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名勝コミュの山寺

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 山形県山形市山寺

 1932年03月25日、史跡・名勝に指定。

 蔵王国定公園内。
 山寺は、天台宗総本山比叡山延暦寺の別院で、正式名称は宝珠山(ホウジュサン)阿所川院(アソカワイン)立石寺(リッシャクジ)です。
 寺伝によると、貞観2(860)年12月に清和天皇の勅命で天台座主の慈覚大師円仁が開山したとされていますが、実際にはそれ以前から存在していたと推定されています。
 『立石寺記録』では開山を円仁、開祖を安慧(アンネ)としており、子院の安養院は心能が、千手院と山王院は実玄が開いたとされています。安慧は円仁の跡を継いで天台座主となった僧であり、承和11(844)年から嘉承2(849)年まで出羽国の講師の任にあり、東国に天台宗を広める役割を果たしていました。心能と実玄は、円仁が天長6(829)年から天長9(832)年にかけて東国巡錫(ジュンシャク)を行った際に同行した弟子です。
 これらを踏まえると、円仁が東国巡錫の際に心能と実玄をこの地に留め置いて小規模な寺院を開かせ、安慧が出羽国に赴いた際に布教拠点として伽藍を建設、貞観2年に円仁の請願で勅願寺に昇格したと考えるのが合理的でしょう。
 当寺には円仁の遺骸を安置すると伝える入定窟(ニュウジョウクツ)あります。円仁は貞観6(864)年に比叡山で没しており、立石寺に実際に遺骸が移されたという確証はありませんが、入定窟の上に立てられた天養元(1144)年の如法経所碑(ニョホウキョウショヒ)〔重要文化財〕が現存し、そこには「大師の護持を仰いで法華経を埋納する」という趣旨の事が書かれていて、この時代には既に円仁がこの地で入定したとする伝承が成立していた事が判ります。昭和23(1948)年から翌年にかけて入定窟の学術調査が実施され、金箔押しの木棺と人骨5体分、円仁像と思われる頭部のみの木彫像〔重要文化財〕等が発見されました。この木彫像の頭部については、目鼻立ちなどの特色から円仁像である事が認められ、作風から9世紀頃の制作であるとされます。従って、円仁の遺骨の一部が納められた可能性は充分にあり得ると思われます。
  なお、根本中堂〔重要文化財〕に安置されている木造毘沙門天立像〔山形県指定文化財〕は近年の調査によって9世紀頃の作である事が判明しています。また、胸甲の上で甲締めの結び目を表している事や細い腰帯の下に幅広の腰帯を着けるなど珍しい甲制となっていますが、これらは東北地方の神将形の作例にしか見られない物で、平安時代には同種の作例がある寺院との間に繋がりがあった事を示唆させる特徴を持ちます。
 鎌倉時代には幕府の保護と統制を受け、関東御祈祷所となって栄えました。本尊の木造薬師如来坐像〔重要文化財〕は元久2(1205)年に修理されており、この時本堂の修造が完了して十二神将像が造立されています。後に火災により伽藍を焼失し、13世紀中頃には幕府の政策によって臨済宗に転向させられました。
 南北朝時代には、南朝方に立つ寒河江(サガエ)の大江氏が足利幕府軍と一帯で攻防を繰り返し、立石寺の占領軍も頻繁に入れ替わって、その都度、院主が交替していた模様です。が、延文元(1356)年に斯波兼頼が羽州探題として山形城に入ると幕府軍の支配が確立、兼頼によって根本中堂以下の伽藍が再建され、天台宗に戻りました。
 文明14(1482)年には雪舟等楊(セッシュウトウヨウ)が訪れて写生を行っています。
 永正16(1519)年には塔頭(タッチュウ)華蔵院(ケソウイン)境内の右側の岩壁に南面して掘られた岩屋の内に高さ2.5mの木造三重小塔〔重要文化財〕が作られています。
 ところが、その直後に最上氏の後継争いに陸奥国梁川(ヤナガワ)城主伊達稙宗(ダテタネムネ)が介入して起きた戦乱に際して立石寺は伊達軍に加担したため、大永元(1521)年に天童頼長の兵火を受けて一山の伽藍の殆どが焼失、比叡山延暦寺から分燈されていた法燈も消滅してしまいました。但し、根本中堂は全焼せずに済み、岩屋内にあった三重小塔は無事でした。
 天文12(1543)年に第10代羽州探題最上義守(モガミヨシモリ)によって伽藍が再建され、延暦寺から再度分燈がおこなわれましたが、元亀2(1571)年の織田信長による比叡山焼き討ち後の再建時には、逆に立石寺側から分燈が行われています。
 最上義守の母である春還芳公尼(シュンゲンホウコウニ)も堂宇の再興に努め、最上義守の子である第11代羽州探題最上義光(ヨシアキ)は立石寺に寺領1300石を与え、慶長13(1608)年には根本中堂の大修理を行っています。
 元禄2(1689)年に松尾芭蕉が『奥の細道』の旅の途中で訪れ、「閑さや 巖にしみ入る 蝉の声」の名句を残しました。
 今では、年間90万人もの参詣・観光客が訪れ、春の桜・夏の蝉の声秋の紅葉・冬の雪景色など四季折々の風情を楽しめます。
 山頂の奥の院までは1015段の石段を登る必要があります。

コメント(5)

ここから仙山線を見下ろすながめはすばらしいですね。
まさしく「名勝」です。
ブルースカイ様
仙山線は比較的本数が多くて利用しやすいですね。急行がないのは残念ですが…。
私が行ったころは急行形電車(快速〔仙山〕)でした。
駅前のみやげ店で、立石寺参詣前にみつけていた「もっともっと仙山線」(地元の方が刊行した本)という本を買いましたよ。
今は名無し快速になってしまいましたが、どんな車両なんでしょうねえ。

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