のサイト)あたりが参考になるかと。

Resurrection

https://orthodoxwiki.org/Resurrection

***
機械翻訳

イコン

図像学では、ビザンチンの図像タイプによれば、8世紀の早い時期の復活は主に救い主の降下によってハデスに描かれています。 私たちの主は、ハデス(死)の門を踏みにじりながら、墓場からアダムとイブを引き上げて描かれています。 背後には、旧約聖書の総主教、預言者、およびイエスの出現を発表した先駆者ヨハネを含む他の人物が立っています。

「この象徴的なタイプは、輝かしい栄光に囲まれたハデスの主を表しています。 彼は地獄の崩壊した門を踏みにじり、左手に復活の十字架をつけ、右手で人類を代表する石棺のアダムを上げます。

ダマスカスの聖ヨハネ(676〜749)が復活のイコンを知っていることは非常に際立っています。それを彼は時間まであらゆる点で教会の伝統に調和すると思います、そして、それを彼は解説します:

「聖書も我々に教える神として、我々は、このように飾られる神聖な父から、ハー[神聖な神の教会]を迎えました:キリストの具体化したOEconomyで、機知に... 聖母マリアなどへのガブリエルの受胎告知、キリスト降誕その他....;、そして、同様に、キリストの磔その他... ;復活(キリストが黄泉の国を踏みつけて、上に向かうアダムを引き上げるworld―の喜びです)。」

・・・

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