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涼宮ハルヒのSS コミュの作戦従事命令

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『朝比奈みくる』の来歴、周囲の人々とその活動、などについての簡略な物語

コメント(146)

『作戦従事命令90』

 森嬢個人としては過去と決定的に決別したつもりでも、過去のほうでは森嬢をそうやすやすとは離してくれなかった。ある印象的な出会いにしてもそうである。森嬢はある日会議に参加した。着席するや、森嬢は既視感を感じた。正面の人物に確かに見覚えがある。そちらの方でも森嬢を見分けたらしく、近寄ってきた。彼は敬礼し、言葉をかける。

 「準校どのとお見受けします。お久しぶりです。ご無事でなによりです。・・・ところで、・・・どうしてこちらに?」

 それは初老の紳士であった。我々は彼を『新川氏』として知っている。森嬢は答える。

 「やっぱりね。『班長』。」

 彼はかつて森嬢と同じお国に住み、一時いっしょに働いていた。彼はかつて『国家広報宣伝省内務宣伝局宣伝部宣伝課人民宣撫班班長』であり、『文官位階軍事称号読み替え』によって『次校』の階級で(準校と大尉の間に相当)、森嬢の一時的な部下として執務していた。彼は有能であり、重宝されていた。しかしその彼にしても、身辺に粛清の嵐が迫った。彼はそれを敏感に察知し、敵方が行動に出る前に先手を打った。口実を設けて海外に出張し、そのまま帰らなかったのだ。内務宣伝というものは実は国内だけではできない。彼は特権として、いつでも国外に出ることができた。・・・彼のお国では、それは一般の人々には無理な話なのである。彼はこの特権を最大限利用し、森嬢と同じく、お国と名前を捨てたのだった。森嬢の一時的な部下だった、という点が、たったそれだけのことが、彼の『政治的なひっかかり』であった。森嬢は言葉を継ぐ。

 「私はもう『準校』ではないので、これを最後に、そう呼称することを永久に禁止。」

 森嬢に、ついでだいぶ遅れて『荒川氏』に、笑みが浮かぶ。これは森嬢なりのユーモアであった。この二人はこれ以後事実上のコンビを組むことになる。しかし完全に対等とはいかなかった。一応仮にもかつて上司部下の関係であったことは後々まで尾をひいた。『新川氏』は森嬢に呼びかけるとき、敬称を欠かさず、敬語で丁寧に接した。森嬢は『新川氏』を呼び捨て、簡潔な言葉遣いで接した。統率の習慣が、なお二人の間には残っていた。軍事指揮官たるもの、例え父親ほどに年上であろうとも、部下に敬語で接してはならないのだ。そして、機関においてすでに、その有能さと同時に、人格者として敬意を集め始めていた『新川氏』を事実上の部下として扱い、そして当然のようにその『新川氏』の敬意を受ける森嬢の姿は、『新川氏』に注目していた人々にも影響をあたえ、『新川氏』への森嬢の権威を自分たちにも認める、という方向に発展していった。すなわち森嬢は、いつの間にか広範に指揮権を認められる結果となったのである。そして森嬢は、その指揮権に相応しい度量と、指揮のための技術をすでに身につけていた。このほとんどなし崩しに行われた森嬢の指揮権の確立は、反対者も対抗者もなく、そのうちに盤石となり、『森園生隊長』はいつしか『実戦部隊』の全権を掌握していたのだった。


 さて、いささか唐突ながら、ここからはいま一人の興味ある人物、『新川氏』について、その事情を概括してみよう。

 『新川氏』がお国と名前をかくも単純に放棄できてしまったのも、彼もまた、森嬢と同じく、自分のお国を嫌っていたからだった。そのうえ、祖国脱出直前の彼は不遇な事件に連続して見舞われ、故郷への最後の未練までも粉砕されてしまったのだった。まず仕事のことがあった。内務宣伝事業は長らく失敗の連続だった。彼個人の有能さだけではもはや挽回不可能(彼の有能さは主に、他の部署の応援の際重宝された)なほどの、際立った、あるいは目立たない、有象無象の失敗の果てしない連続。彼はその生贄にされ、毎日毎日昼夜にわたり、実行不可能な命令、無根拠な「批判」、単なる罵詈雑言、脅迫的な「指導」、などに曝された。彼は、内務宣伝事業そのものの身替わりにされてしまった格好だった。そもそも、内務宣伝事業というものは、国家の成功なくしては有効な活動はできない。彼は失敗続きで左前のお国の身替わりともいえた。しかし、彼の個人生活に降りかかった不幸に比べれば、こんなことはなにほどのものでもない。・・・彼は家族を亡くしていた。妻と娘。彼女らは、失敗した国政の必然的な結果である、壊滅したインフラの犠牲者だった。その落命は、鉄道事故が原因だったのである。

 事故は次のごとく記録されている。

 【前代未聞の多重複合事故:××××年××月××日7時50分頃、□□国有鉄道◇◇線(単線・通信閉塞式)○○○発●●●行き第308普通旅客列車(電気機関車牽引:三等客車7両編成)が○○○起点52.5km付近(現場は308列車の進行方向からみて15‰の登り勾配の入口付近であった)を速度50km/hで力行中、本線を逆走してきた貨車(無蓋貨車5両:屑鉄積載)と衝突、機関車と客車3両が脱線転覆、1両が築堤下に転落し大破、2両が脱線、貨車1両が粉砕、1両が脱線転覆、2両が脱線した。ついでその5分後、後続の第310普通旅客列車(蒸気機関車牽引:三等客車7両編成)が速度約30km/hで力行のまま追突、これにより308列車は全列車が脱線、310列車は機関車および客車3両が脱線した。さらにその15分後、対向の第309普通旅客列車(蒸気機関車牽引:三等客車7両編成)が前方の事故をみとめ非常ブレーキを扱ったが及ばす、約20km/hで貨車の後方から衝突、機関車と客車1両、貨車1両が脱線し、またこの衝撃により、308列車の機関車および客車2両がさらに築堤下に転落大破した。この前代未聞の4重事故全体で約300名が死亡、多数が負傷した。まず第一の事故は、次駅△△△駅で貨車の入れ替え中に、該当する仕訳線にブレーキ担当者が配置についていないことを確認せずに貨車を突放、さらに流転する貨車が転轍器を割り出して本線に流出するのを見逃したというものであった。第二の衝突事故は不可抗力とはいえ、前方確認が不十分だったのではないかという疑いが残る。50km/hといえば該当路線においては最大速度であり、しかも力行のまま衝突しているからである。第三の追突事故については、明らかに310列車の前方不確認である。機関士は機関の不調に気を取られており、機関助士は投炭に忙殺され、互いに相手が前方を確認しているものと推察していた。そして第4の事故の原因については、明らかに△△△駅係員の確認ミスである。この係員は続行運転の308列車と310列車双方の到着を確認ののち軌道閉塞管理室に到着を通報、閉塞管理室の指示のもとに309列車に進路を開通、信号機を操作して進行現示、ついで発車合図をせねばならないにも拘わらず両上り列車到着の確認を怠り、両列車はすでに到着したものと推測、閉塞管理室に「上り列車到着」を通告したものであった。閉塞管理室は構内を見渡せる立地になく、係員の通報が頼りであったため、閉塞管理員は特に疑問をもたずに309列車発車のための一連の指示を行ったものであった。本件は人間が頼りの通信式閉塞の弱点をさらけ出した事例ともいえよう。また、鉄道職員の規律と士気の顕著な低下を如実に示したものともいえる。本件は朝の通勤時間帯に相次いで旅客を満載した通勤列車が衝突、救助の暇もなく事故が拡大し、人的被害が際限なく増大したことは不幸であった。現場に救助のため駆けつけたのはまず近隣住民、ついで鉄道職員、消防、警察の順で、救援列車の到着は事故発生後3時間後、軍隊の到着は5時間後であった。
 当日は事故の当該時刻は晴天であったがやがて天候が急速に悪化、激しく雪が降りしきり、事故による直接の死亡者のみならず、閉じこめられて脱出不可能となった人々(多くは重傷者)を中心に、多数の凍死者もあったとのことである。死者は最終的に500名を超えた。なおこの中には、いち早く現場に駆けつけたものの、第4事故の車両転落に巻き込まれて死亡した近隣住民も含まれている。】

 この救いようのない大事故の当日、彼は早朝から午後遅くまで勤務していた。報道の速度は遅く、彼は帰宅して家族の姿が見えないことから不審に感じ、鉄道駅に出向き、初めて事故の報道に接した。

 彼は一刻も早く現場に向かいたかった。しかし、事故と大雪で列車はすべて止まっていた。鉄道が使えないとなると、道路整備が行き届いていないこのお国ではもはやどうすることもできない。彼はいらいらする心を抱えて、もうすでにかれこれ五時間以上発車待ちをしている普通列車の片隅に潜り込むほかなかった。車内は人間で充満しており、にもかかわらず暗く、寒かった。車内灯は電力不足で消されており、暖房はあってもたいてい故障したままであった。よしんば作動するにせよ、これまた電力難で切られているのが常だった。加えて車両の状態も悪く、窓ガラスさえたいていなかったのだ。乗客は衣服や毛布、厚手の布や板切れで窓を塞いで、木でできた座席にうずくまるか、あるいは立ったままで、みな寒さに震えていた。彼もまた、扉に近い一隅で寒さに耐えながら、生死不明の妻と娘に思いを馳せるのだった。

 彼と妻は折り合いがよくなかった。些細なボタンの掛け違いの連続がいつしか夫婦の仲を冷え切らせてしまい、今では喧嘩すらなく、必要最低限の会話があるだけだった。しかし彼は、いまでも妻を愛していた。彼は妻の不満の理由がある程度は理解できた。彼は熱心に職務に励み、前の部署では成功して出世し、収入もあがり、なにがしかの名誉も手に入れた。しかし家庭生活のほうは完全に疎かになり、共働きの妻にすべて任せきりになってしまっていた。そして気がつくと、彼はもはや家庭に居場所がなかったのだ。彼は娘にも好かれてはいなかった。少なくとも、そのように思えた。娘との会話は殆どなく、彼はそれも仕方のないことだと思っていた。ほったらかしにした家庭が自分にとってアウェイになってしまうことは、これまでは考えもしなかったこととはいえ、理解はできた。しかし和解の方策を練るまでにはいたらなかった。引き続き彼は忙しすぎたのだ。彼は家族が目覚める前に外出し、寝静まってから帰ってくるのが普通だった。休みはほとんどなかった。そして、休みたいなどとは言えない空気が職場を満たしていた。目を覚ましている妻や娘の姿を見かけたのは、もうどれくらい前になるだろう? この前妻と話したのは? 生活費の不足について手短に相談されたのが最後だった。あれは何ヶ月か前のことだ。・・・今日は久しぶりに早く帰宅できたのだ。明日も早朝から執務せねばならなかった。会話も笑いもない、冷え切った家庭。それでも、それが彼の家庭だった。彼のホームだったのだ。彼は壁にもたれたまま、うつらうつらしていた。真夜中を過ぎても列車は動かなかった。半分寝ぼけたまま、寒気を通して、彼は隣の線路に楔のような形の車両が蒸気機関車に押されて入ってきて、ほどなく出発して行くのを見た。なんとなく、雪かきのための車両だろう、と彼は思い、再び気絶同然に、立ったまま眠りに落ちていった。そしてようやく夜半過ぎ、なんの予告もなく汽笛が聞こえ、がっくん、とかなり大きな衝動とともに、列車は動き出した。

 列車は鬱陶しいほどののろさで進む。ときおり駅でもないのに長時間停車したりするうえ、各駅でもかなり長い間停車、事故現場の最寄り駅に到着したのは夜が明けてからだった。晴れ渡った、寒い朝だった。事故現場に向かう人々はさらに先へと続く線路上を三々五々行き交っている。家族を探しにゆく人々、鉄道職員、軍人、警察官・・・。彼もその中に混じり、事故現場を目指す。徒歩で約30分、列車が見えてきた。それは救援列車で、事故現場はそのすぐ先だった。折り重なって築堤の下に転落している車両が見え、多くの人がその周囲で立ち働き、あるいはあてどなくうろついて家族を探していた。近くの畑に死亡者が並んで横たえられている。遺体は雪に埋まっており、その顔のあたりだけ雪が払われ、不運な家族を探す人々がその一人一人に食い入るような眼差しを向けていた。・・・彼の家族はすぐに見つかった。母子はしっかりと抱き合ったまま、2人とも息絶えて、雪にまみれて地面に横たわっていた。妻は最期まで娘を守ろうと努力したようだった。その頭には大きな傷があり、雪の中に血が流れ出した跡があった。娘の遺体は一見きれいに見えたが、よく見ると首が折れていることが見て取れた。彼の古くからの知人である幹部鉄道職員がたまたま現場におり、彼を見つけて近寄ってきた。彼は凍りついたように佇んでいた。幹部職員は低い声で、転落した車両から発見されたことを告げ、短い形式的なお悔やみの言葉を述べて足早に立ち去った。彼はなおしばらくそのまま佇んでいた。嘆く気力すらなかった。やがてふらふらとその場を離れると、もときた線路を歩いていった。頭の中は完全に空虚だった。自分がどこに向かっているのかも、なんのために歩いているのかもわからなかった。しばらく行ったあたりで彼は枕木につまづき、雪に覆われた線路上にばったり倒れた。かなりの間、彼は横たわっていた。ときおり行き交う人々はみな自分の用事に忙殺されており、彼を気にかける者はなかった。そのうちに先刻の幹部職員が通りかかり、虚脱状態で呆然としている彼を担ぎ上げ、家に連れ帰った。

 家に帰ったところで、もはやこの家の住民は自分ひとりしかいない。彼はぼんやりしていた。ひたすら、ぼんやりしていた。悲嘆が強烈すぎると、泣くこともできないものだ。ほとんどまる一日、そうして時間が過ぎていった。その夕方も遅くなり、暗くなってくる頃、彼はまだいくらかぼんやりしたまま立ち上がり、家の中を歩き回った。特にどうするというあてがあるわけではない。ただ、そうせずにはおれなかったのだ。

 彼は妻の部屋、娘の部屋にも入ってみた。当然ながら、部屋のようすにはなんらの変わりもない。ただ、そのあるじがもはや永遠に帰らないという事実だけが、普段と異なるのみである。彼は意味もなく、机の引き出しや戸棚などを開けてみたりしていた。と、娘の机の引き出しから、「お父さんへ」と記された封筒を見つけた。・・・それは娘から父に宛てた、親愛の挨拶の手紙だった。古びた手紙だった。ずっと渡せずにいたのだ。手紙の最後はこのように結ばれていた。「・・・愛するお父さんへ あなたの娘より お誕生日おめでとう」。その時初めて、ぼんやりと霧のように彼の心に広がっていた悲しみが、はっきりとした形をとりはじめた。悲しみの霧の粒子は寄り集まって水滴となり、そして彼の目から流れ出した。長年枯れ果てていた彼の涙が、はらはらと床にこぼれ落ちていった。年甲斐もなく、彼はすすり泣くのだった。年齢など関係あるものか。愛しい娘が、妻が、彼をひとり置き去りにして、この世を去っていったのだ。なんの予告とてなく。彼の胸は鉛のように重く感じられ、足ががくがくと震えた。今にも崩れ落ちようとしたとき、不意に、玄関のドアをノックする者があった。彼は悲しみに耽溺することを一時打ち切らなければならなかった。必死に踏みとどまって玄関を開ける。そこにいたのは、あの幹部鉄道職員であった。悲しみに沈む彼の心は、いまだ怒りの段階には達していなかった。したがって彼はごく平静な態度で来客を招じ入れ、来意を問うた。幹部職員は居心地悪そうにもじもじしていたがやがて口を切った。幹部職員は、今日ここへ来たのは、ふたつの意向によるものだ、と言った。まず一つは、事故の弔慰金を交付することであり、もう一つは彼の職場、即ち内務宣伝部からのメッセージを伝達すること、だと。まず彼は立ち上がると、丁重にお悔やみの言葉を述べ、封筒を差し出した。些少ですが、と彼は述べたが、実際にその通りだった。わが国でこんな金額を、たとえ一時金にせよ手渡したとしたら、おそらく大問題になるだろう。しかし彼のお国では、それがすべてだった。なにしろ、事故が多すぎるのだ。政府の規定で定められた弔慰金はただでさえほんのお慰み程度のしろものだが、さらに「人民の政府への貢献の意向に配慮して」という名目で割り引きされるのが通例だった。要するに、政府への「弔慰金減額への無条件同意」という形での、無償奉仕の強要である。今回は事故の規模からして割り引き率は八割程度に抑えられていたようだった。・・・規定の二割の交付である。すでに、「十割の割引」などという信じられないような前例がある以上、出るだけましとも言えないではなかったが。こういったことに抗議など、できる話ではない。「叛逆の意志あり」とみなされ、それだけの理由で処刑台に送られかねないのだ。

 彼は黙って封筒を受け取った。幹部職員は彼に深く頭を下げた。そしてほんの一瞬、彼の耳元で囁いた。

 「逃げろ!」

 幹部職員氏は、実は第三の意向をもって彼を訪問したのだ。それは彼に警告を与え、逃がすこと。幹部職員氏は彼に以前、恩義をこうむっていた。ある事情・・・例によってくだらない事情だが・・・で失脚寸前まで追い込まれたのを救って貰ったのだ。しかし、恩返しの機会はついぞなかった。一介の鉄道職員以上ではない職員氏にとり、できることは限られていた。しかし、政権政党の中堅党員でもある職員氏は、粛清の前兆を嗅ぎ取ることはできた。彼は一身の危険を冒す決心をした。訪問の理由はある。しかし、逃亡を唆したことが露見すれば、自身は言うに及ばず、一族郎党、広範囲に累が及ぶことだろう。逃亡の教唆は「政治犯罪」であった。裁判なしで拷問され、そのうえで強制収容所に送られることは確実な罪状である。しかし、ここを逃せば、報恩の機会は永久に去ってしまうだろう。職員氏は黙ったまま、持ってきた鞄から鉄道職員の制服と職員証を取り出し、机の上に置いた。そして背筋を伸ばし、声高に職場からのメッセージを伝える・・・現在、民心は離背、勤労意欲はとみに低下し、士気は沮喪、忠誠心は地に墜ちている。精神的な国家の非常時である。今この時においては、個人の悲劇などは一切取り上げるべきものではない。国家に、指導者に、忠節の誠を尽くすため、家庭の悲劇などは直ちに打ち捨て、ただ忠勤一筋に、邁進しなければならない・・・。耳にタコができるような、相変わらずの空虚な美辞麗句というわけだった。彼は黙って聞いていた。職員氏は、言い終わるとそそくさと帰っていった。制服と職員証はそのままに。つまり、これらが『逃亡用アイテム』ということのようだ。こうしてはいられない。ことは切迫している。彼は家の明かりを消し、鉄道職員の制服に着替えた。そして最小限の荷物だけ持ち、玄関から出ていこうとして、危うく思いとどまった。考えてみれば、もうこの家は監視下に入っているはずだ。彼は台所に行き、流しの下の板切れを外した。子どもの頃、よくここから出入りして怒られたものだ。流しの下、家の外壁には穴があった。国家の責任でなされるはずの修繕はついに行われず、つまりはそのままになっていた。そしてその穴を抜けると、家の外壁に接した鉄道の高架線路の下に出ることができた。子どもの時分には、よく職員用の階段からこっそり高架に上がり、たまに見つかって怒られたものだ。彼は長年通ることもなかった秘密の通路、悪童時代の思い出の抜け穴をそっと通りぬけ、昔取った杵柄の言葉通りに板を元に戻し、真っ暗な高架下に出た。昔よりは多少狭かったが、それでもかなり楽に通ることができた。要するに、そういう大穴が数十年にわたってほったらかしになっていたということだ。このあたりが、『人民の地上天国』を謳う彼のお国の、せいぜいの実力というところであった。


 高架下の暗がりを進んで、昔の記憶通りの職員用の階段を上がる。素人目にも、線路が荒れているのがわかった。砂利がすっかりなくなった錆色の土にひょろひょろと雑草がまばらに生え、枕木は腐ってぼろぼろになり、レールは磨り減ってでこぼこになっている。・・・「ろくに」メンテナンスをされていないどころか、「まったく」されていないのはどう見ても明白だった。線路に沿って、彼は歩き始める。自分の家、監視役らしい二人の私服。それらはやがて後ろに遠ざかり、かくしてこれが彼の故郷の見納めとなった。鞄の中には平服、金銭、僅かの食糧、そして、娘の手紙。よほど置いていくべきかとも思ったが、どうしても手放せなかったのだ。娘よ。可愛い娘よ。お父さんはお前と、もう一度だけでも、言葉を交わしたかった。僅かなりとも・・・。妻よ、許してくれ・・・私は夫としては失格だった・・・。お別れだ。これで・・・。一人祖国を捨てる、お父さんを、夫を、この不甲斐ないありさまを、どうか許しておくれ・・・。彼は静かに泣きながら、ゆっくりと歩いていた。さて、これからどこへ向かうべきか? 暫く前から、彼の頭にはときおり、『涼宮ハルヒ』の名がちらついていた。・・・明らかに、今はその時だった。行かねばならぬ。御許へ、赴かねばならぬ。頼るべきものは、他にはもうない。

 しかしそれにしても、線路の荒れかたは尋常ではなかった。彼の目についただけでも相当末期的だが、もっと細かい部分。すなわち、レールを枕木にとめるための金具はところどころ腐った枕木から浮き上がり、レールの継ぎ目の留め板は緩み、ボルトは錆びてひん曲がり、ある場所では折れてなくなっていることもあった。・・・これでは事故が起きないほうが奇跡である。

 線路を歩きながら彼は思う。人生の、なんと皮肉な巡り合わせであることよ。鉄道事故で妻も娘も亡くした自分が、鉄道職員の手引きを受けて、しかも鉄道職員の制服で落ち延びていくことになろうとは。・・・鉄道職員氏には、感謝してもしきれない。彼はきちんと恩を返してくれたわけだ。それもぎりぎりの危険を冒して。逃げ延びねば。逃げ切らねばならぬ。万一途中で捕まれば、結局彼も巻き込んでしまう。それも最悪の形で。前方に駅が見えてきた。列車が停車している。郵便車の扉が開いていた。居合わせた職員に便乗を申し出ると、職員は面倒くさそうに頷いた。本来郵便車は便乗禁止なのだが、もはやそんな規律は有名無実だった。列車は人間で溢れかえっており、郵便区分室の床、郵便区分職員の足元にまで乗客がゴロ寝している始末だった。彼は郵便保管室に潜り込み、郵便袋の山を寝具に、泥のように眠り込むのだった。他の幾人かの乗客と、非番あるいは休憩中らしい職員たち同様。


 小突かれて目を覚ますと列車は終点に到着しており、郵便袋の取り下ろしが始まるところであった。彼はこんな具合に、あるいは郵便車、または荷物車、使われていない車掌室や物品格納室などを乗り継ぎ、国境に接近していった。そして国境にほど近い鉄道管区本部に入り込んだ。入るぶんに苦労はない。鉄道職員の制服さえ着用していればほぼ完全にノーガードである。国境を越えるにあたり、彼は自分の手配状況を知らねばならなかった。彼が受け取った職員証は「幹部鉄道職員/国境地域執務」の青線入りのもの(ほかには「首都地域執務」の赤線入りのものと、「その他の地域執務」の線なしのものがある)で、これを提示して、党中央から配信される「政治日報」を閲覧させてもらうつもりだった。かなり危険が伴うが、迷ったすえのことだった。彼は「政治日報」を管理している鉄道政治監督官を探して歩き回った。執務室にはいない。結局彼は、休憩室で監督官を発見した。・・・飲んだくれて正体なく眠りこけている監督官を。監督官の傍らの机の上には半分ばかり空いた強い酒の瓶と陶器のコップ、そして最新版の政治日報が放置されていた。政治日報の注意書きが虚しく目に映る。『幹部職員もしくは政治監督官限定/極秘書類指定文書/放置厳禁・要厳重管理』。題字の横のスローガンはさらに虚しい。『執務中の飲酒ならびに酩酊・泥酔・居眠り・職務放棄等の士気に関わる不良な行いを徹底的になくそう!! 特に幹部職員ならびに政治監督官は率先垂範せよ!!』・・・彼は政治日報を取り上げ、ざっと目を通す・・・変わったことはなにもない。そう、なにも。・・・『広域手配:発見次第即通報! 薄謝進呈 政治警察局』の欄にも彼は載っていない。・・・どうもおかしい。彼はちょっと考え、結局非正規ルートでの越境を決意した。大事をとったほうがよい。彼は一計を案じ、報告書を一通書き上げると封筒に入れて切手を貼り付け、鉄道管区本部に隣接した駅に出向いた。停車中の普通列車ではおりから郵便物の取扱中で、郵便車にはしきりに人が出入りしている。彼は何食わぬ顔で郵便車に入り込み、郵便区分室の区分棚の適当な場所に自分の封筒を放り込み、素早く立ち去った。こうしておけばいつかは職場に報告書が到着するはずだ。報告書の内容は『緊急に海外出張する』というものであった。彼は近々隣国の高官と会見する予定になっており、それがいい口実になった。報告書の日付は事故の3日後、そして切手には消印がない。どこまで通用するかはわからない。だが、姑息な手とはいえ、職場に出勤しない理由を何がしかつけておかないことには、『無断欠勤』を理由に手配されてしまいかねない。時間稼ぎである。そしてその間に、彼自身は、できる限り速やかに、国境を越えてゆかねばならないのだ。

 彼は国境至近まで行く普通列車に飛び乗った。短距離の区間普通列車で、すぐに終点に到着する。列車から降りると暫く線路を国境に向かって歩き、途中で線路脇の森の中に入り込む。森を抜けると堤防がある。国境の川の堤防だ。国境警備隊の兵士がときおり行き交っている。彼は暗くなるまで森の中に潜んでいた。その間に平服に着替え、着てきた制服を処分する。またもや悪童時代の杵柄、木によじ登って、かなり上のほうの木のうろに丸めて詰め込んだのだ。夜半過ぎ。いよいよ祖国脱走の敢行の瞬間がやってきた。警備隊の兵士が行きすぎてかなり遠ざかるのを待って森から飛び出し、堤防を越えて、一目散に河床を突っ走る。ちょうど渇水期のこと、水はほとんどなかったが、石がごろごろしていて足元がぐらつき、真っ暗で大変危ない。幾たびか足を滑らせ、浅い水に腰までつかりながら、それでもついに彼は無事渡河を果たし、対岸の堤防によじ登って、その向こう側の道路に降り立つことができた。寂しい道だ。堤防と林に挟まれた一本道。しかしその道路には街灯が灯っていた。街灯から外れた暗がりにうずくまり、彼は少しだけ休んでいた。もうここは隣国だ。・・・もう少しだ。もう少しで、自由の大地だ。彼は次の旅程を目指して、立ち上がり、歩き始める。

 ここよりは彼の旅程を辿ることを慎まねばならない。かのお国からの逃走経路は、いまだ陸続として逃走者が続いている以上、彼らの安全のためにも、厳に秘しておかねばならぬ。苦心惨憺のすえ彼はわが国に到着、待ち受けていた『機関』の接触を受ける。彼の場合は、森嬢のような相互テストの工程はなかった。彼は一切躊躇うことなく、機関の一員となった。彼は『機関』というカードに、最初から有り金全部賭けてかかったのだ。どの道、ほかに行く場所はないのだから。そして、彼が正しいカードに賭けていたことは、わざわざ指摘するまでもなく自明であろう。妻子を失い、故郷を棄てて払った甚大な犠牲を贖うにはいまだ不足かもしれぬが、彼はかなりの払い戻しを受けることができ、そしていまだに受け取り続けているのだから。それも物心両面にわたって。

 あまり本筋には関係ないかもしれぬが、ここで小さなエピソードをひとつ。『機関』に帰順して間もないある晩のこと、彼は奇妙にはっきりした夢を見た。・・・彼の前に、彼に背を向けて、若い女性が立っている。不意に声が聞こえてくる。目の前の女性が話しているようだ。


 「あまり時間はないの。」

 背を向けたまま、女性の声は続く。

 「身近にいる女の人を、私の代わりに見守ってあげて。・・・あたしだって、もう一度、話したかったわ。でも、もうそれはかなわない・・・。さあ、もう行かなきゃいけないわ。」

 彼は黙って聞いていた。いったいこの人は誰だろう? どこに行くのか? このメッセージの意味は? 女性は付け加える。

 「手紙、読んでくれてありがとう。あれだけが、最後の心残りだったの。見つけてくれて本当に良かった。」

 手紙? 手紙? 何のことだろう?

 「さよなら、お父さん。」

 その瞬間、彼ははっと目覚め、自分の目から涙が流れているのを感じ、そして女性の正体を悟った。・・・自分の娘が、人生を全うすることがかなわなかった可愛い娘が、あの世への旅の道すがら、自分の夢枕に立ち寄ってくれたのだ・・・。もとより根拠はない。ただの思い込みかもしれない。願望が夢に現れただけなのかもしれない。だが、それがなんだというのか? 彼は娘の霊魂が彼のもとを訪れてくれたのだと、信じることに決めた。娘は最期の言葉を自分に伝えに来てくれたのだ・・・。娘よ・・・娘よ! よくぞ、この不甲斐ない父のもとに立ち寄ってくれた。お前の言葉、必ずや果たそう。

 見守る相手はすでにはっきりと決まっていた。森嬢である。といっても、森嬢は彼の娘にそれほど似ているわけでもない。似通っているところといえば、だいたいの年齢と背丈くらいなものである。しかし彼は、このうら若い事実上の上司に対し、かねてから不思議な親しみを感じていた。それは彼女の不幸な生い立ちを知ったせいかもしれないし、それにも関わらず、温情ある、責任から逃げ出さない、立派な上司ぶりを見せてくれたせいかもしれなかった。彼の関わった責任ある人々の誰にもまして、彼女は理想的な上司だった。あるいは、彼女の隠し持った寂しさが、彼をひきつけたのかもしれない。とある夕暮れ時、彼女が長い影法師を引きずって、ひとり歩いているのを遠くから目にしたとき、彼はなぜだか、涙が溢れるのを止めることができなかった。ともあれ、彼は森嬢を自らの娘と仮託し、静かに見守っていくことにした。つまり、彼女を守るためならば、命をも惜しまぬ決心をしたのだ。もちろん、森嬢には彼は何も言わなかった。娘に何も言わなかったように。・・・彼は、とてもシャイなお父さんだったのだから。

 さて、ひとまず機関員たちのエピソードを締めくくるにあたり、最後に、以前ひとまず置き去りにしたエピソードをここで補完しておきたい。森嬢とその追跡者についての挿話である。

 森嬢が「機関」に参加を決意し、その過去を投げ打って、彼らの旗のもとに帰順して数日のちのある日、突然、理由を告げられずに呼び出しを受けた。指定の会議室に出向くと、渉外担当の人間が待っていた。彼は森嬢に着席を促し、語りかける。

 「あなたの追跡者を覚えていますか?」
 「はい。」
 「彼は我々に拘束されていたのですが、どうしても任務を完遂し、帰国したいと主張しております。」
 「はあ。」
 「実を申しますと、我々は彼をも我々の同志として迎えたいと思っていたのです。・・・もっとも彼は『招集』を受けていませんから、完全な同志としてではなく、いわば『外郭要員』として。・・・しかし彼は非常に意志堅固で、頑として主張を曲げません。無論、あなたを引き渡すなど論外です。しかし、彼をこのまま解放することも適切とは言えません。」
 「私に何をお望みですか?」
 「単刀直入に言いますと、彼を騙すのです。嘘も方便です。ついては、何か血で汚してよいものと、まことに失礼ながら、血を少々いただきたい。」
 「わかりました。」

 森嬢はずっと持ったままでいた『党員手帳』と『認識標』を取り出した。こんなものはもういらない。そして、ナイフを取り出し、腕を切って血を出そうとした。と、渉外担当者は彼女を押しとどめ、内線電話をかけた。するとすぐに医師が現れ、セオリー通りに彼女から採血し、血液を金属製のトレイにあけた。渉外担当者がそこに彼女から受け取った『党員手帳』と『認識標』をひたし、血で汚れたそれらをビニール袋に入れる。

 「事故にあって亡くなった、と言っておきます。」

 その場はそれで解散となり、森嬢はこの小さな逸話をわりとすぐに忘れてしまった。

 しかしある日のこと、『新川氏』と2人でいたときのことである。簡単なミーティングが終わり、彼らはそのまま、各自の手元の資料を検討していた。突然森嬢が叫んだ。

 「ばかな! ・・・ばか者が! ばかめが!!」

 森嬢は『新川氏』に向かって言ったわけではない。森嬢は椅子をはじいて立ち上がり、小さな新聞のようなものを手にわなわなと震えていたかと思うと、それを机に叩きつけ、

 「なんという・・・おろかな!」

 と呟き、ふいに出て行ってしまった。『新川氏』はそれを取り上げる。それは懐かしの『政治日報』であった。彼ら2人はその出身から「情報分析主管」に任ぜられ、かつての祖国の各種資料をもとに、情勢判断を行う仕事もしていた。彼らにはごく簡単な仕事であった。かつて職場で目にしていた資料の、それも最新版が、自由に利用できたからである。『機関』の人脈のたまものであった。ところで、いったい何事だというのか? 考えるまでもなく、黒枠の目立つ記事が嫌でも目に入る。粛清の広報だ・・・。「祖国と指導者の名において、以下の反逆分子に正義の鉄槌を下したるものなり。」・・・そして、聞いたような名前がそこにあった。森嬢が以前話していた、追跡者の名前であった。「・・・この者指導者同志の信頼篤きところに付け入り、任務中連絡を絶ち、国外において妄動、指導者同志の名誉を傷つけたる段重々不届き至極につき、出党撤職(党からの除名ならびに職籍抹消)、名誉剥奪のうえ銃殺をもって処断されたり。」・・・要するに、定時連絡を欠かしたというだけの理由だった。森嬢は一時追い詰められたとはいえ、追跡者を高く買っていた。その技の冴えに敬服していたのだ。森嬢が立腹する理由も理解できよう。「それ程の男をむざむざと!」 森嬢と同じく、理不尽な話には慣れっこのはずの『新川氏』も、これはことに酷い話だと思った。こんなことではもうどうしようもない。こうして、この亡命者たちは、また一つ、かつての祖国への幻滅の種を増やしたわけであった。
『作戦従事命令91』

 さて、われわれはここで一時的にこの興味ある挿話を切り上げ、ことの本質に立ち帰らなければならない。涼宮ハルヒ嬢のその情報改変能力の、よって来たった原因の究明である。


 念のためお断りしておきたいが、この問題に関しては従来のように時系列に沿って記述することが適切でないように思われるため、物語の舞台をいったん「われわれの時代」から引き離し、「この時代」の中で語られなければならない。朝比奈みくるの本来の時代、すなわち、この物語が記述された時代である。


 本文の記述者である「わたし」はある日、時間進行調整省内の長門有希連邦最高将本営事務室に喜緑江美里嬢を訪ね、補充的な取材の続きを行っていた。そのおり、かつて提出していた質問状に回答を得られていないことをふと思い出し、喜緑嬢に質問してみたのである。・・・喜緑さん、以前提出しました質問状第861号についてですが、ご回答をいまだいただいていないように思います。

 あの喜緑さんに対して、尊称を欠いて話しかけるとは大胆なと思われようが、そうとしか呼びようがないのだ。初めて面接した際、「閣下」と呼びかけたところ、即座に正された。

 「わたしは現状、『閣下』と称されるべき官職を有しておりません。」

 ・・・確かに、それはその通りであった。そこで「同志」と呼びかけたところ、またしても正された。

 「なんの『同志』ですか? 人民革命党が解党されて、もうずいぶんになります。」

 こちらも確かにその通り。・・・では、「喜緑さん」。

 「それで結構です。」

 ・・・さて、また話がそれた。質問状第861号とはまさしく、涼宮ハルヒ嬢の力の根本原因について問うたものであった。一般的に質問状に対する回答は素早い。回答に時間のかかる場合でも、少なくとも「回答可能」か「回答不能」かの通知は数日中にあるものだ。しかしこの質問状については、数ヶ月の間、なんの反応もなかった。喜緑嬢はちょっと考え、

 「回答することは十分に可能ですが、信頼にたる裏付けをつけることができません。それで回答が遅れておりました。・・・しかしこの機会ですので、私自らご説明申し上げることといたしましょう。」

 そう言うと喜緑嬢は金庫から大きめの宝石箱のようなものを取り出し、開いて見せた。濃いグリーンの天鵞絨の座布団の上に、同じ天鵞絨に包まれたものが載っている。包みを開くと、金属製の物体が現れた。喜緑さん、こちらは確か、鶴屋家収蔵になる、『T−op/001』、『発掘品・製作時代確定不能・作成目的不明・用途不明・分類「オーパーツ(仮)」』、例の謎の金属製品ではありませんか?

 「現在は私どもの研究所でお借りしています。」

 拝見してよろしいですか?

 「どうぞ。」

 そこで、「わたし」はその金属製品を手にとってじっくり観察した。と、どこかで見たような紋様が目に入った。


『作戦従事命令92』

 「わたし」は質問を発する。喜緑さん、ここにある紋様に見覚えがあります。これはもしや・・・?

 「その紋様に関してはよくご存知の筈です。」

 確かにその通りであった。念の為、持ち歩いている資料を取り出して見比べる。見たところ、両者は同じ紋様であった。少なくとも、非常によく似ていた。まったく奇妙な符合としかいいようがない。なぜなら、「わたし」が取り出した資料なるものは、中学生の涼宮ハルヒが校庭に描き出した、例のあの謎の図形だったのだから。喜緑さん、この符合はどのように説明されるものなのでしょう?

 「今から私が物語ることは、到底信じがたいことだと思われるかもしれません。確かに、証拠を提示することはほぼ不可能なことです。とにかく、聞いていただきましょう。・・・はるかな昔、太古といってもよい頃のことです。宇宙の片隅に文明が生じ、発達し始めました。その文明を担った生物は、あなたがたの、すなわち地球の平準で測ろうとするならば、実に奇妙なものです。彼らは有機的な肉体に、無機物の脳髄を備え、非常な長命を誇りました。肉体の老化速度が非常に遅かったのです。彼らは文明を段階的に進歩させ、世代交代の非常に緩やかな彼らの種族にとっての数世代のうちに、進化と文明の突端に到達しました。そして、滅亡への道を辿りはじめたのです。理由は単純で、世代交代が完全にゼロになってしまったからです。彼らは精神的進歩をも完成させ、新しい世代を作り出すことへの関心を完全になくしてしまったのです。そして、沈思黙考と瞑想のうちに、彼らはゆっくりと、しかし確実に数を減らしてゆき、ついに一人を残すのみとなりました。彼らの中でももっとも深く思念の海に飛び込み、その秘密を探ることに成功し、その結果宇宙の全てを思うままにコントロールできる秘訣を体得した存在です。彼はもはや、自分の生死すら自分で制御可能な境地に達していました。そして、もはや仲間のひとりもいない自らの種族は『滅亡の時機に到達した』、との見解にいたり、彼自身もまた、仲間たちと同じく死に赴く決意を固めました。しかしひとつ、ちょっとしたいたずらを仕掛けてゆくことにしたのです。最期のユーモアというわけですね。それこそが、この金属製品というわけです。彼は自らが体得した秘訣を一連の文字に仮託しました。彼ら自身の言語、彼の死と共に完全に滅ぶ言語で、『わたしはここにいる』を意味する言葉です。そして、ノーヒントでその言葉を完全に正確に記述した者先着一名様限定で、無条件でその秘訣をプレゼントすることにしたのです。つまり、この金属製品は解答編というわけです。」



『作戦従事命令93』

 すると、喜緑さん、この金属製品を手にした者は、その時点で失格ということですね?

 「その通りです。」

 話がそれるようですが、『精神的進歩の突端への到達』とは、必ず『緩やかな絶滅』に繋がるものなのでしょうか?

 「そうとばかりは言い切れません。知性の様態により、種族の特性によりけりです。とにかく、話を戻しますと、その金属製品は今や、言わばただの金属片に過ぎません。すでに解答した者がありますから。そして、その金属製品を世に送り出し、一連の条件付けを終えると彼は最期の瞑想に入りました。自分の精神を肉体から完全に切り離す瞑想です。ここに、彼の種族は滅びました。彼の生きた惑星は未だに存在し、生命の楽園の観を呈しております。ただ、あなたがたには一見そうとは見えないでしょうね。褐色の荒れた惑星としか・・・。」

 その方は、死の前にわざわざこの金属製品の加工をしておられたということでしょうか?

 「いいえ。すでに申し上げました通り、すでに『秘訣』を会得していたのですから、そういったものを虚空から取り出すことも容易なことです。」

 たしかに、・・・信じがたいことです。そして、その解答を与えたのが、他ならぬ、

 「そう、涼宮ハルヒさんです。彼女は、完全ノーヒント、出題されたことすら知られていない問題に見事に正解し、限定先着一名の特典を勝ち取ったのです。」

 なにゆえそういったことをなし得たのでしょうか?

 「正直申し上げて、ことの詳細は私たちにもわかりません。しかしあなたもご存知の筈。涼宮ハルヒさんの特性を。例の彼もかつてそのことは述べていたはずです。曰わく、『あらゆる可能性を飛び越えて正解に到達する女』と。」

 それは確かにその通りですが。

 「要するに、そういうことであったのだ、ということです。」

 わからないことはまだあります。

 「何でしょう。」

 なにゆえ、この金属製品はここにあるのでしょう? ここになければならなかったのでしょう? つまり、なぜ、鶴屋さんのご先祖の手に入ることになったのでしょうか?

 「その問いに解答を与えることは困難です。因果関係の説明が極めて難しい。言葉で説明できないことがらに属するのです。因縁めいたものと言ってもよいかもしれません。とにかく、このものを作り出した『彼』は、このものを虚空から取り出したのですが、そのまま適当にどこかに放り出した、と言ったほうがよい。それがたまたまこの惑星の上であり、そしてたまたま鶴屋さんのご先祖の手に入った、としか言いようがありません。」



『作戦従事命令94』

 ・・・さっぱり理解できません。

 「あなたがたにはいまだ理解困難な領域に属することです。無理もありません。ともかく、涼宮ハルヒさんが森羅万象を思い通りにできる『秘訣』を手にしたことは事実。その点に変えようがないということをもって、この、あえて申しあげますが、わけのわからない物語の数少ない証明とみていただきたいものです。」

 それでその日は時間切れになり、会見は打ち切りとなった。「わたし」はいつも通りに挨拶し、微笑み返す喜緑さんをあとに退出した。そしてしばらく廊下を行ったところで、思いがけず、長門有希『国際連邦全国監査統監および連邦最高将』閣下に出会った。「わたし」は脇によけ、直立不動の姿勢をとって閣下を見送った。閣下はあたかも、「わたし」などいないかのように通り過ぎて行かれた。こちらもいつも通りというわけだった。

 この時代、軍の階級には「元帥」にあたるものがなく、大将以上の階級を細かく設定することで対応している。下から、大将−上級大将−連邦高等将補−連邦準高等将−連邦高等将−連邦最高将。長門有希連邦最高将閣下は、この新しい階級制度の発足と同時にこの地位につかれ、以後そのまま執務されておられる。連邦最高将は軍隊の最高指揮官である地球防衛軍連邦高等将のみならず、行政の最高指揮官、即ち国際連邦大統領である行政連邦高等将、連邦警察の最高指揮官である司法警察連邦高等将の三者を統率する地位である。文字通り、地球の支配者なのだ。

 長門嬢に対する「わたし」の態度について、「軽装令違反」ととる人たちもあるかもしれぬ。しかし、それもゆえなきことではない。この時代の長門嬢の前に進み出るとき、人はある感慨にとらわれるであろう。・・・「いま、わたしは偉大な人物、しかもきわめて偉大な人物の前にいる。」・・・思い起こしてもらいたい。初めて長門嬢に対面した際の朝比奈嬢の度を越した緊張ぶりを。正面きって対面すると、ことにその目を見てしまうと、誰もが圧倒されてしまう。「軽装令」なるものは、実際、遵守することがかえって困難なものなのだ。長門有希閣下から受ける圧倒的な印象のままに、最高の敬意をもって接するほうが、どれだけ楽かしれない。どんなに場に似つかわしい立派な服装をしていたとしても、長門有希閣下の前に立てば、普段着のまま宮殿に入り込んだような気恥ずかしさを覚える。ましてや、実際に普段着だったら! この威令は長門有希閣下ご本人から発しているもので、情報操作の産物ではない。しかし長門有希閣下は、好き好んでこのような威令を発揮しておられるわけではないということは明記しておかねばならない。そこには、ある不幸な事情があるのだ。その事情を説明するためには、ふたたび時間を遡り、われわれの時代のほんの少し先にまで戻らなければならない。


『作戦従事命令95』

 その事情を語るためには、われわれはあまり触れたくない話題に敢えて踏み込むことにしなければならない。涼宮ハルヒの死と、その周辺の種々の事情である。

 ××××年12月18日午前4時23分、涼宮ハルヒが死んだ。長寿のはてのことで、長い外国旅行から帰ったばかりだった。夫と一緒の旅行だった。(彼ら夫婦は世界最高齢夫妻として、ギネスブックに掲載されるほどであった。)涼宮ハルヒ老人は非常にかくしゃくとして眼光炯々、その年齢からすると信じられないくらい元気なご老体だった(ある新聞記者が年齢詐称を疑って取材に訪れたことすらある。)が、この頃さすがに衰えは見え始めており、今回の旅行では南米のピラミッドの石段を上り下りする際に、しきりに中途で休みをとらざるを得なかった。(ほんの数ヶ月前、ギザのクフ王のピラミッドを頂上までよじ登った際は、途中考えられる限り最低限の休憩しかとらなかった。)そして帰国とほぼ同時に体調の不良を訴え、一旦は帰宅したものの、ほとんどすぐに病院に駆け込むことになり、そしてそのまま入院の運びとなった。12月17日の夕刻のことであった。その枕辺には夫が、つまりキョン君が付き添った。(彼は婿養子になったため、涼宮氏ということになるが、煩雑を避けるため敢えてこの呼称で統一することとする。)冬の朝の夜明け前、うつらうつらしていたキョン君はふと、目覚めた。傍らの妻、涼宮ハルヒは目を見開き、じっと自分を見つめている。意味するところは明らかだった。いまこのとき、妻はこの世の旅路を終えようとしていたのだ。涼宮ハルヒはただひとこと、呟いた。

 「キョン、先に行ってるわね。」

 夫は妻の手を取った。二人の覚悟は、とうの昔に決まっていた。夫はつとめて平静に、妻に言葉をかける。

 「ハルヒ、あの世でも元気でな。・・・あんまり閻魔大王さんを悩ますんじゃないぞ。」

 妻は微笑み、夫の手を握り返す。と、その目にかつての星空の輝きが宿る。手に更に力がこもる。涼宮ハルヒは、SOS団団長閣下は、かつてのように言明する。常に不可能を可能にしてきた、その火のような言葉が、これを最期と、夫へ、世界へと送り出される。

 「でもね、キョン! あたしの物語は、まだ終わっちゃいないわ! ・・・しっかりついてらっしゃい!」
 「ああ、もちろんだとも!」

 夫の力強い答えに得たりと一度頷き、心の底から幸福そうに微笑み、・・・その目からは星空の輝きが消え失せて静かに閉じられ、体はベッドのマットレスに沈む。医師や看護師が駆けつけてくる。・・・彼らは「今、どうしても、涼宮ハルヒさんの様子を見に行かねばならない。」との思いに突如とらわれ、馳せ参じてきたのだ。


『作戦従事命令96』



 もとより、彼らは延命のために呼ばれたわけではない。彼らが駆けつけたとき、老女涼宮ハルヒはまだ生きており、まるで静かに眠っているように見えた。そして、ほどなく呼吸が止まった。主治医が夫に質問する。

 「どうしますか?」

 延命術を施術するかどうかの問いだ。夫は一瞬迷ったようにも見えたが、やがてきっぱりと答えた。

 「もう結構です。」
 「わかりました。それでは・・・12月18日午前4時23分。・・・ご臨終です。」
 「・・・さよなら、ハルヒ。」

 『老衰による多臓器不全』の死亡診断をもって、涼宮ハルヒの人生は終わった。医師たちは、この死亡診断の速やかな確定のために呼び寄せられたのであった。変死扱いになったり、解剖に回されたりといった余計な手間を省略し、さっさと旅立つためであったと考えられている。そして事実、実にスムーズにことが運んだのであった。

 涼宮ハルヒの死の、周辺への波紋は意外なほど小さなものだった。涼宮ハルヒの知名度はあまり高くはなかった。全世界に令名とどろく「佐々木研究室」の「上席主任研究員」とはいえ、「研究室室長」佐々木博士の名声に比べれば涼宮ハルヒのそれははるかに霞む。ノーベル賞受賞者でもある、『数学と物理学の革命家・新しい時代の創造者・偉大な佐々木博士』。ご賢察のごとく、あの佐々木さんが将来戴くことになる名声である。とりあえずここでは、涼宮ハルヒが佐々木博士の同僚であったという事実のみ記憶にとどめておいていただきたい。さて、涼宮ハルヒ氏の死にあたり、その葬儀にはいろいろな人々が駆けつけてきた。娘たちは言うに及ばず、古い友人たち。長門嬢、古泉氏とその妻。ここで読者は奇妙な感想をもたれたであろう。なぜここに、古泉氏が登場しうるのかと。ここには非常に革新的な、新しい医学の発展の成果がみられるのだ。革命的新薬、通称『エンジェルミン』。これは本来、制ガン剤として開発されていたものであった。読者は、この物語に制ガン剤がなんの関係があるのかと訝しく思われようが、いましばらくこのままおつきあい願いたい。

 この制ガン剤はまさしく革命的な薬剤であった。発見が遅れて第4期まで進行し、もはや打つ手なしと見なされていた患者に試験的に投与したところ、数週間でその患者は完治し、退院した。投与を受けた患者のすべてで同様の卓効がみられ、そればかりでなく、内科的な様々な疾病に対して際立った効果がみられた。医学界はあらたなブレイクスルーへの歓声にみたされ、開発者たちはこの世の名声の極みに達した。

 強力な薬剤には当然、強力な副作用がある。開発段階で判明していたこととしては、生殖系に対する決定的な影響があった。生殖系に対してだけは、この薬は毒薬も同然で、たった一回の投薬で破滅的な影響を顕す。造卵、造精機能が変調をきたし、まともな生殖能力をもたない、機能不全の卵子・精子しか造れなくなる。投薬を続けるとやがて造卵・造精機能そのものが低下し、いずれは廃絶する。女性に関しては、最後には子宮の着床能力も喪われる。そして器官そのものは、あたかも盲腸のごとく、もはやなんの機能ももたないが、維持のためだけに栄養を受領するものへとなってゆく。対処法はない。したがって、投薬に当たっては、このあたりの患者の同意をどのように取り付けるかがネックとなるのだ。

 この薬剤の副作用はほかにもある。そして、こちらの副作用こそが、この薬剤の真の革命的な意義を構成しているといっても過言ではない。・・・老化が遅れ、寿命が伸びるという副作用である。薬理的にどのような作用が発生しているのかは、実は未だにはっきりしたことはわかっていない。ただ、老化速度が鈍麻、場合によっては停止する、ということだけははっきりしている。お察しの通り、この薬剤が『長寿延命薬』として使用され始めるまでには、そんなに時間はかからなかった。


『作戦従事命令97』



 医学会は当初、『エンジェルミン』を『長寿延命薬』として使用することには反対していたが、投薬を要求する人々の圧倒的な声に押し切られてしまい、結局は使用を容認するほかなかった。

 さて、この時において、涼宮ハルヒ氏とその周囲はどのように振る舞ったか? まず、佐々木博士のように、いち早く投薬を受け始めた者もあった。

 「研究のためには普通の一生では足りない。・・・科学者は時には科学の発展のための突撃部隊の先鋒を務めなければならず、最大の犠牲を払う覚悟する必要すらある、と、私は考えている。従ってこの信念に従い、私は自身の女性としての機能と社会的権利を永久に放棄する決断を下した。・・・私は、私の研究と科学とに永遠の愛を誓う。」

 30歳台後半、すでに名声揺るぎなく、ノーベル賞は目前、しかしなお研究への意欲に燃え、

 「研究室以外には、私のいるべき場所がない。研究と主婦生活を両立できるならまことに結構なことだろうが、残念ながら私にはそれは無理だ。」

 とまで述べた佐々木博士。残念ながら家庭には恵まれなかった。時間の流れの分岐により、彼女は独身を通していたか、結婚していてもすでに失敗していた。彼女は、いち早く決断を下したわけだった。見込みのない家庭人としての自分に見切りをつけ、研究者、科学者として、遥かな未来へ向けて、研究生活を続けてゆくことにし、その犠牲を払うことにしたのだ。(ただ、この時点で、かなりの高確率で、彼女が一度出産していたことが後世の研究者の手により判明している。そして、結婚していたとしても、それはその夫の子ではどうやらなかったらしい。)

 かと思うと、古泉夫妻のような例もある。古泉夫人は30歳台後半に不幸にしてガンを患い、『エンジェルミン』の投与を受けて全快、当然その副作用の影響下に入った。彼女は夫に投薬を勧めたが、夫はかなりの間躊躇逡巡し(およそ20年)、かなり高齢に達してからようやく投薬に同意した。その結果、彼らはまるで『年の差夫婦』のごとき外観を呈するに至った。妻はそれを嫌って夫に投薬を勧めたのだけれど・・・。

 さて、当の涼宮ハルヒ氏はこれにどのように対応したか。端的に述べて、それは拒絶であった。

 「意味がよくわからないわ。」

 彼女は言ったと伝えられる。

 「生命を無為にひきのばすことがなんだっていうの? 人生の意味は長さでは決まらないわ。なにをしてきたか、なにを成し遂げたか! その質で決まるのよ!」

 上司としての佐々木博士はしきりに翻意を促したらしいが、涼宮ハルヒ氏は頑として首を縦には振らなかった。しかし、佐々木博士の決断については、

 「結局は各人がその意向と責任で決めればいいことよ。」

 と言い、批判は一切しなかったという。涼宮ハルヒ氏の夫は妻に倣った。彼ら夫妻は老化と死を従容として受け入れる道を選んだのである。これは却って英断ともいえよう。『エンジェルミン』は工業的に大量生産ができ、その卓効からすると信じられないような廉価で提供されていたのだから。



『作戦従事命令98』


 『エンジェルミン』の登場は巨大なパラダイムシフトを巻き起こした。年齢と序列に関する考え方は全面的な混乱をきたした。『エンジェルミン』は健康保険が適用される。なにせ安価なのだ。健康保険の適用下で、事実上の不老長寿が手に入る世の中が忽然として到来したのだ。なぜ、これが混乱の原因にならない訳があろう。所謂「自然派」の人々は、口を極めて、この薬剤を、それこそ狂気のようになって罵った。しかしそんな彼らの間にも、「転向者」が続出した。結局みんな、「死ぬのは嫌だ」という感情の方が勝ったのだ。しかし行き掛かり上黙ることができず、実は『エンジェルミン』の投与を受けながら、薬剤を罵り続ける人々もあった。・・・所謂「自然派」の、中核を占める人々の一部であった。彼らは運動に長らく関わり過ぎ、主張を変えることができない立場となってしまっていたのだ。彼らの主治医、投薬を実際に担当していた人々には、さぞかし滑稽に見えたことであろう。閑話休題、さて、この『エンジェルミン』は、投与開始年齢が早いほど効果が持続するという特徴がある。しかしあまり早過ぎても駄目である。投与量が多すぎたり、成長過程の特に早期においては、この薬剤は「劇症ショック」という反応を引き起こす。一瞬にして全生命反応が消失し、回復不能。即ち即死である。投薬可能年齢は概ね16歳以降とされる。投薬開始すると、老化と同じく、成長も停止する。ここに、はるかな未来に向けて、『永遠の若者』の出現に対する用意は整ったわけだ。

 さて、涼宮ハルヒは友人知己一同の弔意を受けつつ霊安室に退場、物語のヒロインが舞台袖に引っ込んだわけだ。そうなると、こんどは主人公のクローズアップとなる。妻の死の後ほとんどすぐに彼は体調が悪化、病院が満床だったことから、妻が息を引き取った同じベッドに、今度は彼が横たわることになった。病状は思わしくなく、医師は家族に、「心の準備」を求める。彼と彼の娘の、病床での対話。先に口を切ったのは彼の長女である。

 「主治医の先生の話によると、どうも確たる原因は不明とのことだ。」
 「そうか。」
 「ことによると、ママがキョンくんを呼んでるのかもしれない。」
 「あるいは、本当にそうかもしれんな。」

 彼の顔には微笑みが浮かぶ。

 「目を閉じるとな、あいつの姿が浮かぶ。本当に見えているように浮かぶ。・・・高校の頃そのままの姿だ。・・・腰に手を当てて・・・ちょっと不機嫌そうな・・・。」
 「『なにをぐずぐずしてるの? 早く来なさい!』って言ってるのさ。」
 「俺もそう思うよ。」

 そして、心底寂しげな呟き。

 「あいつがいなくなってみて、俺にはわかったよ。」

 暫く言葉が途切れる。そして、

 「あいつのいない世界は・・・俺には、静かすぎる。」

 そして彼は静かにベッドに体を預け、事実上、それが彼の最期の言葉となった。呼吸に困難が生じだしたために人工呼吸器の装着を余儀なくされ、以降の会話は不可能となってしまったからである。

 長門嬢にとり、恐るべき試練の瞬間が目前に迫りつつあった。長門嬢は成長も老化もできないまま、あの頃そのままの姿で、ずっと彼を愛し続けていた。幾多の年月を重ねてもその愛情には些かの変化もなく、むしろさらに深まっていたといえるだろう。長門嬢は危惧と不安におののいていた。愛する彼が、彼女をひとり残して、この世を立ち去ってしまうのではないかという不安である。そして、その不安は、いよいよ具体的な形をとりはじめた。危惧は現実となろうとしていた。長門嬢が彼を延命させようとどれほど頑張ったことか! 彼女は彼の老化の鈍麻や死の時期の延期、せめて肉体的な不調の情報操作による調整などを、幾度も幾度も申請し続けていた。しかし、そのたびに回答は同じ、「本申請を付帯事項にいたるまで全面的に却下。」というものであった。彼女の後見人、指導員であり、統合思念体中央意志の代理人である喜緑江美里嬢は長門嬢に直接説諭したほどである。

 「彼の運命はその自然の成り行きに任せられなければなりません。」

 立ち尽くす長門嬢に向かって、あくまでも笑みを絶やすことなく、喜緑嬢は続ける。

 「それは涼宮ハルヒさんの望みであり、何よりも彼自身の望みなのです。彼ら自身の自由な意向は、なんとしても尊重されなければなりません。」

『作戦従事命令99』

 彼の病状は悪化を続け、運命の12月21日の夜が明ける頃には、既に彼の運命の大勢は決したと見なされるにいたった。医師は家族に告げる。この方は恐らく、今日のうちに亡くなられるでしょう。明日の朝を迎えることは不可能と思われます。彼は人工呼吸器の補助のもと、比較的はっきりした意識のまま、最期のときを生きていた。知己友人、親類一同に対し、再び集合がかけられる。差し迫った彼の葬儀のために。そして、かなうことならば、彼らからの、生前最期の挨拶のために。

 長門嬢のもとにもその連絡がやってきた。しかし、長門嬢は明確な返答を与えなかった。彼の末娘から、妹から、次女から、相次いで電話があった。あるいは震え声で事実のみを端的に告げ、あるいは泣きながら、そしてほとんど懇願するばかりに、彼の臨終の枕辺への彼女の来訪を求めていた。しかし長門嬢はそのたびに返事を濁し、電話を切ってしまった。長門嬢は彼の臨終の枕辺になどいたくなかった。愛する人の死に様など、見たくなかったのだ。長門嬢は思い出に耽りながら、なにもかも嘘であればいいと考え、自室でひとり、うずくまって、虚ろな時を過ごしていた。電灯も暖房もつけずに、電源の切れたこたつに潜り込んで。室内の肌寒さも、薄暗さも、彼女には何らの関わりもなかった。愛する人がこの世を去っていく予感に、この恐るべき現実に、長門嬢はたじろいでいた。すべてから逃げ出してしまいたかった。そもそも涼宮ハルヒ亡き今、長門嬢の使命は完了したはずであった。少なくとも、理屈のうえではそうであった。インターフェースの同僚の中には、活動停止、または休止、あるいは用途廃止を指令されるものもあった。しかし、長門嬢は「用途廃止決定通告」はおろか、「動員解除命令」も、「活動休止許可」も、受領できなかった。何事か、自分にはまだ任務が残っているらしかった。長門嬢はもう、なにをする気力もなかった。やがてやってくる決定的瞬間を、できれば立ち会わずに済ませたい、そして、静かにこの世から消えてしまいたい。それが、いまの望みのすべてであった。その時、再び電話が鳴った。彼の長女からの電話だった。彼女は前置き抜きで、冷静に語りかけてきた。

 「あなたの気持ちはわかる。キョンくんの死に際に居合わせたくないことも理解できる。しかし、しかしだ。キョンくんはあなたに会いたがっている。是非とも来てほしいとは敢えて言わない。もしもそうして貰えるならばでいい。どうしても来れないなら、あるいは来たくないなら、無理にとは言わない。しかしこれだけは伝えておきたい。・・・最後にあなたに会うことが、キョンくんのこの世の最期の望みなんだ。」

 電話は切れ、長門嬢はしばらくぼんやりしていたのち、のろのろと外出の用意をはじめる。愛する彼の最期の望みとあらば、どうしてむげにできようか。
『作戦従事命令100』

 それでも長門嬢は、きっぱりと決心できたわけでもなかった。心は千々に乱れ、揺らいだ。彼の望みを叶えたい思いと、彼の死の床に立ち会いたくない思いがぶつかり合い、どちらにも心が定まらなかった。長門嬢はとりあえず家を出たものの、彼の入院する病院に向かって、急ぎ駆けつける気にはどうしてもなれなかった。長門嬢は決して近くはないその病院に向かって、徒歩で進んでいくのだった。ゆっくりと、あくまでゆっくりと、近づいてゆくのだった。踏み出す一歩一歩が、どれだけ重苦しく辛いことだろうか。彼の死の床に近づくその歩みは、従って進めば進むほどにいよいよゆっくりとなり、靴底が地面に粘着しているようにすら思われるのだった。引き裂かれた心のジレンマは激しくなる一方であった。いっそ泣き喚くことができればどんなに良かったろう。しかし長門嬢の表情筋は常日頃と同じく微かにすら動かず、長門嬢は我と我が身とに絶望するほかはなかった。進むことは苦しく、立ち止まることもできなかった。進むことは彼の死の床に近づくことであり、立ち止まることは彼の最期の望みを裏切ることであったのだから。

 長門嬢が長女からの呼びかけの電話を受けたのは昼過ぎのことだった。厚い雲のかかる天候で、雨が降りそうな様子はなかったが、外出するにはじつに鬱陶しい曇天であった。雨でも降ればいいのに。長門嬢は思う。彼の死に際して、天も涙すればよい。しかして、歩みを進める間に雲には切れ目が現れ、そこからしだいに空は晴れ上がり、漸く病院が見えてくるころには、雲一つない見事な快晴となっていた。そろそろ傾きだす日の光に燦々と照らされながら、長門嬢は病院に到着する。決定的な、あまりにも決定的な現実に相対するために。

 長門嬢の最後の彼の助命への努力も、従来と同じく、失敗に終わっていた。それだけではなく、長門嬢の独断専行に対する禁令までもかけられてしまっていた。「違反行為はただちに露見します。」喜緑嬢は言うのだった。「それだけでなく、わかっていますね? 無闇な助命はそれこそ、彼自身の意向に背くものです。ものの生き死には天地自然の理、逆らうことは許されません。」・・・さすがに喜緑嬢は要点をしっかりと把握していた。「彼自身の意向」という一言が、長門嬢にとり、こよなき呪縛として作用することを知悉していたのだ。長女からの電話に長門嬢が呪縛されてしまったように。
『作戦従事命令101』


 そのうえなお始末におえないことに、長門嬢は喜緑嬢の言う『彼の意向』が、まさしく彼本人のそれと完全に一致していることを理解してしまっていた。それはすなわち、涼宮ハルヒ亡きいま、彼はこの世になんの未練もないということでもあった。彼らふたりはまさに一心同体だった。即ち、生きるも死ぬも共に。片方が現世に別れを告げたとなれば、残りの片方も速やかにそのあとに続くことは明白だった。それはとりもなおさず、彼をこの世に引き留めるには、長門嬢では役不足である、ということを意味していた。長門嬢はずっと、彼にとっての何者かでありたいと熱望していた。たしかに、彼女は彼の『かけがえのない友人』としての盤石の地位にあった。しかし、そこまでであった。長門嬢は彼にとっての、それ以上の存在でありたかったのだ。しかし、それ以上の部分は完全に、涼宮ハルヒが独占していた。彼の愛のすべてを受け止めるのは、涼宮ハルヒだけの特権だった。ときここに到っても、結局その点には何らの変更もなかった。涼宮ハルヒ亡きいま、もはや彼はこの世を去ることもまたよし、と思っていることは確かだった。長門嬢は彼のことならなんでもお見通しだったのだから。しかしそれだけに、より一層、病院に向かう道々は、苦難の行軍、十字架の道行きであった。愛する人が彼女を愛してくれないまま、彼女のもとを永遠に立ち去ろうとしていたのだから。

 ふらつく足どりで長門嬢は病室に到着する。遅れればいい。そう思っていた。しかし、彼はまだ生きていた。親族たちが駆け寄ってきて、彼女を彼のもとに連れていく。長門嬢の手を取り、彼の手に重ねる。彼は弱々しく彼女の手を握る。しかし長門嬢にはわかった。それは彼の精いっぱいの握手だった。彼の顔には微笑みが浮かび、目からは涙が溢れ出す。彼の言葉がたしかに伝わってくる。もう発することのできない言葉が。

 ・・・長門! 長門! 最後に会えてよかった! すまんが、俺は先に行くぞ。世話になりっぱなしで、ついにお返しはできなかったな、すまん、本当にすまん。・・・じゃあな。せめて、心楽しく暮らせ。・・・

 彼の目が閉じられ、そして、いよいよそのときがやってくる。

 「何かを追いかけていこうとしているように見えた。」

 彼の長女は語る。

 「指が動き、手が震えた。・・・手を伸ばそうとしているように。去って行く何かに差し伸べようと、いやむしろ、つかまえようとするかのように。」
『作戦従事命令102』


 「非科学的、かつロマンチックな見解を採用するならば、キョンくんはママのあとを追っかけていったのだろう、ということになるのかな。・・・ふたり仲良く、追っかけっこをするみたいに、いっそ楽しく、笑いさんざめくように、勇躍あの世に旅立っていったのだ、とね。」

 と、自身医師であった彼の長女は語るのであった。最後の決断は、この長女が下した。長女の観察からほどなく、心臓が停止した。主治医が問う。どうしますか? 彼の末娘、妹、次女、答える者はない。しかし、沈黙はほんの一瞬だった。長女が微かに震える声で、それでもきっぱりと述べたのだ。

 「もう十分です。延命術の施工には及びません。たぶん、ここを長らえてももう意識は戻らないでしょうから。」
 「わかりました。それでは。」

 人工呼吸器が取り外され、時計が確認される。

 「12月21日、午後4時ちょうど。ご臨終です。」

 彼の娘たち、そして妹は足早にその場を立ち去る。いつの頃からだろう、死者の枕辺で泣き声をたてることが極めて不調法、かつ無作法なことであるという社会的なコンセンサスが成立、死者のために泣きたい者は死者から離れなければならなくなっていた。彼女らは彼の死にあたり、押さえ切れぬ涙を流しに、その場を後にしなければならなかったのである。幾人かがその後に続く。あるいは遺族向けの遮断室(かなりの大声でも外に漏れないようになっている部屋。一種の控え室)に、あるいはその他適宜の、病室に泣き声の届かない場所に。しかし、その場にとどまっている人々もあった。あまり近しい親類でも親しい友人でもなく、従って号泣するには動機が不足する人たち、あるいは医師や看護師、葬務士(新しい制度によってこのあたりの時代ではすべての病院や老人ホーム等に配置されている、葬送にむけての基本的措置を遺族に代わって執行する任に当たる職位)たちなど、するべき仕事のある人々、そして、悲しみのあまり茫然とする人々。そういった人たちの中に、長門嬢はいた。言うまでもなく、長門嬢は最後の項目に属する。長門嬢は彼の最期に立ち会ってしまった。旅立つ彼の最期を、その傍らで、具に看取ってしまったのだ。それは、長門嬢にとり、この世でもっとも見たくない光景、できれば見ずにすませたい光景であった。長門嬢は、今や生命のない肉体と化した彼のそばに、ただ茫然と立ち尽くしていた。彼の顔は安らかで、微笑んでいるようにも見えた。しかし長門嬢には、もはや彼が遺体であることが、遺体でしかないことが、いやでもわかってしまうのだ。長門嬢の知覚は、彼女に冷厳な現実を突きつけ続ける。目の前の彼は、呼吸、心臓、脳波、すべてが停止していた。回復の可能性はなかった。彼は死んだのだ。彼は死んでしまったのだ。そう・・・彼は死んでしまったのだ! わたしをこの世に残して。・・・わたしをひとり残して。
『作戦従事命令103』



 長門嬢は立ち尽くしていた。ひたすらぼんやりと立ち尽くしていた。まとまった思考を形成することができず、断片的な思い出や、現実を拒否したい思い、漠然とした空虚感などがつぎつぎと去来した。長門嬢はいつしか歩きだしていた。目指すべき場所があるわけでもなく、自分がどこを歩いているのかもわからず、歩いている自覚とてなく、ただ足の赴くまま、ふらふらと歩いていた。心の中にはなにもなかった。自分の足下に、地面があるとも思えなかった。長門嬢は病院の廊下を歩き回り、いつしか非常階段の踊場に出た。建物の外にある非常階段は夕日に照らされていた。彼の娘たちと妹がそこにいた。長女が彼女らの中央におり、比較的しっかりと立っていた。次女が長女にすがりつき、崩折れる。喉から悲嘆の声が絞り出される。

 「キョンくん・・・死んじゃった!」

 そして号泣が続く。まるでそれが合図ででもあったかのように、妹と三女も、今はもういない彼を偲んで泣き崩れるのだった。長女だけが立ち続けていた。涙を流してはいたが、泣き声をあげてはいなかった。長女は目をあげて遠くを見つめていた。雲一つない、赤く染め上げられた夕まぐれの空の一点を。

 「ありありと見えるような気がしたものだ。」

 のちに長女は語った。

 「ママとキョンくんが、笑いさざめきながら、高い空で追っかけっこをしているのが。それこそ天空の全面を駆け巡っているのが。」

 長門嬢は彼女らの傍らを行き過ぎ、階段を上り始めた。悲嘆にくれるなか、彼女らは誰も長門嬢には気付かなかった。長門嬢は階段をどんどん、どんどん上っていった。そして、屋上に到達した。屋上には誰もいなかった。

 病院の屋上は、長門嬢にとってことさらに思い出深い場所であった。遠い昔の日、長門嬢がかりそめの自己実現を目指して戦い、そして失敗に帰したのち(『事例12月18日』・所謂『「消失」事件』)、彼は長門嬢に同情し、その運命に悲憤慷慨してくれたものだった。その対話は病院の屋上で交わされた。長門嬢にはまるで昨日のことのように思い出されるのだった。長門嬢は晴れ渡った夕暮れの空をふと見上げる。ある思考が、はじめて、はっきりした形をとりはじめる。惑乱した思索の断片の海から浮かびあがってくる。




 もう二度と、彼に会うことはできない。



 もう永久に、あの笑顔に出逢うことは、かなわない。




 その瞬間、真に思いがけないことが起こった。長門嬢の両目から大粒の涙が零れだし、頬を伝い、地面へと落ちていった。相変わらず表情は僅かにも緩んではくれなかったが、涙だけは流れていた。とめどなく、流れ落ち続けていた。長門嬢は途轍もない悲しみに苛まれながら、どこかしら嬉しくもあり、混乱した気分だった。私はここに至って漸く、愛する彼のために、落涙することだけはできたのだ。はじめて、微かにでも、人間らしく振る舞うことができたのだ。それは愛する彼の為だけに流される涙であった。まさしく空前絶後のことであった。ただ愛する彼ただ一人だけが、そしてその死のみが、この宇宙的な悲劇の少女の紅涙を絞ることができたのだから。

 長門嬢にとり、彼の存在は、彼女自身の存在意義の全てを構成していた。その彼亡き今、彼女にはもうこの世に生きる意味がなかった。長門嬢は固く決意した。私は今こそ、この世を去ろう。そして、愛する彼の傍らで、ともに永遠のまどろみに憩うのだ。あの頃の幸福な思い出を抱いて。夢のように幸せだった、彼の生きていた頃の思い出を。
『作戦従事命令104』


 涼宮夫妻は、長門嬢のとりわけ思い入れ深い日時を、敢えて選んで世を去った。それは長門嬢の夢の始まりと、終わりのときであった。涼宮ハルヒの不在こそが、彼女自身の夢の実現にかりそめにせよ希望をあたえ、その復帰はその希望が潰え去ることを意味したのだから。そして、長門嬢の永遠のライバルは、長門嬢自身の夢の始まりの時間に、そして永遠に愛する彼は、その夢の終わりに。それはまさしく夢の終わりであった。その愛する彼自身が、いまや決定的に、永遠に不在となってしまったのだから。長門嬢はおそろしく純情で、そして極めて不器用な少女であった。好きな人を変えることも、好きでなくなることもできなかったのだ。その彼亡きいま、もはや長門嬢はこの世界にいかなる未練もなかった。長門嬢はその場で直ちに、『乞暇ならびに用途廃止確認申請』を、統合思念体主流派に対し提出した。永久的な任務解除と、自身の『存在の取り消し許可』を求める申請であった。しかし、主流派からの回答は『本申請は必要とされる定式を満たしておらず受理できない』、すなわち門前払いであった。『貴下は後見人の監督下にあり、かかる申請には後見人の同意が必須である。』後見人とは喜緑江美里嬢であった。長門嬢は喜緑嬢に対し緊急アクセスを要求したが、『面談にて対話とする。』なる回答だけで接続を切られてしまい、やむなく病院を後にして喜緑嬢の自宅へと向かった。・・・長門嬢の悲劇は、不幸にも、いまだ残り時間をはるかに残していたのである。

 午後6時半、長門嬢は自宅マンションの上階、808号室に居を構える統合思念体穏健派代表ならびに中央意志代理人、『インターフェース総監』、喜緑江美里嬢の事務室に出頭した。喜緑嬢は物憂い様子で、郵便物の開封をしているところであった。さして重要とも思えないダイレクトメールやチラシの類いが部屋の中央に置かれた事務机の上にあり、喜緑嬢はいっそエレガントとでもいいたいようなゆっくりした動きで鋏を動かし、ダイレクトメールの封を丁寧に切っては、逐一熱心に目を通していた。まるで長門嬢の来訪になど気づいていないような態度だったが、不意に静かな声が告げる。

 「お話しなさい。」
 「乞暇申請への同意を要求する。」
 「却下します。」

 即答であった。『白物家電大安売り!』などと大書された派手な印刷物からその視線は揺るぎもしない。長門嬢はさらに言い募る。

 「乞暇申請への同意を要求する。」
 「却下します。」

 喜緑嬢は今度は『アクセサリー高価買い受け! 期間限定! お急ぎ下さい!』なるチラシを熟読している。

 「乞暇申請への同意を要求する。」
 「却下します。」

 『分譲マンション完売間近! 資産形成にも好適。価格応相談。お電話はお気軽に!』

 「乞暇申請への同意を要求する。」
 「却下します。」

 『本日牛肉特価日! 数量限定! 早い者勝ち!』

『作戦従事命令105』



 そんな問答が都合16回繰り返され、長門嬢はいまにも挫けてしまいそうだった。そして17回目。

 「乞暇申請への同意を要求する。」
 「却下します。」

 『バーゲン! 冬物大量入荷! 全面大幅値下げ! 投げ売り価格! 掘り出し物満載! いまがチャンス!』

 長門嬢はもう限界だった。怒りの限界ではない。悲しみでもない。疲労の限界である。彼の死のあまりにも強烈なショック、実りのない問答、暖簾に腕押しの対応、それらが積み重なり、暗く濁った重い疲れが体の芯のほうに溜まっているような感じ。その場に倒れそうになりながら、長門嬢は問いを発する。

 「私の任務は完了した。存在理由の全ては完遂された。したがって正当な資格を保持する者として、乞暇申請への同意を要求する。」
 「却下します。資格の正当性は認められません。存在理由の完遂ならびに任務の完了に関しては、あなたの自己決定の管轄外の事項に属するものです。従って要求は当然に却下されます。第一、事実あなたの任務は完了しておりませんし、存在理由はいまだ残存しています。」

 『新色入荷。在庫僅少。お値打ち価格。お求めはお早めに。』

 あまりといえば当然の答えであった。常識に則った、実につまらない回答。しかし、長門嬢にはこの無味乾燥な回答の意味するところは、心の折れそうなばかりに重すぎるものであった。私は生存を義務づけられている。それも、どうやら将来、短からぬ時間にわたって。彼のいない世界に。愛する人がこの世にいない、灰色の無価値な世界に。なぜ。なぜそうしなければならないのか。もはや涼宮ハルヒもいないというのに。長門嬢は反論しそうになる。心の中で呟く。

 「でも、」

 しかし、その後は続かない。この一言でさえ、その口から出ることはなかった。長門嬢は性分が素直すぎた。筋道立った説得にはことに弱かった。喜緑嬢の持ち出した常識論ひとつで、長門嬢はほとんど身動きとれなくなってしまったのだった。長門嬢は完全に疲れきっていた。もう口を開くことも億劫で、その場に立ち尽くしていた。喜緑嬢はそんな長門嬢の様子など知らぬげに、目を通し終わったチラシを軽く纏めると『リサイクル:紙』と書かれたラックに放り込み、今度はそれらよりはいくらか価値ありげな、公共料金の請求書の封を切り始めた。先ほどまでとかわらず、エレガントな、ゆったりとした鋏使いで、丁寧に丁寧に。
『作戦従事命令106』


 喜緑嬢はあくまでも落ち着き払い、その顔には変わらぬ明朗なる微笑み。それはこの問答の間を通しても微動だにしない。ぽつねんと立ち尽くす長門嬢を前に、やおら手提げ金庫を取り出し、電気料金一万五千五百三十二円也をあくまでも丁寧に数えて、「支払」と記された封筒に入れているのであった。一万五千五百三十二。15532。さりとはまた、思い出深い数字を出してきたものだ。あの「八月事件(特異的事由による一過性の時限的時間反復事象)」の繰り返し回数とは。・・・長門嬢の心は再び、この世を離れて、思い出の世界に羽ばたく。八月後半が際限なく繰り返すという事件。理由は実に単純なものであった。「夏休みの宿題」である。河原での花火の際、彼が何気なく吐いた「夏休みの宿題はまだ全然手付かずだ。」という言葉が、涼宮ハルヒに小さな不安を生じさせた。涼宮ハルヒは中学時代、「成績優秀貴族」としての特権を余すところなく享受しており、当然高校でも引き続きそうするつもりであった。そのためには自分のみならず仲間たちにも、相当の成績を修めてもらう必要があった。彼以外の三人には特に心配すべき点はなかった。彼らは成績優秀者揃いであったのだから。しかし彼に関しては心配が残っていた。従ってせめて、「課題を全て終わらせておく」ことが重要であった。内容がいかに間違いだらけであれ、「期日までに全て終わらせておく」ことは「意欲の表明」として効果的である。成績が多少悪くとも、「罪一等減ずる」形になることが期待できるのだ。しかし、彼は全くやる気がなかった。これは涼宮ハルヒにとり、問題であった。SOS団の活動に、付け入るスキを作ることになりかねないからだ。成員の成績不良を理由に活動に容喙を許し、あまつさえ活動差し止めの危機すら招き寄せることにもなろう。涼宮ハルヒにとり、それらのことは断固容認できないものであった。従って彼女は、八月後半を無意識に反復、いわば再試行し始めたわけである。反復回数がやたらに増大したのは、ノーヒント状態では彼がいつまで経っても宿題のことに思い当たらなかったこと、そして内情に通じている筈の人物が故意にアドバイスを避けたこともあった。それは他でもない、長門嬢であった。長門嬢はかなり初期の段階で原因に気付いていた。しかし、彼女は彼に対し何らのアドバイスをもせず、「私の任務は観測だから。」という事実上の言い訳に逃げ込んで、ただ無為に延べ時間が積み重なるに任せた。長門嬢は当時すでに、恐るべき危惧を抱いていた。自分は死ねないのかもしれない。するとどうなるか。いつかは愛する彼と死別する日がやってくることになる。長門嬢はこの結論におののき、そしてなんとか彼との日々を引き伸ばしたいと願っていた。そこに起こったのがこの事象である。長門嬢は涼宮ハルヒの尻馬に乗っかったわけだ。例え同じ日々の際限のない繰り返しであろうとも、「決定的瞬間」をすこしでも遠くに押しやれるならば、長門嬢にとってはそれでよかったのである。それにしても最後にはすっかり飽きてしまったのであるが。
『作戦従事命令107』


 だが今となっては、その退屈極まりなかった停滞の日々も、宝物のように大事な、甘やかに懐かしい、思い出の1ページであった。愛する彼が生きていた日々。そして、そのそば近くで生きることができた日々。と、思い出に耽る長門嬢を、微笑みを含んだ冷静な声が現実へと引き戻す。

 「そういえば、長門さんが以前提出された起案、『世界平定論』でしたか、あれは興味深いテーマでしたね。」

 郵便物の整理を終え、支払うべき現金もすっかり準備し終わり、机の上をきれいに片付けた喜緑嬢は、ふと思い出したようにそんなことを言った。長門嬢はその意図がわからない。なぜ、いま、そんなことを? 確かにそんな起案を提出したこともあった。はるかな昔々のある日、彼がふと、こんな言葉を漏らした。・・・「世界が平和ならそれで言うことなし。」・・・長門嬢は例によって彼の望みに応えたいと思い、起案書を起草して統合思念体に提出した。それが「世界平定論」である。要約するならば統合思念体の介入のもとに、手っ取り早く世界平和の達成を図るための起案。そのおおまかな論旨は次の通りである。



 現在、涼宮ハルヒの解析活動には相当長期の期間を要するであろうことが明らかになりつつある。然るに、涼宮ハルヒの現住するところの惑星上においては不安定な要素が充満し、不慮の事故(「戦争」等の人災により観測対象が被害を被る等)がいつ発生するとも知れず、安定した観測活動を長期間継続するに当たっては適切な環境であるとは言い難い現状である。我々の進化の可能性の探求とその見極めという重要欠くべからざる工程の推進にあたり、今や我々は観測者の中立原則にあくまで固執することを終止せねばならない時機に到達したものと判断されるべきであろう。要するに、我々の介入のもとに、観測の安全を妨げる事象を直接的、間接的に排除することをも、もはや当然に考慮されなければならない。しかもこれは喫緊の課題といえよう。いまこの時にも、所謂「世界最終(核)戦争」の火種はくすぶり続けている。これなどはまさに看過せざるべからざる危機といえよう。いままさにこの時において、我々自身の進化の可能性を保持、また進化を推進、かつまた促進するための観測の安定的継続のため、我々は一般的な用語で指されるところの「人間社会」に積極的に介入し、「人間」同士の無意味な同士討ち的抗争(即ち所謂「戦争」)を、できうる限り阻止する方針のもとに行動を開始すべきである。観測対象および観測活動の安定並びに、その所要時間の短縮を図るために有効な手段は多くはない。この起案はその数少ない有効な手段について提起するものである。よろしく検討されたい。

『作戦従事命令108』


 以上の要約の長門嬢の記述した原文は、非言語的思念情報の複合立体記述法によって記述されており、そのままでは読み取ることができない。そこで、それをかなり無理矢理に平面的かつ言語的に展開したものをさらに読解し、要約したものである。すべてを文章化すると非常な長文となるうえ、そのままでは非常にわかりにくいため、この文章の記述者である「わたし」の視点で大幅に削除し、適宜記述を変更した。なお、喜緑さんの査閲を経ており、「だいたいこの通りで間違いありません。」との承認を頂戴した。「あなたの主観も少々強く入っているようですが、発表に当たってはそのままで差し支えありません。」との但しつきではあったが。原文の長門嬢の文章は訥々として質実、いかにも人となりのよく表れたものであった、らしい。展開済みの文章からではすでにそういった個人的特徴は感じ取れなかった。従ってこの感想は、じかに原文に接した喜緑さんからのものである。



 さて、怪訝そうな長門嬢の様子になど委細構わず、喜緑嬢は言葉を継ぐ。

 「なかなか興味深く拝読させていただきました。」

 長門嬢は悪い予感を覚える。話をそらそうと試みる。『乞暇申請への同意を要求する。』と言おうとする。だが口を開きかけた瞬間、機先を制される。

 「なにとは言いませんが、却下するだけなら大した手間でもありませんから、何回申請していただいても結構ですよ。」

 即ち、『断固認めるつもりはない』という言明である。長門嬢は虚を突かれ、言葉を飲み込んでしまう。しばしの沈黙。長門嬢は漸く、あらたに言うべきことを見いだす。

 「起案書を撤回する。」
 「いいえ、もう遅すぎます。あなたの起案書はすでに承認され、作戦として編制されています。」
 「起案書の撤回と作戦の取り消しを重ねて要請する。あれは間違いだった。」
 「手遅れです。すでに各派の承認のもと、作戦は発動されています。即ち、かかる起案はすでにあなたの手を離れているということです。それにしても、あなたは起案者として、この作戦の成就を見届けたいと思うでしょう?」
 「作戦の成就の見届けを希望しない。乞暇申請への同意を要求する。」
 「却下します。第一、あなたはこの作戦の従事者の一人として、枢要な任務のひとつを課せられる予定です。」
 「拒否する。」
 「認められません。あなたの起案です。あなたから、すべてが始まったのです。必ず任命に服して貰わねばなりません。」

『作戦従事命令109』


 「拒否する。」
 「認められません。」
 「拒否する。」
 「だめです。絶対に。」

 満面の微笑みのまま、喜緑嬢は長門嬢の拒絶を受け流す。長門嬢は黙ってしまう。思えば、起案書を提起したときがだいたいおかしかった。まったくのなしのつぶて、提出以来何らの反応もなかったのである。当時の長門嬢は却下の通知すらこないことをほんの少し訝しく思っただけで、そのうちに起案書のことなどすっかり忘れてしまっていた。だから、今頃になって起案の結果が自分に降りかかってくるなど、まさに想像を絶したことであった。・・・起案の動機である、当の彼がもうこの世にいないというのに! しかし彼の永遠の不在を理由に取り消し要求をすることは無理な相談だった。長門嬢は彼のことを起案書に書かなかったのだから。そんなことが記述されていたとしたら、第一取り上げても貰えない。『動機不明瞭』『問題点不明確』『審議に値せず』などの理由で門前払いである。・・・今となっては、そのほうが良かったかもしれない。長門嬢は少なくとも審議にはかかるように、統合思念体むけに記述に工夫を凝らしたのだが、今となってはそんな余計な小細工をした当時の自分を呪うほかなかった。長門嬢は殆ど息も絶え絶えという感覚におそわれ、やっとのことで一言だけ搾り出す。

 「経緯について、説明を要求する。」
 「あなたの起案書は提起と殆ど同時に可決され、直ちに作戦に編制され、すぐに発動されました。今までお話ししなかったのは、この作戦が現在にいたるまで『前段階:機密工程』であったからです。本日只今をもって、本作戦は『予備段階:極秘工程』に移行しました。ここにおいて、インターフェース長門有希、あなたに対し、世界平定作戦の進行予定表、すなわち『第一作戦工程紀要』を交付し、『第一作戦』への従事を命令します。」

 絶句する長門嬢に向かい、笑顔のまま、喜緑嬢は発令する。

 「情報統合思念体中央意思特別観測集中分掌部第一作戦工程進行管理本部発令・命令第708号・作戦従事命令。対有機生命体コンタクト用ヒューマノイドインターフェース長門有希。第一作戦に従事せよ。インターフェース総監・第一作戦インターフェース運用主管・喜緑江美里。惑星時間西暦○○○○年12月21日。以上。ちなみに、異議はいっさい受け付けません。」

 長門嬢は気が遠くなりそうになる。せめて一矢報いたい。目眩に近いものを感じながら、長門嬢はどうにかこれだけ言ってのける。

 「無期限の休暇を申請する。」
 「申請を承認し、一時的にすべての任務を解除します。ゆっくりお休みなさい。どこへ行ってもよいし、何をしていても構いません。」

『作戦従事命令110』




 せっかくの反撃すら何らの効果も及ぼし得ず、長門嬢はもはや倒れてしまいそうだった。長門嬢は必死に踏みとどまりながら詳細を確認する。

 「平常の観測執務からは完全に解放されると理解してよいか」
 「もちろんです」
 「特別の観測執務にも参加を求められないと理解してよいか」
 「構いません」
 「行動の自由を無制限に認められていると理解してよいか」
 「その点に関しては従来から制限を設けておりません」
 「個人的な理由で、一時的に観測執務に復帰することは許されるか」
 「構いません。ただし、観測に干渉せぬように注意して下さい。いずれあなたには執務に復帰して貰わねばなりませんが、その時期はおって別命します。なるべく予告しますが、場合によっては緊急執務命令となることもあります。その点のみ了知されたい。以上です。なにか質問は?」

 長門嬢は黙ってしまう。喜緑嬢は静かに、立ち去るよう促す。

 「では、よい休暇を」

 長門嬢は喜緑嬢のもとを立ち去り、自室に戻っていった。自室のこたつに・・・電気は切ったまま・・・のろのろと座りこむ。心の中は空っぽだった。完全に空っぽだった。冷え切った部屋の寒さも、長門嬢には何らの感覚も及ぼし得なかった。




 もう、なにもかも終わりだ。




 長門嬢の心に微かな想念が芽生える。途端に、「彼にはもう二度と会えない」という事実が長門嬢を手酷く打ちのめす。




 あの人は、逝ってしまった。




 そう、まさしく、「あの人は逝ってしまった」のだ。長門嬢をこの世にただ一人、置き去りにして。長門嬢は老いも、死も、彼と共にしたかった。しかしそれすら、そんなことですら、長門嬢からは取り上げられてしまっていたのだ。彼女は死ぬことを許されない女であった。こんな理不尽な立場がまたとあろうか。これはまさしく、誰にも共有されない哀しみであった。残り少ない人生を嘆く声は有史以来限りなく記録されている。しかして、果てしなく続く人生を呪う声はおそらく絶無であろう。人生に失敗した人間は数限りなくいるが、文字通り死に損なった人間は1人もいないのだから。かつても、そしてこれからも。『不老長寿薬』エンジェルミンの効力とて限度がある。場合によっては不老不死に近い効果をあらわす場合もあるが、むしろそれは圧倒的少数派である。さまざまな強烈な薬剤同様、エンジェルミンもたいていの場合投与量がだんだん増えていく。(エンジェルミンはおよそ一年ごとに薬剤を追加投与する必要がある)そしていつかは、『極大量』に達する。(「薬理的バランス」とも称せられる。この量を超えて投与すると「劇症ショック」を引き起こす。身長、体重、骨量、投与年数等をある数式にあてはめることで求められる。従って一年ごとに若干の変動がある。大抵の場合、求められた「理論上の限界薬量」に0.85もしくは0.9を乗じて投与すべき薬量を決定する)




 そして、かの佐々木博士こそは、その「限界投与量の極限へ限りなく挑戦し続けた女」として、その名をギネスブックに残しているのである。その投与量率は最終的に『1.0115』を記録、これは空前絶後の記録である。佐々木博士はその生命を引き伸ばし続けた。

 「まだ死ねない。まだ終わっていない。私の仕事はまだ半ばなのだ」

 佐々木博士の口癖である。どれほど多くの死者がこの慨嘆を漏らしながら旅立っていったことだろう! この言葉とともに実際に延命が可能となったこの時代は幸福というべきなのだろうか、それとも? 

 ・・・さて、それはそれとして、この薬剤エンジェルミンは連用すると独特の「外貌の変化」をもたらす。まず皮膚が極端に白くなり、ついで青みがかってくる。末期にははっきりと淡藍色をおびる。毛髪の色が落ちて白髪となり、ついで次第に青みをおびる。爪もしだいに薄青色を呈する。これは「マニキュア様外貌」と称され、あたかも青いマニキュアやヘアカラーで化粧を施したごとき外貌が現出することになる。最終的には眼球の白い部分に淡青色の沈着が現れ、これは「投与限界」を意味するものとされる。それ以上の投与は延命を意味しなくなる限界ということである。

 佐々木博士は科学者であった。徹底的な科学者であった。彼女は科学の潜水艦に乗って、数学の深海に深く深く潜行していった。もはや浮上不可能となって未知の深海底に沈没の運命と決しようとも、彼女にはなんらの後悔もなかった。『空前絶後の科学の英雄、古今を絶する天才、歴史の転換者、人類の希望の太陽、偉大なる佐々木博士!』もはや名声並ぶものなく、自分を名誉の栄光の巷、衆目の中心へと招く声が日増しに高まり続ける中、佐々木博士はそれらすべてを断固として固辞、研究室の奥に立てこもって、ただただ研究に明け暮れるのであった。この点では彼女は誰の忠告にも耳を傾けず、義理も人情も無視した。世間様も空気も歯牙にもかけず、お膳立ては叩き潰し、必要とあらば恩人の面目も台無しにした。彼女は言うのだった。

 「時間がない。時間がないのだ。僕の時間は限られている。僕の目の前には、素晴らしい神秘を秘めた、数学の太洋が、それこそ洋々と広がっている。僕はこの海を探検したい。思う存分その深淵を駆け回りたい。そして、隠された数学の財宝の神秘のベールを剥ぎ取って、思う存分吟味検討したい。新しい真実を白日のもとに引き出したい。世間などに関わる暇などない。何であろうと容赦はせぬ。誰も邪魔してくれるな」

 佐々木博士は終始この調子だった。「マニキュア様外貌」が発現するはるか以前から。彼女は実に、「難儀な科学者」であったのだ。
 佐々木博士は「学部長官邸」なる、大学構内の建物の一つを占領していた。これは別にある「学長官邸」とほぼ同じ規模のもので、その建物内に小講堂、教室、研究室、私邸、などを備える。五階建てで、下の2フロアは2つの教室と吹き抜けの階段講堂、次の2フロアは研究室、最上階は公邸、そして奥まったこじんまりした一角が五階建ての私邸部分。佐々木博士は功なり名を立ててこの大学(のちの「数学宮殿」。「学部長官邸」は「佐々木博士記念館」としていまも残る)に赴任以来、ほとんどこの建物内に引きこもり、授業も講演もこの建物内で済ませ、食事だけは大学の食堂に出向くという具合だったが、佐々木博士は一般の食堂ではなく、会食用の小食堂(この小食堂も現存し、『佐々木博士はこの小食堂で日々の質素な食事をおとりになられました』との説明板が掲げられている)で独りきり、あるいは研究員たちととる、といった習慣になっており、学生たちにとって、この偉大な科学者に直接接する機会は非常に限られていた。それに、佐々木博士は一種近寄りがたい雰囲気を常に漂わせており、授業の後も学生たちはつい遠慮がちになって、この限られた機会を活用する者はおよそ少なかったということである。しかし佐々木博士は決して不親切ではなかった。質問者があれば、可能な限り懇切丁寧な指導をしてくれたとのことである。学生たちにとって佐々木博士はそれこそ敬意の集中するまさに焦点、雲上人ともいえたものであったろう。

 さて、佐々木博士は自分自身専属の広大な研究室を持ち、何十人かの研究員が常に勤務していたが、この研究室には限られた人間しか入れない「奥の院」が存在した。前述の通り研究室は2つのフロアに渡って広がっていたが、さらにその上階、すなわち『公邸』。そこに佐々木博士の常駐する『奥の院』があった。『公邸』のかなり広い一室は下の階の続きの研究室として研究員たちが使用していたが、その部屋の隣には資料室があった。貴重な文献が山積みになった、さして広くない資料室。しかし、『資料の重要性に実際の重さが伴ったら、その重量で床が抜けるだろう』といわれるほどの資料室。その奥のドア。それこそが『奥の院』の扉であった。ここに立ち入りを許された者はほんの数人。佐々木博士本人、涼宮ハルヒ教授、助手のひとり。これが最初期のメンバーである。メンバーは幾度か変化したが、入室可能な者が五名を出たことは一度もなかった。

 現在の数学宮殿に掲げられた数学史年表。「涼宮ハルヒ教授」の写真の数枚横には佐々木博士の大きな写真が掲げられ、『佐々木研究室の時代』というタイトルが付されているのである。即ち「涼宮ハルヒ教授」とは見かけ上、『佐々木研究室の時代』における登場人物の一人に過ぎない。しかしこの人物の重要性は、当然見落とされるべきではないだろう。
 「涼宮ハルヒ教授」は重要人物であった。まず何よりも、誰にもまして、佐々木博士にとっての重要人物であった。佐々木博士は涼宮ハルヒを重用した。保護し、護り、庇った。それは甘やかしているといってもいいほどのものだった。第一、「教授」への昇進も佐々木博士の熱烈な後押しあってのものであったし、涼宮ハルヒの博士号取得に至っては、当時からある疑惑が囁かれているほどだった。・・・博士論文の指導教官本人である佐々木博士自身が、論文を代筆、少なくとも大きく手を入れているのではないか、という疑惑である。問題はある「=(等号)」であった。涼宮ハルヒは2つの数式をごく簡単に「=」で結び付けていたが、じつはそれはまだ論証の完了していない領域に属する「=」だった。その証明には最先端数学をふんだんに活用した複雑を極める論証が必要であり、涼宮ハルヒ教授の提出した論文にはその部分の論証がまるごと抜け落ちていたのだ。実は涼宮ハルヒは、彼女一流の直感によって、ここに「=」が過不足なく成立することを見抜いて、ごく簡単に片付けてしまったのだが、そういう論証の穴を容赦しないのが博士論文というものなのである。佐々木博士はすぐに追加提出させようとしたらしいが、涼宮ハルヒは一足先にアマゾンの奥地に出かけてしまっており、とうに連絡不可能な状況に陥ってしまっていた。さて、それからどうなったか。論文は期日通り提出され、教授会の審査にかけられた。その過程において、一部の教官から、問題の論証部分の記述に疑問がある、との疑義が示された。文章の書き方が明らかに他の部分と異なるというのだ。佐々木博士は断固としてこれらの異論を退けた。最後には自身の進退までちらつかせたほどであった。あまりに強硬な態度に大学の幹部連が浮き足立ち、問題を不問にするよう教授会に圧力がかかった、と一部では言われている。とにかく、問題の追及は突如として沙汰止みになり、涼宮ハルヒ教授はめでたく博士号を取得した。しかし疑惑はそのままくすぶり続けることになる。真実はどうであったか? 実は現在でも確たることはわからない。問題の論文は現在でも保管されていて、インターネット上に複写が公開されていることもあり、自由に閲覧が可能なのだが、実際のところ、専門家が見ても、それほど確たる相違点というものは見分けられない、とのことである。この疑惑そのものが、大学の反主流派のぶちあげた悪質なデマであるとの見解もあり、あるいは実際にそうなのかもしれない。問題は佐々木博士でも涼宮ハルヒでもなく、大学幹部のひとりであって、佐々木博士はダシに使われただけ、というものである。
 なんにせよ、この一件で得をした者は誰もなかった。すでに定まっていた流れが加速しただけのことだった。主流派(学長派)と反主流派(学部長派)との抗争の帰趨は、この件をもって定まった。反主流派は決定的に信用を失い、以後続々と「数学宮殿」から放逐されていくことになる。もともとこの抗争は、「数学宮殿」の発足以前からの遺恨に基づくものであり、もともとは些細な行き違いから起こったものであった。「学長と学部長はどちらがより偉いか」・・・すべての闘争の見かけ上の原因は上記につきる。(事実上の単科大学であるこの大学には学部長が一人しかおらず、『大学の最高権力』の所在に揺らぎが生じる余地があったらしい)その真の原因は実のところ詳らかでない。実につまらない事情が関わるという噂が伝わっているのみである。学長官邸はもともと大学の計画に含まれていた。しかし学部長派は「学部長官邸も整備すべきである」と強硬に主張、クラブハウスを建設する予定だった敷地に『学部長官邸』を建設させるという横車を強行した。おかげでクラブハウスは教室棟裏の不便な場所に追いやられ、クラブ活動参加者は後々まで不便な活動を強いられた。この抗争の決着後相当後になってから、老朽化した学長官邸は取り壊されて跡に新クラブハウスが建てられたが、抗争の徒花でしかなかった筈の「学部長官邸」が、「佐々木博士住居」としての栄光に包まれて、後世に永く残ることになったのは一奇というべきであろうか。「学部長官邸」が完成した当時には既に学部長派は力を失いかけていて、学部長は「学部長官邸」に入居することができずにおり、学長自らの采配により、「空き家」の「学部長官邸」は、「佐々木博士住居」に割り当てられることになった。学部長派には何らの相談のないままに決まったこの決定には当然反発が起こっており、この「論文疑惑」がその反発の最後の発現であった、という可能性は捨てきれない。

 さて、ここで物語を大きく引き戻す。佐々木博士はついに「投与限界」に到達し、「投薬打ち切り」を宣告された。あとは「老衰死」を待つばかりのある日、佐々木博士はある研究員(『奥の院』への入室を許された、この時代での彼女の最側近のひとり)を枕辺に呼び寄せて、あることを言い渡した。研究員はお言い付けは必ず守ります、と佐々木博士に告げた。佐々木博士は「くれぐれもよろしく頼む」と言い残し、程なくして亡くなった。亡くなった瞬間に誰も気付かなかったほどの、静かな、安らかな、まさしく大往生であった。
 佐々木博士の死により放送中のすべてのテレビ番組が打ち切られ、緊急臨時ニュースが全世界に配信された。

 「かねてより長らく病気療養をされておられました佐々木博士は、本日、すなわち××××年××月××日正午を一期として、儚くもついに薨去なされました。全世界はこの一報に、深い悲しみに包まれております」

 その後に巻き起こった大騒動については、今更語るべきこともあるまい。とにかく、佐々木博士の遺体は防腐処理を施されて、「最期のお別れ」のために全世界を巡った。「長門有希同志直衛第11機関砲中隊」が長門有希同志自身の命令により護衛のため貸し与えられ、「長門有希同志直衛第7列車砲大隊」ならびに「長門有希同志直衛第710航空団」が輸送を担当、実に佐々木博士はその死後にして初めて、世界一周旅行を成し遂げたのである。

 佐々木博士のご遺体は、世界中ありとあらゆる場所で、荘重な葬送曲が流れる中を、着剣捧げ銃の敬礼を捧げる兵士たちに見守られながら、民衆の嗚咽のなかに、ガラスの棺に納められて進んでいくのだった。この国家指導者なみの待遇には、彼女の伝説的な名声のみならず、彼女の閉鎖的な生活習慣、極端に人付き合いを嫌うことからきた神秘性などによって高められたある種のカリスマが大きな役割を果たしていることは否定できない。彼女の生活は常に謎に包まれていた。彼女は偏屈で取っ付きが悪く、研究に関することについての取材すら一切断り、どうしても避けられない場合にも研究員のなかの「取材番」といわれる担当者に丸投げしていた。この研究員は、佐々木博士の難解な研究を、一般に説明できる程度に噛み砕く任務が与えられていた。しかしこの作業はしばしば手に余ったため、大抵の場合「解説番」そして「参考書番」、「教科書番」などと協力して作業を進めていたということである。

 佐々木博士は生きているうちからすでに歴史的な人物であり、その一生への分析はすでに生存中に相当進んでいた。その死によって研究は加速した。生存中には何かとはばかられていたことが少しずつ判明していった。しかし、個人的生活史の最も中核的な部分、ずばり「一女性としての佐々木博士」という問題については、驚くほど完全に資料が抹殺されており、研究は完全なる頓挫を余儀なくされた。それまでに判明していた事実は次の通り。「かなり若い頃に結婚歴があるが長続きはしていない」「少なくとも一度出産している」「その子どもは正式な夫との子どもではなかったらしい。少なくとも佐々木博士自身の家族としては記録されていない」「したがって夫以外の相手が少なくとも最低ひとりは確実にいた」
 こういった研究は当然のごとく、猛烈な反発と非難に晒された。英雄を一介の人間の水準に引き下ろすように見える研究に、非常に厳しい視線が向けられるのは今も昔も変わらない。研究者たちには「佐々木博士の偉大さとその一人間的価値は無関係」「露悪趣味」「許し難い侮辱」などという非難が降り注いだ。しかし研究者たちは「如何なる英雄といえどそもそも一個の人間。仮に、いかに人間的には欠陥だらけであろうとも、その功績には何の影響もない。そんなことは当然だ。我々は知りたいのだ。ただ知りたいのだ。佐々木博士とはいかなる人であったのか。栄光の隠れ蓑に覆われた、人間としての実相はどのようであったか。いかに佐々木博士とて、完全無欠ではあり得ぬ。佐々木博士の人間としての実相を明らかにすることは畢竟、人間性の本義に迫るものとは言えまいか」との信念のもと、粛々と研究活動を継続していた。しかし圧倒的な資料の乏しさに阻まれ、「人間・佐々木博士」の「女性としての実相」を解き明かす試みは遅々として進まずにいた。そんな折、研究に新たなる進展が期待しうる事態が発生した。新しい資料が発見されたのである。死後50年は経とうかという頃の話であった。

 研究者のなかに、それほど目立った功績とてない、貧乏な男がいた。この男は、ズボンのポケットに際限なく小銭を詰め込む癖があった。あるときこの男は「佐々木博士記念館」を訪問、資料室の見学を願い出た。資料室の見学には立会人が必要なのだ。この日の立会人の当番は男と顔見知りで、相変わらず大量の小銭をジャラジャラいわせている男に忠告するのだった。財布くらい持ち歩いたらどうか。男は答える。財布ならもちろんあるが、昔からの習慣はそうは変わらぬ。これはこれでなかなか便利だしそれに・・・、言い終わらないうちに酷使され続けてきたよれよれのズボンのポケットがついに挫けた。ポケットの底が抜けて、多量の小銭がズボンの裾から転がり出たのだ。だから言わない事じゃないと言うんだ! 立会人もやむを得ず、男を手伝って小銭を拾い集めてやる羽目に陥った。そして資料室の床一面に散らばった少額硬貨をかき集めている最中、ふとある棚の奥に注意を引きつけられた。古い資料の詰まった棚。その棚の資料はすでに「十分に検討済み」のものばかりで、従って取り出す機会はほとんどなく、ただその重要性ゆえに「保管期間:永久」の指定を受けているものばかりだった。その資料の奥、ほとんど棚の上下いっぱいの資料の、そのほんの僅かの隙間の奥に、金庫の扉のようなものが見えたのだ。はて、おかしいな。こんなところに金庫があるなどとは聞いたこともないが。とりあえず男を帰らせ、立会人を務めていた研究者は資料室に舞い戻って、長年ほとんど取り出されたためしのない資料をひとつ抜き取り、棚の奥を覗き込んでみた。たしかに金庫だ。・・・ことによると、これは忘れ去られた金庫なのかもしれぬ。・・・俺は今、世紀の大発見を果たしたのかもしれぬ!
 彼は辛抱強い歩みをとった。彼は自分の研究室にとって返して、金庫のことを仲間たちに確認してみた。誰も知らなかった。かくして数人の研究者達が資料室に我先にとなだれ込む結果となり、その中のひとりが勢い余って金庫の前の棚の飾り金具に強くもたれかかる形になり、偶然にもまさにその、長年ただの飾りとしか思われていなかった金具が棚を動かすための装置のスイッチで、虚を突かれてほとんど呆然としている一同の前で、電動仕掛けの本棚がモーター音とともにスライドして、隠されていた金庫が一同の前にその姿をあらわに、という電光石火の事態の進展があった。ここまではほとんど一瞬のことである。しかしここで停滞が起こった。金庫の開け方を誰も知らないのだ。まあ当然のことだろう。そこで専門の業者が呼びにやられ、長くて根気のいる、集中力を要する作業の末、ようやく扉が開いた。研究者達は勢い慎重になる。まずカメラを取り出してきて、金庫の状況を書類を動かす前に撮影する。そしていよいよ書類を取り出して、一部づつ丁寧に撮影、そして検討のために資料室のひとつ手前の広い部屋に持ち出してゆく、という流れだ。彼らは財宝の山を前にしていた。各地の役所から抹殺されていた書類の原本が全部そこにあったのだ。結婚関係、離婚関係、そして・・・「婚外子」関係。佐々木博士には娘がひとり。認知はされておらず、父親が誰かは不明だ。他にも細々とした、しかし重要な意味のある書類が次々と見つかった。そしてほとんど空になった金庫の隅から、油紙で厳重に包まれた本のようなものが発見された。とてつもないセンセーションであるこの秘密金庫の発見物語全体の中でもことに猛烈な議論を巻き起こした、「佐々木博士の日記」発見の瞬間である。研究者達は型通りまず梱包の外側から丹念に撮影、そして油紙を丁寧に開いていった。中から現れたものは飾り気のない日記帳、そして日記帳を金庫に収めた者からの、未来の研究者達にあてた添え状だった。

『時間の流れの間にまに託して、ここに尊敬する佐々木先生の個人的な日記帳をお届けいたします。私は○○○と申しまして、忝なくも尊敬する我らの佐々木先生のそば近くでお仕えする栄誉に浴し、先生の個人的な研究室に立ち入るお許しをも頂き、悲しくも先生のご薨去の際には、その遺言の執行人にもご指名をいただきました。』

 この○○○とは、佐々木博士の最後の側近研究者として名を残す人物である。歴史家あがりで数学者に転向した変わり種の人物であった。

『尊敬する佐々木先生は私を臨終の枕辺にお呼びになられ、私にこの日記帳を託されて次のようにご指示なされました』


『「君にこの日記帳を託しておく。自分で焼き捨てるつもりだったがどうしてもできない。私が死んだら、絶対に中身を見ないで、直ちに焼き捨てて貰いたい。これは私の個人的な日記帳だ。プライバシーそのものなのだ。絶対に絶対に指示通りに実行して貰いたい。約束してくれるかい? 誓って?」私は先生にお約束申し上げました。必ずご指示の通りに実行致します、と。先生はよほど気掛かりだったらしく、死の間際までたびたび念押しをなされました。最期の瞬間に私の手を握りしめ、真正面から目を見つめながら、「頼む」と一言言い残して亡くなられた光景を、まるで昨日のことのように思い出します。しかし私はここに、必ずしも先生のご指示通りには致しませんでした、と告白しなければなりません。私は歴史家の出身です。歴史的資料の重要性は身にしみております。生ける伝説そのものであられる佐々木先生の個人的日記帳なるものの歴史的重要性は他に代え難いものです。焼き捨てることなどどうしてできましょう。私は苦慮のすえ、結論に達しました。私は先生のご指示に半分は完全に服従し、半分は「灰色処理」することといたしました。すなわち、この史料を自ら検討する権利は放棄することとしました。そして焼き捨てることはせず、後世の研究者にこの重要史料をお任せすることとしたのです。先生は秘密の金庫の鍵を私にお任せになり、「二度と開かないようにせよ」とお命じになられました。それを奇貨として、その金庫にこの日記帳を格納致します。未来の研究者の方々、以上のような経緯です。何卒存分にご研究下さいますように。豊かな実りがありますようお祈り申し上げます。』

 最後に金庫の底から小さな紙箱が見つかり、金庫の鍵と解錠番号のメモが入っていた。要するに自動車で言うところの「インキー」状態だったわけである。さて、日記帳の真正性は筆跡鑑定で簡単に立証できた。間違いなく佐々木博士本人の真筆であったのだ。そしてその日記帳の謎のような内容が、のちのちまで議論の的となるのだ。

 「○月○日。H女史きたる。重要なヒント」
 「○月×日。Kきたる。対話。のち少し話す」

 日記帳の内容の抜粋である。ごく簡単な記述が、基本イニシャルトーク形式でなされているものだ。

 「×月×日。K田来訪。話す。やはり良い人。破綻は全く僕の責任と自己確認」
 「△月▽日。Kと2度対話。とてもやすらぐ」
 「▲月▼日。K。疲労とのことで対話なし。少し話す。やはり寂しい」
 大方の理解としては、これは研究ノートの補充のようなものであろう、ということであった。「対話」とは研究上の重要な会話、それ以外の「話す」はまさしく一般的な会話、というような。しかしそれでは理屈に合わない、という意見は当初からあった。まず、そんななんでもないようなものであるなら、なぜ佐々木博士はこれをそこまで厳重な秘密とし、内容が漏れないよう焼却を厳命し、なおかつ自身で処理できないほどの心理的こだわりを見せたのか? この日記帳が後世に残ったのはひとえに、処理を任された人間が、佐々木博士の権威や個人的恩義よりも学究の良心を選択したからに他ならない。佐々木博士にとっては誤算以外の何かではなかったろう。ともかく、より詳細な検討が必要なことは確かであった。日記の登場人物はほんの数人。頻出するのは2人。H女史、そしてK。この2人がほぼ主役で、あとはほんの数回登場するK田、N、Tなど。そしてこの日記帳は佐々木博士の極めて長い人生のごく短い期間しか記録していないらしいこと。日記帳は頻繁な記入のある時期を過ぎると、『本日、K、H女史とともに発つ』なる記述を最後にかなりの期間途絶え、次の記述は『K危篤』との短い震えた字のもの、そして最後は異常に高い筆圧で書かれた(ボールペンの字がところどころ破れている)『16時、K逝去』。記述はそこで一旦途切れている。そして何ページか白紙(一部破り取られた形跡あり)、そして物議を醸した記述、『懺悔録』。

 「僕の研究の主題のうち幾つか(正直に言えばほぼ大部分)は、僕の独創ではないことをここに告白しなければならない。僕は自分が剽窃したことを確信している。僕の想像力の源泉は『H女史』、即ち『涼宮ハルヒ上席研究員・博士』であった。およそ発想力に関する限り彼女を超える人を僕は知らない」

 時間的な関係について、ここで一応明らかにしておきたい。例の『メガネ君』について。彼もまた、「エンジェルミン」の影響下に入り、佐々木博士の没後も相当長期にわたり生存、その間に赫々たる業績をあげた。佐々木博士、涼宮博士の成果を基礎にしたその研究がいかなるものであったかは周知の通り。この時代においては、佐々木博士ですら彼の業績の前に霞んでしまっている。

 「僕は発想力に欠ける。それは涼宮博士のレポートで埋めて貰った。本来彼女が自分の名で発表できる研究を僕は横取りした。このことが僕を酷く苦しめる。誰にも言えないだけに余計に」

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