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関ヶ原の合戦は西軍が勝ったコミュの上杉はなぜ後を追わなかったか

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小山評定を終えて、福島以下の豊臣大名が先発し、秀忠が
徳川主力を率いて中仙道へと出て行ったら、江戸を守るヤツ
が残っていない。

上杉にとって絶好の追尾のチャンス到来じゃないか。何の
ために前田慶次郎などの腕利きを多数集めたのか。戦うため
だろうが。

徳川が抑えに残したのは結城秀康。かつては秀吉の養子の時期
もあった。実父家康からは疎まれた。結城家に入ったのも
秀吉の配慮によるもの。何の取り得も無い三男秀忠が跡継ぎ
有力の空気があって、秀康は他家に出た者とされている。

本気で上杉に立ち向かう気があったかどうか。
有ったとしても、上杉軍の江戸攻略軍を阻み得たか。ムリや
ろなぁ〜。

上杉だけじゃないぜ。常陸の源氏・佐竹が連合する。
江戸はタダ同然で取れたじゃないか。

上杉の留守を伊達が狙ってたって? いいじゃないか、やれ
ば。江戸を押さえて徳川の帰るところを無くしてしまえば。
上杉はちょっと前まで越後が本拠。堀が居るけど、多数の元
家臣を越後に残している。いつでも本来の拠点・越後に帰れる
じゃないか。

どう考えても判らない。上杉・佐竹はなぜ江戸を襲わなかった
のか。

石田三成の馬鹿野郎!
もう少し、大垣の城で待てよ。立花宗茂をはじめ続々と西の
勢力が美濃に集まってくる。大垣で戦えば松尾山なんか、戦場
から離れてしまう。裏切りも何も出来ない。

宇喜多だけであんなに善戦した。猛将立花が加わって戦力
アップもきわめつけ。それでも吉川は徳川内通の立場を守り
得たか。アカンやろう。

家康は逃げるところも無い。その辺りで野垂れ死にだ。

コメント(22)

はじめまして。

確かにおかしいですよね。江戸はほぼがらあきに近い状態ですから。
上杉兵だけでも江戸侵攻はできたと思います。

あとは、石田三成率いる主力ががんばれば、伊達・最上・堀の処置など簡単だと思います。
石田三成さえ、慌てて大垣城を出なければ、西軍が続々集ま
ってきて、家康方は不利になったのに・・・
そうですね、もう少し大垣城にこもってくれたら…
佐和山城に進軍されたのを恐れたのでしょうか。

上杉景勝の正確がゆえ?花の慶次には結城ごときで
は相手にならないから、追撃しなかったと書いてあり
ましたよ。漫画だから、真相のほどは分かりませんが。
たった一日のことですよ。石田・宇喜多・島津・小西が
大垣城に立てこもり、城攻めのヘタで通った家康は9月と
いっても今の11月初旬の、冷たい雨の中。
そこへ到着するんですよ。西軍きっての猛将立花宗茂が。九州
の与力大名の軍勢も合わせて1万。
毛利の別働隊、毛利秀包もやってくる。城内の西軍と挟み打ち
です。オモロイことになったのに。う〜ん、サンネン。
とにかく家康がやっつけられる場面を想像するだけでワクワク
します。

漫画は見ないけれど、前田慶次郎の先手となれば、結城秀康
では防ぎきれなかったでしょう。

上杉は、ムリに会津を守る必要なんて無い。欲しければ伊達に
呉れてやれば良い。最上に対する抑えも要りません。
江戸を取れば良いのだから。佐竹は当然江戸に向かって進軍
しますよ。
徳川父子には帰るところもない。どこで行き倒れるかだけの
問題。痛快の極みだったのに。

かえすがえすも、三成の慌て方が悔やまれます。

今思いました。三成が雨中・暗夜の行軍で関ケ原を目指すなら
勝手に行かせたらよかった。付き合うのは小西に任せて、島津
と宇喜多は大垣城を出る必要は無かった。のと違いますか。


実戦では、関ケ原の勝敗が決定した段階でも、大垣城はビクともしていませんでした。
三成と小西だけが、雨中に城を出ることを強行して、結果
全滅することは、西軍全体からみたら、むしろ最も好ましい
ことだったと、これは私見です。

実際には大垣に宇喜多以下が残っていたら、東軍は関ケ原に
は進めませんよ。

三成が「佐和山危うし」のデマ(家康が流した)に引っかか
ったのは、多くの歴史作家が皆書いていることです。

軍事研究家にも疑問を呈している人の方が多いと聞きます。
ボクの友人である、元ドイツ陸軍の参謀将校もそうでした。

東軍は一気に岐阜城を落とし、疲れ果てていたのです。寒い
雨の中、一日でも多く野戦に放置した方が消耗度が上がりま
す。堅固な大垣城中から眺めていたらよかったのです。
やはり伊達政宗が景勝を背後から牽制したのが東軍勝利の大きな要因ですよね。100万石のお墨付きの効果は絶大でしたね。
う〜ん。前提がやっぱり違うような。
大垣城の籠城策は全くダメだと思います。皆さんは大垣城に来たことはありますか?あの城は何万人も収容できる城ではありません。決して堅城ではありません^^
ちなみに私の祖父が今の大垣城の再建工事を担当したこともあって思い入れはあるのですが。。。それでも堅固ではないですね〜
それに低地にあるので、東軍の本陣(赤坂)からは丸見えなんですよ。イフもいいですけど、なるべく現場を見て机上の空論にならないほうがもっとおもしろくなると思います^^

籠城に適さない城では長期戦は無理です。
たぶん石田三成もそれは理解していたでしょう。

それに時間が経てば、信州で足止めをくらっていた徳川本隊が到着します。徳川譜代の家臣で固めた東山道の3万は脅威であり、やはり長期戦は得策ではない。西軍の残りの兵力(大坂城の毛利本隊、大津城の包囲軍)が集結しても、たぶん勝ち目はないでしょう。立花宗茂も大好きな武将ですが、もっと手ごわい武田・北条と常に戦ってきた徳川軍には勝てる気がしないですね。

そうすると、分散した西軍兵力を一瞬のうちに集結させ、一時東軍を上回る兵力を集めた石田三成の手腕こそ賞賛されるものであって、その戦場として関ヶ原を選んだのも間違っていなかったでしょう。。。ちなみに東軍が清洲に到着してから、周辺兵力で西軍が上回ったのは、関ヶ原のあったあの一日だけなんですよ^^知ってました?だから、岐阜城攻略直後の東軍を攻めたほうがよかったとか、もう少し籠城して待ったほうがよかったとかは空論なんですよ。あの一瞬しか西軍が勝つチャンスがなかったんですから。

戦略と戦術は違います。もちろん徳川家康は両方を理解した名将ですが(個人的には大嫌い)、三成も関ヶ原に向けての戦略構想はしっかりしています。また、その構想が途中で崩れた際(豊臣恩顧の裏切り・東軍の清洲入城・岐阜城陥落)にも戦略を微調整する応用力があり、それを実際の戦術(関ヶ原)にも生かす。。。なかなかの名将だったと思います。
ここでの議論は戦略と戦術をごっちゃにしてるような。。。

やはり「戦は時の運」なんでしょうね。

たぶん石田三成を悪く言う人は、もし三成が関ヶ原を勝った場合には、「絶好のタイミングで兵を起こした」とか、「関ヶ原での布陣は最高だった」とか、そういう風に物を考える人なんでしょうね。歴史の見方は怖い。。。
ボクは少なくも、関ケ原で徳川を倒した後、石田三成は
豊臣政権から遠ざける、という考えの人間です。
批判的なことばかり書いてごめんなさい^^
私は歴史上嫌いな人物はたくさんいますが(自慢するほどでもないですけど)、その存在を否定することはないです。友人曰く。私の大嫌いは一般人の好きくらいに相当し、私の大好きは一般人の異常に相当するらしい(笑)

石田三成を政権から遠ざける、という発想は三成が嫌いだからですよね。だったらいいですけど(笑)
三成の行動を全て否定するのは、その時代一生懸命生きた三成が(というより歴史が)かわいそうですよね。
石田三成を秀吉健在時での兵站のエースとて評価しますし、
近江佐和山の城主として、名領主であることも認めています。
つまりは、個人的にキライではないということ。

人それぞれに決まり役がある。

三成は軍司令官としての、人望も、素質もなかった。
だから秀吉亡き後の豊臣政権中枢から遠ざけるという意見を
述べているのです。

三成がいなかったら、対徳川で立ち上がった武将はいなかった
とも思えませんが。
誰も立ち上がらないと思うよ。
立ち上がっても、組織的な抵抗はできないと思う。
秀吉亡き後、日本全国を巻き込んで戦略構想できる武将は家康と三成のただ二人だけ。そのことは家康も承知してるからこそ、あえて三成を土俵に上げる戦略を取ったんであろうし、三成も秀吉の意思を受け継ぐものとしてその戦略に乗ったんであろう。
そういう意味では三成は軍司令官(戦術家)ではなく、統帥本部長(戦略家)だったんでしょうね。
現に上杉が受けて立っているじゃないですか。
家康の本心が、豊臣家から政権を奪うことにあることが
明白になったら、宇喜多も毛利も豊臣家の大老の立場からも
立ちますよ。
第一、三成が嫌いで家康に従っている、福島正則以下の
豊臣諸侯が、家康から離脱しますよ。

歴史の事実としては、徳川治世260年があった。
その結果に従えば、当然答えはひとつにまとまるよ。

それじゃ面白くないから、タラ・レバと断って、このコミュ
を開いたんですけどね。
管理人さん、お疲れ様です^^
なるほど、タラ・レバですもんね。

それにしても、上杉と三成は連携してた訳だから、三成が立たないと上杉も立ち上がれないでしょう。それこそ独りで立ち上がれば東北で孤立しますからね^^名将直江さまがそんな愚かな戦略を考えるはずがない。
組むとすれば、宇喜田と毛利か。。。立ち上がれば一波乱はあったのかな〜でも三成無しでまとまるのか〜疑問。

良いにしろ悪いにしろ、東軍・西軍が三成を基準にしてまとまったのは事実なんだから、それは無視できないでしょう^^

それから、福島など武断派は三成憎しで集結したのは事実だけど、それ以上に自分の欲得で動いたほうが大きいと思う。だから三成が政権を離脱しても、徳川が強そうだったら他に適当な理由をつけて徳川についたままだと思うよ。
大坂の陣でもそうだったから。。。

でもこれもタラ・レバですよね。。。
直江が追撃を進言しても景勝が反対してしまってはねぇ…。
>家康の本心が、豊臣家から政権を奪うことにあることが
>明白になったら、宇喜多も毛利も豊臣家の大老の立場からも
>立ちますよ。
確かにそうなんですが、その兆候があるのに見抜けない馬鹿どもは…。
まぁ、福島などは改易されてその罪を償ったのでいいでしょうがね。
藤堂なんて論外ですよ。
大体三成憎しと公的な天下の仕置きはぜんぜん別種の問題。
それを強引に結びつけたのは家康ですが、大名だって人の上に立つ人なのだから、
その辺はもう少し頭を使えなかったのか?と。
まぁ、家康に関しては問題は天下を取った後にあったわけですがね。
ヴァンダムさん、showさん。お疲れ様^^
私もヴァンダムさんの説に賛成します。
やはり三成抜きで考えてしまうと、せっかくのダラ・レバもレベルが低くなってしまうような…
実は上杉も黒田如水と同じで 虎視眈々と天下を狙っていたのでは…。

三成が家康に勝ったなら三成と
家康が勝ってもまだ毛利も居るし戦国が続く…と思っていたのでは…。

そうでも考えないと…さっぱり判らないですね…。

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