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ラテン系人間の会コミュの吉本興業株式会社について

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吉本興業株式会社(1/10)

(よしもとこうぎょう、Yoshimoto Kogyo Co., Ltd.)は、大阪府大阪市中央区と東京都新宿区に本社(登記上本店は大阪)を置く東証1部、大証1部上場の、かつて日本最大手の芸能事務所、プロモーター、テレビ番組製作会社だった会社で、現在は、芸能事務所などを統括する、吉本興業グループの持株会社。社長は吉野伊佐男。通称:「吉本」、「よしもと」

2007年(平成19年)10月1日から持株会社制へ移行し、同社の事業部門は、よしもとクリエイティブ・エージェンシー、よしもとデベロップメンツ、よしもとアドミニストレーションにそれぞれ分社化された。
日本経済団体連合会と日本商品化権協会加盟。

目次
a.. 1 日本最古の芸能プロダクション
b.. 2 主な役員
c.. 3 概要
d.. 4 沿革
a.. 4.1 創業期(明治末〜)
b.. 4.2 東京・横浜への進出(大正末〜)
c.. 4.3 戦前の全盛期(昭和初め〜)
d.. 4.4 戦時下の苦闘(昭和12年〜)
e.. 4.5 戦災からの復興(昭和20年〜)
f.. 4.6 演芸王国の復活(昭和34年〜)
g.. 4.7 東京吉本の再興と地方への進出(昭和55年〜)
h.. 4.8 現在
e.. 5 評価
a.. 5.1 上方演芸界への功罪
b.. 5.2 東京演芸界への功罪
f.. 6 創業者一族と主導権争いの歴史
g.. 7 タレントの待遇
h.. 8 地方事務所
i.. 9 ロゴマーク
j.. 10 吉本興業とスポーツ
k.. 11 文学作品に描かれた吉本
l.. 12 劇場
m.. 13 所属タレント
n.. 14 関連項目
o.. 15 参考資料
p.. 16 脚注
q.. 17 外部リンク

日本最古の芸能プロダクション
1912年(明治45年)4月1日の創業以来、2007年9月30日までは日本の芸能プロダクションでは、95年半の歴史を持ち、最も古かった。上記の持ち株会社化に伴い、「吉本(よしもと)」を名乗る芸能プロの歴史はよしもとクリエイティブ・エージェンシーに引き継がれた。

主な役員
役 職 / 役員名 / 備 考
代表取締役社長 / 吉野伊佐男 / 元ザ・ぼんちのマネージャー
代表取締役副社長  /大崎洋 / 元ダウンタウンのプロデューサー、吉本総合芸能学院開校時の担当社員
常務取締役 / 若林正裕 /
取締役   / 橋爪健康 / よしもとアール・アンド・シー代表取締役社長
兼務
取締役 / 藤原茂樹 / よしもとアドミニストレーション代表取締役社長
兼務
取締役 / 平島治 / 大成建設相談役
取締役 / 原田裕 / 弁護士
監査役 / 山田有人
監査役 / 蔭山幸夫 / 日本モーターボート競走会会長兼任
監査役 / 沖津嘉昭 / 岩井証券代表取締役社長
監査役 / 水戸重之 / 弁護士
特別顧問 / 岡本武士   / (笑福亭仁鶴) 落語家

概要
明治末期の創業以来100年近くにわたり、古くは桂春団治、横山エンタツ・花菱アチャコ、柳家金語楼から、現在のダウンタウン、ナインティナイン、オリエンタルラジオに至るまで、東西の多くの人気芸人を輩出してきたお笑い界の名門。テレビ番組制作、劇場、芸人養成スクールを手がけ、お笑い芸人のマネジメントでは圧倒的強さを誇る。東京の二大落語家団体の一つ、落語芸術協会の創設者でもある。

また戦前は、巨人軍を他社と共同で設立して草創期のプロ野球界を支え、戦後は日本プロレス協会を立ち上げて力道山をスターにし、近年はスポーツ選手のマネジメントを数多く手がけるなど、スポーツ界とのつながりも深い。元々は全国で寄席・劇場・映画館経営を手がける興行会社であり、戦前は松竹・東宝・吉本で三大興行資本と称された。現在は芸能プロダクションを中心とし、テレビ番組制作会社、CS放送やケーブル・テレビ向けのテレビ局、不動産事業などを傘下に抱える業界最大手の複合企業である。「お笑いの総合商社」「日本最大の芸能プロ」と言われ、芸能界における絶対的な権威から今や「吉本なしでは、番組が作れない」とまで言われる。

創業者の姓を採り「吉本」と名乗っているが、現在はオーナー経営ではない。大株主には大成土地(10%弱の株をもつ筆頭株主で、創業家の吉本、林両家が40%ずつ、吉本興業が20%の株を持っている)、大成建設(大手ゼネコン大成建設とは無関係)、三井住友銀行、朝日放送、毎日放送などが名を連ねている。銀行系列は特にないが、旧大和銀行系の大輪会に参加している。梅田の大地主として知られる吉本ビルディングとは、社名からよく間違われるが、資本・人材共に無関係である。

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吉本興業株式会社(2/10)
沿革

創業期(明治末〜)
創業は1912年(明治45年)4月1日。始まりは吉本吉兵衛(本名:吉次郎、通称:泰三)・せい夫婦が大阪市北区天神橋にあった「第二文芸館」を買収し、寄席経営を始めた事であった。翌1913年(大正2年)1月には大阪市南区笠屋町(現・大阪市中央区東心斎橋)に吉本興行部が設立される。1915年(大正4年)には傘下の端席のほとんどを「花と咲くか、月と陰るか、全てを賭けて」との思いから「花月」[2]と改名し花月派(無名落語家や一門に属さない落語家、色物などの諸派)結成。吉兵衛・せい夫妻は、桂派、三友派の二大勢力の争いが三友派の勝利にほぼ確定していた、1921年(大正10年)に非主流の浪花落語反対派と提携して勢力を伸ばし、後に反対派を吸収。そして翌年、三友派の象徴ともいえる寄席「紅梅亭」を買収して三友派も吸収。上方演芸界全体を掌握する事になる。しかし、1924年に泰三が急性心筋梗塞で死去し、若き未亡人せいが経営を背負う事になるが、せいの二人の弟の林正之助が大阪で、林弘高が東京で活躍し、大過なく経営を続ける事が出来た。その後大正時代には大阪だけでも20あまりの寄席を経営し、京都、神戸、名古屋、横浜、東京等にも展開していた。
当初は専属芸人のラジオ(当時のJOBK・大阪放送局)出演を堅く禁じていたが(当時の林正之助総支配人が「ラジオでタダで芸を聞かせたら寄席に客が来なくなる」として禁止したそうである)、1930年(昭和5年)12月7日に桂春団治がその禁を破ってJOBKに初出演。吉本は禁を破った春団治の寄席出演を堅く禁じたが、その後しばらくして春団治が寄席に復活した途端に客が押しかける様子を見て、専属芸人を放送番組に出演させる事が結果として自らの営業利益に繋がる事を知り、1934年(昭和9年)5月4日にJOBKと吉本は和解を果たした。1930年(昭和5年)には漫才(当時の万歳)専門の寄席小屋「南陽館」を開館、当時としては破格の値段10銭という入場料で横山エンタツ・花菱アチャコ、秋田Aスケ・Bスケ、芦乃家雁玉・林田十郎らが出演し人気を博す。

東京・横浜への進出(大正末〜)
また大正末より、東京・横浜への進出を開始し、1922年(大正11年)1月には神田の寄席「川竹亭」を買収して「神田花月」として開場、同年5月には、横浜伊勢佐木町の寄席「新富亭」を手に入れている(翌年「横浜花月」と改称)。昭和に入ると、浅草公園六区の興行街への進出に本腰を入れ、「昭和座」「公園劇場」「万成座」を次々と手に入れた。1935年(昭和10年)11月には東京吉本の本拠地となる「浅草花月劇場」をオープンさせている。また1932年(昭和7年)3月1日に吉本興行部を改組する形で吉本興業合名会社が発足すると、正式に東京支社を開き、林弘高が支社長に就任した。以後、大阪吉本を林正之助が、東京吉本を林弘高が率いる体制が確立する。同年には「漫才」の名付け親として知られ、後に同社の社長にもなった橋本鐵彦、1934年(昭和9年)には漫才作者として名高い秋田實が入社した。

東京吉本は伝統的演芸路線を取る大阪吉本と異なり、徹底したモダン・ハイカラ路線を打ち出した。「浅草花月」オープン時には流行歌手の東海林太郎やタップダンサーのマーガレット・ユキを出演させ、映画を上映し、レビューの「吉本ショウ」を上演している。専属のバンドと歌手、30人以上のダンサー・チームを抱える「吉本ショウ」は、やがて「浅草花月」の目玉となり、ここから後に 川田義雄、
坊屋三郎、益田喜頓、芝利英による、ボーイズの元祖「あきれたぼういず」が誕生した。「あきれたぼういず」以外にも当時の東京吉本は、柳家金語楼、柳家三亀松を筆頭に、石田一松、永田キング、木下華声(元2代目江戸家猫八)、松井翠声、伴淳三郎ら多くの東京の人気芸人を専属に抱えていた。タップダンサーの中川三郎や姫宮接子、元祖外国人タレント・ミス・バージニア[3]、喜劇王「シミキン」こと清水金一、コメディアンの堺駿二(堺正章の父)、木戸新太郎(キドシン)、泉和助、杉兵助(コント赤信号の師匠)[4]も当時、東京吉本に所属していたことがある。

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