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今岡過激団雪組コミュのKeep on Rockin'

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 ええ、このトピックは、私がこのトシになるまでどんなふうにしてバンドをやってきたかという、まぁ軽いエッセイというかそんなものです。もともとは過激団の出演したライブ・イベント「Four Wheels Rockin' Drive Vol.2」のためのコミュに書いていたものですが、中途半端に終わっちゃったし、機会を見ながら続きを書いていこうかなと、まぁ、そんなものですね。

コメント(10)

その1
 というのは、昔、イギリスのSF大会に行ったときにジョージ・R・R・マーティンってSF作家から著書にサインをもらったときに書いてもらった言葉。

 ライブともバンドとも関係ない話だけど、せっかくいろんな人がこのコミュに来てくれているので、読み物ページでも作ろうかとだらだらエッセイを始めることにしました。

 で、冒頭のマーティンの話に戻ると、サインしてもらった本は「The Armagedon Rag」という話で……とここまで書いたら20年以上も前に読んだ本の内容をほとんど忘れていたことに気づいてしまった。ともかく、スランプに陥っている作家が、かつて一緒にヘッジホッグというバンドの仕事をしたけれどその仕事の首を切られてうらんでいる男から電話がかかってきて……さて、それからはほとんど覚えてないんだけれど、ともかくRX-7に乗って旅に出る。そしてあてどなく(たぶんあてどはあったんだろうけれど覚えてない(^^))走り出したところで、それまで自分の車に名前をつけていたのに、いま乗っている車には名前をつけていないことに気がついて「Daydreamer」と名づける。そうして旅を続けるうちにかつてのヒッピー文化の残滓と出会ってううむという気分になりつつ、やがてホラーの話に巻き込まれていくという話なんだけれど。

 でも、これじゃなんのことかわからないよね(笑)。まぁストーリーもロック/ヒッピーどっぷりの話なんだけれど、第1章の過去の仕事仲間からの電話がかかってくるところの冒頭にはメアリー・ホプキンスの「むかしの日々は決して終わることはないと思うのよ」という歌詞の引用があって、それから第2章はバッド・ムーン・ライジングというぐあいに、CCR、ジミ・ヘンドリックス、ジョン・レノン、ジェファーソン・エアプレインなんていう人たちの歌詞が引用されているわけ。思わず赤面してしまうほどのあからさまなロック小説なのですね。

 このSF・ホラー・ロック小説は当時早川にいた私が編集会議に提出してあえなく否決されてしまいました。いまでも、反対意見を述べていた○○さんが「ぼくにはわからない世界だからねぇ」と言っていたのをよく覚えてます。「アンタがわからない世界だから売れるんだよ!」と心の中ではつぶやいていたのだけれど、これを編集会議に出したのが1985年ころで、まだまだ発言力がそれほどなかった私には路線からはずれた本の出版を認めさせる力がなかったみたいであえなく撤退(;;)。

 まぁそれはそれとして、そのマーティンに書いてもらったKeep on Rocking'という言葉どおりに、いまだに私がバンドを続けていることになんとはない感慨を感じる私なのでありました。

 ということで、いかにして私はいまだにバンドをやり続け、またこれからもやって行こうかと思っているという話を書いていこうと思うのでよろしく!
その2
 学生時代にちょこちょこっとバンドはやっていたのだけれど、いま思えば大してやっていたわけでもなく、卒業と同時に就職……といっても、最初は早川書房じゃなくて、まともに就職活動をやる気もなかった私は日刊自動車新聞という自動車の業界紙に就職をしたのでした。でも、営業として入ったものでどうも自分のやりたいこととは違う感じがするし、そこへ早川書房で編集者を探してるよって話を聞いて、日刊自動車新聞は3カ月で退社し、早川書房に入社したのでした。

 たしか入社したその年には早川書房の労働組合がひそかに結成されていて、それに加わるように勧誘されるという事態になって、だいたいがそそっかしく乗りやすい私はたちまち組合に加入したばかりか委員にまでなっちゃったのね。で、会議やらビラ作りやら資料作り、それに団体交渉とかなにやかやとむちゃくちゃ忙しい日々に突入、平均睡眠時間数時間がずっと続くという生活をして、でもその努力の甲斐もなく組合はあえなく潰れ、そうこうするうちに私は最初の結婚をするわ、またまたそうこうするうちにSFマガジンの編集担当になるわでますます忙しくなっちゃったわけ。

 おまけに結婚した頃から翻訳も始め、もちろん会社はアルバイトが禁止だからこそこそと隠れてやるわけで、ますます忙しくなっちゃうわけなのです。で、バンドをやるどころじゃなくて、まともに音楽を聴くなんて余裕もないまんま日々は過ぎていくのでありました。

 ううむ、こうやって書いてたら今回は音楽の話までたどりつけそうもないから、ついでにバイトで翻訳をやっていた話などをちょっと追加しておこう(^^)。

 私は早川に入った頃ははっきり言って英語はぜんぜんわかりませんでした。とにかく、高校を卒業したときの英語の成績は惨憺たるもので、大学は法学部だしそればかりか大学紛争のあおりで4年のうち2年分くらいしか行ってなかったしで、翻訳出版がメインの早川にどうやって入れたかというのは千古の謎といっていいくらい。まぁ、実際にはSFファン仲間のさる翻訳家(もちろんサルの翻訳家ではありません)の紹介で入れてもらったんですが。

 でも、SF大会の時に翻訳家の矢野徹さんが講演のなかで、最初はぜんぜん読めなかったペーパーバックをとにかくなんにもわからないまま何冊も最後まで読み続けているうちに読めるようになったという言葉をはげみに、無理やり仕事をしているうちに多少はわかるようになったのですね。

 おまけに早川の編集者なら翻訳くらい出来るという風潮があったものですから、翻訳者に不自由していた小出版社から仕事がまわってきて、それで無理やりに翻訳を始めてしまったというわけです。それにしても、いま思うとよくもまぁあの英語力で翻訳をやっちゃったものだなぁと慨嘆するほかはありません。おまけにもともとの学力がないのを体力でカバーしないといけないから、睡眠時間はますます減っていくばかり。いちばんひどかった頃は、雑誌の編集を深夜までやって帰宅し、そこで翻訳を明け方までやってちょこちょこっと寝てまた会社へ行き、とにかくちょっとでも時間があると仮眠をするか翻訳をするかという生活で、まったくよく体がもったものだと思います。おまけに銀座やゴールデン街という、編集者の出入りする飲み屋もちゃんと通っていましたしね。

 まぁ、とにかくこんな生活をしていてはバンドはおろか音楽も聞かない生活が続いていくことも容易に想像されるところでしょう。

 というところで、明日はなんでバンドを始めることになったかという経緯などを書いてみることにします。
その3
 前回は私がいかにしてバンドどころかまともに音楽を聞くことも出来ない生活になっていたかという話でありました。まぁ、そのあいだに友だちの紹介でミュージック・ライフのインタビューの翻訳を頼まれたりして、若い女性の編集者にお会いしたらその人が東郷かおる子という変わった名前だったとか、そんなこともありましたね。もっとも、このときは私はミュージシャンの話す英語というのがわからなくてすっかりお手上げ、結果2度と仕事を頼まれることはなかったです(爆)。

 まあ、そうこうしているうちに組合騒ぎも落ち着き、雑誌の編集もそれなりにかっこうがついてくるようになったところで、私は目新しい作家・ライターを探すようになりました。なんといっても、編集者にとっては既存の作家だけとつきあっていては限界がありますし、そもそもそれは出来合いの材料だけで仕事をしているようなもので面白くないですからね。
それで、小説のコンテストをやったり、知り合いを通じて面白そうなものを書くという人にあってみたりとかしていたのですが、あるとき早稲田を出た人で面白いものを書くのがいるんだけど、これがSFファンでねっていうのを聞くなりさっそく私はくだんの人物に電話をかけたのでした。いまの私からは想像もつきませんが、その当時私は広告代理店の営業の人に感心されるほどフットワークが軽くて、どこへでもひょこひょこ出掛けていき、あちこちに電話をかけるという生活をしていたのです。
 で、その早稲田出身のライターに電話をかけ、御茶ノ水の喫茶店で会ったのですが、彼女は(はい、そのライターは女性だったのです)なにやら毛糸で編物をしていました。そうして、まあ最初は茫々漠々とSFの話をしていたのですが、どういうものか話をしているとぜんぜん話題がつきなくて、えんえん数時間に渡って話をしているという状態がつづいてしまいました。そして、その時はちょっとしたエッセイをお願いしたのですが、やがて彼女の初めてのSFというのを書いてもらったりしているうちに、お宅にもしげく通うようになり、そこでまたえんえんといろんな話をしていたというわけです。
 それからしばらくして、彼女は江戸川乱歩賞を受賞し、たちまちベストセラー作家になったのですが、いまとなってはそれがいつ頃のことかよく思い出せません。

 ともかく、そうこうしているうちに打ち合わせに彼女のお宅に行くと、そこに講談社の*塚という編集者もやってきていました。そうしていろいろな話をしているうちにその*塚君という編集者はなんと大学時代にドラムをやっていたということが判明、私はじつのところ大してやってはいなかったのですがともかくベースをやっていたという話になり、彼女のほうは大学時代に音楽サークルでピアノを弾いていた、ならばひとつバンドでもやろうかという話が盛り上がってきたのでした。

 ううむ、こうやって書いてみるとけっこう長くなっちゃうものだなぁ。
 次回にはなんとかバンドを始めるところまでたどり着きたいものです。
その4
 まぁ、そうやって私と中島梓という作家の人、それから*塚君っていう編集者とでバンドやろうっていう話が盛り上がったんだけれど、だいたいはそういう話って盛り上がるばっかりでなかなか実現はしないものなのね。

 なにしろ、中島さんは大学時代にハーモニカ・ソサエティっていうクラブでずっとピアノは弾いていたけれどロック系のバンド活動はほとんどしていなかったし、*塚君はジャズの人、私のほうは学生時代ちょこちょこっとやった程度だったわけだからバンドを具体化していくについてはなかなか障害が多かったのです。

 でも、なんとそこに登場したのが早川書房の新入社員の萩原*君。

 私はSF、萩原君はミステリと別々のセクションだったのですが、なにしろ木造2階建という小さな社屋で、SFもミステリもノンフィクションもみんなおんなじ部屋で仕事をしていたわけなのです。おまけにこの萩原君というのがとても才気のある人で面白い企画を立てたり、あららぁって思うようなタイトルを思いついたりというわけで、話をしていてもとても楽しい人でした。しかも、音楽の話を始めると膨大なレコードのコレクションを持っていたり、音楽についての一家言を持っていたりということが判明。しかもとどめに学生時代には桑田佳祐と一緒にバンドをやっていたということが明らかになり、びっくりしたと同時に音楽好きな上司はたちまちこの新入社員にすり寄っていったというわけです。

 さて、それからどんな経緯があったか、私の茫漠とした記憶力はもう4半世紀も前のことですからよく覚えてはいないのですが、ともかくもう一人、早川書房の社員でギターを弾く人も参加してバンドをやろうということになったのでした。

 このバンドでは私がボーカル、中島さんがキーボード、萩原君がベース、早川のもう一人の人がギター、*塚君がドラムというメンバーでした。

 で、そのメンバーで何をやったかというと、日本SF大会にアトラクションとして参加したのでした。この日本SF大会というのは、年に1回日本中のSFファンが集まるというイベントで、その年は浅草公会堂がメインの会場でした。SFマガジンの編集長であった私とSF作家でもある中島さんがメンバーのバンドということで、こういうプログラムも成立したみたいです。

 とはいえ、実際にバンドをやってみるというのは大変なことでした。実質的にはほとんど無経験に近い私がバンドでボーカルをやろうというのですから、いまから考えると暴挙というのにふさわしかったかもしれません。もっとも、その当時はアマチュアのバンドのレベルもいまよりはずいぶん低かったように思いますし、そのおかげでなんとかかっこうがついたのかなという気もしますが。

 それにしても、その時の萩原君の活躍は、いま思えば大変なものでしたね。中島さんの歌詞に曲をつけ、カバー物のアレンジをし、ベースを弾き、演奏の指導までするわけですから。

 浅草公会堂のステージは、まあ言ってみれば私にとってはなんとかかんとかかっこうがついたかつかなかったか、いやとてもついていたとは言えないけれど、まぁそこはなんとかみたいなステージではありました。でも、浅草公会堂の広いステージから客席を眺め、すっかりあがってガチガチに固まりながらそれでもなんとか歌い終わったときには……どうだったんだろう? もう覚えてないなぁ。

でも、少なくともそれですっかり味をしめてしまい、もっともっとやろうという気分になっていたことは間違いなかったようです。
その5
 まぁ、そんなわけで齢30にして私はバンド活動を始めたわけなのですが、浅草公会堂のステージに立ったバンドは、とりあえずそのステージを最後に解散ということになりました。

 実際にはその前にも、新宿のロフトに出たりとかはしたんだけれど、これがなかなか奇怪なイベントで、対バンというか共演は遠藤周作さんのやっていた合唱団! もちろんロックなんかではなく「ゆぅ〜きの降るまぁちお〜〜〜」とかいう、ほんとの合唱をしちゃうわけなんです。なんでそういうイベントだったのかということは、いまでは私にとってはあいかわらず千古の謎なのですが。もっとも、私はこの時の遠藤周作さんの合唱団というのは見ることが出来ませんでした。

 なにしろ、ライブの当日に北海道でさる作家(サルの作家ではありません)のサイン会をやるという仕事があって、旭川の飛行場から帰ってきたのですが、なんと飛行場に姿を現した飛行機というのはYS-11というプロペラのついたのだったのです。ううむ、これはえらいことになったなぁと思っていたのですが、予想通りジェット機に比べてかなりよけいな時間はかかり、ロフトに到着したときにはもう遠藤周作グループのステージは終わり、私たちのバンドのステージも始まり――ボーカルなしで始めてしまうというのもすごいですが、まぁ始めないわけにもいかなかったのですね――私はもう演奏の始まっているステージに客席から飛び上がって歌い始めたというわけで、なかなかにスリリングな経験ではありました。

 話の前後はよくもう覚えていないのですが、たしかこの頃に私は最初に結婚をしていた人と離婚し、いまの奥さんと結婚、それにバンドの要であった萩原君は早川書房を辞めてフリーになり、萩原健太という名前でおいおいに音楽業界で大活躍をすることになっていくのでした。そして萩原君とドラムの*塚君が抜け、バンドはとりあえず解散ということになったのです。でも、いったんバンドをやる楽しさに目覚めてしまった残りのメンバーはなんとか続けたいものだと思い、メンバーを探して新たなバンド作りを始めました。

 そして、難波博之さんに学生時代に一緒にバンドをやっていたというドラムの石*君を紹介してもらい、早川のギターの人の友人がボーカルとして加入して私はベースにかわり、さらに奥さんが仕事でよくあっていたさる作曲家(サルの作曲家ではありません)のマネージャーをしていた**さん(いまは私のマイミクさんです)がもう一人のギターとして参加しました。

 最初のバンドは編集者と作家のバンドだからということで、いい加減にエディターズという名前でしたが、こんどのバンドはパンドラというもっともらしいバンド名も出来ました。そして、ディープ・パープルのコピーをメインにしたバンドがここにスタートを切ったというわけです。
その6
 このパンドラというバンドは、基本的には作家の中島梓のバンドということだったので、中島梓ファンの人たちがライブに来てくれたり、サイン会のオマケとしてライブをやるために九州や新潟にもいったりして、活動そのものはなかなか派手なものがありました。

 でも、正直のところ、そのころの私のベースというのはかなり困ったものではありました。それも無理もないところで、大学時代に多少はバンドをやっていたとはいえ、フォークのバンドでウッドベースを1年くらい弾いていたのと、そのバンドで大学祭にロック・バンドで出たくらいのものです。おまけに、そんなに熱心にやっていたというわけでもありませんでした。その当時はどちらかというとSF関係の人たちと始終会って、主に麻雀なんかしてたわけですね。その後早川書房に入社したというのも、そのころの麻雀つながりの側面が非常に大きかったと言わねばなりません。ちなみに、興味のある方もいるかもしれないのでちょっと書いておくと、その当時の麻雀の面子というのは翻訳家の伊藤典夫さん、作家の平井和正さん、横田順弥(やの時はほんとはもっと難しい字なんですけれど出てこないな)さん、川又千秋さん、ひところはDJなんかもやっていた亀和田武さん、翻訳や評論の(それに某大手代理店のエライ人でもある)鏡明さんといった人たちでした。

 しかも、大学の2年の秋には、もしかしたら私の一生はそこではかなくなっていたかもしれないという事件があり、短かったバンド活動はそこで終わってしまいました。

 21歳の夏ころ、私はなんとなく胃がもたれたり鈍痛がするような気がしていたのです。でも、とにかく元気いっぱいでバンドをやったり麻雀やったり友だちの家を泊まり歩いたりという生活をしていた私は、そんなことはほったらかしにしていました。そして、10月21日の21歳の私の誕生日の日、私は渋谷の喫茶店でSFファン仲間と喫茶店に集まっていたのですが、コーヒーを飲んでいると胃に針で内側から突き刺されたような痛みが、やがてそれは釘でぐりぐりとやられるような痛みになり、だんだん痛みのために意識も朦朧となっていたのでした。とうとう救急車が呼ばれ、私は渋谷の道玄坂の喫茶店から青山学院のそばにあった青山病院という病院に運び込まれたのです。胃潰瘍をほうっておいたために、潰瘍はだんだん深くなり、とうとう胃に穴があいて中味が外に出て腹膜炎になっていたのでした。

 2週間くらいで退院することは出来ましたが、体力は極端に落ちてしまいましたし、とにかくおなかの真ん中に大きな傷が残っていて激しい運動をやるわけにもいきません。そういうわけで、大学の残りの期間はなんとなくだらだらと過ごし、やがて就職ということになってバンドとは無縁の生活になったのです。

 あれ、今回はまたまたバンドとほとんど関係ない話になっちゃった(^^)。
その7
 まぁ、そういうわけで私は21歳を境にして胃のない人としての人生を歩むことになりました。

 胃のない人生とはいっても、いまでは大酒は飲むしタバコは吸うし、ぜんぜんそんな感じはないと思うのですが――せいぜい、それがわかるのはおなかのまん中にある、温度計の目盛りみたいな縫った跡――手術からしばらくというものは、さすがにあんまり派手に動きまわることも出来ませんでしたし、体も思うようではありません。
 とはいえ、大学の4年の頃はなにをしていたかというと、いまではぜんぜん覚えていないというか、そんな時期があったのかなぁという感じですね。でも、就職してからもしばらくはタバコはあんまり――あんまりというところがなかなかセコイですが――吸わなかったし、たぶん大学にいたころはたいしたことはしてなかったんでしょう。

 で、話はぐるっとまわって私の奥さんがキーボードを弾いていたパンドラというバンドをやっていたという話に戻るわけです。

 このパンドラは、たまたまその当時、奥さんの書いていたグイン・サーガ・シリーズのイメージアルバムがコロンビアから出ていたこともあって、コロンビアの担当プロデューサーだった方に紹介してもらって渋谷のエッグマンに出るようになったりもしていました。

 自分でも、無謀にもよくやったものだなぁといまでは思いますが、それでもなんとか「Highway Star」「Star Gazer」「Fool for Your Loving」「Soldier of Fortune」というような曲のベースを弾いていました。はっきり言ってこれはかなりいいかげんなものだったと私が保証します。だって、いまでもそんなにちゃんと弾けはしないんですから(爆)。

 うん、ベースがちゃんと弾けないってことについては、ずいぶんとコンプレックスを持ってるみたいで、いまにちゃんと弾けるようになりたいなぁと思いつついまに至っているというわけなのです。それに、ひところかなりコマメに練習をしていた時期もあったのですが、高校時代に左手の小指が突き指のために変形してしまい、それで正しいフォームで押さえると変なところに力がかかってしまうので、いつのまにか親指の付け根のあたりに軟骨が出来たりとかして、けっきょくまた練習しなくなっちゃいました。ただ、音楽をやるについては、小指の突き指なんてものはたいした問題ではないくらい、もっと根本的な問題を抱えているということものちのちわかってくるのですが、それは後の話ということにして……。

 このバンドもコピーバンドとして楽しくやっているうちはよかったのですが、やがて欲が出るというか、さすがに何年もコピーばっかりやっているというのに飽きてきてしまって、オリジナルでやろうかということになってきました。そうなってくると、メンバーのあいだの方向性やらバンドへのスタンスもそれぞれに違うことがわかってきて、たぶんそれだけではなく、時がたつにつれてメンバーの事情もそれぞれ変わってきたってこともあったのでしょうね、パンドラはなんとなく解散ということになりました。

 まぁ、パンドラのたしか2回目のライブくらいのときに息子は5ヶ月くらいで――生まれて5ヶ月ではなくて、妊娠5ヶ月です(笑)――それが生後何年というようなところまで行って、バンドをやっている余裕というのもだんだんなくなってきたというのもあったのかもしれません。そうして、私はバンド活動から離れて、しごくまっとうな編集長の生活に戻ったのであります。

 ううむ、ひさしぶりに書いたら、ぜんぜん面白くならないや(^^;。
 次回はニューオリンズへ行ってどんちゃん騒ぎをした話でも書こうかな。
 今回はニューオリンズの話。

 ニューオリンズの話というと、オールド・ジャズとかセカンド・ラインとかまぁいろいろと音楽的な話になると思うでしょう。ところが、私は音楽情報というのにえらく疎い人なので、特にブルースの好きな人とかからしたら腹がたつくらい音楽とはあんまり関係なかったかもしれないです。

 そもそもがニューオリンズへ行った理由というのがSF大会へ行くためだったので、旅程もSF大会期間だけだし、ほとんどの時間はSF大会の会場にいたものですから観光というのもあんまりしていないのですね。そうそう、SFに興味のない人にはSF大会といってもなんのことかよくわからないかもしれませんが、ともかくSFファンが大勢――ニューオリンズで行われたときはおおざっぱに言って5000人くらいかな――集まってのお祭り騒ぎというわけです。

 日本からは直行便でニューオリンズまではいけなかったので、デンバーというところで乗り換えです。ところが、搭乗時間を確認してみると1時間ほどの余裕があります。そういうことならばと、ビールが好きなことでは人後に落ちない私は当然ビールを飲みながらその1時間を過ごしたのですが……さて、搭乗口に行ってみるとそんな飛行機はない! あれれと思っていろいろと確認してみると、なんと時差の関係で1時間の余裕なんてなくて、すぐに乗り換えなければならなかったのです。ありゃまぁというわけで慌ててカウンターに飛んでいって(じっさいには早足で歩いただけですが。ほんとに飛べれば、そのままニューオリンズへ飛んで行けばいいだけのことです)次の便に変更してもらったのですが、どうやらニューオリンズというのはなかなかの田舎みたいで、1日に2便くらいしかない。そこで私はデンバー空港の中をほぼ1日うろうろうろうろ、そしてようやく夜になってやってきた飛行機に乗って深夜のニューオリンズに到着したのでありました。

 まぁ、ここらへんまででけっこう波乱含みではあったのですが、さていよいよSF大会が始まってみると、さすがにジャズのふるさとと言われるところだけあってホテルのバーではすごーく古いスタイルのジャズのバンドからけっこうモダンなバンドまでの演奏があったり、バーボン・ストリートに行けば道の両側に並ぶ店々からはいろんな音楽が聞こえてきます。ひととおりSF大会の日程のほうはこなしつつ夜ともなれば紅灯の巷へと繰り出すのがまた人情というもので、人情家の私はさっそくパスポートとトラベラーズ・チェックとクレジット・カードをホテルの金庫にしまい、使っていいと自分で決めた現金100ドルだけを持ってホテルをあとにしたのでした。

 それにしても、ほんとにいろんな店があって、ブルースが聞こえてきた店にはいっていくとステージではかなり高齢のおじいさんが渋いブルースをやっていたりします。そこで、私はお酒を頼むのですが、ニューオリンズに行くに際しては、名物のハリケーンというカクテルがあって、それは飲みやすいけれど強いから気をつけなさいといわれていました。ところがニューオリンズにやってくると、街の人からもっと強力なタイフーンというのがあるといわれて、さてこそとばかり私はタイフーンを頼んだのでありました。
 ステージはなかなか楽しく、おじいさんはブルースを歌うというよりも客といろいろとやりとりをしながら、それをまた歌にしているんですね。ううむ、こうやってブルースっていうのはやってるのかぁと、なかなか感動もしたのですが、タイフーンのおかげであるところからだんだん記憶が……それで、そのおじいさんの演奏のテープを購入してまた通りをてくてくと歩いているとこんどはトップレスバーという看板が目に入ります。べつにトップレス・バーといっても、ただトップレスのお姉さんが踊ってるだけのお店のようなので、念のため私はその扉をくぐったのでありました。
 なかなか明るい健康的なといってもおかしくないような雰囲気のお店のステージでは、どう見てもハイティーンくらにしか見えない黒人の女の子が踊っています。で、それを眺めながらお酒を飲んでいると、ふと私のとなりにそれなりの年齢の女性がやってきて「あれ、私の娘なんだけど、どう?」と聞くではありませんか。私は「いいえ、あの、私はそういうのはあれで、なんたらかんたら」と答えてお酒を注文します。そうしてお酒を飲んでいるうちにすっかりご機嫌になっていつしかそのお店を出ていきました。
 どうやら、私は見知らぬ女性と仲良くなるよりもお酒のほうが好きらしいのですね。そうしてまた通りをてくてくと歩いていくと、ジョーと名乗る(うむ、いまでも名前を覚えてるっていうのは、あんまりにもいい加減な定番の名前だったからだろうな)黒人の青年がつと近づいてきて「オレの妹とつきあわないか?」というのです。つきあえと言われても、ほぼ泥酔状態の私にいったい何をしろという感じなのですが、私の泥酔時の異常な友好的な気分はそれはそれとして一杯おごろうじゃないかという話になり、その青年の案内してくれた店に行き一杯、二杯と杯を重ねます。
 まあ、この頃はまだ若かったからこれだけ飲んでも動けたのですね。でも、気がつくとバーボン・ストリートの歩道にすわってぼやーっとしていました。しかも、となりにはホームレスとおぼしきおじさんが。ところがそのおじさんは私が日本から来たというのを知ると、若い頃に朝鮮戦争でヨコスカにいたことがあるといい、いいかげん飲みすぎていた私とヨコスカとかコリアとかわけのわからないことを一緒にわめきちらすということになったのです。

 まぁそんなぐあいにして、もうすっかり明るくなった早朝のニューオリンズの街をてくてくと歩いて私はホテルの部屋にたどりついたのでありました。それでも、ホテルを出るときに持っていった100ドルで充分事足りたというのは、なかなかに理性的なお酒であったといえるでしょう。

 ううむ、というわけで音楽とはあんまり関係なくなってしまったけれど、なんとなくKeep on Rockin’という感じではあるかもしれない(^^)。
その9
 さて、今回は衣装の話(^^)。

 今岡過激団というと、私のTバックというのがトレードマーク化しつつあるようですが、じつは最初っからTバックを衣装にしていたわけではなく、ずっとおとなしい衣装でステージをやっていました。
 どんな衣装かというと、編タイとガーターはお約束として(^^)、その上に太ももの上のほうまでスリットの入った黒のドレスという、いたって穏健ものでした。スリットの入ったドレスというのは、なんとなくラスベガスのショーだとか、紫煙のたなびくナイト・クラブだとかいう、セクシーでアダルトな雰囲気を感じさせてなかなか好きな衣装ではあります。
 まぁ、最初のうちはそんな衣装でライブをやっていたのですが、たしかに目立ちはするし受けもするんですが多少の気後れがぜんぜんないわけでもなくて、少しはおとなしくしたほうがいいかなぁとか思わないわけでもありませんでした。
 でも、あるときさるパーティ(サルのパーティではありません、たしか代官山のなんたらというところであったパーティでした)で、その頃過激団がベースにしていたnifty.serve(いまのnifty.comですね)の仲間のMEMEXさんという方と会ったのですが、その時に彼女に「いまおかさんは足が綺麗なんだから出さなきゃダメよ!」と言われたのです。
 MEMEXさんはそれからほどなくして、病気のために若くして亡くなってしまいました。でも、私のとっては、その彼女の言葉はものすごく大切なものになっていたのです。
 足が綺麗! そうか、私の足は綺麗なのか……でも、じつは、私の足は短いのです。
かつては座高一寸胴切りとも言われ、腰が低くて頭が高いとも言われ、自分の足について自信というのものは持てませんでした。というかね、容貌とか風采について、私はあんまり自信のない人なのです。でも、足が綺麗! といわれて、そうか、そう思ってくれる人がいるんなら頑張っちゃおうとか思ったわけですね。それは、もう10年以上前のことだと思いますが。

 これは、ちょっと微妙というかややこしいというか、ジェンダーがらみというか面倒な話に発展する可能性のあることなのでささっとすませますが、見ることと見られることの権力構造というか、まぁそんな話がからみつつ私は見られることについてなんというか挑戦的な気分を味わいつついまに至っているというわけなのです。あ、これじゃなんのことかぜんぜんわからないか(^^)。

 まぁ、ともかくそういうわけで私は足を出すということにある種の使命感を持ち始めて衣装に関して妥協をすることをやめたのですが、それがなんでTバックになったかというと、それにはまた深いわけがあると思いきや、じつにかんたんないきさつがありました。

 今岡過激団がメンバー・チェンジを重ねつつ花組になったときのことでした。目黒のとあるライブ・ハウスでのことですが、衣装がどうも自分的にあんまりピンと来なかったことがありました。で、そのときに私服というか会場へ着てきた下着がアニマルのTバックだったのですが、思い切ってそれを衣装にしてみたのです。そうして、最初はラメのスリット・ドレスだったのですがそれを途中で脱いだら、これが妙に気分がよくて……以来、Tバックをステージの基本にするようになっちゃったというわけなのでありました。

 でも、やっぱりトシをとってくるにつれて肌の衰えはおおうべくもなくなってくるし、たぶん女性でも私と同じ年で同じ衣装でステージに出るっていうのはけっこう大変だと思うのだけれど、どうもね、ここのところ気になっているのはIDという雑誌に載っていた写真なのです。元というか、たぶんいまでも現役で仕事をしているんだろうと思うかなり老齢のモデルさんが、なんと肌もあらわなストリート系のファッションをしているのね。もう70ははるかに越えている感じで、肌もしわがたっぷりあるんだけれど、なんというかその目がストリートの気概を感じさせるんだな。たぶん、これはファッションというものが迎合とか折り合いとかということではなく、ほんとは勇気とか挑戦とか、それから気概という言葉に属するものだということなんだと私は思ったのでした。

 さて、次のライブの衣装はどうしようかなぁ。
その10
 さて、音楽の話もしなくっちゃということで、歌の話でもしましょう。

 歌って、誰でも歌えるっていえば歌えるし、かくべつ歌の勉強してなくたって誰でも歌うものです。私もちゃんとした音楽教育を受けたわけでもないし、まあ自分で歌いたい歌をただ歌っているってだけのことだったんですね、過激団を始めた頃は。
 その前はそもそもバンドの中で歌うってこともなく、たまにご愛嬌みたいな感じでちょこっと歌うっていう程度のもので。そもそも、私は楽器がものすごく好きで、中学に入ったときに生徒達のハワイアンバンドの演奏を見てすっかり憧れ、さっそくウクレレを買ったという少年だったのです。まぁ、楽器の話についてはいろいろと書きたいこともあるのでここは端折っておくことにして……。

 ともかくも、それまでまともに歌ったこともなかったのですが、過激団の前身ともいうべき、早川書房の連中で作ったバンドで私は初めてリードボーカルというものをやってしまったわけです。ところが、無知というか物知らずというか、なにもわからないってことはまぁ無敵なのですね――霧笛がオレを呼んでいる、なんちゃって(^^)――はっきり言ってその頃はまともに声も出ていなかったのですが、本人は一所懸命歌ってるし、どんな声が出てるかなんてわかっちゃいないからそれなりになってるような錯覚を起こすわけですよ。で、すっかりボーカリストになったつもりで歌っていたのですが、そもそも発声法が根本から間違ってるところがあって、声帯を伸ばしたり縮めたりして声の高さを調節するわけですが、肝心の声帯じゃなくて関係のない筋肉ばっかり緊張をさせて、おかげでいくら頑張っても声帯はだら〜〜〜と伸びたまんまでどうでもいいところが緊張して音は伸びないし、それでますます頑張ればドツボのはまるのはまあ理の当然というわけで。

 でも、まぁそれなりに自分ではわかってるつもりで頑張っていたのですが、そのうちに過激団花組になったときにCDを作ろうって話が持ち上がって、それで作っちゃったんですね、CDを。霧笛に呼ばれていた私はもうすっかりいい気分でレコーディングをしていたんですが、でも、なんだかヘンだなぁという疑惑はその頃から兆しはじめていたのでした。というのも、声域がもともとそんなに広くもなかったのにますます狭くなって、その頃はまともに出る声域は1オクターブくらいになっちゃってたんですね。しかも、コーラスの美女達とコーラスをするとそのピッチの不安定なことといったら!

 過激団花組は、まあたぶんそういうことが一番の原因ではなかったかといまでは思っているのですが、やがて活動停止状態になり、なんとなくどうしたものかなぁという気分になっていました。

 でも、やっぱり私はバンドを続けたかったし歌っていたかったんですね。それで、いよいよどうにかしなくちゃってことになったところに登場したのがマイミクのかいぽんさん。歌手として活動を続けながら、インストラクターとしても活動を始めていたかいぽんさんが、私の声の面倒を見てくれるというので、私は藁にもすがる気持ちでかいぽんさんのレッスンを受けるようになったのです。

 さて、いざレッスンを受けてみるとほんとにレッスンのたびごとに目からウロコがぼろぼろぼろぼろ落ちていく感じでした。それまでは私はとにかく声を出すためにものすごく力が入っていたのですが、かいぽんさんは力を入れるのではなく、声の出る通路をどうやって広くするか、喉の緊張をどうやってとっていくかということを教えてくれました。とはいえ、それはなかなか思い通りにはならないというか、喉の中なんて目に見えるわけじゃないし、自分がどの筋肉をどうやって緊張させているかなんてぜんぜんわからないからもう五里霧中というか暗中模索というか目の見えない人が障害物競走をさせられているような気分だったのです。

 それでも何ヶ月かするうちに自分がなにをしないといけないのか少しづつわかるようになり、それが1年、2年とたつうちにだんだんと自分のものになってくるような気分になってきました。いったい、いつ頃のことだったか、もう時期的なことは覚えていないのですが課題としてやっていたOPEN ARMSを歌えるようになって、それまでは高音を出すというのがともかく苦しくて仕方がなかったのが気持ちよく出せるようになったときには、ほんとうに歌ってこんなに気持ちがよくて楽しいことなのかって思いましたね。もちろん、キーはオリジナルよりもかなり下げてはありましたけど(爆)。

 まぁ、そんなわけで私は50を越えてからようやく歌を歌うということがどういうことなのか、少しづつですが学習をし始めたというわけなのです。

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