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江戸の水路をたずねてコミュの 隅田川と江東デルタ地帯

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 SCごんぞうさんから詳しいコメントを自己紹介欄にいただきましたので、それを下記に全文引用すると共に新しいトピックを立てました。やはり江戸の水路といえばこの地区が一番人気でしょうか。

SCごんぞうさんのコメント
” Stephen Cabotさん スノウさん

「墨東」と言う言葉は、言葉の成立した時代はハッキリしませんが、江戸時代後半以降に、隅田川の東側の地域を指す名称として生まれた言葉です。
当時は、向嶋地区に寄宿する文人墨客も多かったことから、小説の中にもこの呼び名は時折登場します。
特に、この地域の事を書いた作品を多く残した作家の、永井荷風の代表作の一つ「墨東綺壇」で今も残る地域名称です。

なので、役人が付けた「赤線」や「青線」とは異なりますよ。(^^;

それから、江東デルタ地帯を中心に張り巡らされた運河に浮世絵の面影を求めるとしたら、これは、なかなか困難を極めます・・・

知っての通り、この地域は1945年3月10日未明の東京大空襲で壊滅的な打撃を受け、名所旧跡の大半が灰燼と期してしまいましたし、また、戦後の高度経済成長期に相次いで細い運河から埋め立てが始まり、あっという間に道路に変貌してしまった所も少なくはありません。

ただ、再興された史跡などでかろうじて面影を残している所もありますので、そう言ったものを探し当てる旅はおもしろいと思いますよ。

ともかく、どの程度お役に立てるか判りませんが、今後とも宜しくお願いいたします。m(__)m”





 それにしてもこの地区をひとまとめにしたいい言葉がないですねえ。
 とりあえずこのトピックでは江東デルタ地帯としましたがもっと風雅な地名はないものか。
 墨東というのはすばらしい言葉だと思うんですが、これだと本所・向島などの北部限定で、深川などの南部が抜けてしまうし… それとも荷風の墨東綺譚があまりにも有名になりすぎたため、あのあたりが墨東だと思いこんでいるだけで、隅田川の東という意味なら深川あたりも広い意味では墨東なのか… もっとも本所地区と深川地区の住民の間には昔からの微妙な感情の齟齬があるような気もするので、一緒に表す言葉などは必要ないのかもしれませんが。

 隅田という地名も元々は州田とか住田だったらしくこれなら何となく意味はわかります。これに対して隅田とか墨田とかいうのは完全に当て字みたいですが、同じ当て字でも墨田という方が何となく風雅です。(元々は利根川の堂々たる本流だったのが今では荒川放水路の支川という状態で隅っこにおしこめられてしまったという意味では隅田の方がふさわしいかもしれませんが)。
 墨田・そして墨東が風雅に感じる理由は文人墨客からの連想でしょうが、墨田という当て字が使われ始めたのは吾妻鏡の時代からだそうですので、墨客などはいなかったでしょう。それが墨堤、墨東という言葉が江戸時代後期以降に現れたときには文人が住む風雅な地というイメージができていました。
 そして墨というのは水に溶いて書画に用いるという意味で水と縁が深く、サンズイのある濹と書くと隅田川のイメージをよく表していますが、実は書画などよりも入墨に使用する方がはるかに歴史は古いとか。それもまた侠気の表れとしてこの地区にふさわしいような気もします。

 とりとめもない話になりましたが、もっと実用的?な入り組んだ運河網の名所旧跡めぐりから古の江戸に思いをはせる話などで盛り上げていきましょう。

コメント(20)

 この地区は水路が縦横に走っているため、“十字水路”というべき地点がたくさんあるが、その中で私の一番のお気に入りが大島川と平久川の交差点である。
 写真は左が東富橋から見たもので前後に流れているのが大島川、左右に流れているのが平久川である。この十字水路には横断歩道のように東富橋、平野橋、汐見橋、平久橋の四つの橋が架かっているのだが、どうもうまい撮影地点がない。右の写真は汐見橋から見た平久橋であるが、水路は完全に90度に交差しているのではなく微妙にずれているので高所から俯瞰しない限り全体像は良くわからない。

 大島川は現在の河川法?からは大横川の一部とされているので、官製の表示板などには大横川と書かれているのは伝統無視もはなはだしい。この地区のタテ(ex竪川)とかヨコ(ex大横川)とかいうのは江戸城から見てタテヨコに走っているところからの命名であり、タテに流れている大島川を大横川の一部にしてしまうというのはいただけない。

 それにしても江戸城天守閣から観たこの地区(この地区だけでなく江戸全体といってもよいが)の水路はさぞ壮観であったろう。
 江戸城天守は明暦の大火で焼失したのだが、残念ながら再建されなかった。もはや太平の世なのであるから天守などは費用の無駄使いで必要なしという老中か何かの提言が採用されたそうであるが、現代の政治家の人気取り発言みたいでつまらない提言をしたものである。国民の味方みたいな正論風の発言に誰も反対できなかったのだろうか。
 今江戸城天守が残っていれば、どれほど東京の都市としての“格”がちがっているか。故宮のない北京、クレムリンのないモスクワを想像してみればわかるだろう。費用がかかるからやめておこうというのは、安く高速道路を作るために日本橋川をふさいでしまおうというのと同じような発想ではないか。江戸時代の都市計画・都市政治は実に立派だと思うが、この決定だけは残念である。
 もっとも今頃になって観光客向けに各地にあるようなコンクリート造りの江戸城を再建しようとするのはどうかと思われる。どうせやるならオリジナルの姿で再建しなければつまらないし、それが現在の技術ではできないというならやめておいた方がいいのではなかろうか。
 私は別に古ければいいとは思わないので(どんなに古い建築・文化財でもできたときは新品)、酷評された再建薬師寺西塔も当時の人々の美意識を良く表していていいと思った。あと1000年も経てば東塔と同じようなワビ・サビが出てくるだろうし。
 水路が縦横に走る(走っていたという方が正確か)江東デルタ地区にはあちこちに十字水路(または十字水路跡)を見ることができる。

 それではその中でも特大級のものはどれかというと、それは写真に示した荒川放水路と中川の十字水路であろう。荒川放水路が大きすぎて普通はこれが十字水路であるとは気がつかないが、写真の左右に流れるのが荒川放水路であり、前後に流れるのが中川である。手前に見えるのが旧中川の取水口の水門で荒川の対岸に見えるのが中川が新中川(現中川というべきか)の川筋に入る部分に荒川との交差点に設けられた水門である。
 十字水路だけでも充分珍しいのに、何とこの十字水路はその両側に水門を構えるという構造であり、これは小名木川のトピックで取り上げた小名木川と横十間川の交差点にかかるクローバー橋と並んで天下の奇観というべきではないだろうか。

 こんな珍しい地形ができたのは、中川をぶった切るように荒川放水路が掘削されたためであり、そのためにこの十字水路から下流の中川は旧中川と呼ばれるようになった。
 旧中川はその下流で再び荒川放水路に合流する狭く短い流れになってしまったが、東京大空襲のときには3000人以上がこの川に追い詰められて亡くなったそうである。

 荒川放水路の掘削は1913年に工事開始・1924年に注水開始と大正時代のことであり、それまでは隅田川が荒川であった。…というと何のことかわからないが、家康入府以前は隅田川と江戸川の間の地域が中川(というより中川湿地帯というべきか)も含めて利根川・荒川水系の下流部であったのだが、利根川東遷により関東北部を水源とする利根川と秩父を水源とする荒川の水系を切り離し、荒川水系は隅田川に流れるようにしたのである。江戸時代の隅田川は現在よりはかなり広かったようだが、それでも荒川水系の水をすべて流すには無理があり、この地帯には洪水・冠水の災害が絶えなかった。
 そこで掘削されたのがこの荒川放水路であり日本水路工事史上空前絶後の大工事といえるだろう。いや水路の規模だけならこれ以上の工事はいくらでもあるが、この水路は東京のど真ん中を通す工事であり、工事区域に住んでいた住民への影響を考えれば今後はこのような工事は不可能であろう。
スノウさん

 もちろん深川・木場は江東デルタ地区の南の中心ですから。
SCごんぞうさん

 富賀岡八幡に袖ヶ浦に吾嬬神社…
 ウーム、こうしてみると江戸時代の江東地区−いや城東地区というべきか−は“川向こう”というイメージでくくられてしまいますが、実はさらに昔にはこちらの方が中心だったのかもしれませんね。
 湿地帯というのは考えようによっては水運の便が良いともいえるわけで、現在の江戸川から隅田川の間の湿地帯は利根川・荒川水系の水路の扇の要のような地域だったのかもしれません。もちろん江戸時代のような整備された水路ではなく、梁山泊のような迷路みたいな水路でしょうが。

 ヤマトタケルとオトタチバナヒメの挿話もこのあたりの歴史に深く関わっているのかもしれません。SCごんぞうさんは“江東版”なんて書かれていましたが、本家?らしい顔をしている“千葉版”に比べるとこちらの方が説得力があるような。
 実を云うと私もお江戸漫遊連というコミュの“江戸はなぜ江戸なのか”というトピックで、この件に関して珍説を展開しています。(http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=34711749&comm_id=1970271&page=all)

 富賀岡八幡は富岡八幡の元八幡というのも面白いですね。
 どうも富岡八幡の由緒というのは私もよくわからないし、富岡八幡自身も横浜の富岡八幡との関係も含めあまり語りたがらないような印象があります。
 八幡のヒエラルキー?はいうまでもなく、大分の宇佐八幡を頂点として、京都の岩清水八幡がこれを勧請し、さらに源頼義が岩清水から勧請した鎌倉の鶴岡八幡が清和源氏の総氏神?となるわけですが、どうも富岡八幡の位置付けというのがよくわかりません。
 徳川氏も源氏を称する以上、お膝元の富岡八幡は軽々しくは扱えないとは思いますが、さすがに足利氏のように清和源氏の嫡流を称するわけにはいかなかったので、八幡さんにはあまりこだわらなかったのか。
SCごんぞうさん

 江戸の語源をどう考えるかは、“江”というのを利根川・荒川水域の河口部湿地帯乃至江戸湾全体と大きくとらえるか、または家康が埋め立てた日比谷入江乃至そこに流れ込んでいたと思われる(異説もありますが)神田川・日本橋川の元々の姿であった自然河川と小さくとらえるかが問題であると思います。
 私はどちらかというと日比谷入り江の存在を重視して後者の可能性が高いかと思っていたのですが、SCごんぞうさんの城東地区(江戸城建設などよりはるか昔ですから城東というのもおかしいのですが)に古代の宿駅があったという説を聞きまして、なるほど当時の江戸の中心がそちらだったというなら大きくとらえた方がいいのかなという気にもなってきました。

 これは江戸という言葉が最初に出てくる江戸氏の江戸館がどこにあったのかという問題ともつながります。頼朝に最初は敵対し、後に服属した江戸氏の本拠地は特に証拠もないまま何となく現在の皇居の地ではないかという説が強いようですが、これは見直す必要があるかもしれません。
 江戸氏は船戦・川戦が得意な一族のようですのでそうなると本拠地は日比谷入り江よりも城東地区にあった方が防衛上有利であると考えることもできます。

 また江戸氏は桓武平氏の流れであり、もともと坂東の地は平将門が中央から独立しようとしたように平氏の勢力圏でした。東国に源氏の勢力が伸びてくるのは、頼義・義家の親子二代の活躍によるものであって、そのとき以来坂東の平氏は多くは源氏の勢力下に入ることになります。
 というか当時は源平の対立などはなかったといってもよく、坂東の平氏は別に源氏に屈したなどという意識は感じなかったと思います。また頼義の正室・義家の母も平氏の出身です。
 後の源平の争いは桓武平氏の一分派である伊勢平氏と源平連合軍の戦いのようなものでしょう。頼朝の配下には多くの坂東平氏がおり、源家そのものが3代で絶えてその後は平氏の一門の北条氏が鎌倉政権をになっていくことになります。

 頼義から頼朝に至る時代に、地元の神社が次々に八幡さんに宗旨替えというのはいかにもありそうですね。
 頼義が岩清水から勧請した鶴岡八幡のようには創建の由緒がはっきりしていないというのは、その宗旨替えの影響かもしれません。
伊勢平氏の末裔とは…三代続けば江戸っ子といいますが、これは三十代は続いていそうですね。

 江戸氏から江戸の地名がとられたのではないかというのは刺激的な仮説ですね。
 ひょっとしたら城東地区が地形的に江戸と呼ばれていたのでそこを本拠として江戸氏を名乗り、その江戸氏が現在の皇居の地に館を構えたのであそこが江戸と呼ばれるようになったとか… 地名→人名→地名というのはよくありますから。
 和田倉門と半蔵門の標高差が30Mもあるとは…
 なるほど案外皇居というのは城の縄張りに適した要害の地みたいですね。日比谷入江がある頃は湊としても機能していたわけですから、誰が考えてもあそこが中心で定説通り江戸氏の江戸館もあそこにあったと解すべきかもしれません。

 利根川・荒川水系の河口部が現在の隅田川と江戸川の間で湿地帯を形成していたとすると、武蔵の側が現在の皇居の地で下総の側が国府台で湿地帯の両側の小高い丘に陣取るような形になります。
 となるとその中間の湿地帯というのも案外経済的・軍事的に重要な早くから開けた地帯ということになりそうです。

 隅田川というとつい江戸時代の華やかなイメージを思い浮かべてしまいますが、そういわれれば隅田川には在原業平→梅若伝説→能や歌舞伎・舞踊の“隅田川”と続くもの悲しげな、そして狂おしげなもうひとつのイメージがありますね。
 王朝人にとっては富士山は見たことはなくても富士のイメージははっきりしていたように、隅田川といえば業平を思い出してかなり“有名な”川だったと思います。そのイメージは鎌倉から室町へ受け継がれ能の“隅田川”が成立する…
 その伝説の地の果て(笑)のような隅田川の一帯がある日突然日本の中心になって、大繁華街となったら…
 “隅田川物”が色々な分野で流行したことからもわかるように、江戸時代人にとっては隅田川というのは単なる脳天気な繁栄の象徴ではなく、何か狂気を秘めた悲劇的なイメージがまだ残っていたのではないでしょうか。

 その伝説の時代を具体的に示そうというのが隅田宿ですか。
 これはぜひ発掘で明らかにしてもらいたいものですが、荒川放水路開削のときにどうなってしまったか…
 今の鐘ヶ淵あたりに渡し場がありそこに隅田の宿があって東国へ通じていたとして、それがなぜ江戸時代には上流の千住へ渡し場や宿が移ってしまったかが問題ですね。
 業平の時代から室町時代まで?栄えていた宿が数KMとはいえ、上流へ移ったというのは何か理由があったのか… その数KMの間に現隅田川の大屈曲点があるのですから何か水運・治水工事に関係がありそうですが…

 例の団子屋の宣伝のおかげで業平の故地が数KM下流に移って言問橋ができてしまったという笑い話も含め、これまであまり注目されてこなかったこの地域に光を当てるのは意義がありそうです。
 よく考えてみると宿が鐘淵にあったという墨田の宿から千住に移った理由は自明で、千住大橋ができたからですね。千住大橋の架橋は家康の江戸入府まもない1594年ですから、このときから奥州・水戸方面への街道がこのルートに変わったのでしょう。
 千住に橋が架けられたのも戦略上の理由などではなく、単にあそこが一番川幅が狭かったからじゃないかな。大屈曲点の下流では川の流れが渦巻くのでということもあったかも。

 吾妻橋や言問橋付近にも業平ゆかりの史跡?があるという話は知りませんでした。私が読んだ本では、業平の渡河地点は昔から橋場の渡しあたりとされていたのに団子屋の宣伝によって下流に移ってしまったと書かれていたもので…
 まあ業平は隅田川まで来なかったという説もあるくらいで、渡河地点が明らかにされることは永久にないでしょうからどちらでもいいようなものではありますが。

 そういえば梅若伝説の地も川向こうではなく浅草の側だと力説した論文?も読んだことがあります。すぐに亡くなってしまうような病気の子供をわざわざ船賃を払って向こう岸に渡すはずはないとか何とか色々書かれていました。
 まあ“隅田川”というのは母が船で向こう岸に渡る途中に船頭から我が子の消息を聞くという観世元雅の構成がすばらしいのであって、あんまり史実?を追求してもしょうがないと思いますが。

 蘇東坡の赤壁賦を詠んだ場所が実際の戦場とは関係なくとも長年にわたり文人墨客や観光客から“認定”されてきた場所ならそれはそれで史実の戦場以上に?価値があるのではないかというのと合通じるものがありますね。

 そういう意味では、業平・梅若伝説と続くこの地はもっと研究を進めて観光客にアピールする必要があるでしょうし、タワー建設との相乗効果も期待できると思います。
 業平が神様というのもありそうな説ですし、何なら今から祀っても…
 隅田川に最初に架けられた橋である千住大橋をわたると、吾妻橋などの下流の橋に比べるとかなり短いのがわかる。
 これは隅田川は鐘ヶ淵大屈曲点(写真)からかなり広くなっているからであり、古来ここが水が渦巻く船運の難所とされていたのも納得できる。なお荒川放水路と隅田川の流量調整は4対1だそうなので、大正時代の荒川放水路掘削以前には隅田川には現在の5倍の水量が流れていたことになる。さらに遡って江戸時代の利根川東遷以前にはどれほど大量の水が流れていたか…おそらく隅田川と江戸川の間は大雨でも降ればたちまち海に近いような状態になってしまったであろう。

 まだ戦国の一大名であった家康の江戸入府当時の技術力・経済力を考えると、やはり架橋地点は狭い所を選ぶのが当然であり、この千住大橋の架橋により奥州街道・水戸街道のルートはここを経由することになり、この橋の両側に千住宿が設けられた。なお千住という地名は千軒もある繁華な宿からとったわけではなく、室町時代の片田舎であった頃からの地名で川から千手観音が引き上げられて云々ということだそうである。

 ところでよくわからないのは、千住宿は橋の南北に街が広がっていたが江戸時代から北の方が繁華であり、現在も北千住は大繁華街を形成しているが南千住は何か寂れた雰囲気があることである(現在は山谷の雰囲気も変わったし、大マンション群建設によりイメージが変わりつつあるが)。
 隅田川を渡っただけでなぜこんなに雰囲気が違うのか?それも“川向こう”の方がにぎやかであり、曲がりなりにも“大江戸八百八町”の内であった方が寂れているのはなぜか?南には小塚原刑場があったから嫌われたとも考えられるが、刑場だって一種の“産業”には違いないし…

 私の考えでは、これは江戸からの最初の“宿”として人々の感覚に訴えるところからきたのではないだろうか。即ちこの宿を利用する人はこれから江戸へ入る人はこんなところで泊る必要はないのでほとんどおらず、これから江戸を出る人が知人と別れを惜しんだりする宿だったと思われる。そういう場合にまだ川も渡っていないのでは、旅の気分も盛り上がらないし、見送りに来た人もここまで送ってきたという満足感を味わえないような気がする。
 千住宿といえば芭蕉が奥の細道に旅立つ起点であり、芭蕉も北千住で門人たちと別れを惜しむ宴を開いて作句し、北千住のあちこちに芭蕉ゆかりの地として観光客向けの像や碑がある。やはりこれは隅田川を渡った地点でないとはるかな陸奥への第一歩という気分が味わえないからであろうし、"行春や鳥啼き魚の目は涙"というのも川を既に渡っているからこそ万感こもる名句であるといえよう。

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