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橋本 忍コミュの七人の侍

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七人の侍http://www.google.co.jp/search?hl=ja&q=%E4%B8%83%E4%BA%BA%E3%81%AE%E4%BE%8D%E3%80%81%E6%A9%8B%E6%9C%AC%E5%BF%8D&btnG=Google+%E6%A4%9C%E7%B4%A2&lr=

七人の侍コミュニティhttp://mixi.jp/view_community.pl?id=102265

七人の侍’54・東宝       
製作:本木荘二郎
監督:黒澤 明
脚本:黒澤 明
    橋本 忍
    小国英雄
撮影:中井朝一
美術:松山 崇
録音:矢野口文雄
照明:森 弘充
音楽:早坂文雄
時代考証:江崎孝坪

出演:志村 喬
    三船敏郎
    木村 功
    加東大介
    宮口精二
    稲葉義男
    千秋 実
    
    高堂国典
    左 ト全
    小杉義男
    藤原釜足
    土屋嘉男
    津島恵子
    島崎雪子
    渡辺 篤
    東野英治郎 
    山形 勲
    上田吉二郎
    多々良純
    清水 元
    ほか多数 物語

野武士の群れが峠の下の村を見下ろしていた。「やるか・・・この村も」「待て待て、去年の秋、米をかっさらったばかりだ。今、行っても何もあるめえ」「よーし、あの麦が実ったら、又、来るベえ」・・・

時は戦国時代。野武士の横行は毎年、農民達の生活を脅かしていた。戦って勝てる相手では無いが、若い利吉は何故か戦うことを主張した。「やるべす!」との長老儀作の一言で方向が決まった。「そら、無茶だ!」と万造。「侍、雇うだ!」儀作は続けた。「お前らの村が焼かれてこの土地に逃げて来る時に見ただ。焼けてねえのは、侍雇った、その村だけだった」「・・・百姓のために戦う侍があるべか、侍は気位が高いだぞ!」儀作は言った。「腹の減った侍、探すだよ。腹が減りゃ、熊だって山おりるだ・・・」

かくして、万造、茂助、与平、利吉の四人は侍探しの旅に出た。しかし、侍は気位が高く、百姓のために人肌脱ごうなどと言う物好き者がそうそういる筈は無い。
そんな時4人は、事件に遭遇した。一人の侍が頭を剃り、僧から袈裟を借りると、握り飯を二つ手にして納屋へ近づいた。盗賊が子供を人質に納屋に立てこもっていて、皆、為すすべが無かったのだ。「腹が減ったろう」と握り飯を中へ投げ込んだ瞬間、侍は納屋の中へ飛び込み、盗賊を倒したのだ。

つるつる頭を撫でながら勘兵衛が街道を歩く。後を追う四人の百姓。弟子にして欲しい勝四郎、それに、長刀を担いだ菊千代。

木賃宿で四人からの話を聞いた勘兵衛だが、「出来ぬ相談だな」しかし、その目は必死に考えを凝らしていた。「どう少なく見積もっても・・・わしを入れて七人・・・」そのうちに、しょげ返っている百姓を見て、人足が悪態をつき出した。「死んじめえ、死んじめえ、その方が楽だぜ」「下郎!口をつつしめ!貴様らにはこの百姓の苦衷が解らんのか!」と勝四郎。「ヘン。笑わしちゃいけねえ、解ってねえのはお前さんたちよ」「なに!」「解ってたら助けてやったらいいじゃねえか」
この争いに割って入った勘兵衛、人足からめし椀を受け取り言うのだった。「このめし、おろそかには食わぬぞ!」4人の顔が輝いた。勘兵衛は百姓達の願いを聞き入れたのだった。

勘兵衛を頭に、五郎兵衛、平八、七郎次、久蔵、勝四郎、それに菊千代と、七人の侍が集まった。

万造達と七人の侍が部落へやって来ると、皆、家の中に閉じこもって迎えにも出ない。侍に怯えているのだろうか。こんなことで、侍と百姓が野武士と戦えるのか。水車小屋の長老、儀作の所へ相談に行く。「村の者は我々の何を恐れているのかな」と勘兵衛。儀作はただ目をつぶっていた。「・・・・・・・・・・・」
と、その時、激しい板木の音が鳴り響いた。「カン、カン、カン、・・・」野武士が来たと侍達が走る。村の広場は飛び出して来た村人でごった返した。「お侍様〜、お侍様〜」 「うろたえるな!」勘兵衛が一喝。「野武士を見た者はこれへ出ろ!」誰も出ない。「では板木を打った者は誰だ!」 「俺だァ!」菊千代が踊り出た。
「やい!抜作ッ!」と菊千代。「俺達が村へ来た時、おめえ達はどんな面で出迎えた? そのくせ、俺が一寸板木ぶっ叩いたら・・・お侍様〜、お侍様〜・・・フン・・手合わして拝んでけつかる!」その時、百姓達の群れが二つに割れ、杖をついた儀作が現れた。菊千代「爺い、なんか文句あるのか?」儀作「これでええ!」 百姓達と侍達の奇妙な結合の場がそこにできたのである。

勘兵衛は村の地図を作り、東西南北を検分する。百姓達は四組に分けられ、戦闘訓練を開始した。馬止めの柵作りの七郎次組。竹槍の訓練をする久蔵組。実践の心得を聞かせる平八組。整列させ檄を飛ばす菊千代組。「写真(1)」

まだ若い勝四郎は裏山の花の中で寝て、花の香りを胸一杯に吸い込んでいると、人の気配に飛び起きた。花を摘んで手に持った志乃の姿があった。侍と百姓の娘の許されぬ恋がここから始まる。


「大漁、大漁!」菊千代が鎧や兜に身を包み、その後を百姓達が運んできた刀、弓矢の数々。「どこから持ってきた!」勘兵衛の顔が険しくなった。「上物だぜ」と菊千代。「それでも侍か!この鎧は百姓が侍を突ッ殺して手に入れた品物だぞ!」と七郎次。「まあ待て、落ち武者になって、竹槍に追われた者でなければこの気持ちはわからん」と勘兵衛。無口の久蔵までが「俺はこの村の奴らが斬りたくなった!」と吐きすてた。・・・・・・・・・・場が重苦しく白けきった。
突然、菊千代が立ち上がった。「ハハハ・・・・こいつァいいや」いつに無く真剣な眼差しである。「一体、百姓を何だと思ってたんだ?神様だとでも思ってたか?・・・・百姓位悪びれした生き物はねえんだぜ!」菊千代は、生きるための百姓の行為をなじる侍達を攻め立てた。「・・・・そんな、けち臭いけだもの作ったのは誰だ?・・・お前達だぜ!侍だってんだよ!」菊千代は泣いていた。狂ったような絶叫だった。「・・・・百姓はいったいどうすりゃいいんだよう・・・」  やがて、「貴様、百姓の生まれだな?」と勘兵衛が言うと、菊千代はうろたえて出て行った。
勘兵衛の戦略上、川向こうの水車小屋(儀作の家)と茂助達三軒の家を引き払う必要があった。それを不服として、茂助達は槍を投げ捨てた。「自分の家捨てて他人の家守るためにこんな物かつぐことァねえ!」その時である。「待て!」勘兵衛の大音声。「その槍を取れ!そして列へ戻れ!」勘兵衛は抜刀し走った。青くなった茂助達は槍を拾い列へ戻った。「・・・他人を守ってこそ自分も守れる!戦とはそういうものだ!おのれの事ばかり考える奴は、おのれをも滅ぼす奴だ。今後・・・・そういう奴は・・・・」勘兵衛の強烈な叱咤に、百姓達はもちろん侍達も身を引き締めたのだった。「写真(4)」

麦が実り、刈り入れが始まった。どこに隠れていたのか、村の娘達が麦の刈り入れ作業。菊千代ははしゃいで娘から鎌を取り上げ、馴れた手つきで麦を刈りまくった。

遂に野武士の襲撃が始まった。まず、物見の三人を久蔵と菊千代が倒した。死ぬ前の野武士の話から、敵は四十騎。山塞もある。利吉の案内で、久蔵、平八、菊千代の四人が山塞の夜討ちを決行した。

山塞に火を放った。見る見る火は燃え広がり、不意を突かれた野武士たちが出てくるところを待ち構えた久蔵達が斬る。一人の女が出てきた。利吉がそこへ走った。無言の二人。ふいに女は火の中へ飛び込んだ。追う利吉を平八が必死に連れ戻そうとした、その時、「ダーン!」銃弾に平八が倒れた。
女は野武士にさらわれた利吉の女房だった。

ここから野武士の逆襲が始まる。野武士の一団は西の山を駆け上り、部落から離れた水車小屋に火を放った。燃え盛る水車小屋に菊千代が走る。勘兵衛が「引け!引け!」と叫ぶ。水車小屋から赤子を抱いた女がふらりと出てきて倒れた。「槍だ!よくぞ、ここまで!」と勘兵衛。赤子を受けた菊千代は泣き崩れた。「こいつは俺だ!・・俺もこのとおりだったんだ!・・・」

夜になり、種子島が気がかりな勘兵衛を察して、「俺が行く」と久蔵が山へ向かった。霧が立ち込める中、久蔵は帰ってこない。勝四郎は気が気でなかった。「もう、良い・・・」勘兵衛が言った、そのとき、霧の中におぼろげに人の姿。久蔵だ。種子島を一丁差し出し、「二人」と言って、木に寄りかかって休む久蔵。勝四郎はそんな久蔵に近寄った。「・・・貴方は・・・素晴らしい人です!・・私は前からそれが言いたかった!」 久蔵の顔が一瞬、はにかんだ。

菊千代も種子島を奪おうと、持ち場を離れて山へ向かう。帰った菊千代の手に種子島はあったが、勘兵衛は叱った。菊千代の持ち場に野武士が攻めてきた。菊千代は我を忘れて暴れた。しかし、五郎兵が種子島に倒れた。勘兵衛の悲嘆は大きかった。

いよいよ、明日は決戦。その夜。志乃は勝四郎に言い寄った。「明日、死ぬんだべ!みんな、死ぬんだべ!」二人は、藁の中へもつれ、倒れこんだ。

最後の決戦が来た。土砂降りの雨の中の戦いである。野武士の一団が水神の森からなだれ込んで来た。勘兵衛、久蔵、菊千代が迎え撃つ。百姓達も必死だった。「ダーン・・」久蔵が倒れた。「ワー!!」勝四郎が久蔵を抱きかかえた。
菊千代が決死で、鉄砲の主へ刃を向けていく。今や、村の一軒に入り込んだ野武士の統領が菊千代に銃口を向けていた。「ダーン!」 菊千代は腹に弾を受けながらも敵を刺し殺し、果てたのだった。そうして、野武士は全滅した。

新しい土饅頭の墓が四つ。生き残った三人の武士。六月の田植えが始まった。利吉が歌い、万造が笛を吹く。いまや、百姓達は生き返った。志乃は勝四郎と目が合っても無視した。 「・・・又、負け戦だったな。」と勘兵衛。「は?」と七郎次。勘兵衛「・・・いや、・・勝ったのは、あの百姓達だ。・・俺達ではない。・・・」 
四つの土饅頭の墓の上を爽やかな風が吹き抜けていった。

   
 映画館主から
日本が世界に誇る映画監督、黒沢明の代表傑作時代劇。活劇のみでなく、武士の情けのあり方、農民の窮状としたたかな生き方、侍と農民の娘との恋、・・・3時間半の時間があっという間に過ぎ去る不思議な体験。黒澤は何という凄いドラマを作ったのでしょうか。
最初、この映画を池袋の文芸座で観て、なかば病み付きになりました。「用心棒」や「椿三十郎」はすでに中学生の時観ていましたが、「七人の侍」の完成度の高さ、演技陣の的確さ、ドラマの内容に圧倒されました。黒澤明はこの映画1本で国宝級です。ノーベル賞も国民栄誉賞も超えた、人類の宝です。

「近松座」では前・後編と分けましたが、語りたいエピソードはまだあり、語り尽くせない程です。
もし、貴方が未見の人でしたら、是非、是非ご覧下さい。映画会社の宣伝をする訳ではありませんが、ビデオショップに必ずあります。私が所有しているビデオは、まだ日本に「七人の侍」のビデオが無い時の海外版です。画面の下に英語の字幕入りです。(多少、英語の勉強になります!?)
そして、私が好きな「七人の侍」の音楽。荘厳な中に悲壮感もあって、マーチ風なメロディは歩きながら口ずさむのにピッタリです。私の携帯電話の着メロは、自分で入れた「侍のテーマ」です。
「近松座」の「七人の侍」のバックに流れる音楽はMIDI作者、大文字様のご努力によるものです。

  参考文献:「テアトル東京」パンフレット   都築政昭著「黒澤明と七人の侍」

コメント(15)

勘兵衛(志村 喬)

七人のリーダー。歴戦の古豪であり、人徳も兼ね備えている。
百姓達の境遇に同情して、
野武士と戦う決意をした。
盗賊を討つ為、剃髪したままの姿である。
百姓達の信頼も厚い。
菊千代(三船敏郎)

侍の姿はしていても、実は百姓の生まれ。
仲間に加わりたくて色々機転をきかす。
侍と百姓を取り持つ貴重な存在である。最後の戦いで銃弾に死す。
勝四郎(木村 功)

七人の中で一番の年少者。
勘兵衛に惹かれ仲間入りしたが、
人を斬った経験も無い。
この戦いを通して人間的に
成長していく。
七郎次(加東大介)

勘兵衛とともに歴戦を生き抜いてきた。
勘兵衛の女房役。
おとなしい挙動の中に強靭な精神と肉体を秘めている。
五郎兵衛(稲葉義男)

勘兵衛に惚れて仲間に加わる。
副参謀役として歴戦の経験を如何なく発揮する。
しかし、野武士の弾丸に散る。
久蔵(宮口精二)

自分を叩き上げる、それだけに固まった男である。
表情には出さないが同情と憐れみの心を併せ持つ。
野武士の弾丸の露と消える。
平八(千秋 実)

腕はまず中の下。
しかし誰からも好かれる人柄は、苦しい戦いにあって重宝だった。
しかし、野武士の隠れ家での戦いで銃弾に倒れる。
「七人の侍」 製作秘話

木賃宿の板の間
新しい板でも焼いて、磨き上げると古い質感が浮かび出る(黒澤監督自ら磨いた) キャスティング
最初、剣の達人・久蔵には三船敏郎を予定していた。しかし、シナリオが進むにつれ、百姓と侍を繋ぐジョーカーが必要なことに気が付いた。そこで、三船がジョーカー・菊千代に抜擢された。三船は菊千代役を体当たりで演じた。まさに、彼の一面をさらけ出したのは、黒澤の功績である。
首領の勘兵衛には志村喬。この頃の黒澤映画は志村の主演が多い。志村はまさに信頼に足るリーダーを演じた。
明るい平八には千秋実。これは地でいった。
剣豪・久蔵には宮口精二。以外な人選だったが、黒澤には自信があった。ひ弱な体つきだが変に芯があって、「酔いどれ天使」ではヤクザを演じている。
若侍、勝四郎には木村功。このドラマ中唯一の恋愛劇には木村の甘いマスクがピッタリだ。(今風にいえばキムタク?)
一番苦労したのは五郎兵役。ふっくらしていて、どことなく余裕を持ったタイプに、俳優座から稲葉義男を抜擢した。
七郎次には加東大介。「羅生門」にも出演しているが、極め付きは「用心棒」のヤクザ。アカデミー賞をあげたい。
百姓役も芸達者が揃った。万造役の藤原釜足は本当にうまい!こういうオヤジは身の回りに必ずいる。
七人の侍役をはじめ、藤原釜足、高堂国典、左ト全、土屋嘉男、渡辺篤、東野英治郎、上田吉二郎、などは黒澤映画の常連である。
冒頭、四人の百姓が街道で侍を物色するシーンで、まだ若き仲代達矢が武士役で歩いている。台詞もない。彼は「用心棒」で本格的な黒澤映画デビューを果たし、以後、黒澤映画に欠かせない人材となる。
シナリオ
黒澤映画では脚本を複数人で書く。「七人の侍」は、黒澤に橋本忍、小国英雄が加わった。
3人は熱海の旅館に閉じこもり、大机に向かい合って座り、同じシーンを3人で書く。できると3人が発表し、ディスカッションする。そして、いいところだけ取っていく。その間、電話も来客も受け付けない。
お茶を持ってきた女中は、部屋に張り詰めた緊張感に硬くなったらしい。
執筆は夜6時頃終わり、後は「バカスカ」飲む。
橋本忍によると、黒澤は勘兵衛について大学ノート半分位、背の高さ、歩き方など、イメージを書き綴っていたらしい。解らないところは絵で描いていた。
黒澤「僕の共作は一言で分担をいうと、小国が魂、僕と橋本がテクニック。それを小国に見て貰う。つまり、彼が裁判官になるんですよ。」
侍を集めるエピソードなどは、「本朝武芸小伝」という古書が大いに威力を振るった。
衣裳
黒澤は、画家の長老、前田青邨に美術考証を依頼、弟子の江崎孝坪が衣裳デザインを担当した。青邨に言わせると、従来のかつらはおかしい、「虎屋の羊羹みたいな髷がのっているのは言語道断」ということで月代を耳の近くまで剃りこんで、側面の髪を低くした。
鎧兜も明珍という鎧師に作らせ、着方も本式に学んだ。三船や、野武士がかぶった兜などは国宝級のものもあった。

撮影
望遠レンズと複数カメラを多用した。街道を歩く浪人達の動きは、手前も向こうも焦点が合ってるパンフォーカスで、スピード感がある。
やり直しの効かない山塞での炎上シーンや、最後の合戦シーンなどは、複数カメラが威力を発揮した。山塞シーンでは8台、合戦シーンでは終始、3台のカメラが回った。
黒澤映画に雨(それも土砂降り)が多い。最後の合戦は土砂降りの雨の中である。撮影は2月。現場に雪が積もっていた。本来は前年の秋に公開予定だったのが、延びに延びた結果である。
最も寒い季節での撮影は命がけだ。しかし、不思議と誰も風邪を引かなかった。消防車のホースから大量の雨を降らせての撮影だ。菊千代(三船)など、ほとんど裸の演技である。

逃げる与平の背に矢が刺さるシーン。黒澤の注文。「飛んでいる矢が刺さるところをワンカットで撮りたい」
小道具の浜村幸一は四苦八苦のあげく妙案を出した。矢の軸を空洞にして、テグスを通し、突き刺さる百姓の背中まで引っ張り、その中に鉄板を隠しておく。馬上の野武士が百姓めがけて矢を放つと、百発百中である。「乱」でもこの手法が使われた。
しかし、「蜘蛛巣城」では、テグスなど使っていないらしい。弓の名人を集めて、おびただしい矢を本当に放ったという。

勘兵衛が抜刀し、全員に気合を入れる素晴らしいシーンは、中井朝一の冴えたキャメラワークによるところが大きい。
勘兵衛がこちらに向かって走り出した瞬間、キャメラが引くのである。
我々は勘兵衛が逃げる我々に向かって来るように感ずる。
早坂文雄の音楽

「羅生門」の受賞祝賀パーティーで
左から橋本忍(脚本)、黒澤明(監督)、早坂文雄(音楽)


日本映画音楽に新風を吹き込み、国際的な水準にまで高めた第一人者である。
札幌生まれで、教会のオルガンを弾いていた早坂は、欧米の真似事ではなく、
日本独自の民族的イディオムを持ち込むべきだと主張し、自ら実行した。
特に、良き理解者、黒澤明とのコンビは一作一作が新しい実行であり、向上の成果だ。
黒澤とのコンビは、「酔いどれ天使」に始まり、「野良犬」、「醜聞」、「羅生門」、「白痴」、「生きる」、「七人の侍」と続く。
しかし、その早坂は1955年、「生きものの記録」を最後に、41歳の短い生涯を閉じた
黒澤だけでなく、溝口健二監督作品、「雨月物語」、「近松物語」、「楊貴妃」なども手がけた。
彼の影響下、黛敏郎、武満徹、佐藤勝などの多くの作曲家が日本映画音楽界を支えたのである。

「七人の侍」の音楽について

日本映画音楽としては、まったく異例、早坂はデッサンだけに60日を費やし、苦しみ抜いたという。
その結果、単純明快に、ぎりぎりこれだけはというリアリズムの音楽が、黒澤映画にマッチングし、
我々の魂に響いてきたのである。

面白いエピソードがある。「七人の侍」の撮影の合間に、黒澤が早坂の家を訪れた。
早坂は当時、結核でかなり弱っていた。60日のデッサンで、300枚の作曲があった。
早坂が一つ一つピアノで弾いたのは「侍のテーマ」で、「七人の侍」の主要音楽である。
黒澤が「違う違う!」と駄目を出した。そのうちに早坂が書いたスコアが無くなってしまった。
早坂はさすがにしょんぼりしたが、「もうひとつある!」と言って、ゴミ箱から破いたのをつなげて来た。
早坂が弾くと、「それ!それ!」黒澤が言った。あの勇壮なテーマ曲は紙くず箱の中から生まれたのである。

早坂の音楽はもうひとつハリウッドでも生きている。
「七人の侍」にぞっこん惚れ込んだユル・ブリンナーが西部劇化権を得た。
その「荒野の七人」でも、作曲家、エルマー・バーンステインは早坂の音楽を下敷きにした。
これはこれで、映画としても、音楽としても、なかなか良く出来ていて、大ヒットをとばしたのである。
 「七人の侍」の音楽 
●野武士のテーマ・・「近松座」後編・出だし太鼓風の音楽
●農民たちのテーマ
●浪人たちのテーマ・・「近松座」前編・主要テーマ音楽
●菊千代のマンボ
●侍のテーマ・・「近松座」後編・主要テーマ音楽
●麦打ちの音楽
●志乃のテーマ
●麦刈りの音楽
●恋の音楽
●夜討ちの音楽

「羅生門」の音楽
●タイトル音楽・・「近松座」全編を流れる雅楽ふうのミステリアスな音楽
●杣売の証言のボレロ
●多襄丸の証言の場面の音楽
●真砂の証言のボレロ
●ラストシーンからエンド・マークまでの音楽
【みんなのレビュー】
物心ついた時には、既に知っていた。それぐらい凄い作品【MORI】10点(03/08/07 10:48)

ゴメン。点数はこれぐらい。ひねりすぎて訳わかんない映画を当然のように見てる現代人にとって、このように先が読めすぎると唖然としてしまうのかも。水戸黄門のような様式美系の方がマシに思えるのは僕だけ?もちろん個々のキャラクターなどは素晴らしいと思いました。【りょう】6点(03/10/04 18:37)

思ったより後味が悪い作品なんだな。【たつのり】7点(03/10/01 04:25)

最高の娯楽大作だろ!こんな映画二度と出ない。日本の誇りだ。迫力ありまくり!三船のひたすら叫ぶような演技にはよくわからんがやられたぜ。三船敏郎みたいな「顔力」がある役者には心底惚れ込んでしまいます。三船と左ト全のやりとりとか何回観ても飽きないね! 農民と侍のギャップなんかもうまくあらわされてます。【伝次郎】10点(03/09/29 22:18)

「勝ったのはあの百姓達だ。俺達ではない。百姓は土と共に何時までも生きる」この名セリフに尽きます。【木戸満】10点(03/09/27 14:46)

その後の映画やドラマに影響を与えすぎたせいか、なんかベタな映画だなあと思った。「あ、これは大河ドラマで同じようなシーンがあった」というような感じで。【北海道日本ハム優勝】6点(03/09/10 17:05)

日本が世界に誇る名作とのことで楽しみに観ました。内容は演技、脚本共に素晴らしく、映画は巨額の資金や精巧なCGで決まらないんだなぁと、映画の楽しさの原点を確認させられた感じでした。ただしコレは作品に非は無いんだが、古過ぎて音声が聞き取りづらかった(特に前半)のが惜しいと思う。【たにっち】9点(03/09/10 05:34)

日本が誇れる映画ですね。【かんたーた】8点(03/09/02 09:23)

べつにふつう。つまらなくはない。【北箸尚一郎】5点(03/08/11 07:12)

素晴らしい!!の一言で充分ですねっ!!【江戸word】10点(03/08/07 21:52)

映画監督には、やはり才能が必要だと思わせられた。【クルイベル】9点(03/08/07 09:58)

泣くことしか、できない【るい】10点(03/08/04 23:31)

楽しく見られる映画です。放たれた矢のピアノ線のようなものが見られるのは時代ですね。こういうの好きですが、キャラクターにはあまり入れませんでした。【やまプー】5点(03/07/23 23:58)

邦画ってあまり見ないのですが、最近スカパーでやっていたこの作品をたまたま見てしびれちゃいました!ストーリー、キャスト、最高です。特に宮口精二の久蔵、かっこいい!余談ですが、このDVDってどうして高いんでしょうね。欲しい!【いろはにこんぺいと】10点(03/07/16 22:59)

時代の流れの中で、色あせない映画作品は無い。しかし、半世紀も前のこの映画が、こんなに素晴らしいとは!こんなに生き生きしているとは!【イカリングフライ】10点(03/07/12 12:09)

言うまでもないが、世界映画史上に輝く名作。あっという間の3時間半。見終わった後、言葉だけでは言い表せないモノが心に残る。映画好きなら、この作品がその後の映画界にどれだけの影響を与えたか分かるはずだ。見ていない人は、近年の楽しいだけのアトラクション的映画を見る暇があるのなら、まずこちらを先に見るべし。【カズゥー柔術】10点(03/07/09 19:05)

これは10点をあげるしかないです。もちろん三船敏郎や志村喬などの主役陣もよいが、左卜全がよいのだな。こんな素晴らしい着想と素晴らしいキャスティングの映画が日本でできたのは、民族の誇りでしょう。後年「荒野の七人」なんて、翻訳権を買い取ってユル・ブリンナーがつくった映画が発表されたけど、本家には遠く及ばず。。。【floydpink】10点(03/07/09 18:35)

地元の映画館で「黒澤明監督作品特集」をやっていたので早速観に行ってきた。今まで本作をビデオでしか見たことがなかったので、改めて劇場で観ることができて大感激!やっぱり、家のテレビで見るのとでは迫力が全然違うなぁと思った。内容については、あまりに有名な作品だけに、もうほとんど語りつくされてるので省略。もし、本作をまだ一度も観たことがないなんて人が居たら、即刻観るべし!【キノスケ】10点(03/07/07 22:27)

聞き取りにくいけど、一人一人の個性がでててほんまよかった。リメイクするみたいな話しを聞いたことありますけどあのメンバーを超える役者がいるのか?【幕末魂】10点(03/07/05 21:26)

この作品には、生命あるもの全てのダイナミズムが描かれている。命をかけて戦う人間、馬、どしゃぶりの雨、泥、大地、木々、咲き乱れる花、流れる川、燃えさかる火。映画全体が力強く美しい。ストイックな武士道を体現した侍達、生命力あふれる農民達、両者の中間にいる人間味あふれる菊千代。全てが愛おしい。早坂文雄の音楽も素晴らしく、特に菊千代のテーマは面白い。やはり「七人の侍」は偉大なる黒澤の力作であり、文句無しの最高傑作だと思う。【月光城月麻呂】10点(03/06/30 04:39)

傑作!この一言で充分です。【ひろみつ】10点(03/06/28 01:42)

シナリオ・プロットいずれもほぼ完璧!一度見始めると長時間にも関わらず必ず最後まで見てしまいます。ある調査で国民別ひいきキャラを調べた物があってイタリア人が一番好きなのが菊千代 アメリカ人は勘兵衛 日本人は久蔵 が一位になっていたと言う話を聞きました。 私は憧れるのは久蔵。でも好きなのは中間管理職っぽい五郎兵衛ですねぇ。庇おうとして撃たれた平八 撃たれてなお己の牙を相手に突きつけようとした久蔵 刺し違えという生き方しか選べなかった菊千代 のドラマチックな死に比して百姓と侍の礎となったかのような淡々とした死の瞬間の描かれ方。勘兵衛に惚れ込み率先して侍スカウトを手伝い村地図作成も行い 最も感情移入したところで突然の死・・たまりまへんな〜【ナベキチ】10点(03/06/26 16:10)

 最高です!音声面で評価を落としている人が多いようですが、DVDですとかなり修復された音声バージョンもあり、また、日本語字幕スーパーもつけられるのでお勧めです。是非、そちらを観てから再度評価を!【ねこにゃん】10点(03/06/25 12:05)

農民=日本人そのもの、として見れば、単なるエンターテイメント作品でない部分が見えてくる作品。ただ、長すぎる。個人的には用心棒や生きるの方が好き【ハチマキ】7点(03/06/25 02:42)

途中休憩で煙草吸いに映画館のロビーに出たとき、オレは完全にサムライと化していた。【八尾の朝吉】10点(03/06/17 00:28)

これこそ日本映画の最高傑作のひとつ、始まりから終わりまで全てが名場面。凄まじいまでの臨場感、白黒の美しさ、細部にこだわりリアルな小道具。(因みにあの着物などはスタッフが本当に何日間も着てぼろぼろに汚しています)三船敏郎は戦後の日本人の役者の中では抜きに出た富士山のようです。6,7年前に見ましたが今でもあの映像が頭から離れません。【coco】10点(03/03/27 01:42)

確かに迫力とエンターテイメント性に溢れた映画だとは思う。けど、そう手放しで絶賛することは出来なかった。ひとりひとりのキャラクターがそれほど際立っているとも思わなかったし、ストーリー展開にも中だるみを感じてしまった。【スマイル・ペコ】6点(03/06/06 01:40)

正に、正に日本映画の最高傑作!題材である“侍”というもの自体、我々の中に眠る大和魂を奮い立たせてくれるものではないでしょうか。3時間27分の長い映画ながら、無駄のない、そしてテンポの良い編集で、時間が経つのも忘れてしまいます。娯楽映画ながら、人物の描写が非常に細かく、百姓の、百姓である事への嘆き、そして、武士への怒りなどが痛いほどに伝わってきます。そしてクライマックスの決戦のシーンは今の映画にも負けず劣らずに迫力があります。これを見ずして日本映画は語れないでしょう。【クリムゾン・キング】10点(03/05/31 00:51)

すみません。以前9点でレビューしていたのですけど、最近観て心に支える物がありまして・・・。これはやっぱり10点だ!【プーヤンのジャンプ傘】10点(03/05/20 15:53)

今日はじめてみました。これぞジャパニーズエンターテイメントって感じですね。魅力的なキャラクターたちはどれもかっこよく、戦闘場面がこっこいい!特にラストの決戦のすさまじさ、どれも後の映画に多大な影響を及ぼしたのも納得。ただ今見ると、どれもそれほどの新鮮さは無い。資料的な価値はあるのかもしれませんが。なのでこの点数です。ラストのシーンはなんとも虚しく悲しいなあ。【MxX】7点(03/05/20 14:20)

人間が描けている作品は古くとも説得力があり、永遠とも思える力を持つとの原則論を代表する作品。個人的には人間が描けていない、描こうとしていない作品にも愛着を持つが(例えば2001年宇宙の旅)、この作品はほぼ完璧でしょう。【ももんが】10点(03/05/16 23:02)

引き込まれる、釘付けになる、その程度ではすまされない程のおもしろさでした。現代の、割と難解な映画を観ている人間には信じ難い程の“リアル”な描写、配役、設定。数百年前のすさまじい現実を映画に感じました。明快なストーリーの奥に込められた深い様々なメッセージはまさに無知な自分には衝撃の連続でした。ヨロヨロの婆さんがクワを持って捉えられた野武士に近づく描写。あれは一生忘れられないと思います。現在の映画ではこのような史実の裏にある現実を、ストレートにそして何よりリアルに表現するには時代が豊かになりすぎているのかもしれません。もう誰も越えることのできない傑作であると感じました。【てっつん】10点(03/05/15 23:20)

 日本映画の最高傑作、自分の頭の中では伝説になっています。約3時間の長い作品ですが、話のテンポが良く3時間が短く感じられます。また、三船敏郎さん身体から出ているオーラが、この作品を盛り上げています。余談ですが、ゲーム化される「七人の侍」は、ちょっといただけません。期待してただけに残念です。【呂布】10点(03/05/14 16:08)

ビデオで観たがかなり音声が聞き取りにくく苦労した。台詞以外の部分、例えば演技やカメラワーク、特に戦いのシーンはすごかった。菊千代がお気に入り。【ノス】8点(03/05/04 22:41)

菊千代みてじゃりン子チエのテツか?と思ったのは俺だけではあるまい【ジッポ】9点(03/05/04 19:51)

3時間以上ありますが、はっきりいって面白いです。せりふは半分以上聞き取れませんが、細かいせりふなんか気にしないで見てください。この映画での三船は、性格設定は明確なものの、うるさすぎていまいちです。志村喬が最高のいい味を出しています。脇役の百姓たちが、どうみても百姓という強烈なキャラを打ち出しています。白黒の画面全体のすみずみから、圧倒的なパワーが押し寄せます。【エンボ】9点(03/05/04 03:16)

目の肥えた現代人には、この凄さは分かんないんだろう。でも、画面から出てくる迫力は、最近の作品にはないものがあった。。【あぽろん】10点(03/04/30 18:00)

これは、本当に笑えるところが多い【まさるす12】8点(03/04/27 21:21)

僕としては「羅生門」の方が断然いいです。メジャーすぎる。【ooo-oooo-o】6点(03/04/21 20:15)

めちゃめちゃ長いのにあっという間に見終えた感じ。それくらい面白い。日本人なら絶対見るべき。【もん】10点(03/04/15 14:45)

原爆を落とされ、焼け野原にされ、日本がまだまだ貧しかった時代にこれほどのものを作った人々がいたということ自体、僕は誇りに思う。【8人目】10点(03/04/12 18:12)

最高のエンタテインメント作品。「世界のクロサワ」と言われる理由がようやくわかった。個性豊かな7人が大好きになりました。日本映画はチャンバラ映画にもっと力を入れるべきだと思った。【稲葉】10点(03/04/10 01:38)

言わなくてもいいぐらい邦画の最高傑作!!これを見ずしてクロサワを語るべからず!!映画の全場面において衝撃と感嘆の数々…。ハリウッド版にリメイクされるらしいけど…お願いだから止めて…作品の質が落ちるから…。【As】10点(03/04/02 16:43)

多くの人から好評を得ている映画を、好きになることができなくて残念です。【羊男】6点(03/03/31 00:55)

もはや国宝!!!!【モモセギター】10点(03/03/24 22:58)

最高【kan】10点(03/03/24 17:19)

古いし時代劇だしということで古典に触れるような気持ちで見始めたら、思いっきりエンターテイメントじゃないすか!こんな臨場感のある映画は他にありません。【5454】9点(03/03/18 23:18)

侍七人それぞれになんかあいちゃくわいてしまう。つい作品に見入ってしまう。CGを使ってカラーにできねぇかなぁ。かなりきれいな絵になると思うが。まぁ、白黒ってのもいい雰囲気出してんだけど【幕まっつあん】10点(03/03/13 20:47)

侍それぞれはもとより、農民まで登場人物がきっちり描き分けられていて、物語の中で躍動する存在感がある。迫りくる野武士達に対峙する緊迫感、戦闘シーンの迫力、侍も農民も本物を感じさせる演技だった。特に志村喬の勘兵衛は名将である。米の国防省だかこの戦術についての研究がされたという話を聞いたことがある。世界のあちこちで真似されたり、プロットをとられたりする日本映画はそうないだろう。とても緻密で分かり易い娯楽映画の傑作といえる。【キリコ】10点(03/03/10 22:22)

ハリウッドの連中が、慌てふためいたのもわかる気がする。【Acoustic】10点(03/03/04 22:31)

禁断の映画。なぜなら見始めると終わりまでやめられないから。ファーストカットからエンドカットまで、まったくスキがない。【don】10点(03/02/25 22:01)

何を言っているのか理解の難しい場面が何度かあったが、それを取り返すくらいに素晴らしい作品だった。しっかりした時代背景、毎日精一杯生きてくだけで争いごとに無知な百姓と、ないも等しいような報酬で命をかけて戦う侍。かつての日本の身分の差をうまく描写していると思った。そして、entertainも忘れず、白黒でそれでも鮮明に描かれる内容に感嘆した。【764】9点(03/02/10 08:33)

こういう作品に言葉を尽くすのってなんか無粋かな。だって形容詞が決まってきちゃうから。ただ圧倒的な面白さだとか、驚異的なモノクロ映像の素晴らしさとか、そんな陳腐なことしか言えない。でも、全てに言及したらおそらくここには書き切れないはず。だからやめます。ただ、観ないと損です。【白河夜船】10点(03/02/10 02:24)

音が聞きづらい。だがまぁ「生きる」ほどひどくはなかった気がする。私は勘兵衛の最後のセリフが好きだ。最初は「とってつけたような・・・」と感じたが、農民を哀れなだけの存在としてではなく、実はずる賢くて自分勝手で何より強いという存在として描くことで、あのセリフが重みを持つのではないだろうか。【モグラ】9点(03/02/03 12:16)

外国人に「映画史上最高の作品は?」と聞かれたら。<市民ケーン>?<第三の男>?いやいや、日本人なら<七人の侍>と答えましょう!【クロマス】10点(03/01/29 21:39)

最高の娯楽映画こそ最も人を感動させる力を持ち得る。限りなく10点に近い傑作。【るーす】9点(03/01/26 20:36)

その莫大な制作費のために撮影が中断、一時は東宝を倒産寸前にまで追い込んだといわれるまさに産みの苦しみの末に誕生した映画。今更付け加えることの無い名作だけど、「世界のクロサワ」「映画史に残る傑作」という先入観(予備知識)がある今の時代で初めて観るとなると、評価が難しいかも。【カテキン・スカイウォーカー】10点(03/01/23 23:31)

黒澤作品の中では最も娯楽性を意識した作品。“黒澤作品はちょっと”って人でも“これは楽しめた”って人はとても多い気がします。【眼力王】9点(03/01/21 00:20)

おもしろかったってのが、素直な感想。今まで、さくさく作られてきたハリウッド映画の、原型になった映画の中の一本って気がします。最後の戦闘シーンも、きれいな殺陣じゃない所なんかがお気に入りです。【松風】10点(03/01/17 22:00)

本作のどこが凄いといえば、やたらと人間性を掘り下げようとするあまり、却ってバタ臭くなりがちな当時の邦画の中で、「食わせてやる。だから奴等をやっつけてくれ」という頼みに、「敵」の人格など考えもせずに、やっつけていくところ。今でいうなら、シュワルツネッガーのアクション映画に通じるところでもあって、そんな描写がアメリカ人受けして、それが「荒野の七人」に繋がったのだろう。黒沢明監督が逝去した折り、幾つもの追悼本が出たが、その中の一冊に塩野七生氏の寄稿文が掲載されていて、塩野七生氏の著書「コンスタンティノープルの陥落」も、本作「七人の侍」をモチーフに使ったと書かれていて、結構、あっちにこっちに影響を与えた作品だったんだなぁと、今更ながらに驚いたのを覚えている。【由布】8点(03/01/12 23:37)

ラスト付近、見てて震えました。とにかく侍から子供たちまでの演技がすごい。野武士のキャラクターが害虫か獣かをのように希薄なのが逆にすばらしい。【にまの】10点(02/12/23 03:41)

 野武士の人間描写などに浮気をせず、完全なENEMYと割り切ってひたすらその数を減らす戦略に徹したのが勝因の一つ。個人的には宮口精二演じる「久蔵」にシビレた。本来は文学座の名脇役、この時点では時代劇や立ち回り等はズブの素人だったにも関わらず、アノ渋過ぎる名演。彼ほどの剣の達人でも種子島の前には敢え無く散る、その皮肉さ。しかし、あの激しい雨中では(例え屋内から狙撃したとしても)火縄が湿って撃てなかったと思うんだが…?【へちょちょ星人】10点(02/12/20 00:58)

うむ。面白い。確かに声が聞き取りにくいものがあるが、昔の映画だし、舞台はほとんど外だししょうがないかな。娯楽映画なので、気持ち良くかっこよく楽しく観れる。【恥部@研】8点(02/12/19 10:28)

今やありがちのネタ。なのに、何度観ても新鮮。【VF-154】8点(02/12/06 15:37)

タイトル、スタッフネームのテロップからしてまずカッコよかった!!ストーリーもしっかりと練られており、はじめから最後まで安心して観ることが出来た。キャラクター設定も細かくまでしてあり、七人の侍と村人たちまでにも情が移るほどだった。戦闘シーンは今まで観た映画の中でもっとも迫力があった。これはおそらく、戦略を私たちも知ることができたからだろう。そうして最後はどんでん返しとも言える結末。はっきりいって長いが、退屈は一切しない。むしろもう終わってしまうのか、と。個人的には菊千代が大好き。映画全体を盛り上げてくれたと思う。【kaneko】10点(02/11/25 23:15)

時代を超えた名作です。あっという間の3時間でした。個性豊かな7人は素晴らしかった。【Asann】8点(02/11/20 00:42)

名作だとか、「世界のクロサワ」だとか、そんなことはどうでもいい。とにかく、一人でも多くの人に見て欲しい最高の娯楽作品。凄いです。【愚物】10点(02/11/06 01:23)

日本映画の金字塔かぁ。でも私の中での金字塔は同監督「生きる」なんで。でも痛快チャンバラ大作、かなりおもしろかった。この話は「宮本武蔵」の中のある一説がモデルになっているって最近知りました。まぁなんか似ているとは思っていたけど・・・。興味のある方はそちらも。【カエル】9点(02/11/05 23:37)

大ファンです。【ワオキツネザル】10点(02/11/04 14:05)

日本一の映画、黒澤作品の中でも群を抜いて点数が高い、3時間以上あるが、本当に楽しく飽きずに見られる。娯楽映画の金字塔!7人の侍が画面内に確かに存在している。黒澤作品は、登場人物を感情移入させるのがうまい、それにより緊張感や展開をたのしめる。こういう人情劇を傑作にするのが一番難しい、ちょっとでも演技をオーバーに演じるとただの感動ものに終わってしまう。それをうまく考慮して、編集したのだろう。それにしても一つ一つの場面からただよう、暖かさといったらすごいよ。あの飽きない構成と歴史に残った雨の中での決闘で使った技巧、瞬間場面転換を使いここまで高く評価されたのだろう。【完璧主義】9点(02/11/01 15:47)

微妙【ゲルニカ】6点(02/10/23 00:44)

面白すぎ!かなり長い映画だけど、中だるみもなく、一気に見れた。開放的で素っ頓狂な三船敏郎のキャラクターは、一人で重苦しい雰囲気を変えてしまう希有な存在(日本人にはあまりいないタイプだけど)。【mic550】10点(02/10/20 20:50)

今もって話題に出てくる映画は多少、聞き取りにくかろうが、中だるみくさかろうが、全くの一人歩きした映画は文句の届かないところに上り詰めてしまった「金字塔」なんです。あの早坂文雄(文字間違えてたら許してください)のテーマ音楽にわくわくさせられたらもう降参です。【マジンガーXYZ】10点(02/10/16 09:02)

技術は凄いと思う。だが、私はいまひとつ好きになれない。そもそも、なんで七人の侍たちは善人ばかりなんだ。あれだけいれば、一人ぐらい村を離れたり、野武士に寝返る奴がいるはずだ。それに、野武士のキャラがあまりたっていない。あれじゃ、盛り上がりに欠けるよ。そして、一番嫌いなのが志村喬の最後のセリフ。とっても薄っぺらく感じたね。ああいうのは汚れ役に言わせるべきなんだよ。“世界のクロサワ”なんて言うけど、海外の映画人はクロサワとゴジラぐらいしか知らないんだよ。日本映画にはもっと素晴らしい作品がいっぱいある。 【サラダパック】6点(02/09/17 15:13)

雰囲気と演技はいいと思うんだけど、なんせ、役者のせりふが聞き取りにくかったです。「ん?今なんていったの?」というのがたびたびありました。【ジンタ】1点(02/08/12 01:38)

なかなか面白いです。面白いのですけど。。。昔の映画で仕方が無いのですが、音声がかなり聴き取りにくいです(汗)。そのせいもあって、かなり集中して耳を澄ませていないとセリフが判らなくて、ちょっと疲れます。ちなみに3回位ビデオで見ました。昭和27年作品だと思うと、さすがは黒澤監督だと思わずにはいられませんね〜。でも音声が悪いので、字幕がほしかった(^^;)・・・【はむじん】7点(02/08/11 03:59)

「時代を超えた映画だから」と、母親に薦められて見たらその通りだった。黒澤明の作品で初めて心から面白いと思った。ただ、色恋話は邪魔くさかった。そこがマイナス2点。でも三船敏郎が凄い!!プラス1点。志村喬はモーガン・フリーマンに似てる。【どらいぶしゅーと】9点(02/07/09 00:10)

皆さんの絶賛の中この点数は気が引けますが私的には6点です。時間が長く途中、中だるみ気味なのと、セリフが聞き取りにくく物語りに没入できなかったのが原因です。が、随所にある生活観あふれるシーンと、対比する戦の迫力は鬼気迫るものがありました。【KEN】6点(02/06/23 19:22)

キャスティング最高ですよね。ビデオじゃなくて、デカいスクリーンで見てみたい。【qt】10点(02/06/08 00:59)

戦隊ものみたいで軽い感じがしてもうひとつだった。【本郷の文豪】3点(02/05/17 08:11)

あの生活感というか雰囲気は今となってはつくれないよなきっと。戦のシーンはすごい。馬も本気。三船敏郎のやんちゃさもよい。【ちこ】9点(02/05/02 18:13)

日本映画の金字塔【放浪者】10点(02/04/17 08:52)

いやー面白かったしかっこよかった。いろいろな意味で後世に大きな影響を与えたことも納得。でも、やや台詞が聞き取りにくいのがマイナスかな(笑)。【鏡に萌え萌え】9点(02/04/17 00:29)

黒澤映画は初めて観ましたが、すごい迫力!宮口精二のかっこよさと志村喬のイキな台詞の一つ一つは、特に心に残ってます。少なくとも今まで見た中で最高の日本映画でした。【wood】9点(02/04/10 15:10)

この映画は、10回は見てるね。最初は、宮口精二や志村喬がかっこよかったけど、最近見ると三船敏郎のかっこ悪さと土屋嘉男の女々しさに共感するんだなあ。やっぱり年のせいかな。【ジブラルタの星】10点(02/03/12 23:22)

白黒映画なのに迫力がある。役者の演技が実にうまい。今の日本の役者でうまいなと思う人はそういないが、この映画にはたくさんいる。こんな日本映画をまた作って欲しいと思う次第である。【サイダー】9点(02/02/03 19:07)

映画はすごく面白いのに、セリフの聞き取りにくいのが、ちょっと…。日本語の変化のせいか、録音が悪いのか、それともテープが悪くなってるのか。聞き取るのが大変で脳が疲れます。それはともかく、見て損はしない映画です。「荒野の七人」も見ましたが、私はやっぱり侍版の方が好き。【マイキー】8点(01/12/22 03:00)

黒沢明の映画は実はこれが初めてです。なげえ。よかったのはやっぱ三舟かな。この映画は侍と百姓の生き方とか考え方の違いがテーマに思えた。要所要所ですごくびっくりするようなシーンがあった。三舟の、百姓をこんなにしたのは侍のせいだ、ってところはぞくっときた。多少中だるみの間もあるが、それは俺が荒野の七人?用心棒?をみてるからでしょう。【えむおう】8点(01/11/08 03:50)

さすが黒澤活劇と思わせる一番の作品。落武者の作戦がちょっと単純でしたけど。開けてる所にノコノコ入り過ぎ・・。でも他の面白い部分で吹っ飛んじゃう。水と泥ふんだんにうまく使ったあのラストに拍手。【プーヤンのジャンプ傘】9点(01/08/17 02:02)

日本人に生まれた以上、これを観ない人生は損してますよ。【ます】10点(01/08/01 21:18)

原形的内容。世紀末生まれの僕にとってはそんなもの。【あろえりーな】5点(01/07/24 18:00)

ここまでうまくできたシナリオに出会えることはそう滅多にない。もう6回ぐらい見ているけど、そのたびに新しい発見があり、決して飽きることがない。特に菊千代が涙ながらに百姓の醜さと哀れさを訴えるシーンは、侍と百姓の団結をより強固なものにするという点で、作品の最も重要なポイントであり、日本映画に残る名シーンといえるだろう。【まさやん】10点(01/07/06 12:41)

東野英治郎がいい!、あの方の悪役人生の中でも最上では無かったろうか。この映画にはいたる所に生活感がある。だからこそ、この映画の迫力は出たように思う。【奥州亭三景】10点(01/06/27 19:15)

日本映画の最高傑作に同感。これだけ迫力ある戦闘シーンは今の映画でもそれほどないのでは?三船敏郎の役柄のキュートさと熱さ・・・あの目の輝きは胸に焼き付きます。英雄は死ぬという不条理さも・・・【おぎ】10点(01/06/17 01:49)

この前グラディエーターを見たけど、それに遜色無いくらいの迫力をだしているのでは?イイ映画だけど、この映画を批判出来ない状況にしてるってのもすごいかも?【すめ】9点(01/05/15 00:53)

現代の映画と較べると冗長な感じは否めないと思います。が、これだけ斬新な手法を取り込んだ活劇でありながら、侍各人にそれぞれの戦う理由があり、人間臭さと親近感を覚えます。ある映画評論家が「日本映画の歴代1位」と評していますが、その通りだと思います。【ピルム】9点(01/01/24 13:31)

日本の映画史上空前のスケールで見る人を圧倒する。また武士と農民という階級の違いもしっかり描いている。ストーリーもハリウッドが何回もリメイクをしていることからわかるようにすばらしい。俳優陣もそれぞれ個性があってよい【コロンビア】10点(00/12/30 09:02)

過大評価されすぎ。黒澤作品ってそんな思うほど面白くないです。三船敏郎はかつぜつが悪くて何を言っているのか分らない。長すぎる。台詞が説明的過ぎる。上げればきりが無い。欠点の方が長所を上回っています。【出木松博士】2点(00/12/17 15:30)

「百姓は、百姓は、どうすりゃいいんだっ!」、「腹のすいた侍探すだ」、「槍でごぜえますだ」、「ご冗談を」、「いかん、貴様は死ぬ気だ。俺が行く」、「野武士は!野武士は!」。この映画の名台詞なら、いくらでも言えるぞ。【ぶんばぐん】10点(00/11/20 07:27)

黒澤映画で1番ってわけではないんだけど。最高!【プリン】10点(00/11/14 12:51)

はぁ〜い、観ました〜〜☆ 初めて見た黒澤作品・・・いやぁ〜〜〜参った☆ これ観ちゃうと、さすがの「荒野の七人」も霞んじゃう; 血みどろの野武士と百姓、骨肉を砕く刀と火縄銃、強烈に濃いキャラを揃えた名役者陣、ナド、ナド、ナド〜♪  世界に誇れる名作っしょ〜〜☆ まぁ、だからジョン・スタージェスも挑戦したかったんだろ〜ね。けどね〜、この邦画ならでわのド迫力と醍醐味は、やっぱウェスタンには成り得ないだろ〜って〜〜! オリジナルの、完璧な勝利を感じましたよん〜☆ 「オリジナルVSリメイクの場合、先に観たほうを絶対的なものとして、感情移入してしまう」という私めの持論、もろくも崩れ去りました; ということで、" だんご" ちゃ〜〜ん♪ いかがなもん? 誠意をもって書いたんだけど、これでも冷めてるかい?(`◇´*)~;;【Mrs.Soze.】9点(00/11/12 02:17)
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第1章 和解交渉が始まった
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 1988年1月28日、黒澤プロダクションのS氏から電話があり、黒澤作品の海外ビデオ配給の件などについて東宝と話しあっているが埒があかないので相談したいとのことであった。私は2月1日午後2時、事務所でS氏と会い話を聞いた。もちろんこのとき私は、これが4年後に起こる日本およびアメリカでの訴訟合戦の発端であるとは知る由もなかった。


 S氏の話によれば、黒澤プロダクションと東宝との間には『七人の侍』が製作された昭和30年代にさかのぼるさまざまな紛争があり、その解決の糸口がつかめないでいるとのことであった。私が相談を受けたときまでに、すでに黒澤プロダクションと東宝との間では何通かの書面のやり取りがあり、1987年10月12日には東宝の役員と黒澤プロダクションのI・S両氏との会議も持たれていた。これらの話し合いはまったくの平行線で、なんら歩み寄りはみられていなかった。黒澤プロダクションとしては東宝と直に話し合うのでは解決は望めないと考え、弁護士を通して強硬に申入れをしようというのであった。


 私はさっそく黒澤プロダクションと東宝との間のやり取り、およびその基礎となる契約書を検討した。契約書は昭和30年代のものから20種類以上もあり、その関係は錯綜していた。これらの契約書は弁護士を介さないで作成されたようで、黒澤プロダクションを当事者とするものと、黒澤明個人を当事者とするものが入り乱れており、その関係を把握することは複雑なジグソーパズル以上に困難だった。しかし契約書があるというだけでもたいへんありがたいことで、そもそも芸能界においては契約書を作ること自体例外的なのである。東宝・黒澤間の契約書はおおむね東宝が作成したものと思われ、東宝の権利保護に気が配られていた。これを見るかぎり東宝が黒澤に対してある種の警戒感を抱いており、契約書によって黒澤からのそれ以上の要求を断ち切ろうとする意図がうかがわれた。このように東宝の側からすれば注意をして作ったはずの契約書であったのだろうが、人間の作ったものである限り必ずそこには隙があるもので、その隙をついて議論を組み立てるのが弁護士の役割である。


 私は古い契約書の束を謎解きするように読み、黒澤側にとって有利な材料を掻き集めていった。これまでの交渉からみて東宝側が簡単に折れてくることは考えられず、常識的な議論をしたのでは東宝から考慮に値する回答を引き出すことは不可能だと思えた。そこで私は東宝への要求の中に、東宝がびっくりするようなものを入れてやろうと思い、策を練った。黒澤プロダクションが従来から主張していた、東宝・黒澤プロダクション提携5作品(『悪い奴ほどよく眠る』『用心棒』『椿三十朗』『天国と地獄』および『赤ひげ』)についての配分金、海外におけるビデオの無断配給の損害金等については当然請求するものとし、それに加えて『影武者』の配給権の問題および提携5作品の著作権の問題を取り上げることとした。『影武者』については、この映画の著作権を黒澤プロダクションと株式会社東宝映画(東宝株式会社の関連会社)が共有しており、東宝はこの映画の配給権しか有していないことに注目した。配給契約によれば東宝は『影武者』の配給の対価として、あるパーセンテージを国内封切りから10年間にわたり黒澤プロダクションおよび東宝映画に対して支払うことになっていた。東宝はこの期間は配給権の対価の支払い期間であると考えており、それ以降も当然配給権は東宝が有するものと考えていたようである。しかし契約を読むかぎり東宝の配給権が永遠に続くという約束はなく、そうであれば東宝の配給権は映画の著作権者が民法に従い相当の期間を定めた通知をすることにより終了させることができることになる。もちろん配給権を終了させるための通知をするには東宝映画の同意が必要になるが、これも著作権法に従って手続きをとれば可能であるとの結論に達した。このように私は東宝に対して『影武者』の配給権を10年目以降終了させるという可能性を示唆することにし、それをてこに交渉を進めようと考えた。


 提携5作品の著作権については、東宝はそれが東宝に属することについて何ら疑問を抱いていなかったようである。それはこれらの作品の製作に関する契約が「映画の一切の権利は」東宝が保有するとしていたからである。これに対して私は映画製作の実態が東宝を出資者とし、黒澤プロダクションを映画製作者とするというものであることから、また『影武者』の製作契約との比較から、黒澤プロダクションに提携5作品の著作権があると主張した。この主張はいささか苦しいもので、最終的には譲歩しようと思っていたが、東宝を真剣にならせるためにはこのような刺激的な主張が必要なものであると考えた。私はこれらの内容をもりこんだ書簡を1988年5月19日付けで東宝の松岡功社長に送付した。この書簡に対して同年8月29日付けで東宝の代理人であるM弁護士からの回答がきた。このときから同弁護士との間に多くの書簡が交換され、何回かの会議を経たのちに、議論が煮つめられ30年来の紛争が和解で解決できそうな情勢になってきた。その当時黒澤プロダクションの意向は東宝に相当な和解金を払うつもりがあるのならば紛争を解決してもいいという方向に固まりつつあった。黒澤プロダクションの請求は、ひとつは提携5作品の配分金やビデオの無断販売のように金銭的に解決できるものと、『影武者』の配給権や提携5作品の著作権のように権利関係の確定に関するものの2種類に分類できた。黒澤プロダクションはそれらを合わせて、東宝から満足のいく金額の掲示があれば、すべての請求を放棄するという意向であった。ただその金額については東宝と黒澤プロダクションとの間に大きな隔たりがあり、合意にはほど遠かった。


第2章 M弁護士との話合い
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 1989年10月11日、私はM弁護士の事務所で彼と会議をした。M弁護士は初老の紳士で文化人としても著名であった。彼の部屋は学者の執務室の趣があり、事務所が入っている由緒あるビルと同様、落ち着いた雰囲気をかもしだしていた。ひと通りの話が済んだところで、M弁護士はおもむろに切りだした。 「東宝としては、今度話がつくとすれば、黒澤さんとの間のすべての問題を一挙に解決したいと思っています。今まで話には出なかったのですが、東宝は一つ、長い間気になっている問題があるのです。乗杉先生は『七人の侍』についての東京地裁判決をご存じでしょう」 「だいだい知ってますが、子細に検討したことはありません」 「これが判決書きの写しなんですが……」といってM弁護士はファイルの中から書類を取りだした。「ご存じの通り、この判決は『七人の侍』の映画化権を誰が持っているかということが問題となったケースですが、そのきっかけとなったのが東宝のアルシオナに対する再映画化権の譲渡という問題でした」  M弁護士はここでさらに東宝とアルシオナ・プロダクションズとの間の契約書の写しを取りだし説明してくれた。彼の話によれば、東宝は1960年9月にアルシオナ・プロダクションズというアメリカの会社と契約し、『七人の侍』の再映画化権の譲渡をした。これに対して黒澤明、橋本忍、小国英雄の3人の脚本家は、映画『七人の侍』の再映画化権は東宝ではなく脚本の著作者である3人が有していると主張した。3人は共同して『七人の侍』の脚本を執筆したのであるが、東宝はこの脚本に基づき1954年に映画『七人の侍』を製作した。問題は、このとき3人の著作者から東宝に対して、脚本に基づき1本の映画を作る権利のみが与えられたのか、または製作本数に限りのない映画化権が与えられたのか、というものであった。東宝は、いわゆる物権的映画化権というものが東宝に与えられ、それに基づいて東宝は何本でも映画を製作できるのだと主張したが、黒澤明ら脚本家は当時の日本映画界の慣行などに言及して、1本の映画を製作する権利のみを彼らは東宝に許諾したのだと主張した。この訴訟の判決は1978年に言い渡され、東京地方裁判所は3人の脚本家が『七人の侍』の映画化権を有していると判断した。


 この1978年の東京地裁判決により、東宝のアルシオナ・プロダクションズに対する再映画化権の譲渡は無断譲渡となった。すなわち、東宝は自らの有していない権利を第三者に許諾したということになったのである。これは、いわば他人の物を勝手に譲渡したと同じことになり、その本来の持ち主の同意を得なければ契約の相手方である譲り受け人から責任を追及されることになる。かくして東宝はアルシオナ・プロダクションズから契約違反の責任を問われる立場に追い込まれたのである。 「東宝は東京地裁判決が出たところで黒澤さんたちと交渉してアルシオナ契約の追認を求めるべきだったのです。しかし、なぜかそれをしなかったために、東宝は今日にもアルシオナから契約違反の責任を問われる可能性のある不安定な立場に置かれているのです」とM弁護士は言った。


 M弁護士によれば、この問題は東宝の長年の懸案事項であり、放置してよい問題ではなかった。東宝としては今回の交渉において、黒澤プロダクションが要求している金額は不当なものだと思っているが、もしアルシオナ・プロダクションズとの契約を黒澤明ら脚本の著作権者が追認してくれるならば、その金額をあえて呑む覚悟であるとのことだった。



第3章 アルシオナ契約の追認
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 後日訴訟になってから私は知ることになったのだが、この当時黒澤プロダクションは米国のユニバーサル・ステュディオ・インクから『七人の侍』を劇場用映画としてリメイク(再映画化)したいという申し出を受けていた。黒澤プロダクションはこれ以前に第三者から、『七人の侍』のリメイクを製作したいという申し出を受け、その権利についてのオプション・アグリーメント(一定期間内にオプションを行使することによりリメイクを許諾する正式な契約を締結できる権利を与える契約)を締結したことはあったが、オプションが行使されて正式契約にいたるまでにはならなかった。したがって黒澤プロダクションとしては、このユニバーサルからの申し出は魅力的なものであり、東宝からの提案とこれを計りにかけて判断することとなった。


 東宝はアルシオナ契約の追認を求めており、黒澤プロダクションがこれに応じるとすれば、ユニバーサルへのリメイク権の許諾はできないことになる。アルシオナ契約によれば、東宝はアルシオナに対して本数に制限のない再映画化権を独占的に与えていたのである。したがって、アルシオナの権利を認めれば、『七人の侍』の再映画化はアルシオナしかできなくなるのだ。しかし、黒澤プロダクションは第三者にリメイク権を許諾する権利を留保して、なおかつ東宝の希望にそうような案を考えるよう私に指示した。東宝はあくまでも追認に拘っていたので、その要求を追認以外の方法で満足させることは至難の業と思えた。しかしこの点をクリアしないと和解自体が不可能になり、それまでに費やした時間と労力がまったく無駄になってしまう。


 そこで私が考えたのは、東宝がなぜ追認を求めているのかを分析し、アルシオナ契約が無断譲渡であることから東宝が感じている不安をいかにして取り除いたらいいか、ということであった。まず最初に東宝が恐れるであろうことは、黒澤明ら共同脚本家によって訴えられるということである。すなわち、1978年の東京地裁判決によれば、共同脚本家は『七人の侍』の映画化権を有しているのであり、その権利者の同意を得ないリメイク権を第三者(すなわちアルシオナ)に与えた東宝の行為は、共同脚本家からの損害賠償請求の対象となるものである。つぎに東宝が危惧すべきは、東宝から許諾された権利に基づいてリメイクを製作した製作者を共同脚本家が訴えるということである。米国映画『荒野の七人』は『七人の侍』のリメイクであることをクレジットで明示的にうたっており(いわゆるスクリーンクレジットで「この映画は東宝株式会社製作の日本映画「七人の侍」に基づいている」と表示していた。)、この権利がアルシオナに与えられた権利に由来することは明かであった。したがって共同脚本家は『荒野の七人』の製作会社を著作権侵害で訴えることが可能であったし、今後さらに同じ権利に基づいてリメイクが製作されることになった場合には、その製作を差し止めることも可能であった。もし共同脚本家がこのような行為に出た場合には、リメイク作品の製作者たちは、そもそもアルシオナに与えられた権利に欠陥があったことに気づき、東宝にその責任をとるよう要求するのは明かだった。


 私は、まず共同著作者が東宝を訴えないという約束をし、さらに共同著作者がアルシオナやアルシオナから権利を譲り受けた者を訴えないということを約束すれば、東宝の不安はかなりの部分で解消されると考えた。私はこの旨をM弁護士に伝え、これで和解に応じてくれるよう要請した。これに対してM弁護士はあくまでも追認を要求し、黒澤側の提案ではアルシオナやその承継人から東宝が訴えられる可能性が残されていることを強調した。私は黒澤プロダクションが『七人の侍』のリメイクを考えており、したがってそれを不可能にするような追認はできないと書面で述べたが、このままでは和解はほとんど不可能であると考えていた。


 黒澤プロダクションのそれまでの提案をさらに追認に近づけるためには、東宝がアルシオナまたはその承継人から訴えられた場合に、黒澤プロダクションが補償し東宝に損害が及ばないようにするしか方法はなかった。しかし補償をするとなれば、東宝に対して請求される損害額が巨額になることが予想されていたので、黒澤プロダクションのリスクも大きくならざるをえない。私は補償についてはあまり乗り気ではなく、むしろやるのであるのならば明確な形での追認のほうが好ましいと思っていた。しかし10月30日にI氏から電話があり、黒澤プロダクションのアメリカの弁護士が違う考えをもっているので、電話をかけさせるから聞いてほしいとのことであった。11月1日午前中ロサンゼルスの弁護士であるアラン・リバートから電話があり、アルシオナの権利はもう存在していないかもしれないので、追認するのは問題であるといわれた。まず第一に、彼の調査したところによればアルシオナはすでに解散しており、その権利を誰が承継したかは不明であるという。そしてまた、アルシオナが仮に東宝に対して損害賠償請求権を有していたとしても、それはカリフォルニア州法上時効にかかっていて、すでに行使できなくなっている可能性がある、とのことであった。私は、最初の点については、会社が解散したからといって権利がなくなるわけではなく、安心材料にはならないと思った。次の時効の問題については、カリフォルニア州法の問題で専門的知識はなかったが、そう簡単に時効が成立しているとは信じられなかった。


 このように『七人の侍』に関わる問題が大詰めをむかえていた頃、黒澤プロダクションは『天国と地獄』についても問題を抱えていた。『天国と地獄』は1963年公開の黒澤明監督、東宝製作の映画であるが、この映画は黒澤明他3名が書いた脚本をベースにした作品であった。黒澤プロダクションはこの映画をリメイクしたいという申し出をユニバーサル・ステュディオから受けており、4名の脚本家を代理して交渉を進めていた。先に述べた1978年の東京地裁判決の結論が『七人の侍』以外の映画とその脚本の関係にも当てはまるとすれば、映画化権を持っているのは脚本家であり、脚本家のみがリメイクを許諾できることになる。しかし『天国と地獄』の場合には、その脚本は米国の作家エヴァン・ハンター(筆名エド・マクベイン)の『キングの身代金』という小説に基づいていたため、リメイクを許諾するにはこの原作者の許諾をも取得する必要があった。


 映画という芸術は法律的に考えるとおもしろいもので、絵描きが絵を描き、音楽家が作曲し、小説家が小説を書くように一人の人間が造りあげられるものではない。おおまかに言うと映画を作るためにはまずプロデューサーが必要で、プロデューサーが映画製作に必要な金と人と権利と資材を集める。人について見ると、まず監督を決める必要があり、監督が決まると多くの場合その監督の下にいる一群の人々が決まってくる。その集団を、日本の映画界では黒澤組とか大島組とか呼んでおり、他の映画の仕事をしていたり、テレビの仕事をしていたりしてもひとたび号令がかかれば、やりくりをつけて集まってくるようである。権利の面について見ると、その映画を作るについて、他の人が著作権を持っている作品を使うことにならないか検討する必要がある。他人の文学作品に基づいて映画を作る場合には、まずその作品の著作権者の許諾を得る必要がある。その許諾が得られたところで初めて脚本造りが始まる。このように、映画というのは多くの人間が参加し、さまざまな権利が入り乱れる法律的に非常に複雑な産物なのだ。


 東宝は『天国と地獄』を製作する際に、原作者エヴァン・ハンターと契約を交わしており、この契約によれば東宝が原作である『キングの身代金』の映画化権(複数の映画を作る権利)を有することになっていた。黒澤明他3人の脚本家は、東宝がエヴァン・ハンターから許諾された映画化権に基づき『天国と地獄』の脚本を作成したが、映画化権自体は東宝に残っていた。したがってユニバーサルにリメイクを許諾するためには、黒澤プロダクションは東宝から原作の映画化権を譲り受ける必要があった。


 東宝は『キングの身代金』の映画化権の譲渡についてはとくに異議がない様子であり、その対価についてもおおむねの合意が得られる状態になっていた。しかし、東宝はこの件についても他の和解案件とともに一挙に解決することを主張し、分離して解決することには応じようとしなかった。この間黒澤プロダクションとユニバーサルとの『七人の侍』のリメイクに関する交渉はどんどん進んでおり、原作権の問題さえ解決すればほとんど契約できるまでになっていた。黒澤プロダクションはユニバーサルサイドから連日のように原作権がどうなっているかとの問い合わせを受けており、これ以上待てない状況になっていた。そこで、他の和解案件のなかで唯一大きな障害となっている『七人の侍』の問題を早急に解決する必要に迫られた。


第4章 玉虫色の解決
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 いわば背に腹は変えられぬという感じで、黒澤プロダクションは東宝に対して東宝が訴えられた場合の補償を約束することにした。私が案文を出し、その後いくつかの表現上のやり取りはあったが、最終的に合意された『七人の侍』の再映画化権に関する契約は以下のとおりであった。

契   約   書


 黒澤明および株式会社黒澤プロダクション(以下、黒澤プロという)と東宝株式会社

(以下、東宝という)は「七人の侍」の再映画化権につき次のとおり合意する。

第1条  東宝は、1958年9月付けのAlciona Productions, Inc.(以下、Alcionaという)との間で締結された契約に基づき、 Alcionaに対して「七人の侍」の再映画化権を、同映画の脚本の著作権を有する黒澤明、小国英雄及び橋本忍に無断で与えたこと(以下、本件行為という)を認める。

第2条  黒澤明及び黒澤プロは、東宝が下記第3条に定める金額を支払うことを条件に、下記を約する。

(1)黒澤明及び黒澤プロは、本件行為につき、東宝に対して一切の異議の申立又は請求権の行使をしないものとする。

(2)黒澤明及び黒澤プロは、Alciona又はその承継人もしくは譲受人が上記契約に基づき「七人の侍」を再映画化した場合にも、そのような映画の製作に対して一切異議を申し立てないものとする。

(3)黒澤明及び黒澤プロはAlciona又はその承継人もしくは譲受人が本件行為を理由として東宝に対して異議を申し立てた場合には、全責任をもって処理するものとし、東宝に一切の迷惑がかからないようにする。

(4)黒澤明及び黒澤プロは、小国英雄及び橋本忍が上記(1)及び(2)の条件に従うことを保証する。

第3条  東宝は黒澤明に対して、上記第2条記載の約束の対価として金     円を1990年2月29日まで支払うものとする。


1990年2月1日


東京都世田谷区成城2−21−6
黒 澤   明


横浜市緑区霧ヶ丘3−2−1
株式会社 黒澤プロダクション
代表取締役 黒 澤 久 男

東京都千代田区有楽町1−2−1
東 宝 株式会社
代表取締役 松 岡  功


 



 この契約はどこを読んでも東宝のアルシオナに対する無断譲渡を追認するとは言っていない。しかしその第2条を見ると、追認したら生じるであろう効果を具体的に書いたようにも読める。事実、この第2条が追認と異なるのは、黒澤プロダクションが『七人の侍』を自ら(又は第三者を通じて)再映画化できるかどうかという点であろう。この点についての認識の違いが後日訴訟にまでなったのである。


 M弁護士は私の提示した案文を見て、そこに求めていた追認という言葉がないにもかかわらず「おおむねこれでいいでしょう」と言った。その後の話し合いの中で、私はM弁護士がこの第2条が追認そのものだと考えているらしいことに気がついた。私はもともと追認はあくまでも拒否するが、それに最も近い効果をあげる規定を作ろうと思っていたのだから、それが追認と解釈しうるとは思ってもみなかった。ただこの規定は東宝に対しては最大限の保護を与えるよう意図されていたので、東宝にとっては追認に等しい効果があるとは思っていた。だから、私はあえてM弁護士の誤解を正そうとはしなかった。弁護士倫理の問題からすれば、相手が法律の専門家でなければ、相手がある規定の意味について取り違えている場合には教えるべきであろう。しかし本件の場合、私が相手にしていたのは私よりもずっと経験豊富な大弁護士であり、そのような人に契約の解釈を教えるというのは失礼千万なことである。このように書くと、いかにも私が計算ずくで交渉していたように思えるが、実は私自身も正確な状況の把握をしていなかったようである。私は、黒澤プロダクションが東宝に対して補償することを決めた時点で、黒澤プロダクションが自ら『七人の侍』を再映画化するか、または第三者にそのような権利を許諾することは諦めたものと思っていた。どうしてそう考えたかと言うと、仮に黒澤プロダクションがそのようなリメイクを作ったとしたならば、アルシオナまたはアルシオナから権利を譲り受けた第三者は、自分が『七人の侍』のリメイクについての独占的な権利を持っているはずなのに、黒澤プロダクションが自分の権利を侵害するようなことをするとは何事だ、と東宝に対して抗議するであろう。それに対して東宝は敢えて抗弁しないであろう。黒澤プロダクションが補償してくれると約束しているのだから、東宝はその相手に対して損害賠償金を払い、その金額をまるまる黒澤プロダクションに求償してくることになるだろう。このような結果は黒澤プロダクションとしては望まないであろうから、黒澤プロダクションはみずからリメイクを作ることは諦めるだろうというのが私の考えであった。


 『七人の侍』の問題が解決し、それにともなって『天国と地獄』の原作権の問題も合意されたので、11月後半から和解契約書の案文作りに入った。その最中に東宝から黒澤作品の二次利用の問題についても一緒に解決したいとの申し出があった。黒澤明は東宝で『姿三四郎』から『影武者』まで21本の作品を撮っているが、これらの作品の二次利用についての合意がないため、東宝はこれらの作品をビデオ化することすらできないでいた。二次利用というのは本来劇場用に作られた映画をテレビやビデオのような別な媒体を用いて利用することであり、そのためには脚本家や監督の同意が必要であった。東宝の言い分は、そのような同意を黒澤プロダクションに求めにいっても、黒澤プロダクションは通常東宝が監督・脚本家に支払う以上の使用料を要求するので許諾を得にくい、ということであった。しかし、東宝が通常支払っている使用料は最低限のものでしかなく、監督・脚本家等映像クリエイターの地位の向上を求めている黒澤明としては容易に妥協できないものであった。この使用料の金額については何回かやり取りがあったが、結局東宝は譲歩せず、シナリオ作家の協会と映画監督の協会がそれぞれ映画の製作会社と結んでいる協定の最低料金で合意することになった。この合意からも後日紛争が生じ、訴訟になった。


 黒澤プロダクションと東宝との間の和解契約は1990年2月1日付けで調印され、その後、東宝は黒澤明が東宝で製作した21作品のビデオ化を発表し、映画ファンを喜ばせた。黒澤と東宝との間にはやっと平和が戻ったかのように思われた。


第5章 保険会社の疑問
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 黒澤プロダクションとユニバーサルとの間では『天国と地獄』のリメイクの話が進んでおり、私は日本サイドでそれを手伝っていた。この交渉を担当していた黒澤プロダクション側の米国人弁護士は、ジェフリー・グローバートという男で、別件ですでに顔見知りであった。私が和解契約の交渉の際に電話で話をしたアラン・リバートという弁護士は、和解契約の締結の前後に急死し、I氏の知り合いであったグローバートがその後を継いだのであった。奇縁というか、私がグローバートを知ったのはI氏を交えた契約交渉の席であった。それはちょうど私が黒澤プロダクションの代理人として、サージ・シルバーマン相手に『乱』の共同製作契約の交渉に全力投球していた頃であったが、私は並行して別の映画製作の交渉をアメリカの会社と行っていた。私は日本のビデオ製作会社の代理人としてこの交渉に臨んでいたが、アメリカの会社の代理人として現れたのがジェフリー・グローバートだった。そして、商社の社長をしていたI氏は日米の2つの会社の間を取り持つという形で交渉に参加していた。このときグローバートとI氏と私は、黒澤明とは何の関係もない仕事で顔を合わせたのであるが、それが数年後に同じサイドでチームを組むことになろうとは想像もしなかった。


 1991年の初めまで、私は『天国と地獄』の原作権の関係でグローバートと2、3回ファックスを交換し、東宝から必要な書類を入手するという類いの仕事をしていた。1991年になってから私は、グローバートが『天国と地獄』のリメイクのみだけではなく『七人の侍』のリメイクの話をもユニバーサルとしていると知り、驚いた。しかし、私は『七人の侍』の件についてはとくに依頼されていなかったため敢えて口を挟まなかった。1991年ユニバーサルは『七人の侍』のリメイクを製作するにつき、コンプリーション・ボンドをかけようとしていたが、問題はコンプリーション・ボンドを提供する保険会社の疑問から発生した。コンプリーション・ボンドは完成保険と訳されいるが、欧米の映画製作会社がよく用いている保険である。映画はリスクの大きなプロジェクトであり、資金不足、監督・役者やその他のスタッフの病気や怪我、天候不順、その他さまざま理由で製作が困難になることがある。これらの危険に対して保険を付す場合に2つの方法があり、一つは個々の危険に対して保険をかけるというものである。すなわち、例えば監督が病気になり製作が中断した場合には、それに対して決められた金額が支払われるという仕組みである。映画『乱』のときにはこの方法が用いられた。これに対して完成保険というのは、映画製作がどのような理由であれ困難に直面した際には、保険会社が自ら製作会社に代わって映画製作を行い、資金を注ぎ込んで、場合によっては監督さえも代えて、映画を完成させるというものである。これは保険会社にとっても大きなリスクを伴うものであり、映画の製作予算の10パーセント程度が保険料として支払われるのが通常であるが、保険会社としてもリスクの評価を厳格に行う必要がある。


 保険会社はまず映画を製作するにつき必要な権利がすべて確保されているかどうかを検討する。『七人の侍』のリメイクの場合、権利の関係で、最初に問題とすべきは誰がリメイクを許諾する権利を有しているかということである。ユニバーサルはこの問題について1978年の東京地裁判決を示して、3人の脚本家がリメイクを許諾する権利を有していると述べたものと思われる。保険会社はこの東京地裁判決の英訳文を入手し、それを検討した。保険会社はその中に不可解な部分を発見し、ユニバーサルに釈明を求め、それがグローバートを通してわれわれに伝わってきた。


 保険会社が問題としたのは、東京地裁判決の理由のなかに、原告である黒澤明ら脚本家3名が、東宝がアルシオナに対して行った映画化権の譲渡を承認したと読める箇所がある、というものであった。もしこれが事実だとすれば『七人の侍』の映画化権はすでにアルシオナに移っており、黒澤明ら脚本家は何の権利も持っていないことになる。判決書きの該当部分は次のとおりである。なお、以下「原告ら」というのは黒澤明ら脚本家3名のことで、「被告」というのは東宝のことである。


「原告らが被告に対して、本件脚本につき、一回限り映画化することを許諾したに過ぎないことは、次の事実からも明らかである。すなわち、被告は、アルシオナに対して、昭和33年9月に、本件脚本について被告が映画化権を有するとして、これを譲渡する契約を締結した。しかし、被告は、この事実を秘匿したまま、昭和35年11月ころ、原告らに対して、本件脚本の映画化権をアルシオナに譲渡することを承諾してほしい旨申入れてきたことがあり、原告らはこれを承諾した。そして、原告らは、被告から金5000ドルと金2000ドルとを各別に受領した。もしも、被告が、原告らとの間の契約により、本件脚本の物件的映画化権を取得していたのであれば、被告は、原告らの承諾を得ることなく、勝手に自己の取得したとする物件的映画化権をアルシオナに譲渡することができたはずである。しかるに、被告が原告らに対して右申入れをしたり、アルシオナから受領した金員を配分したりしたということは、被告が原告らから物件的映画化権を取得していなかったことを自ら認めたものにほかならない。」(第5「抗弁に対する認否」の4)


 しかしこれが事実だとすれば、判決主文とあきらかに矛盾している。判決主文は「映画『七人の侍』の脚本につき、原告らが映画化権を有することを確認する」とはっきりと述べているのであり、東宝からアルシオナへの映画化権の譲渡を裁判所が認めたとすれば、このような判決になるわけはない。しかも、右の引用した部分は原告である脚本家たちが主張しているものであって、なぜ自らにとり不利なことを主張しているのか理解できない。さらに奇妙なのは、被告である東宝がこれに対して次のように反論しているという点である。


「原告らは、さらに、被告が本件脚本につき物件的映画化権を取得したものであるならば、 被告がアルシオナ・プロダクション・インコーポレーテッド(以下単に『アルシオナ』という。)に対し本件脚本の映画化権を譲渡する契約を締結したことにつき、原告らの承諾を求めるはずがないと主張する。しかしながら、被告が原告らの承諾を求めたのは、原告らが本件脚本について著作者人格権(とくに同一性保持権)を有するところから、背景、登場人物の名前、性格付けなどにおいて、本件脚本の内容に変更を加えることにつき許諾を求めたものである。また、被告がアルシオナから受領した金員(金7500ドル)を全額原告らに交付したのは、右許諾に対する対価として支払ったものである。」(第4「抗弁」の6)


 ここで東宝が何を言っているのかというと、確かに脚本家たちに対して承諾を求めたことはあったが、それは映画化権の譲渡に対する承諾ではなくて、「背景、登場人物の名前、性格付けなどにおいて、本件脚本の内容に変更を加えることにつき」承諾を求めたにすぎないというのである。これは訴訟の勝ち負けという点から考えると、東宝にとって自らを不利な立場におく主張であり、原告である脚本家たちの言ってることをそのまま認めれば映画化権の譲渡に対する承諾があったことになり、東宝はこの訴訟に勝ったのではないかと思えた。


 判決書きを何度読んでもこの疑問点は解消されなかったので、私は東京地裁で訴訟記録全体を見ようと思った。しかし東京地裁に確認したところ、訴訟記録は判決書きを残してすべて廃棄されているとのことであった。とにかく20年以上も昔の事件であり、黒澤プロダクションにはその当時の記録は一切なく、はたと困ってしまった。次に考えたのは、その当時黒澤明らを代理していた弁護士に聞くということであった。弁護士名簿で電話番号を調べ電話したところ、家族の方が出て、代理人であった勝本弁護士は90歳以上の高齢で、すでに正常な会話を交わすことさえ困難な状態であるとの返事であった。さらに、その当時の記録が残っているかどうかをたずねたところ、勝本弁護士の著作権関係の仕事を引き継ぐ弁護士がいなかったため、その当時の記録がどこにあるかは不明であるとのことであった。東宝との間はすでに雲行きが怪しくなっていたので、東宝またはその弁護士に聞くこともできず、私の調査はここで行き詰まった。  このような状況のもとで、とにかくユニバーサルに対しては何らかの回答をしなければならなかった。そこで「判決理由中に何が書かれていようとも、判決主文は明らかに黒澤明ら3人の脚本家に映画化権があるということを明言しているのであり、この判決が確定している以上、権利の所在につき問題はない」と答えた。   


第6章 MGMの追求
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 このようなやり取りを私がグロバート弁護士としていたちょうどその頃、東宝のロサンゼルス在住の弁護士バートラム・フィールズの事務所にMGMの執行副社長からの手紙が届いていた。その内容は、MGMが黒澤プロダクションとの間に『七人の侍』のテレビシリーズの製作に関する契約を締結しようとしており、それを締結した際にはMGMがアルシオナから得た権利が無効なものになるので、黒澤プロダクションに支払うことになる対価をすべて東宝に対して損害賠償として請求する、という内容のものであった。東宝はこの件につき早速M弁護士と相談したようで、M弁護士から私に電話があった。M弁護士は手紙の詳細については伝えなかったが、MGMの誤解を解くために黒澤との和解契約をMGMに示したいと言った。M弁護士はこのときも和解契約が追認に当たると考えていたようで、それを示せばMGMからの責任追及を逃れられると考えていたようである。私はこの件につき黒澤プロダクションと相談したが、和解契約をMGMに示されるのは困るという結論に達した。


 前に引用したように、東宝と黒澤プロダクションの間の『七人の侍』に関する契約は、アルシオナまたはその承継人もしくはその譲り受け人が『七人の侍』のリメイクを製作したとしても黒澤サイドはそれに対して文句を言わないと約束している。MGMがこの契約をみれば、改めて黒澤プロダクションから許諾を得ないで映画を製作したとしても、黒澤プロダクションはそれに対して異議を申し立てることはできないと考え、交渉中の契約を締結することなく映画製作に踏み切る可能性があった。さらにこの契約は玉虫色の表現を使っており、解釈次第で追認といえないこともない。それが英語に翻訳された場合には、なおさらその意味するところが曖昧になる。そこで私は、M弁護士に、『七人の侍』に関する契約が開示されてもむしろ誤解を拡大する結果になると述べ、それを待ってほしいと言った。これに対してM弁護士は契約書をMGMに示さなければ、いつ東宝に対しての訴訟が提起されないとも限らないので一刻も待てない状況にあると説明した。私は契約書自体についての守秘義務が合意されていない以上、東宝がそれをMGMに示すことを止める法律的な手段はないと考え、仮に契約書がMGMの手に渡るとしても、それに契約書の内容を明確にするような説明文を付してから渡してほしいと述べた。


 私は、アルシオナ契約による再映画化権の譲渡が無断譲渡であるということ、さらにアルシオナ契約が締結された後にそれが追認されたこともないということを改めて東宝に確認してもらいたかったので、MGMに対する説明文の案文をM弁護士に送った。下記はその和訳文である。


関係者各位

 東宝株式会社(以下「東宝」という)は、下記のとおり宣言する。


1、 東宝は、黒澤明、小国英雄及び橋本忍(以下「本件脚本家」という)の作成した 脚本(以下「本件脚本」という)に基づき「七人の侍」(以下「本件映画」という)と題する映画を1954年に製作した。

2、 本件脚本家は、東宝に対して本件脚本に基づき1本の映画を製作するライセンス を与えた。

3、 東宝は、本件映画のリメイク又はシークエルを製作する権利を与えられたことは 一切ない。


 上記の証として、東宝はこの書面を正式に授権されたその(役職)である(氏名)をして1991年7月  日に作成せしめた。

                       東宝株式会社

 

                       (氏名)
                       (役職)




 これを読んだM弁護士は、東宝としては米国の弁護士の意見を求め、この文書によって東宝の立場が損なわれないか慎重に検討する必要があると述べた。東宝に提出してもらう文書の内容についての合意が容易でないことは明らかだった。東宝の米国の弁護士はどのような内容の文書を出すにしても、それはMGMの訴訟を誘発する危険があるという立場をとっていたからだ。


第7章 承諾書出現
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 そのような状況でM弁護士から電話があった。説明したいことがあるので会って話をしたいとのことだった。1991年7月23日、M弁護士は私の事務所を訪れた。事前に話の内容について聞いていなかったのだが、この段階でわざわざ尋ねてこられるというのはただごとではないなと私は思った。まずM弁護士はMGMから得た情報として、MGMがアルシオナの承継人であることを示すことができると言っていると述べ、どのような経路でMGMが『七人の侍』の再映画化権を承継するにいたったかを示す図を私に見せた。私は、そのような話であればファックスでも送ってもらえば充分だったのに、とあまり驚かなかった。その話が終わったあとM弁護士はおもむろに1枚のB4版の書面を取りだし、私に見せた。それは契約書のコピーであった。それを読んだとき私は驚きを隠しえなかった。その内容は次のとおりだった。


承   諾   書


 私たち3名で執筆せる「七人の侍」脚本の映画化権を貴社よりアメリカ加州法人アルシオナ・プロダクションズ・インコーポレーテッドに譲渡の件を承諾致します。

昭和35年  月  日
東京都北多摩郡狛江町和泉2088
黒  沢      明(印)

東京都世田谷区羽根木町1640
橋  本      忍(印)

東京都太田区馬込町西4ノ3
小  国   英  雄(印)



  

東宝株式会社

 取締役   清水 雅  殿 




 これはまさにアルシオナ契約を追認する文書であった。これは前に述べた1978年の東京地裁判決中の黒澤側の代理人が言及していた承諾を裏付ける文書ではないか。M弁護士は「東宝が見つけてきたものですが、アルシオナ契約を添付してるわけでもないですし、これだけでは追認があったというには足りないようにも思いますが」と、あっさり言ってそれ以上論評を加えなかった。私はM弁護士がどのような意図でこれを今ごろになって持ってきたかを考える余裕さえなく、呆然としていた。このようなものをMGMに示されれば、東宝が無断譲渡の責任を問われる可能性は少なくなるだろうが、その反対に黒澤プロダクションが自ら再映画化権を有していると称してMGMと交渉していること自体が詐欺に近い行為になり、どのような非難をされ、また責任追及をされるか分からない。


 私はさっそくこの書面について黒澤プロダクションに問い合わせたが、黒澤プロダクションにはそのような記録は一切ないとの返事が帰ってきた。さらに黒澤明本人に聞いてもらったが、このような文書には心当たりがないとのことであった。I氏と話しているときに、橋本忍氏が当時この件の取りまとめ役になっていたらしいということを聞き、橋本忍氏に電話をした。橋本氏も当時の記憶は定かでないと言っていたが、アルシオナ契約を追認するということではなく『荒野の七人』の件は認めましょうということは言ったかもしれないとのことであった。状況が分からないままに、私はアメリカのグローバート弁護士と連絡をとりながら、なんとか交渉で問題を解決しようと考えていた。


 とにかく和解契約書がMGMに示されれば、MGMが勢いづくことが考えられ、解決が困難になる。そこで東宝との間では、和解契約書を示す際に添付する文書についてさらにやり取りをした。東宝サイドは、アメリカの弁護士が頑強に抵抗し、こちらの考えているような案文には一切応じられないという態度を貫いていた。


 アメリカにおいてはグローバート弁護士がMGMと交渉していた。MGMが『七人の侍』 のリメイク件をどうしても入手したいという差し迫った状況にあるということが伝わってきていたので、我々は強気に交渉することにした。とにかく、MGMが東宝に対して訴訟を起こさなければ問題はないわけなので、それをMGMに約束させようと考えた。こちらがMGMに提案したのは、黒澤がリメイク権を許諾する条件として、MGMが東宝を訴えないという約束を取り付けるというものであった。しかしこの提案は結局拒絶され、事態は進展しなくなった。


第8章MGM提訴する
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 1991年12月になって黒澤サイドは東宝との案文の合意は不可能と考えるにいたり、 これ以上長引かせると本当に訴訟になると考えたので、東宝とは関係なく、黒澤プロダクションからMGMに対して詳細な説明文をつけて和解契約書を示そうということになった。グローバート弁護士の説明の手紙とともに、和解契約書の英訳文が1991年12月2日にMGMに対して発送された。その手紙は12月4日にMGMに届いたが、まさにその日にMGMはロサンゼルス上級裁判所に東宝、黒澤プロダクションおよび黒澤明ら3名の脚本家に対する訴訟を提起した。


 この訴訟に関するニュースは1991年12月6日版のバラエティー、ザ・ハリウッド・リポーター等の芸能関係の新聞に載った。この新聞記事で訴訟提起の事実を初めて知ったグローバート弁護士は、さっそくI氏に電話をしてきた。私は12月7日土曜日の午後、新潟に行くために新幹線のホームに立っていた。当日私の事務所は年1回のパートナー合宿が行われることになっており、10人のパートナーが新幹線で落ち合うことになっていた。私は早めに事務所を出て東京駅に着いていたが、あとからきたパートナーが、事務所に黒澤プロダクションのI氏から電話が入り至急話したいことがあると言っていたと伝えてくれた。I氏に電話をすると、興奮した様子で、黒澤プロダクションがロサンゼルスで訴えられたとグローバート弁護士から連絡があったが、これからどう対応すればいいのか教えてくれと言った。私は、東宝が訴えられるのはともかく、なぜ黒澤プロダクションまで訴えられなければならないのか分からなかったので、月曜日にグローバート弁護士に電話して詳細を聞くと言って電話を切った。


 グローバート弁護士の話によると、訴訟は、東宝、黒澤プロダクション、および黒澤明ら3人の脚本家を被告として提起され、MGMが『七人の侍』のリメイク権を有していることの確認と、黒澤プロダクションおよび3人の脚本家に対する損害賠償請求を内容としているとのことであった。損害賠償請求の理由としては、黒澤プロダクションらが東宝との間の和解契約書を東宝がMGMに示すことを不当に妨げたということであった。グローバート弁護士はこの訴訟に対しては、まず管轄を争うと言った。管轄というのは裁判管轄のことであって、一般的に被告となるものの立場を保護するという趣旨から考えられている。すなわち、原告が自分の都合のいい裁判所に訴訟を起こせるということになれば、特に遠隔地にいる被告に対して不当な不利益を負わせることになるという配慮である。MGMの訴訟の場合、日本にある会社や日本に住む個人に対してロサンゼルスの裁判所に訴訟を起こすというのは、訴えられた者からすれば訴訟の防御に非常な困難を強いられるということになる。グローバート弁護士の主張は、カリフォルニアの民事訴訟法上、ロサンゼルスの裁判所はこの訴訟の被告である日本の法人や個人に対して管轄権を有しておらず、MGMの訴訟は却下されるべきであるということであった。


 裁判管轄のほかにグローバート弁護士が却下申し立ての理由としたのは、送達方法の違法であった。訴訟が提起されると訴状が被告に送達される。日本においては訴状の送達は裁判所の書記官が行う。米国においては多くの場合原告の代理人である弁護士が、裁判所からの委託を請けて訴状を送付する。今回の訴状はMGMの弁護士から郵便で送られてきた。米国内に被告がいる場合にはこれで充分なのだが、今回は日本に被告がいたため、米国の民事訴訟法にのっとった訴状の送達方法が有効かどうかが問題となるのである。


 これらのグローバート弁護士の主張はカリフォルニア上級裁判所ですべて理由がないとされ、さらにグローバート弁護士はこの決定に対してカリフォルニア最高裁判所に上訴したが、これもまったく理由を付することなく却下された。黒澤サイドはこれらの主張が通る可能性があると考えていたため、たいへん失望した。この第一段階での挫折はかならずしも訴訟が最終的にこちらに不利な結果になることを意味してはいなかったが、裁判所の対応が被告に対して冷淡なように感じられたこともあって、このまま本案に入っても偏見をもった判断が下されるのではないかと黒澤サイドは恐れた。


 カリフォルニアでの訴訟は、このように第一段階が原告であるMGMの勝利に終わって、原告の請求に理由があるかを問う、いわゆる本案審理に入った。もっとも米国の裁判手続きは日本とは違って、裁判所で原告と被告が主張を戦わせるいわゆる口頭弁論にすぐ入るわけではなく、原告と被告がお互いに相手側がもっている自分に有利な資料を取り合うという証拠開示手続がまず行われる。これは米国の訴訟を経験した者はだれでも感じるのだが、非常に負担の大きなものであって、英語を母国語としない当事者にとっては堪え難いものである。たとえば、何十項目にもおよぶ尋問事項書が送られてきて、それに全部英語で答えなければいけない。また文書提出請求というのもあって、事件に関係のありそうな契約書、手紙、メモ等すべて提出しなければならない。これらの要求に対しては必ずしもすべて言われた通りに応じなければならないわけではないが、拒否するにはそれなりの理由が必要である。正当な理由なくこれらの要求に応じない場合、または虚偽の理由をのべて要求を回避しようとした場合には、裁判所侮辱罪に問われることもある。


 1992年4月頃からこれらの文書が続々と送られてきた。黒澤プロダクションや黒澤明が名宛人となっているものに対しては、それなりに迅速な対応ができたが、橋本忍や小国英雄が名宛人となっているものについては御両人に対する説明が必要であり、さらにこちらが作った回答書に署名をもらう必要があった。橋本氏は都内に住んでいたからまだよかったが、小国氏は京都の山奥に住んでおり、署名をもらうためにS氏がいちいち足を運ぶということになった。黒澤サイドはこのような原告の攻撃が延々と続くということに焦燥感を感じだした。やられているばかりではなく何かやり返す方法はないかという問いが私に発せられた。

第9章 反対訴訟は可能か
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 黒澤と東宝との間は既にこの頃別件で紛争状態にあった。前に述べたように、和解契約のなかには黒澤明が監督し東宝が製作した21本の作品の二次利用についての約束が含まれていた。二次利用のひとつの形態はテレビによる放映で、東宝はテレビ局に放映を許諾する際には、シナリオ作家の協会と監督の協会がそれぞれ映画の製作会社の連盟と結んでいる協定の最低料金を黒澤明に支払うことに合意していた。東宝は1991年7月頃、黒澤明監督21作品のテレビ放映権を約10億円の対価により日本衛星放送株式会社(JSB)に許諾した。和解契約によれば、この場合東宝はテレビ会社に対する販売価格の4パーセントをそれぞれ脚本家および監督としての黒澤明に支払うことになっていた。しかし、東宝はJSBによる放送は衛星放送によるものであるため、地上波テレビ放送を念頭においていた和解契約の条項は適用が無いと主張し、とりあえず白黒作品については12万円、カラー作品については20万円を支払うと言ってきた。これに対して黒澤側は、テレビ放送には衛星放送をも含むので和解契約に規定されている4パーセントの金額が支払われるべきであると主張し、双方譲らないままに、紛争は膠着状態になっていた。黒澤側はJSBによる放映が既に開始されていたこともあり、話し合いでは埒があかないと考え、1992年3月18日に東京地方裁判所に著作権使用料等請求の訴訟を提起した。この訴訟に対するマスコミの反応は黒澤側に好意的なものが多く、当時映画の二次利用に関する監督、脚本家等の権利の保護が問題となっていたこともあり、特集を組んだ新聞もあった。


 日本の社会においては、訴訟を起こすというのは、それなりに勇気がいる。右の東宝に対する訴訟についてもいろいろと検討した結果、訴訟以外に問題解決の方法は無いという結論が得られて初めて訴訟提起をしたのである。しかし2度目ともなると、黒澤側の訴訟をタブー視する感覚は薄れ、MGMに訴訟で対抗できないかと考えるようになった。MGMの場合、黒澤側は既にアメリカで訴訟を起こされていたので、本来であればアメリカ現地で防御すればいいということになる。これが日本国内の話であれば、訴訟を起こされた同じ案件について別の訴訟を対抗して起こすということはできない。しかし、国際的な紛争については、このようなルールは無く、アメリカで起こされた訴訟に対抗する訴訟を日本の裁判所に提起することは可能である。アメリカで日本の会社が訴えられることが多くなるにつれ、このような反対訴訟が日本の裁判所に起こされることも希ではなくなった。アメリカの訴訟で日本の会社が敗訴した場合には、アメリカの判決は一定の手続きを経れば日本で強制執行することができる。この場合、もし日本の会社がアメリカの訴訟に対抗して日本で訴訟を提起していてその訴訟で勝ち、その判決が確定すれば、仮にアメリカの訴訟で負けたとしてもアメリカの勝訴判決が日本で強制執行されることはない。物事は必ずしもこのように調子よくいくわけではないが、日本で訴訟を起こすことはアメリカの当事者に対してプレッシャーをかけることになり、日本側がある決意を持って闘うという姿勢を示すことはアメリカの訴訟にも影響を与えることがあるのだ。


 このようにMGMに対する反対訴訟は、MGMがアメリカの裁判で主張している事実を否定するという形で日本の裁判所に訴えることになる。MGMがアメリカの裁判で求めていたのは、『七人の侍』の再映画化権をMGMが有しているという事実の確認と黒澤側がMGMに対してある不法行為をなしたという主張にもとづく損害賠償請求であった。これに対抗するためには、黒澤側はMGMはそのような再映画化権を有していないということと黒澤側がMGMに対して損害賠償の義務を負っていないということについて確認を求めればいいのである。問題は、このような反対訴訟で黒澤側が勝ったとしても、それですべて問題が解決するわけではないということであった。つまり、MGMが『七人の侍』の再映画化権を有していないという結論になった場合には、MGMは東宝からアルシオナ経由で有効な権利の譲渡を受けていなかったということになり、今度は、MGMは東宝に対して損害賠償請求をすることができることになる。東宝はこれに対して抗弁のしようがないので、敗訴することになり、東宝が敗訴した場合には、和解契約にもとづいて東宝はその金額を全部黒澤側に請求することができることになる。これをストップするためには、東宝が敗訴した場合にも東宝がMGMに支払う金額をそのまま黒澤側に回してくることを阻止しなければならない。


 そこで私は『七人の侍』に関する東宝との和解契約を無効にする方法をさがすことになった。もともと無効な契約をつくる気は無かったのであるから、状況が変わったからといってそれを簡単に無効にはできない。契約というのはお互いに相手を拘束するためにつくるものであるから、その拘束から抜け出すのは奇術の縄抜けように難しいものである。しかし、奇術に種も仕掛けもあるように、私はこの場合にもある仕掛けができることに気が付いた。

 

第10章 東宝を詐欺で訴える
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 その仕掛けの材料はMGMの訴状の中にあった。アメリカの訴訟の訴状はあまり整理されていないものが多いが、MGMの訴状もおよそ考えられるすべての請求を並び立て、それらについて証拠に基づいた主張をしていた。その一つの項目に「黒澤側対東宝訴訟についての日本の裁判所の判決に関する原告、東宝および黒澤側間のコミュニケーション」というものがあった。この中に述べられていた原告、すなわちMGM、と東宝との間の往復書簡が非常に興味のあるものであった。

 

第11章 MGM及び東宝に対する訴訟
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 MGMと東宝に対する訴訟は1992年8月7日に東京地裁に提起された。前に述べたJSBの件で訴訟を起こした時に、多数の新聞社から電話があり、夜中まで説明をさせられた事があったので、今度はプレスリリースを用意して待っていた。しかし、思った程電話の問合せが無く、拍子抜けした。翌日の毎日新聞の朝刊には次のような記事が載った。


 
 「七人の侍」再映画化権巡り

 黒沢監督、米社を逆提訴
 


  

 黒沢監督の名画「七人の侍」(1954年公開)の再映画化をめぐり、黒沢監督と黒沢プロなどが「再映画化の権利は黒沢監督側にある」として、米国の大手映画配給会社メトロ・ゴールドウィン・メイヤー(MGM)を相手に権利不存在の確認を求めて7日、東京地裁に提訴した。MGMが再映画化権は自社にあると主張、米裁判所に訴えたのに対抗した措置。  訴状などによると、「七人の侍」を配給した日本の東宝は58年、米映画会社アルシオナ・プロダクションに原作シナリオの再映画化権を譲渡、米国版「七人の侍」の「荒野の七人」が製作された(60年公開)。黒沢監督らはこのアルシオナへの権利譲渡が著作者の許可なく行われたと、73年に東宝を相手に東京地裁へ提訴。78年の地裁判決は「脚本の著作権者が映画化権を持つ」と黒沢監督側に軍配を上げ、再映画化権譲渡は「無断譲渡」の形になった。


 ところが昨年12月、MGMがアルシオナから再映画化権を承認したとして東宝、黒沢監督らを相手に権利確認などを求めてカリフォルニア州地裁に訴えた。

 黒沢監督側の乗杉純弁護士は「MGMは『七人の侍』をテレビ映画化する意向のようだ。米国での訴訟では遠隔地ということもあって十分な防御ができないため提訴した」と話している。


 訴訟を起こすことに決めてから実際に提起するまでに4ヶ月近い時間がかかってしまったが、このような訴訟は初めてであったので、いろいろな問題を解決しなければならなかった。日本の裁判所は日本語しか受付けないので、証拠書類を含めて45頁もあるMGMの訴状を和訳するのに随分と時間がかかった。法律問題としては、MGMに対する訴訟について、日本の裁判所が管轄を認めてくれるのか、また認めさせるにはどのような議論をすべきかについて判例・学説を検討した。ひとつ残った問題は訴状の送達で、東京地裁が国際条約に定めた手続に従ってMGMに訴状を送達するのに3ヶ月以上の期間を必要とした。この期間を短縮する方法は無かったので、仕方なく、東京地裁に対して速やかに送達してくれるようにとの上申書を提出した。同時に、MGMに対する訴訟と東宝に対する訴訟を併合審理(同じ法廷で裁くこと)してほしいとの希望を述べたが、これは受け入れられず、MGMに対する訴訟は第37部が、東宝に対する訴訟は第35部が裁くことになった。


 黒澤明ら3人の脚本家がMGMに対して訴訟を起こしたことは、グローバート弁護士を通じてMGMに伝えられていたが、訴訟提起から1ヶ月程してMGMの日本における代理人と称する弁護士から電話があった。その弁護士は、私のミシガン大学ロースクールの先輩で、ミシガン大学の日本における同窓会の理事として時々顔を合わせていた山川洋一郎氏であった。山川氏は、MGMが訴状の送達に拘わらず、日本における訴訟につき応訴すると述べた。これで大きな問題のひとつは解決し、実質的な戦いが始まった。


 2つの訴訟は1ヶ月強の間隔で期日が入り進行していった。MGMに対する訴訟においては、MGM側は予想通り管轄を争ってきた。東宝に対する訴訟においては、詐欺が成立するか否かが争点となった。後者は、これまでの裁判例を見ても先例として参考になるようなものは無く、裁判所も困惑しているようであった。黒澤側が詐欺を立証するために使える材料はMGMの訴状に添付されていた手紙の写しと1990年の和解契約書のみであった。これらの手紙が存在することを隠しながら和解契約を締結した東宝の行為が詐欺と言える程度に悪質であることを裁判所に印象づける必要があった。しかし、材料がこれだけに限られていると、様々な表現を使うように工夫をしてみても、同じ主張の繰り返しになってしまう。


 米国の訴訟においては、証拠開示手続が続いており、ダンボール箱が一杯になるほどの書類が送られて来ていた。米国訴訟においては、MGMが東宝と黒澤側を訴え、東宝が更に黒澤プロダクションを訴えていた。東宝の黒澤プロダクションに対する訴訟は、東宝がMGMとの訴訟に負けた場合に、MGMから請求される損害賠償額を事前に黒澤プロダクションに求償するという内容の訴訟であった。証拠開示手続もこのような関係で行われていたので、米国から送られてきた資料の中には東宝が提出したものもあった。証拠開示手続の中で相手方に書類の提出を要求するためには、書類を具体的に特定する必要はない。例えば、「1978年の七人の侍事件東京地裁判決に関する全ての書類」としてもいい。このような要求に応じて東宝が提出してきたと思われる書類のコピーが1992年12月にアメリカから送られてきた束の中にあった。そこに謎を解く鍵があった。


 その書類とは、1978年の東京地裁判決の訴状、再度申入書及び調停申立書であったが、訴状の中の「訴えの原因」第3項及び第4項が30年前の出来事を簡潔に述べているのでそれを次に引用する。

 
「3、昭和35年(1960年)11月頃東宝より、原告等3名に対し、「七人の侍」のシナリオの映画化権を、米国のアルシオナ・プロダクション・インコーポレーテッド(以下アルシオナと略称する)に譲渡することに承諾してほしいとの要請あり、3名は、これを承諾した。(この譲渡は出版権の設定と同じく3年で消滅する旧著28条ノ4、かつ、慣習による1本の映画化権を意味する)其後原告等は東宝がアルシオナより如何なる条件にて譲渡契約を成立させるのか、またその条件等についても改めて相談があるものと期待していた。然るに其後原告等3名は、東宝より5000ドルと2000ドルを受取つたのみで、契約の内容は全く知らされなかった。此金員は米国映画と日本映画の製作規模の大きさからいって明らかに少額に過ぎるので不審に思っていたところへ、1本限りの映画化権譲渡の筈にもかかわらず、「荒野の七人」に続いて「続荒野の七人」の映画化決定が新聞のニュースで報知されたので、原告等3名は驚愕して東宝に対し、何時の時点に於て、如何なる条件を以つて契約をなしたのか厳重に抗議し、その契約内容の公開を迫ったが、東宝は言を左右にしてそれを明らかにせず、昭和43年(1968年)に至り原告等3名の調査に依つてやつと次の如き事実が判明した。

  4、即ち、東宝は、前記承諾書ができた昭和35年(1960年)より、既に2年以前の昭和33年(1958年)9月に、原告等に一切内容を知らせることなく、アルシオナと契約し、前記の5000ドルと2000ドルもこの契約に依るものであることが判明したが、この契約で東宝は、アルシオナに対し、シナリオの権利に関しては東宝が全世界を通じて唯一の著作権々利者であると僭称し、これを永久に売却処分している事実が判明した。」
 


 この訴状は、その当時黒澤明ら脚本家3名を代理していた勝本弁護士が作成したもので、再度申入書及び調停申立書から見るとこの訴訟の3年ほど前から勝本弁護士が脚本家3名を代理して東宝と交渉していたようである。これらの書面の内容から、概ね次のような事実が推測出来る。


 1958年9月、東宝はアルシオナに対して「七人の侍」の再映画化権を与える契約を締結したが、東宝はそれが脚本家の許諾を得ていないため無断譲渡になることにはまだ気付いていなかったものと思われる。「七人の侍」のリメイクである「荒野の七人」は1960年に製作され、同じ1960年の11月に東宝は黒澤明ら脚本家3名から前述の承諾書を取付けている。この時脚本家達が、「荒野の七人」が製作されたこと、またそれが「七人の侍」のリメイクであることを知っていたか否かは明らかではないが、東宝がアルシオナとの契約を既に締結していることについては知らされていなかった。既にその契約が締結されていることを前提に話しが進められていたとすれば、アルシオナとの契約を日付をもって特定し、脚本家達が何に対して同意したかが明白にできた筈である。その後脚本家達は東宝から5千ドルと2千ドルを受領したが、アルシオナとの契約の内容については知らされなかった。


1966年に、アルシオナから権利を譲り受けたミリッシュ・プロダクションズが「荒野の七人」の続編である「リターン・オブ・ザ・セブン」という劇場用映画を製作した。これを知った脚本家達は、承諾書によるリメイクの許諾は1本に限定したものであると考えていたので、東宝に抗議し、契約内容を開示するよう要求したが東宝はそれに応じなかった。1968年頃脚本家達は独自の調査で東宝とアルシオナの間の契約の内容を知り、東宝に協議を申し入れた。「再度申入書」によれば、この最初の申し入れは1968年2月10日付の書面をもってなされたが、それに対し東宝は2月17日付の書面により、「本問題の所管提案者である川喜多、藤本両重役が現在渡米中なるをもってお申越の2月20日までに回答できない、従って両重役の帰国後緊急に回答する」と述べた。しかし、その後東宝が話合いに応じようとしないので、脚本家達は1970年10月1日付で解決案を提案した。これに対しても東宝から色よい返事が無かったため、1971年6月23日に再度申入書として新たなる解決提案をした。


 結局話合いによる解決は出来ず、1971年8月19日に脚本家達は東京簡易裁判所に調停の申立てをした。この調停によっても解決は出来ず、1973年5月に脚本家達は東京地方裁判所に訴えを提起した。


 以上のストーリーは、脚本家達の代理人である勝本弁護士の作成した書面に基づくものであって、一方的な主張であると言われるかもしれない。しかし、このストーリーは1978年の東京地裁判決の内容と照らし合わせてみると、概ね正しいのではないかと思われる。私は、第5章「保険会社の疑問」で、東京地裁判決の理由中に承諾書の性格に言及した部分があると述べた。脚本家達は、上述のように承諾書は脚本の映画化権をアルシオナに譲渡することに関するものである、と述べている。これに反し東宝は、背景、登場人物の名前、性格付け等において、脚本の内容に変更を加えることにつき承諾を求めた、と述べている。承諾書の文言は、第7章「承諾書出現」で引用した通り、東宝の述べるような著作者人格権に関するものではなく、脚本の映画化権の譲渡を承諾するものであることを明記している。「承諾」が1回のみ存在したことについては、脚本家も東宝も争っていないため、今回の訴訟で東宝が証拠として提出してきた承諾書が1978年の東京地裁判決で問題とされている承諾書であることには間違いがない。1978年の判決で現被告が対立する主張をし、裁判所がそれに対して何ら判断していないという事は、その訴訟において承諾書が証拠として提出されなかったことを意味している。承諾書の文言は脚本家達の主張する内容に沿っているため、脚本家達がその時に承諾書を持っていたならば当然証拠として提出したであろう。脚本家達はもともと承諾書の写しを持っていなかったのか、又はそれを紛失してしまったのか、今となっては真相は明らかにすべくもない。東宝はと言えば、今回の訴訟で承諾書を提出してきた以上、前回の訴訟の時にも持っていたのであろう。前回の訴訟の時には紛失していて、今回の訴訟になって倉庫の奥から発見された、というような話は現実的ではない。


 では、何故東宝は承諾書を隠して、承諾が著作者人格権に関するものである等という嘘の主張をしたのだろうか。それは、承諾書を出してしまえば、それが脚本家達の主張を裏付けることになり、訴訟に負けることになると考えていたからであろう。この推論が正しいとすれば、東宝は、承諾書が不完全なものであり、東宝がアルシオナに与えた権利を追認する効果を持たないという認識を有していたことになる。どのように不完全であったかについては、いろいろな可能性があるが、少なくとも東宝がアルシオナとの契約の内容を脚本家達に説明してその内容全体についての承諾を求めたことはなかったであろう。本来であれば、アルシオナとの契約書及びその日本語訳を添付しその内容全体について承諾するという契約書を脚本家達と作るべきであった。それが出来なかったということは、東宝の対応に後ろめたいものがあったことを示唆している。例えば、「荒野の七人」の製作について知った脚本家達が抗議をしてきたので、東宝はその1本についてのみのリメイクを認める契約をこれから締結するので承諾して欲しい、と言ったのかもしれない。

 

第12章 大団円
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 1993年3月23日に、対東宝訴訟の第3回口頭弁論期日が開かれた。ここで原告らは準備書面(2)を提出したが、この準備書面は珍しいことに私が書いたものである。渉外事務所においては、一般民事の事務所と異なり、パートナーがアソシエートよりも豊富な訴訟の経験を持っているわけでは無い為、訴訟に慣れたアソシエートが準備書面を作成し、パートナーはそれをチェックするだけのことが多い。実際は、全く目を通さないパートナーの方が多い。対東宝訴訟については、私自身が半分当事者のような立場にあったこともあり、自分で準備書面を書くことにした。書くといっても、実際はマイクロカセットレコーダーを使って吹込みをしたのだが、53頁の大作が出来上がった。準備書面(2)は、前の章で述べた事実にかなりの頁を割いた。そして次の通り締めくくった。


 「ここで改めて30年前の被告による共同著作者からの承諾書取得の経緯と1990年の本件契約成立までのいきさつを比べてみると、被告の行動が不思議なほど似ていることに気付く。1960年、被告はアルシオナ契約を既に締結している事実を秘し、事情を知らない共同著作者を欺罔し、将来締結することを考えている契約の事前承認という形で承諾書を取付たものと思われる。この手口は、1990年の本件契約交渉の際、被告がエム・ジー・エムから再三のクレームを受け、放置すれば訴訟を起されるという状況をひた隠しにして、かようなリスクが僅少であると信じこんでいる原告らから……補償を取付けた被告の手口と余りにも酷似しているのではないか。30年の年月をはさんで企てられた2つの欺罔行為が、被告の卑劣な体質を余りにも見事に表していることには驚嘆せざるを得ない。」


 グローバート弁護士からの1993年3月22日付のファックスによると、米国訴訟のトライアル(公判)の期日が同年7月19日に決定されたとのことで、厳しい状況になっていた。米国の訴訟は公判前手続きは長いが、公判に入ってしまうと集中審理なのですぐ終わってしまう。米国訴訟の結論が出てしまうと(勝てば良いが)、日本の訴訟を維持していく意味が無くなってしまう。


 その頃、米国では訴訟と並行して和解の話が出ており、1993年3月頃には、MGMからかなり具体的な和解の提案がなされていた。1993年4月になって、黒澤、MGM、東宝の間で進んでいた和解の話にユニバーサルも加わることになり(前述のようにユニバーサルは「七人の侍」に基づく長編映画を作りたがっていた。)、一挙に和解の話が具体的になってきた。5月には和解案の骨子が合意され、米国裁判所は、7月19日のトライアルの期日を日程から削除し、和解は決定的になった。


 正式な和解契約が調印されたのは1993年11月18日のことで、この6ヶ月間に和解契約書案は日米の法律事務所の間をファックスで飛び交い、8回も書き直された。和解の内容については書けないが、黒澤側とすれば満足な和解であったと思う。日本の訴訟は、1993年11月25日に原告らによる請求の放棄という形で終了した。


 1993年12月3日に、黒澤監督がある書面にサインをする必要があったため、事務所に来られた。その時に、訴訟を担当した弁護団と撮ったのが次の写真である。
(終) 
「黒澤さんなんて『七人の侍』一本で総理大臣級の待遇をしてもいいと思う」−作家・井上ひさし氏は語る。

 日本映画界の大御所、黒澤明と僕らの接点を探ってみる。時代劇映画が多い。時代劇?老人じゃあるいまいし、興味ないなぁ。現代劇もある。そうは言っても昔の話、かったるいんじゃないの?全て誤解である。黒澤のシャシンは熱い。いつまでも、煮えたぎる様に熱い。この熱さは21世紀になっても決してさめることはないだろう。

 そう、まさに、熱狂的である。時代劇を観てみる。ストーリーの面白さ、映像の素晴らしさにあっと言う間に引き込まれる。時代劇を敬遠していた自分が愚かに思えて来る。時を超える黒澤の時代劇は、民族までも超越する。『七人の侍』(昭和29年・東宝)を西部劇に置き換えたのが、ユル・ブリンナーの名演で知られる『荒野の七人』(昭和36年・米)である。昭和36年の『用心棒』(東宝)は、遠くイタリアでマカロニ・ウエスタン『荒野の用心棒』(昭和40年)となった。この時主演したクリント・イーストウッドのメイクは、明らかに『用心棒』での三船敏郎を意識したものであった(もっともこの作品は「盗作」として裁判沙汰になったが)。

 現代劇を観てみる。舞台は昭和20〜30年代だが、全く古さは感じさせない。古さどころか音楽が、衣装が、ヘアスタイルが、むしろファッショナブルに思える程だ。セリフも芝居も違和感がない。「黒澤組」の名優たちの芝居は洗練を極めているのだ。

 これから紹介する数本の作品を、とにかく観て欲しいと思う。そして黒澤に狂って欲しいと思う。テクノ好きの大学生も、ロック好きのOLも、ジャズ好きのサラリーマンも、平成を生きる全ての人々の心を、黒澤の名画は狂わせる。それだけの力があるのだ。

 「世界のクロサワ」−この言葉の本当の意味が判るはずである。



黒澤明監督。昨日逝去。合掌。

■ 「監督・黒澤」の誕生

 黒澤明は明治43年、東京・東大井に生まれた。父・勇は陸軍の体育教官、明は四男四女の末っ子であった。京華中学卒業後、プロレタリア美術研究所に通い二科展にも入選。黒澤の絵コンテの巧さは有名だが、もともと画家としての修行を積んでいた人なのだ。
 当時、兄・丙午が映画の弁士をやっており、兄のパスで欧米の芸術映画を観まくったそうだ(この丙午はのちに伊豆で自殺している)。そして、PCL(東宝の前身)を受験。助監督として入社した。時に昭和11年2月、「二・二六事件」直後のことである。

 山本嘉次郎監督などに付いた後、昭和17年、『姿三四郎』(出演・藤田進、大河内伝次郎、他)で監督デビューを果たした。当時は戦時下ということから審査がきつく、この『姿三四郎』も「監督法監督登録試験」の対象となった。その時の審査員、松竹の小津安二郎監督は黒澤の手腕を「百点満点で百二十点」と評した。

 初期の重要な作品に『銀嶺の果て』(昭和22年・東宝)がある。この作品、黒澤の監督作ではない。同期入社である盟友・谷口千吉の初監督作品なのだが、黒澤が原作・脚本を記し、志村喬、三船敏郎、小杉義男というのちの黒澤組の名優たちが出演していることから黒澤の重要なキャリアのひとつに数えられることが多い。実際のところは親友・谷口に黒澤が餞(はなむけ)としてシナリオを書き下ろした、ということらしい。
 この作品が重要なのは「黒澤と三船」という世紀の邂逅があったからである。三人の銀行強盗が白銀のアルプスに逃げ込む、極限状態の下で仲間割れを起こし...というダイナミックな物語の中で、ギラギラとした演技で周囲を圧倒したのが若き三船であった。「黒澤さん、惚れちゃいましてね。『次の作品に貸してよ』って」、谷口監督は語る。

 そしてその次回作が、『酔いどれ天使』(昭和23年・東宝)である。コンビ誕生、三船初主演の記念すべき作品である。以降、黒澤・三船コンビは実に15本の作品を残した。ここでもうひとつのコンビも生れた「三船と志村」である。肺病病みのチンピラ松永(三船)、医師として彼を救おうとする真田(志村)、黒澤作品の典型となる対比の構図が既にここで築かれていた。この二人については後述する。

■ 「世界の黒澤」の誕生

 二人の優れた演技者を得た黒澤は、『静かなる決闘』(昭和24年・大映)、『野良犬』(昭和24年・新東宝)、『醜聞(スキャンダル)』(昭和25年・松竹)といった「三船と志村」のコンビ作をコンスタントに発表、そして昭和26年9月、『羅生門』の第十二回ヴェネチア国際映画祭金獅子賞(グランプリ)受賞で日本中の、いや世界中の話題をさらった。
 この『羅生門』で黒澤は数々の実験を試みている。技術的な部分ではアフリカ探検映画を参考にしたという疾走するカメラ・ワーク、消防車三台で降らせたという墨汁入りの雨、そして話題となったのが「太陽に直接カメラを向ける」という手法である。太陽の撮影は「フィルムが焼ける」と長らくタブー視されていたもので、黒澤が世界で初めて成功。以降、世界中で流行したそうだ。
 黒澤の実験は技術面だけではなかった。この物語、「ことの真相」がわからないまま終わってしまうのだ。平安時代のこと、ある侍が殺される。盗賊や侍の妻、杣売りなどが登場するが一体誰の言うことが本当なのか判らない。芥川龍之介の「藪の中」を橋本忍と共に脚本化したこの作品、観客の「突き放し方」がまるでヨーロッパ映画の様である。海外での評価も納得出来る。ヴェネチアに留まらず、翌昭和27年の米アカデミー賞最優秀外国映画賞も受賞している。「世界の黒澤」の誕生である。

■ 絶頂期、そして...

 以降約15年間にわたり、黒澤は絶頂期を迎える。昭和27年に「命短し、恋せよ乙女」で知られる名作『生きる』(東宝)、最高傑作といわれる『七人の侍』(東宝)が、そのわずか2年後の昭和29年、昭和32年にはシェークスピアの「マクベス」を戦国時代に置き換えで翻案した『蜘蛛巣城』、更に同年、今度はゴーリキーの『どん底』を江戸時代の長屋ものに翻案、意欲的な活動で周囲を唸らせた。
 昭和36年、37年には人気の高い娯楽活劇『用心棒』(東宝)、『椿三十郎』(東宝)を続けて発表。昭和38年、スリル溢れる現代物の『天国と地獄』(東宝)で映画ファンを魅了し、昭和40年、再び時代劇の大作『赤ひげ』で本領を発揮した、ところまでは、よかった。

 昭和42年から44年にかけて黒澤は日米合作、黒澤プロ/二十世紀フォックス製作の『トラ・トラ・トラ!』に翻弄される。真珠湾攻撃を描くこの作品に黒澤は日本側監督として参加していた。しかし、撮影は困難を極めた。数々の問題があったのだ。
 まずはキャスティング。プロの俳優ではなく会社社長などの一般人を起用した大胆なキャスティングは周囲の俳優たち、盟友・三船にまで波紋を投げかけた。さらには制作費の安さから使用した東映京都撮影所の問題。完璧主義者で「天皇」とまで言われた黒澤の映画作りと、任侠映画でじゃんじゃん稼ぐ東映の作法は全く相容れないものだった。そんな行き違いは合作先の米国側二十世紀フォックスとの間にも生じ、契約上のトラブルも発生して遂に黒澤は降板を余儀なくされる(代わりの監督は升田利雄、深作欣二)。

 この時に「降板の理由は黒澤のノイローゼ」というニュースが流れた。この件については契約書中に「不測の事態の場合は保険会社から損害に対して賠償金が降りる」とあるのを見た黒澤プロ側が、これ幸いと黒澤をノイローゼに「仕立てた」という説もある。しかし、その2年後、衝撃的な事件により、黒澤の「病状」が心配された。昭和46年12月22日、自宅風呂場で首筋などを切り自殺未遂を図ったのだ。

■ '70年代から現在

 自殺未遂の原因は何だったのだろうか。「日本映画の衰退」がその一因であるとも言われている。1970年代に入り、映画人口は激減、最盛期の実に5分の1まで減少する有り様だった。自殺の前日には『羅生門』を撮った名門・大映が倒産している。そして件の「トラ・トラ・トラ!」の騒動も黒澤を疲弊させるものだった。
 一命を取り留めた黒澤は、ゆっくりと、映画づくりを再会した。昭和50年に5年ぶりの新作『デルス・ウザーラ』(ソビエト)、昭和55年にカンヌ映画祭グランプリ受賞作品となった『影武者』(東宝)、以降約5年おきに新作を発表。最新作は平成5年の『まあだだよ』(大映/電通)になる、が、私の黒澤は自殺未遂の前年に発表した初のカラー作品でもある『どですかでん』(四騎の会)で終わっている。

 不思議なのだ。昭和23年の『酔いどれ天使』から、昭和40年の『赤ひげ』までは全く同じ「熱さ」で、全く同じ「黒澤調」で撮られている。この期間の17本はいずれおとらぬ名画である。しかし、異色作『どですかでん』の前後で何かが変わった。あくまで私見に過ぎないが、これに続く1970年代始めのブランク以降、かつての「熱さ」が感じられなくなってしまったのだ。

 その原因が何であるか、そこで変わったのは何であるか、それを考えることは、日本映画全体の変化を考えることと同じに思える。残念ながら私はまだ、簡単に説明出来ることばを見付けてはいない。あくまで私見に過ぎないが...。

黒澤作品に欠かせない二人の名優、三船敏郎と志村喬について考えてみる。この二人の関係は「静と動」...いや、ちょっと違うな。「熱と冷」、うーん、近いがちょっと...そう、「激と穏」と言ったところか。
 ある時は目に見えるかたちで、またある時は内なる激しさで、強烈な印象を与える三船に対し、志村はいつも「穏」であった。しかし、ただ穏やかなだけではい。ある時は三船と同等に、またある時は三船以上に、我々にその印象を残すのだった。

 「熱と冷」という表現も捨てがたい。例えば名作『七人の侍』(昭和27年・東宝)、若さのあまり無軌道な行動に出る三船の「菊千代」を、鉄壁の冷静さで抑えるのが志村の名将「勘兵衛」だった。この関係は、コンビの傑作である『酔いどれ天使』(昭和23年・東宝)、『野良犬』(昭和24年・新東宝)でも同じである。
 熱き三船と、それを知的に冷静に冷ます(醒ます)志村。そのバランス、その起伏によって黒澤作品は成り立っているとも言える。どうも志村が気になる。志村から行こう(笑)。

 志村喬−不思議な俳優である。全くもって不思議。「脇役のようで、脇役でない」のだ。志村には脇役俳優とは明らかに異なる主役の「華」がある。色男ではないし、若手でもない。しかし志村の存在感は明らかに「主役」のそれだ。
 強弱の使い分けも凄い。「命短し、恋せよ乙女」で知られる名作『生きる』(昭和27年・東宝)の悩める市役所職員を観た人は「なんと弱々しい人なんだ」と思うだろう。そして前述した『七人の侍』の強靱な名将・勘兵衛を観ると...これが同じ人だと思えるだろうか!。
 明治38年(1905)生まれ。舞台俳優から映画に転じ、初期は新興キネマの無声映画に出演していた。映画デビューは昭和9年、出演作は私が調べただけで400本以上ある。黒澤作品での名演が有名だが、実にその数十倍に及ぶキャリアを持つのだ。穏やかな才人に見えて、実は戦時中、特高警察に拘束された経験もあるという。昭和57年に他界。

 笠智衆、殿山泰司、大滝秀治等々、実力派男優数々いれど、この志村喬の魅力は容易には言葉で表せないように思う。「説明不能の魅力」があるのだ。バイプレーヤー(脇役俳優)と呼んでしまっていいやら、悪いやら...。

そして三船敏郎−この人の魅力は明解、「生まれながらの主役」だ。上の写真を観ていただきたい。どう見ても戦争映画のスチールだが、これは東宝入社前、陸軍航空隊時代、まだ一般人だったころの三船である。これを持ち歩き、希望する兵隊仲間にサイン入りで配っていたというのだから、その度胸たるや立派なものである。
 大正9年(1920)中国・青島で生まれ、満州・大連で育った。家業は写真館で、自らも撮影をこなす。昭和15年から陸軍航空隊において兵役に就くが、配属は写真部であったそうだ。「外地育ち」は三船を解くキーワードのひとつで、その生い立ちがダイナミックな三船のキャラクターを育てたとも言われている。共演した女優達は「野性味もあって表情も豊かで、まるで外人の様だった」と語る。三船の魅力のひとつ、それは「エキゾティシズム」である。
 そんな生まれながらの名優(?)が、デビューのきっかけは「カメラマン助手希望として東宝撮影部に出した履歴書が、誤って第一期ニューフェースの面接に回ってしまった」からだと言うから驚く。復員から間もない昭和21年のことである。デビュー作は『銀嶺の果て』(昭和22年・東宝)、それからの活躍は前述の通りである。
 入社後も暫くは撮影部移籍の可能性があったそうだ。しかし、御存知の通り、移籍などはしなかった。「撮影部・三船」ではなく、「世界の三船」となったのだ。

 三船は我々の世代からはなかなか正当な評価を受けにくい人かもしれない。昨年12月の逝去から、リアルタイムで知っている三船を遡って思い出すと...ボケていたと言われる晩年、後妻に去られた男、高級布団のCMで金髪モデルに向かって「う〜ん、寝てみたい」、そして『1941』('79年・米)でのトンマな軍人役...こんな認識から「世界の名優」を実感することは確かに難しい。

 しかし、だからこそ、旧作を観よ!初の主演作『酔いどれ天使』を観た女性ファンは、そのクールさに惚れ惚れとするだろうし、『七人の侍』では演技者・三船に腰を抜かすだろう。『用心棒』(昭和36年・東宝)では腹を抱えて笑い(ユーモアも三船の大きな魅力だ)...キリがない。言いたいことは只ひとつ、「三船の天才に気付くべし」だ。黒澤を観ずして三船を語るべからず。

 志村、三船とも残念ながら故人だが、スクリーンの上では永遠の命を与えられている。今からでも十分、遅くはない。
○歌う勘兵衛!?ー志村喬さんについて

 膨大な出演作のほんの一部しか見ていないのだが、私が志村氏にハマるきっかけとなったのは実は「七人の侍」ではなく、「鴛鴦歌合戦」という作品である。
 何とも楽しい映画である。しかしこの作品、生い立ちからしてスゴい。


1939(昭和14)年11月中旬、マキノは年内封切に向けてオペレッタ映画『彌次喜多・名君初上り』を撮影していたが、主演の片岡千恵蔵が盲腸炎で2週間静養しなければならなくなった。そこでこれを翌正月13日封切に延ばし、キープしているキャストとテイチクから来た歌手たちを使って、合間に穴埋めを1本撮れ、と日活側がいってきた。それで急遽作られたのがこの『鴛鴦歌合戦』なのである。
(『ニッポン歌謡映画デラックス 唄えば天国 天の巻』 メディアファクトリー)


 脚本から完成までわずか2週間強だというから驚きである。

 浪人・浅井禮三郎(片岡千恵蔵)をめぐってお春(市川春代)・お富(服部富子)・藤尾(深水藤子)が恋のさやあてを演じている。お春に一目惚れしたバカ殿・嶺澤丹波守(ディック・ミネ)は彼女を妾にしようとするが、藤尾の父・城代家老遠山満右衛門(遠山満)は娘の恋の成就のために、お春の父・志村狂斉(志村喬)が丹波守と同様、無類の骨董マニアであることを利用してある奸計をめぐらせる。
 狂斉は貧乏浪人のくせに有り金をみんな骨董につぎ込んでしまう一種のビョーキ。食事はいつも"麦焦がし"で娘に"たまにはお米のご飯が食べたい"と言われても全く動じる気配がない。
 自分の趣味のために家族を泣かせるしょーもない父・・・?しかし丹波守から娘を守るため(具体的には五十両を工面するため)手に入れたばかりのお気に入りの掛け軸を手放す決心をするのだ。ところがその掛け軸はニセモノ。とても五十両には足りないとなると今度は何と今まで精魂込めて(?)集めた逸品を全て売り払ってしまうのである。(結局それらはほとんど"逸品"にはほど遠いニセモノばかりで全部合わせても八両ちょっとにしかならなかったのだが、引取業者からは"シロウトにしてはいい方ですよ"などと慰められていたりする。)
 狂斉さんの娘を思う気持ちに泣きましたねぇ・・・(泣く映画じゃないっていうのに)。ここまできたら普通は観念して娘を差しだしてしまうと思うのだが、彼のとった最後の手段は"夜逃げ"!
 私、狂斉さんに完全にノックアウトされちゃいました。
 狂斉さんに惚れたもう一つの理由は歌。志村さん(映画の中でもこう呼ばれていたのがすごく可笑しかった)歌が上手いのだ。声もいいし音程も悪くないが特に惚れ込んだのがリズム感。
 ♪さ〜てさてさて、この茶碗〜♪・・・音楽に合わせながら体を揺らす志村さんを見ているだけで何だかすごくシアワセ〜な気分になってしまうのだ。


 撮影中、志村は家にいて起きている間中、トイレへ入ってもこの歌を歌いつづけていた。
「いまだって、歌えるわよ」
 すっかりおぼえてしまった政子さん(注:志村夫人)は、「さあてさてさてこの茶碗」と声を落として歌ってみせた。
(『男ありて 志村喬の世界』 澤地久枝)



 更に驚くことにこの時の志村さん、今の私より年齢が若かったのである。


 ひげをはやして、五十歳くらいのとし恰好と身のこなしながら、両手や首すじのアップになると、三十四歳の「みずみずしさ」がいやでも見える。
(『男ありて 志村喬の世界』 澤地久枝)



 時代劇なのにラテン調あり、軍歌調あり、ジャズソングあり・・・・何でもアリのオペレッタ。
 日本人に生まれてきてヨカッタ、とつくづく思う。
 映画館で見たのでビデオがなくて残念。また狂斉さんに会いたいなぁ・・・・。




主な参考文献:
 
『男ありて 志村喬の世界』 澤地久枝(文藝春秋) 
『記録 志村喬』 黒澤明研究会
『日本映画人名事典』 キネマ旬報社 他


 おことわり:文中には敬称略とさせていただいている箇所があります。ご了承下さい。


舞台から映画へ


志村喬(本名 島崎捷爾)
生年月日 1905年(明治38年)3月12日

出身地 兵庫県朝来郡生野町
没年月日 1982年(昭和57年)2月11日 享年76歳

関西大学在学中、演劇研究会に加わる。
1928年 アマチュア劇団「七月座」結成。
1930年 商業劇団「近代座」入座。
1932年 剣劇団「新声劇」参加。
1933年 「新撰座」加入。
1934年 新興キネマ京都(太秦)撮影所入社。
1936年 マキノトーキー入社。
1937年 マキノトーキー解散、日活京都(太秦)入社。
1942年 興亜キネマ(松竹)入社。
1943年 興亜キネマ在籍中、黒澤明監督「姿三四郎」に出演。
    それをきっかけに東宝へ移籍。
1949年 「静かなる決闘」「野良犬」で毎日映画コンクール男優演技賞受賞。
1974年 紫綬褒章を受勲。
1980年 勲四等旭日小綬章を受勲。





侍の血を引く家系

 島崎家は代々土佐藩に仕え、捷爾の祖父・雄次は鳥羽伏見の戦いにも参戦したという。「お前様は士族の出、町の子とは違う。しっかり勉強して立派な人間にならんと・・・」と子供の頃から厳しくしつけられたようだ。


 いつか、撮影所横の寿し屋に行ったら、志村喬が、ちらしのめしと、上におく具とを別々にして食っていたのには、おどろいた。
 志村君は、自分でもテレ臭いのか、弁解がましくいった。彼の家は厳格な武士(ルビ:さむらい)の家柄で、めしの上におかずを置いたり、汁をかけて食うことは許されなかった。(中略)
 子供のときからそんな癖がついてしまったもんで、今でも、駄目なんです。ところが合憎、ちらしというのが大好きでしてな・・・・・・と苦笑した。
(山本嘉次郎著 「日本三大洋食考」より)



 捷爾の父・毛登女(もとめ)は維新でマゲを切ったその父・雄次が"武士の商法"で失敗して財産を失ったために苦労して夜間の工手学校を卒業し、冶金技師として三菱鉱山で働いていた。捷爾は毛登女が生野鉱山に勤務していたときに生まれている。
 かなりの腕白だったという捷爾少年だが、生野尋常小学校に入学すると六年間優等で通し、兄・敬夫(よしお)も通っていた神戸第一中学校に進学する。当時、優秀な生野の子供は姫路中学か豊岡中学に進学するのが普通だったらしく、兄弟そろって神戸一中に通っていることはかなりの評判だったようだ。(入試の際には補習授業を受けたり教師のもとへ通ったりと相当苦労したという。)親元を離れての生活だったが父親が槙峯(宮崎県)に転勤になると、家族は兄弟のいる神戸でしばらく一緒に暮らすようになる。二年に進級した頃、捷爾は体調を崩して休学、その間に兄を神戸に残して家族は父のいる宮崎へ移る。苦労して入った神戸一中だったが捷爾は宮崎県立延岡中学校へ転校することになるのだった。(ここでも家族とは一緒に暮らしていない。捷爾は三年のとき母親を失っているが、下宿生活ゆえにその死に目には会えなかったという。)
 健康がすっかり回復した捷爾はボートと柔道に明け暮れる生活だったという。後年、時代劇に出るようになって「あの時剣道をみっちりやっておけば・・・」と思ったそうだが、柔道の経験は『この心得がなかったらおそらくやれなかったろう』(『わが心の自叙伝』 以下特記省略の斜体字)という「姿三四郎」で活かされている。
 たしか「生きものの記録」だったと思うが、氏がランニング一枚になるシーンがあり、その意外にガッチリとした、しかも締まった体つきに思わず*ドキッ*としてしまった記憶がある。ボートで鍛えた体だったのだ。

挫折と演劇との出会い

 四年を修了した捷爾は『九州の中学生が、だれしも考える様に』本第五高等学校を受験するが失敗。
 

 受験失敗は、多感な文学少年(注:中学では同人雑誌のメンバーにもなっていた)にはかなりの痛手だったのかも知れない。あと一年間延岡中学に学んで卒業し、五高を再度受験する道は開けているのに、志村は中学へは戻らない。上京して予備校へ通う。またしても下宿暮らしである。そして、志村自身、多少なりとも九州に近いのが理由だったろう、と語っているように、関西大学予科へ入った。専攻は英文学である。
(『男ありて 志村喬の世界』 澤地久枝)



 仕送りなどでのんびりしていた学生生活は二年に進級して間もなく一変する。既に会社を退職していた父親の事業が失敗し、経済的に自立しなければならなくなったのだ。
 大学は夜間部に転部し、昼間は大阪市役所水道局に勤めるという"二足のわらじ"生活の中、芝居好きの夜間部のクラスメートが演劇研究会に誘ってくる。『もともと芝居はきらいではなく時々のぞいていたし、映画も好きでよく見ていた。昼間は働いて夜学校に行くという生活にうんざりしていたこともあり「よし、一ちょうやってみるか」で入ったのだが、それでもこの時の気持ちは、ちょっと変わったことも経験して、ぐらいのあやふやなものだった。後年、映画の世界でメシを食うようになろうとは夢にも思わなかった。』(『わが心の自叙伝』)

芸名のナゾ

 私は"志村喬"というのはてっきり本名だと思っていた。しかしそれが本名とは似てもにつかぬ芸名と知ったとき、なぜ"シムラタカシ"を名乗ったのか知りたくなった。その手がかりは「わが心の自叙伝」にあった。


 学生時代アマの頃、少しの間、島崎関人を名乗ったこともあるが、これも一、二回の公演に使っただけであとはずっと志村喬で通して来た。別にいわれがあるわけでもなく、深い意味があってつけた名前でもない。印刷屋にプログラムを刷りにやらせる段になって、即席で付けた名前だ。四、五人の仲間がいたが、だれいうとなく「志村がいいぞ」という。「ココロザシのムラで志村調子がいいな」で衆議一決、名はということになってこれも「喬はどうだ」という。喬木の喬で「タカシと読ませる。キョウと読む人がいるかも知れんが、それでもいい。それでいこう。すぐ印刷屋へまわしてくれ」でそれっ切り。この名前がなぜか気にいって五十年使って来た。
(『わが心の自叙伝』)


 何ともアッサリした命名だが、即席で決めたにしてはよくできている芸名だと思う。
 はっきりいってテキトーにつけた名前であるにもかかわらずそれを気に入って生涯使い続ける・・・そんなところにも志村氏の人柄が表れているような気がする。

映画俳優へ

 研究会は「七月座」というアマチュア劇団に発展する。稽古に熱心になるにつれ、二足のわらじ(いや、芝居も入れれば三足か)生活は破綻する。大学は中退、市役所はクビ、残ったのは芝居である。父親はイイ顔をしなかったものの、『好きなことなら、仕方がない。その代わり、途中で投げ出すようなことは絶対にするな。』と言ったという。
 「七月座」は半職業劇団へ脱皮することができずに行き詰まっていく。この頃、氏はラジオの放送劇への出演と英文専門の"ガリ切り"のバイトで何とか生活していたという。ほとんどの劇団員は親のスネをかじることができたが、氏はそれもできない。演劇研究会→七月座の指導・演出にあたっていた豊岡佐一郎氏とその友人森田信義氏(のちの東宝撮影所長)が志村氏の苦境を心配して大阪の商業劇団「近代座」へ紹介、入団となったのがプロ入り第一歩となる。


・・・人気のある「近代座」の正式座員になるためには、役者としてかなりの実績、実力を必要とした。
 志村が入団できたのは、豊岡や森田の推薦にもよるが、学生演劇から出発しながら、プロ中のプロである劇団に採用される俳優に育ってきていたということでもある。(中略)主として翻訳物を演じてきた志村にとって、この舞台とプロの巡業とはまさに修行であった。(中略)
 志村喬の芸の奥行き、演技への開眼を論じるとき、この舞台生活を切りすてている人は多い。ほとんどの人がそうかも知れない。(中略)しかし、ここまでの人生をみても、志村がくぐった俳優としての水は想像以上に多様で深い。すべてがのちの演技の素地として生きてくることになる。
(『男ありて 志村喬の世界』)



 一年近くも同じ芝居を持っての巡業は気持ちや生活態度のすさみ、演技の惰性を生む。このままでは駄目になると別府で一座を"ドロン"した氏は大阪へ舞い戻り、ラジオ劇出演などで生活するうち女優・三好栄子氏から「三昧座」の公演手伝いを依頼される。(この時氏は雑用一切を引き受け、台本づくり・警察への届け出、台本の検閲などをこなしたという)これが縁で「新声劇」へ参加するが一座は「新撰座」「享楽列車」の二手に分かれて解散、氏は「新撰座」の旗揚げに参加する。しかし『新しい劇団に移りはしたものの、見通しはどうも明かるくはない』。氏はその頃サイレントからトーキーに移りつつあった映画に着目する。美男美女と相場が決まっていた映画俳優も台詞が入るようになれば主役といかないまでも脇役の出番は多くなるはず、と。座長に快く退団を認められた氏は1934年、森田信義氏の紹介で新興キネマ京都太秦撮影所に入社する。
 入社当初はまだトーキー作品自体が少なくなかなかいい役が来ない中、1935年、新興キネマ京都初のトーキー作品「忠次売出す」(伊丹万作監督)の撮影が始まる。トーキーに不慣れな俳優たちでは撮影がうまくゆかず、配役のテストからやり直しとなる。ここで氏は映画入りして初めて『役らしい役』を獲得するのである。


 これ(「忠次売出す」)が縁になってか、伊丹さんが片岡千恵蔵プロダクションで撮られた『赤西蛎太』にも声がかかった。この時にもずいぶんしぼられた。(中略)
 こういう苦労をしたせいか『赤西蛎太』を通して、映画とはどういうものか、少しはわかったような気がした。と同時に映画というものは、なんと面白く、奥深いものか、がわかった。この意味で『赤西蛎太』は私にとって”映画開眼”した作品と言える。忘れられぬ作品の一つだ。(中略)
 駆け出し時代に伊丹さんに出会い、みっちり仕込まれたことが、このあとの私にどれほどプラスになったか知れない。私にとっては非常に大きな存在になった。
(『わが心の自叙伝』)



結婚

 1936年、氏はマキノトーキーに引き抜かれる。ここでは『ガムシャラに働いた』そうだが、『月給もそこそこのものをとるようになると世間が黙っていないものらしい』というのはどの時代・世界でも同じで、その頃からちょくちょく縁談話が持ち込まれていたという。1937年2月、氏は夫人となる政子氏と出会う。


・・・そろそろ身を固めねばと思っているとき、また縁談が持ち上がった。相手は当時、神戸元町の栄三丁目にあった料亭「松源」の娘だという会ってみるとなかなか感じもいい。映画にも芝居にも全くの素人というのも気に入って婚約した。
(『わが心の自叙伝』)



 見合いから結婚までは時間がかかっている。(結婚の時期については「男ありて」では1937年、「記録 志村喬」では1938年と記述が食い違っているが、11月4日という日付は一致している。)


「日中戦争もはじまり、若い未亡人を作ってはいかんと考え・・・・・・」
志村がその結婚を語るときいつも口にしたこの言葉は、こまごました私生活など公けにしたくない意志による。若い未亡人を作ることを志村喬が望まなかったという言葉に嘘などない。だが、見合後に映画会社の解散(注:1937年4月、マキノトーキー解散)、日活入社までのブランク、新しい会社での仕事と、予想外の、結婚を妨げる事情が生じた。さらには、恩師豊岡佐一郎の思いがけない急死があり、その告別式や追悼公演で志村が果たすべき役割は小さくはない。若いからこそ体がもつというあわただしい日々である。
(『男ありて 志村喬の世界』)



 「男ありて」に載せられている長い婚約期間での二人の往復書簡を読むと、"見合い"というものに多少なりとも偏見を持っていた若かりし頃の自分が恥ずかしくなってくる。見合いは恋愛の始まりなのだ。会いたくても会えない相手を想いながらの言葉と文字のキャッチボール。もどかしくなるほどの控えめな言葉の行間からは穏やかな愛情が溢れ出している。
 志村氏は政子夫人の母親に特に気に入られていたようである。


・・・山田家(注:政子夫人の実家)の長兄は、相手は俳優と聞き、
「名もないカツドウシャシンのところなんかへ行ったら、一年もたない。少々顔がいいからって、そんなとこへ嫁にやれるか」
と猛反対し、この日(注:祝言の11月4日)欠席しただけでなく、絶縁を言い渡す。嫁入り仕度も祝金もすべてなしだった。
「顔見んとそんなこというて。役者ならいい顔と思うてるかも知れんけど、顔見なはれ。なんとしてもやります。わたしはあの人、気に入った。まあちゃん、いきなはれ」
 と母が言ったとあとで聞き、志村は「それじゃ、おれはバケモノか?」と言ったという話もある。母親は嫁いでゆく娘に「わたしの目に狂いはないよ。でも嫁にいったら、去られるときは、ここへ帰ってこれまへんで。満州でもどこでもいきなはれ。女一人なんとでも生きていける」と言いきった。
(『男ありて 志村喬の世界』)



 お母さん、ナイス!(口ではこう言いきっているが、結婚後も何かと娘を心配してよく家を訪れたりしたそうだ。)
 ・・・でも「顔見なはれ」はちょっとシツレイなのでは?(思わず笑ってしまいましたが・・・)

特高警察

 マキノトーキーが解散したのは1937年4月だが、氏は5月には日活京都(太秦)に入社している。この"日活時代"が映画出演の一番多い時期だそうで、撮影所にはマキノから移籍した月形龍之介氏・沢村国太郎氏(加東大介氏の実兄)、日活所属の阪東妻三郎氏、独立プロ解散後移籍した片岡千恵蔵氏、更に嵐寛プロを率いていた嵐寛寿郎氏(嵐寛プロは同年8月解散)なども来ており蒼々たる顔ぶれだったという。
 1941年夏、一週間ほど友人たちと淡路島で過ごして帰宅した翌日、氏は特高警察に拘束される。そのときの様子を政子夫人が「あのとき」というタイトルで書いた文章が「男ありて」に掲載されている。("巧まぬこの文章のみごとさ"と感心したように、澤地氏は当初、夫人に夫のことを書くよう勧めていたようである。)
 連行は未明に行われた。知らせを聞いた月形氏はそれからほぼ毎日太秦署と志村邸を訪れ、氏の釈放への尽力のみならず、夫人の心の支えにもなってくれたという。(このときの月形さん、すごくステキなのだ。すっかりファンになったぞ、私は。)
 "特高に引っぱられた"ことは「わが心の自叙伝」では全く触れられていない。恐らく澤地氏は"音に聞く特高の拷問にも耐えた強靱な肉体と精神の持ち主"というイメージを想起させるような話を多少なりとも期待していたと思われるのだが、そのインタビューに対しても志村氏はあくまでも淡々と語り、少々はぐらかされているような印象すら受ける。
 音に聞くような拷問はなかったとしても、約18日間の拘束が苛酷な体験であったことは明らかである。
 「あのとき」より、釈放の日。


 志村が新しいシャツとズボンで出て来た。じっと顔を見てなにも言わなかった。私も言わなかった。(中略)
 背すじまっすぐのばして警察を出た。西日があかね色になって、志村は急にフラフラとした。月形さんと私とでかかえる様にして暑い道を黙々と三人でかえった。
 鯛が来てた。酒が来てた。「友人はいい」と思った。(中略)
 一通り酒とビールでカンパイして、月形さんが「さあ」と皆をひっぱってかえってくれた。のこり酒ものみたそうなのもいるけど、月形さんがひっぱる様に家を出た。
 志村はじっと私の顔を見て、オジギをした。私は首を横にふった。そして涙がどっと出た。(中略)
 警察の中のことの話はタブーで、何一つきいていない。只すごい毛(注:氏の髪の多さは有名で"太秦嵐"と呼ばれるほどだったという)だった志村に白髪が沢山ふえていた。可哀想に、と思った。
 月形さんの有難かったことは今も忘れてはいない。感謝している。


 のちに「わが青春に悔いなし」で特高刑事を演じた時、氏は「無駄なことってないものだな」と夫人に語ったという。

黒澤監督との出会い

 特高の検挙、父・毛登女の死、興亜映画への移籍、それらはすべて1941年という年の出来事である。そして同じ年の12月8日には太平洋戦争が勃発する。
 興亜映画(実質的には松竹)へ移ったのは、進歩も発展もない日活での仕事にこのままではダメになると思い始めていた頃、内田吐夢氏・田坂具隆氏、そして弾圧で行き詰まっていた新劇から東野英治郎氏、小澤栄太郎氏らがその旗揚げに参加すると聞いたからだった。(「近代座」の"ドロン"といい氏は"惰性"ということを嫌う性格のようである。)良い勉強ができると希望を持って移籍したにもかかわらず役らしい役はあまりなく、時間に余裕ができた氏は東野氏、小澤氏、殿山泰司氏らとの交流を深めたという。
 東宝に借り出されて「姿三四郎」に出演したことがきっかけで氏は興亜映画を離れ、同時に上京することになる。
(ちなみに本多猪四郎氏は"当初、村井半助役は高堂国典氏の予定だったが、脚本を読んで和尚役に固執した高堂氏がその代わりに推薦したのが志村氏だったと聞いた"と述べている。)


 関西で活躍していた志村喬は旧知の間柄だった森田信義から、『姿三四郎』のオーディションをするからと、声をかけられ上京した。(中略)背広姿にステットソンの古帽子をかぶり、東宝の噴水の前で志村は黒澤と初対面をした。
「志村です。よろしく」
「どうも」
 これが二人の挨拶だった。志村喬三十七歳、黒澤明三十二歳。以後、長い付き合いになるとは互いに思わなかっただろう。
(『黒澤明 夢のあしあと』 黒澤明研究会編)


 黒澤監督は時代劇役者として既に有名だった志村氏が『紋付き羽織、ハカマで、もみ手でもしながらあらわれるんじゃないか』と思っていたそうで、意外にもセンスの良い洋装、特に"ステットソンの古帽子"に強い印象を受けたようである。
 暗くなる一方の世相の中では「姿三四郎」のような娯楽映画は人々の救いになったという。しかしその一方で戦意高揚を声高に叫ぶような映画にも協力しなければならなかったことは多くの映画人たちの心に暗い影を落としただろう。たくさんの「国策映画」に出演したという志村氏だが、「アメリカようそろ」(未完・山本嘉次郎監督)を千葉県館山で撮影中に終戦を迎える。
(黒澤監督の「虎の尾を踏む男達」は終戦をまたいで制作されたため、日本軍と占領軍の双方から検閲を受けることとなり、実際に公開されたのは完成から7年後となる。)


・・・戦時中は"国策映画"ばかりで、配給といってもきまったものばかり、別に面白くもない映画に出るしかなかったが、これからは面白い仕事ができる。どんなことでもできる自由の時代がやってくる。そう思うと何かと心うれしく、将来に希望がわいて来た。それに、戦争が終わっても転職を考える必要もなく、この点安心していられたのが、何よりうれしかった。
(『わが心の自叙伝』)



ーーーーーー

 カメラ助手志望の青年の履歴書が第1回東宝ニューフェース募集に回されてしまったという過失(ひょっとしたら故意かも?)が一人のスターを生む。三船敏郎氏はそのデビュー作「銀嶺の果て」(谷口千吉監督)で志村氏と共演している。この作品は黒澤監督が脚本を担当しており、志村氏は『この作品を通して、黒澤さんは三船君と私のコンビを考えつかれたのではなかろうか。』と書いている。
 飲んだくれの医者・志村氏と肺病病みのヤクザ・三船氏のコンビで「酔いどれ天使」が生まれる。


 『酔いどれ天使』で私は初めて本当の主役を演じた。私の二十年近い俳優生活で主役は初めて、待っていたチャンスが来たと正直うれしかった。(中略)
 黒澤さんが、本当に私を知り、私をわかってくれたのはこの作品からだったのではなかろうか。そういう意味では黒澤さんとの本当の”出会い”はこの作品で果たしたことになる。
(『わが心の自叙伝』)



黒澤組の"おじちゃん"


 初対面での志村さんは、実に温かさを感ずる人だった。あの目尻の優しさ、あのぶ厚い唇の味わいある人情味、すべてが私を引きつけた。こんな俳優になれたらいいなとさえ思った。
(『クロサワさーん!』 土屋嘉男)



 実直で温かみのある人柄は多くの人をひきつけたようで、結婚当初から志村邸には人がよく集まったという。(それが特高に目をつけられた一因という見方もある。)これは志村氏だけでなく、政子夫人の人柄も無関係ではないはずである。
 俳優やスタッフと家族ぐるみの付き合いをしていたという"黒澤組"(私はギョーカイ人ではありませんがこの呼称を使わせていただきます。スミマセン。)ではそんな二人を"おじちゃん""おばちゃん"と呼んで皆が慕っていた。
 また黒澤組の要ともいうべき三船氏と志村氏は特に親子のような関係だったという。


『七人の侍』の頃、志村さんは三船さんの親代わりで、ロケの時、私達が個室の場合でも、志村さんと三船さんはいつも同室だった。酒呑みの三船さんと、酒を呑まない志村さん。三船さんはいつも私などの部屋に来て酒をあおっていた。誰がそんな親子関係を結ばせたのか、黒澤さんにきくと、『酔いどれ天使』の頃から、なんとなく志村さんに、三船さんの親代わりを頼んだら、そのまま続けているらしいとのことだった。
(『クロサワさーん!』 土屋嘉男)


 三船氏のふるまいに、志村氏は時には声を荒げることもあったという。しかし、映画さながらのそんな場面、想像すると何だか可笑しいなぁ・・・・。

生きる

 志村氏"一世一代"の代表作は黒澤監督との友情と信頼関係がなければ生まれなかったのではないか。


・・面白くも、おかしくもない、渡辺というこの男、ひょっとすると黒澤さんは、私のうえに渡辺勘治を見つけたのかも知れない。(中略)真面目なだけが取りえの、風さいもあがらぬ初老の男。およそ映画的ではない(中略)主人公をデーンと主役にすえて、最初から最後まで映画的な映画に仕立て上げた黒澤監督の手腕に、いまさらながら感心する。
 脚本を手にした時、黒澤さんの気持ちが痛いほどよくわかって、ジーンとした。おおげさなことを書くつもりはないが、自分を知ってくれる人のために精いっぱいやるのは男として当然のことだ。
 "役者冥利"につきる。こいつはひとつ、この期待を裏切らぬよう、やらずばなるまいと思うと、何がなし闘志のようなものがわいて来たのを覚えている。
(『わが心の自叙伝』)



 半年の撮影期間中、志村家は家の中まで病人をかかえるジメジメした空気になってしまい、夫人は相当辟易したらしい。"渡辺勘治"になりきろうとした氏は撮影が終わったとき本当に胃潰瘍になってしまったという。
 のちの1961年、氏は第11回ベルリン映画祭で「生きる」のセルズニック金賞授賞式に出席しているが、これは黒澤監督の好意によるものだった。初めての"洋行"となった約40日間のヨーロッパ滞在は氏に『生涯最良の日』をもたらし、また多くのものを得た旅行だったという。


・・・海外でも高い評価を受けていたのは、知っていたが、実際に金賞をこの手で受け取ってみると、また新たな感動がわいて来た。
 表彰式はベルリンの中心部にあるシティ・ホールで行われ、ダウリング駐独アメリカ大使から記念トロフィーをいただいた。このときの感激は忘れられないものになった。
 それにつけても、この栄誉を私に譲ってくれた黒澤さんの好意を忘れることができない。本来ならば黒澤さん自身が、このトロフィーは受けるところだが、渡欧にあたって「私は何度も海外に出かけた。志村さんはまだ一度も行ってないから代わりに行ってらっしゃい」
と気持ちよく譲ってくれた。この温かい気持ちはいまでもうれしく思っている。
(『わが心の自叙伝』)



男ありて

「七人の侍」後、黒澤監督がしばらく脚本に専念している間、志村氏は丸山誠治監督作品「男ありて」の出演依頼を受ける。
 菊島隆三氏による原作・脚本は氏の心を強く捉え、その映画化が危ぶまれていると聞いたとき「生きる」の出演料と同額の原作料を払ってまでその作品を守ろうとしたという。
 結局、東宝が映画化し、のちにテレビドラマ(2回)、舞台にもなった。氏は映画とテレビで主役を演じている。


 野球一筋に生きる初老の監督、私自身演じていて、主人公の心情がよくわかって、切なかった。私の演じた主人公、島村監督の生き方にはいろいろな見方があろう。(中略)しかし、どんな時代が来ようと、男の仕事に変わりがあろうとは思えない。(中略)男の仕事というものは、実際きびしいものだ。家庭も大事だが、もっと大事なものがあるはず。この大事なものにかけた島村監督の生き方は男として立派だと思う。
(『わが心の自叙伝』)



 更に続けて氏は自身のプロ意識、仕事観に言及している。


 私は仕事にかかればすべて真剣勝負だと思っている。(中略)つらいときもあるが、仕事となれば甘さは許されない。プロなら当然のことだ。
 少しわき道にそれるが、近頃よく若い人たちが「この舞台に立てて、いい勉強になった」と言っているのを聞く。若い、本当のかけ出しの人ならともかく、社会的な評価も受けている人が、こういうことを言っているのを聞くと、ちょっとおかしいなと思う。演技の勉強は常日ごろからすべきで、本番の舞台で、映画で勉強されては困る。日ごろの勉強の成果を披露するのが舞台であり映画であるはず。またそうでなければならぬ。プロならおカネを払って見ていただく観客の皆さんに、いつもベストのものを、お見せするのが義務だと思うのだが、どうだろうか。
 もっともこれは建て前で、私自身いつもそうであったかと言われれば内心忸怩たるものがないでもない。正直言って、役者も人間、人間の持つ弱さはある。(中略)ここが生身の役者のつらいところだが、私は少なくともそう心掛けて来たつもりだ。
(『わが心の自叙伝』)



 先日、「男ありて」がCSで放映され、見る機会を得た。逆説的かも知れないが、私はこの作品で家庭というものの大切さを思い知らされたような気がする。
 仕事がそれほどまで大事ならば家庭など持たなければ良いのである。しかし、もし妻・きぬ江や娘・みち子がいなかったとしたら、島村は仕事に命を賭けられただろうか。
 それはできなかったと思う。仕事以外のことはすべて夫人任せで野球に没頭していた島村は仕事に自分の命を賭けた代わりに夫人の命をすり減らしてしまったのだ。勝負の世界の仕事はそれだけ厳しかったということでもある。
 本当に仕事に真剣に取り組もうとするならば、家族(特に配偶者)のサポートは必要不可欠なのだ。(また逆に、真摯な姿勢がなければ家族はついてきてくれないだろう。)
 それを心の中では分かっていても表にあらわすことがうまくできない不器用な島村・・・自らのグロープでチームを勝利に導き、辞表を出して監督生活にピリオドを打ったとき、彼は初めて妻の墓前でその心情を吐露する。子供のように慟哭する島村の姿は見る者の心に突き刺さってくる。
 私は「生きる」で命がけの一世一代の演技を見せた俳優・志村喬と、このスパローズ監督・島村達郎がどうもシンクロしているような気がしてならない。

テレビの台頭

 『当時専属契約を結んでいた東宝はテレビを目のカタキにして、出演をなかなか認めてくれない』ところをうまく頼み込んでの初出演(年代は不明)は生放送のドタバタで失敗、それに懲りてしばらくは出演依頼を断っていたという。"名誉回復"の機会はNTVのドラマシリーズ『夫婦百景』で訪れる。『夫婦絶景』(1960年9月19日放映)というエピソードでの"ガンコ親父"の好演をきっかけに次第にテレビ出演が多くなっていく。
 私が生まれた頃は既に映画とテレビは立場が逆転してしまっていたのでその経緯を知る由はないが、戦前から映画に携わっていた志村氏のような人々は一体どんな気持ちだったのだろう。
 "テレビでメシを食わせてもらっていて、とやかく書くのは気がひけるが"とことわりながらも氏はテレビの問題点として"時間の足りなさ"、"おカネのかけ方"、そして"視聴率"を挙げる。


 テレビ作品は、所詮、消耗品なのかも知れぬ。しかし、関係者が「消耗品でいいんだ」と割り切っているのを見ると、やはり私のように、長い間、役者をやってきたものは一言いいたくなる。(中略)
 やはり、面白くて、それでいて何かしかご覧になった方の心に訴えるものがほしい。感動といってもいいかも知れぬ。(中略)見終わって心に何か温かいもの、ほのぼのとしたものが残る作品、(中略)生きる希望を持ってもらえるような作品、こういう作品が送り出せたらと思う。テレビを見て涙を流す人もあろう。それもいい。その作品に感動していただけたのなら、われわれにすれば、もって冥すべしなのかも知れぬ。心の底から笑って、心の憂さが晴れるならそれもいい。何か心に残るものがあればいいと、このごろつくづく思うようになった。
(『わが心の自叙伝』)



 「何か心に残るものがあればいい」という言葉は志村氏の立場から言える精一杯のテレビへの思いだったのではないだろうか。サイレントからトーキー、映画からテレビ、と時代の推移を目の当たりにしながら活躍の場を広げてきた氏のような世代は後進の人間にとっては人間国宝級の(かなりオーバーかな?)貴重な存在であることは間違いないと思う。
 なぜ、人の命には限りがあるのだろう・・・当たり前のことがとても恨めしく思えてくる。"老い"は病魔を伴って確実に志村氏にも忍び寄ってくるのだ。

病気

 1974年、体調不良を訴えた氏は「肺気腫」と診断され、5ヶ月間入院生活を送る。


 声を出すのは、息を吐きながらであり、息を吸いながらものを言う人などない。台詞を生命とも個性とも信じて映画界入りを決めた志村喬にとって、肺気腫はきびしすぎる病気だった。
(『男ありて 志村喬の世界』)



 氏はこの病気の遠因が少年時代を過ごした生野鉱山の排煙にあると語ったという。
 外部には「慢性気管支炎」で通し仕事を続ける氏に"病人臭さ"はなく、"どの程度に病気が進行し、どれくらいの苦痛があるのか、知っていたのは本人だけではなかっただろうか"と澤地氏は書いている。
 周囲にはわからなかった分、家庭内では壮絶な闘病生活があっただろう。苦しくても「台詞の覚えが悪くなる」といって家庭用の酸素吸入器をなかなか使おうとはしなかったという。
 熊井啓監督がその作品「お吟さま」で"最高の花"と絶賛した千利休を演じた時、志村氏の病状はかなり悪化していたそうだが、それにもかかわらず謡曲「高砂」を唄うシーンでは病をまったく感じさせない奇跡のような声を披露したという。
 刻々と迫る死の足音の中での命がけの仕事・・・熊井監督は『志村さんと共に仕事をした日々に、私はもう一つの『生きる』を観たような気がする』と書いている。


 「お吟さま」撮影中のエピソードを熊井監督から聞いた。出演者がスタッフと協調できず、裏方たちも仕事を投げ出しかねない切迫した形勢になった。監督はさまざまな試みをした上で、これが限度と思い、撮影中止の最後の一言をまさに口にしようとした。そのとき、スタジオの一隅から朗々としてごく自然体な「四海波静かに」が聞えてきた。一瞬にして空気は変る。事情を深く読みとった志村喬の知恵、幾十回となく修羅場をくぐりぬけてきた体験からひきだされた謡曲「高砂」だった。別の人がおなじことをしても、芝居じみたあざとさしか感じとれないような場面である。息切れに耐えながら、志村の包容力は絶妙だった。
 一人の映画俳優としての精進だけではなく、作品をまとめてゆく根まわし的役割を志村喬はおのれに課していたところがありそうである。志村喬によって救われた監督はすくなくないと思われる。誰も評価しなくとも、それは志村喬の映画に対する愛情であった。
(『男ありて 志村喬の世界』)



 最後の映画出演は「炎の第五楽章 日本フィルハーモニー物語」そして俳優としての最後の仕事は「続 あ・うん」(共に1981年)となる。

 1982年2月11日午後10時41分、志村氏は慶応大学付属病院にてその生涯を閉じる。
《午前十時の映画祭7》
〜最後に勝つのは誰だ〜

GROUP A
10/8(土)〜10/21(金)
「七人の侍」1954年/東宝/モノクロ/207分
監督:黒澤明
出演:志村喬、三船敏郎、津島恵子、木村功



GROUP B

10/22(土)〜11/4(金)
「七人の侍」

毎朝10時開映
当日一般1100円/学生500円

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