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国際哲学クラブコミュの【哲学】

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【絶対者の非存在の証明】 --平成10(1998)年11月9日に自身のWebサイトで公表したものへ加筆-- 佐々木 寛

絶対者(Absolute)、とは何か。

キリスト教神学や西洋哲学などの絶対論者たちの言説から、一般に、絶対者とは、不変にして、他との比較や関係を絶して在るもの、あるいは、この生成変化している相対なる現象の世界から、全く無関係に独立して在る超越した存在ということになります。

故に、超越者とも言われます。そして、それはまた、他との関係を絶して在るが故に、他から何の制約も全く受けることが無いのです。依って、無制約者とも言われています。およそ、絶対論者たちの言う、絶対なるものとは、以上のようなものです。

ところで、われわれ人間は、そのような、絶対者ではありません。

当然のことではありますが、不変でも無く、他との比較や関係を絶して在るものでもありません。我々には、絶えず、関係し変化している、現象であるところの意識内容として、千変万化する喜怒哀楽の感情や、思索するという理性の働きが存在しています。

理性的に考えるならば、そのようなキリスト教および西洋哲学で言うところの絶対者と、我々が、如何なる関係も持ち得ないのは論理の必然です。

なぜなら、関係を絶して在るものと、関係を持つことなど出来はしないからです。関係を絶して在るものと、関係を持つことが出来ると言うのは全くの矛盾です。 そしてまた、我々は、不変のものに変化を及ぼすことなど出来ないし、不変のものから変化を被ることも無いのです。その上、経験し得る事実としても、不変にして比較や関係を絶して在るものが、現象として在る我々の意識内容(=経験内容)に現出することなど有り得ない事なのです。すなわち、意識内容に現出しているもの、および現出し得るものとは、現象以外に存在しないのです。そして、不変にして比較および関係を絶して在るものが、我々の認識の対象に成ることは有り得ないし、また、その可能性すらも無いのです。極論すれば、そのようなものは本来、信仰の対象にも成り得ないものなのです。結局、我々と、絶対者とが、関係を有すると言うのは、経験し得る事実として有り得ない事であるし、しかも、論理の当然の帰結としても、我々と絶対者とが関係を有すると言うのは、 全くの矛盾であり、錯誤です。さらに付け加えて言えば、我々が現象として存在している、この変化し、関係している現実の現象の世界に、絶対者は存在しないが、現実の現象の世界とは独立無関係の超越した処に、絶対者は存在すると考えたとしても意味がありません。何故なら、そのように現実の世界を超越した非現実(=形而上)の世界に在るものと、我々が関係を持つ事など有り得ないからです。そして、そのようなものから変化を被る事も無ければ、そのようなものに変化を及ぼす事も有り得ません。断言しますが、只の一度たりとも有り得ません。何故なら、只の一度でも何らかの関係が在ったのであるならば、それをして、絶対者であると言うのは誤りとなるからです。故に、理神論(deism)も成り立たない。さらに付け加えて言えば、キリスト教は啓示宗教であるとも言われていますが、その啓示と呼ばれているものが経験事実として意識内容に現出した瞬間、啓示が絶対では無いことと啓示の存在そのものが絶対者との関係の絶無を証明していることも認識するべきです(啓示とは、人間の能力では知り得ない真理や神秘が、唯一絶対なる超越神によって開示される事だと言われている)。以上、これまでの論説に拠って、唯一絶対の超越神、すなわち一神教で言うところの絶対なるものの非存在が証明されます。
 
【実体の非存在の証明】 --平成10(1998)年11月9日に自身のWebサイトで公表したものへ加筆-- 佐々木 寛

実体論者たちの言う、実体(Substance)、とは何か。

事物や意識または精神などの、生成変化する現象の根底に在って、それらの変化を司(つかさど)り支配する、それ自体は変化せぬ恒常なるもの、すなわち、実体。

なんと稚拙な哲学であることか。それ自体、変化しない恒常なるものが、どうして変化を司り、変化を及ぼすことができるのか。もし、それ自体変化しない恒常なるもの実体が、変化を司り現象に変化を及ぼすと言うのであるならば、変化を司り変化を及ぼすという事自体を、どう考えれば良いのか。司ること、および、何かを及ぼすこと、それ自体、変化している事に他ならないではないか。まさに、矛盾した言説以外の何ものでも無い。彼らが言う実体とは、本来、ある現象の内に在って、その現象に、ある変化を及ぼし、かつ被る、その現象内の内部現象と言うべきものなのです。

実体論者たちが、それは違う、現象の 根底には必ずや、生成変化している現象とは全く関係の無い、不変にして唯一の実体が在るのだ、と言うのであるならば、まったく関係の無い実体が在ったとして、それは、まさに字義通り、現象である我々とは、まったく関係の無いものでしかないのです。結局、実体とは、虚構の概念でしか無いのです。我々の経験内 容(=意識内容)に、実体が現れることは有り得ませんし、それに何らかの影響を及ぼしたり、それから何らかの影響を及ばされることも有り得ません。何故な ら、それが我々の経験内容に現れたり、影響が在った瞬間、それは実体で無かったことを証明してしまうからです。拠って実体とは、事実経験ないし経験し得る 事実として存在し得ず、尚且つ、論理的に矛盾した虚構の存在でしかない事が解ります。以上において、実体の非存在も証明された。
 
【認識論】 --平成10(1998)年11月9日に自身のWebサイトで公表したものへ加筆-- 佐々木 寛

一般的に認識というものは、対象となる事実経験(対象事実)と、論理一般(名辞:記号、概念:観念、論理:構造)の無矛盾性と、価値一般(正と負と中立の価値および全的価値と個別価値など)との妥当性という、三種の要素の整合性によって齎(もたら)されるものと考える。

非常に短いが、これで、一般的な認識については十分であろうと考える。
 
【永遠の今】 --平成11(1999)年9月26日に自身のWebサイトで公表したものへ加筆-- 佐々木 寛

われわれを含む現象の総体(森羅万象)の、一秒前の、現象の総体(森羅万象)は、もはや存在しません。そして、一秒後の、現象の総体(森羅万象)は、いまだ存在しません。

それは、一秒という時間だけでは無く、一千分の一秒という時間でも、一万分の一秒でも、一億分の一秒でも、一兆分の一秒という時間でも、同様です。

われわれを含む、一兆分の一秒前の森羅万象の汎(すべ)ては、もはや存在しません。そして、一兆分の一秒後の森羅万象の汎(すべ)ては、いまだ存在しません。

ただし、過去の現象の総体が存在したことは、確かであり、それが、悠久の過去から継起をつづけ、今現在の、われわれへと至っているのです。

たとえば、父母未生以前に、われわれは存在しません。

そして、そこでの、われわれ人間の存在価値とは、もはや存在しないものと、いまだ存在しないものの間隙(かんげき)の瞬間、その刹那に在って継起しつづける永遠の今を生きる、われわれ人間の営為そのものに在る。

ほんとうの、ほんとうの、神というのは、汎(すべ)てを悠久の昔から継起させつづける“永遠の今”なのかも知れない。 

〔注〕 上記は、下記リンク先(URL)の、私のサイトから、部分的に転載したもの。
「原文と英訳」
http://www1.odn.ne.jp/~cak23720/original-english.html

〔追記〕 我々が存在する相対的なる現象世界とは別に存在するものを想定しようが、結局それは、我々の世界と相対的に存在するものでしかなく、絶対者などでは有り得ないのです。

コメント(10)

【認識論関連】 ロック&ライプニッツ&コンディヤック

 ロックの認識論を、批判的に受け継ぎ、それを一歩、前進させたのは、コンディヤックでしょう。コンディヤックと比較して、ライプニッツの認識論には、説得力が有りません。下記は、『人間認識起源論』からの引用です。

 「スコラ学者やデカルト主義者たちは、人間の認識の起源も生成過程も知らなかった。というのも、彼らは生得観念の原理や知性に関する曖昧な概念から出発したのであるが、そうしたものはこの[認識の起源や生成の]発見と何の関係も持たないからである。これに対して、ロックは感官から出発したので、この仕事をもっと巧みになし遂げた。」(『人間認識起源論(下)』、コンディヤック=著、古茂田宏=訳、岩波文庫、2003年、244pより)
 「記号を使用することが徐々に魂の様々な働きを開発し、今度は逆にその開発された魂の働きの方が記号を完成させ、それを使用することに慣れさせていった。この両者が互いに助け合うということは、我々の経験が証明するところである。」(『人間認識起源論(下)』、コンディヤック=著、古茂田宏=訳、岩波文庫、2003年、 19pより)

 さて、幾何学における、「線とは、幅のない長さである」、などを例に上げて、これを経験に依ることのない概念だと断定することには無理が有ります。何故なら、我々は経験上、実際に、ある物の長さを物差しなどで測っている時には、その幅や厚みのことを無視(幅や厚みを無いものと仮定)しているからです。要するに、経験に依らないのではなく、逆に、長さを測るという経験から、「幅のない(幅を無視した)長さが、線として」、定義されたと考えるのが妥当です。
 また、「仮に、今この時に、ある人が、ここにコップが有りながら、無いと言えば、それは虚言(ウソ)であると同時に、論理的には矛盾でもある」というのは、日常的に、自然言語を使用する中で、経験し得ることです。要するに、矛盾という論理も、自然言語の虚言(ウソ)から導かれ得るものです。
 さらに言えば、言語が生得的ならば、言語を持たなかった野生児の実例を、どのように説明するのか? という問題も有ります。
 ちなみに、以下に引用した、フランスのアベロンの野生児の例、および上記で引用した、『人間認識起源論』の出版は、ライプニッツ死後のことですから、ライプニッツは、それらを考慮していないことになります。

 「親から遺棄されたり、野獣にさらわれたりして動物たちとともに生活する子供は物語によく登場するが、実際に発見された子供はヨーロッパを中心にして数十例の報告がある。とくに有名な記録は、18世紀末フランス、アベロン地区コーヌの森で発見され教育者イタールにより訓練された11〜12歳の少年ビクトールVictor(アベロンの野生児)、20世紀初めにインド、ミドナポルの森でオオカミに育てられたおよそ8歳と2歳の2人の少女(アマラとカマラAmala & Kamala)などの教育訓練・養育の記録で、広く公刊され、学問的にも価値が高い。これらの野生児はいずれも発見されたときには言語をもたず、人間としての感情に欠け、野生としての行動が特徴であった。」(『日本大百科全書』、「野生児」、小学館より)

追記:私の認識論は、ロックの認識論を、批判的に受け継ぎ、それを一歩、前進させた、コンディヤックの認識論を、さらに一歩、前進させ得たものだと自負しています。
ライプニッツは、『人間知性新論』において、知的観念や概念は、感覚に由来するものではなく、生得的だと主張している。その理由として、幾何学における公理(すなわち、「線とは、幅のない長さである」など)を例に上げ、これを経験に依らない概念だとしているのだが、上記で私が述べたように、これは経験から習得的に得られる概念である。また、矛盾という概念も、自然言語(規約)習得過程で、虚言(ウソ)の存在から、同様に後天的に得られるものである。依って、ライプニッツの説には、説得力がない。
補足:私の認識論は、ロックの認識論を、批判的に受け継ぎ、それを一歩、前進させた、コンディヤックの認識論を、さらに一歩、前進させ得たものだと先に述べましたが、実は、経験論の祖と言われる、ロックおよびベーコンより、2千年ほど前に仏教哲学が、経験論的に、五官および六根による知覚を重視していますし、植民地化などで西洋が東洋へと侵略してきた時期とも符合しますので、歴史的に、西洋の経験論哲学は、仏教哲学の影響による可能性が高いと私は考えています。それはさておき、取り敢えず、ロック以降を要約すると、認識は、感官からの経験によると述べたのがロックで、それに言語(記号)の重要性を付け加えたのが、コンディヤックです。さらに私は、それらに加え価値の重要性と、その三つの要素の整合性が重要だと考えています。
 幾何学の公理は、私が幾度か述べたように経験に由来すると考えています。要するに我々は、「経験的に、長さを測る時には幅を無いものと仮定」していますから、「幅の無い長さ」という線の定義は、そこからのものだと考えられます(もう一つ付け加えるなら、細く伸びた髪の毛や糸のような観念(イメージ)と、先に述べた「幅の無い長さ」という概念との複合されたもの〔観念:概念〕だとも考えられます)。
 さて、長さは、換言すれば、距離でも有ります。人が両手を広げた長さを「一尋(ひとひろ)」とも言うそうですが、たとえば真っ暗な部屋の中に居るとして、そこで部屋の壁沿いに、一尋(ひとひろ)、二尋(ふたひろ)…と、自らが動き、測れば、真っ暗でも部屋の中の、その方向の距離が測れます。当然、この場合、自らの体が動けるのでなければ、その距離は分かりません(この場合、動けるというのは、経験できるということでも有ります)。
 要するに、幾つかの向き(3次元)に距離(一尋の回数:数値)を考えれば、広がりのある空間(座標)をイメージできます。ただし、ここには、長さを測れるという経験的な要素が含まれていることを忘れてはならないと考えてもいます。参考までに、以下に、少し引用します。

 「…ニュートンにとって空間は、いかなる事物にも先立って存在し、いっさいの事物がそのなかで生起する〈容器〉のごとき概念として理解されていたことは確かであろう。デカルト的な三次元座標によって表現されるにしても、空間は三方向に一様に広がり、しかも、経験的事物とは無関係に存在するのである。その意味では、空間は、存在論的にいっさいの事物に先行するものであり、その点で〈絶対的〉でもあることになる。一方これに対して、アリストテレス的な関係論的解釈を洗練徹底し、ニュートンの絶対主義的な空間解釈と対立したのはライプニッツであった。ライプニッツは、事物の存在に存在論的に先立つ空間という考え方を否定し、事物の存在に伴って初めて現れるさまざまな関係(順序、位置など)がわれわれに空間という概念を与えるにすぎないと考えた。これを空間の関係主義的解釈と呼んでおこう。」(『世界大百科事典』、平凡社、「空間」の項より)

 上記で、引用したように、ライプニッツが空間について、相対的な関係(運動および経験を含む)を重視するというのは、幾何学の公理が経験に依らない知識だとする考えとは、首尾一貫しない説明です。空間が、相対的な関係に依るなら、幾何学の公理も同様だと、ライプニッツは考えるべきだったと、私は思っています。
 また、ここで、ニュートンの、「経験的事物とは無関係に存在する」、空間概念というのは(任意に基準点と事物の運動を設定できる)思考実験をする時に、「経験的な事物を無いものと仮定した」、空間だとも考えられますが、これは、「長さを測る時に幅を無いものと仮定したこと」と、同様のことだと考えることもできます。要するに、ニュートンの言う、絶対空間の絶対とは、多分に修飾語的なものにしか思えません。

 竜樹「八不」(『中論』、三枝充悳=訳注、レグルス文庫)より、引用します。

  不生亦不滅(不生にして亦た不滅)生ずることもなく、また、滅することもない。
  不常亦不断(不常にして亦た不断)常住でもなく、また、断滅でもない。
  不一亦不異(不一にして亦た不異)同一であることなく、また、異なっていることもない。
  不来亦不去(不来にして亦た不去)来ることもなく、また、去ることもない。

 上記引用は、空(くう)について書かれたものです。この思想の背後には、近代科学のエネルギーに近いものが、指し示されているように考えています。すなわち、真空妙有とは、固定的実体の無い真空の純粋なエネルギーのような存在についての確信とも言えます。ちなみに、広辞苑によると、エネルギー保存の法則とは、「「外部からの影響を受けない物理系(孤立系)においては、その内部で、どのような物理的あるいは化学的変化が起っても、全体としてのエネルギーは不変である」という法則。無からエネルギーを創造し得ないことを示す、物理学の根本原理の一」と有ります。そうだとすると、無から宇宙が生まれたとするような、ビッグバン宇宙「開闢」論などは、エネルギー保存の法則と、明らかに矛盾することになるとも考えています。

 注;4と5を削除、修正し6として投稿。
カシミール効果 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%B7%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%83%AB%E5%8A%B9%E6%9E%9C

零点振動 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%B6%E7%82%B9%E6%8C%AF%E5%8B%95
 幾度も述べましたが、我々は「経験的に、ある物の長さを測る時には、幅を無いものと仮定」していますから、「幅の無い長さ」という線の定義は、そこからのものだと考えられますし、もう一つ付け加えるなら、細く伸びた髪の毛や糸のような観念(イメージ)と、先に述べた「幅の無い長さ」という概念との複合されたもの〔観念:概念〕だとも考えられます。要するに幾何学の公理とは、このように経験に由来し、経験を基に仮定された、議論の前提となる、規約なのです。

 言葉や規約が生得的(先天的)でないことは、以前紹介した、言葉を持っていなかったアベロンの野生児などの実例でも分かりますし、また、我々が、母親などに育まれながら、後天的に言葉を、赤ちゃん言葉から習得してきたのは確かでしょう。そして、我々が、幼稚園や小学校に入る前には知らなかった言葉を、その後、少しずつ習得し、発達してきたことも、経験された事実ではないでしょうか…。

 ただし、言葉の習得以前に、習得できる能力を有する、“識”(シキ:ビジュニャーナ)が先天的(生得的)なものとして存在していることは確かです。そして、それが、経験を成り立たしめる重要な要素であると言えます(なお、この場合の、“識”には、意識と無意識も含まれます)。ちなみに、清水の舞台で有名な京都の清水寺は、仏教唯識派(法相宗)の寺で、ライプニッツが生まれる、800年以上前に開山されています(イギリス最古のオックスフォード大学より古く、唯識思想の研究教育機関としての役割もあるのだと思います)が、その唯識思想において、いわゆる無意識は、末那識(七識)に含まれるものでしょう。そして、唯識的に言えば、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識などの五感(五識)、および、意識(六識)と末那識(七識:無意識)をも、成り立たしめるのが、阿頼耶識(八識)であると考えています。

 すなわち、「我々の“識”は、我々自身にとって、先天的」なものなのです。
>>[6]

仏教における空をエネルギー不変の法則になぞらえることは、理解のための方便の一つとしてはいいとしても、かえって空を誤解することにもなるのではないかと思います。
>>[8]

>言葉の習得以前に、習得できる能力が有る“識”(シキ:ビジュニャーナ)が先天的(生得的)なものとして存在していることは確かです。そして、それが、経験を成り立たしめる重要な要素であると言えます(なお、この場合の、“識”には、意識と無意識も含まれます)。


唯識仏教を援用しなくとも、西洋哲学においてももちろん、言語の習得以前に習得能力を含む心的機能が存在することは認めていると思いますが、
仏教においては、「心にしろ身体にしろ、本当に自分のものではないのだ」というところが「生得的」という考え方と大きく異なるところですね。

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