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Vanity Fairコミュのメンバー紹介

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 足跡帖程度のつもりで皆さんお使いください。一行くらいで構いませんので、
 1、このコミュニティに参加してみた理由
 2、日頃宗教について持っている疑問、知りたいこと、悩み
 等を簡単に書いてくださると今後のために助かります。
 それではどうぞ。

コメント(25)

はじめまして☆

1.
コミュ紹介にあった、・信心家を見ると疑わしく思い、無神論者に会うと気楽だな、と思ってしまう人。をよんでぎくっとしたので。

神的なものに関する人間の思想(特にレヴィナスや神秘主義の思想家達のエクリチュールには人間の域を超えた何かを感じます)や芸術(最近知った「サクリファイス」というロシア映画など)を非常に美しいと思う一方、
仏教神教に裏打ちされた日本人的無意識にどっぷりつかっている自分が'平和的'な運命主義に流されやすい(その分寛容かもしれない)ことを切に感じているので、こんなコミュを偶然見つけてラッキーだったなぁとおもいます。

日本人の「無神教」に対する宗教的視点からの考察が足りないので誤解を招きやすいのだと思いますが(湯浅さんの『日本人の宗教意識』は興味深かったです)、私個人は、ポストモダニズムの時代である今日は、日本も含め全ての人間の活動は宗教的なものを根底に秘めていると考えています。

2.基本は日本で哲学・倫理学をやってるんですけど、今イギリスバーミンガムで神学部に所属しています。今は将来プロテスタントかイスラムの神父になるような生徒達に囲まれているので、実家が仏教神教混合で特定の信仰をもっていない私は「日本ではみんな何を信じてるの?」と聞かれ答えるのに長い長い曖昧な答えを・・・。日本由来の神教は現存する'唯一の'古代宗教的多神教だという点も、日本の特異な宗教観に一役かっているかもしれません。

一神教の神を信じることにより個人が得るもの、失うものは、「日本的無神教」の目から見ると非常に大きく重たいのではないでしょうか。逆にムスリムの目には写る私たちの社会を考えてみると、少し恐ろしくなりますが…。

私は主に一神教的宗教の倫理学の方向性と多神教ないし世俗的倫理学の観点の違いに興味があるので、「日本人のモラル」に何らかの疑問を抱いている方や、一神教のバックグラウンドを持つ人々の語る「モラリティ」とそれを実現するため(という名目で)起こる政治的闘争の数々に少しでも「理解できないな」と感じることがある方、ぜひ色々とご意見ををお聞きしたいのでよろしくお願いします。

長くなりましたが失礼します。
自分にとってタイムリーなコミュを見つけた気持ちで、早速登録してみました。ノン・クリスチャンと言う立場でプロテスタントの教会の礼拝に出席するようになって1年が経ちます。

もともとは社会民主主義的な思想で社会運動のようなものに関わってきたので、合理的な発想に基づく思想や社会システムの構築でいろんな問題を解決してゆける、あるいはしてゆこうという立場でした。

しかしながら、政治や経済の問題がそれで解決しても、自分の抱える問題がそれでは解決できないと感じることが多々あり、それが仮想だったとしても、「神」=黄金律というものを想定することによって自分の中や、社会に一つの安寧とした秩序が作られる(だろう、と想定する)キリスト教的な世界観に確かに惹かれるものを感じます。

旧約は神話世界として、新約もやはりある種のSFとしてか読めないのですが、その背後には、とても単純なはずなのに、人間がずっと実現できなかった、ある種の「真実」があるような気がしてなりません。それは「原罪の贖罪意識」あるいは「赦しへの願望」、「愛への渇望」かもしませんし、「人間存在の無力感」かもしれません。

人にはどんなロジックで自分や社会を正当化しようとしても、どうしてもできない時があります。理解や解釈はできるけれど、それを受けれることができない、そういう気持が、祈りという形で現れるのだと、今では思います。

それがキリスト教やプロテスタントに特有なものだとは思いませんし、だから一神教的な教義や、Jesus Christを通じてしか人間が救われないとは思いません。ですから、自分が洗礼を受けたりすることは難しいかなと思います。

ただ、日々「神」の定めた黄金律(そういうものがあれば、ですが)に自分を照らして省み、悔い改めて生きることが、自分へのコミットメント・立場表明になれば、と思って毎週教会で祈っています。
はじめまして

ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」のアリョーシャのような人間にどうしたら近づけるかを考えていたところ、
非常に興味深いコミュに出会ったので参加した次第です。


キルケゴール『死に至る病』にも感動しましたが、神に帰依しなければ、真に絶望からを脱し得ないのかに疑問を持っています。
科学的なものや現代的なことと既存の宗教が離れすぎているように感じられて、自分のなかで科学的思考と宗教的精神とが分離しているため、なんとか統一された思想をもって生きたいと望むのですが、うまくいきません。

宗教に関する歴史や知識があるわけではないのでみなさんの意見をお聞きできたら幸いです。
はじめまして

1 スタンスにセンスを感じたので

2 fundamental は「疑わないことが神への熱烈な信仰」、
  historical-critical は「常に疑い続けるのが健全な信仰」

  と私は分析しています。
  その狭間に自分の立ち位置を見ます。
  しかし、もう宗教のことなど、どうでもいい、というのが本当のところなのです。

  よろしくお願いします。
はじめまして

明治維新によって壊滅的打撃を受けた、日本の伝統宗教、
いわゆる神仏習合の信仰に興味があります。

先日、吉野を歩いたところ、脳天大神という戦後にできた
新しい信仰形態があり、感激。ただし、自分が入れるわけ
もないのですが。とりあえず、ご挨拶まで。
はじめまして。

1 太宰治の小説が入り口でした。

2 今は哲学を勉強しているのですが、哲学と宗教は方法は違えど共通する部分も多いように感じています。そのようなところについての議論に参加できればと思っています。

よろしくお願いします。
はじめまして、

難しい理屈は嫌いなのですが、自分の考えと接点があったので参加させていただきました。

2に対しての答えは私の日記にも書いていますので、よろしければご覧下さい。
少々理屈っぽいですが(笑)

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=55143238&owner_id=1624037

よろしく。
信仰を持てたらいいなあと思うのですが、やっぱりその宗教独自の世界の始まりの話とかで「うーん、これを信じるのはなあ・・」と思ってしまいます。
あと、ここのコミュのトップ画像とコミュ名が気に入ったので入りました・・
こんにちは。

1 仏教、神道、儒教、(中にはキリスト教要素も含まれてるかもしれない)混ぜ混ぜの言ってみれば「日本教徒」ですが、現在プロテスタント系の教会2つに通っており、キリスト教との共存について、最近つれづれと考えているところにこのコミュをみつけました。

2 キリスト教の唯一絶対の神にも敬意畏れの念はあり、広く偉大なものをかんじますが、じゃあ、キリスト教徒になったとしても、偶像崇拝だからと八百万の神やその他名も知らぬ神様仏様を捨てることは出来ないと思っています。
だからこのままでいいのですが、そういったことをキリスト教の方々に本当に理解してもらえるにはどうしらいいのかと。
うーん、ほかにもいろいろ考えてはいるのですがまとまりませんので、今日はこの辺で。
はじめまして。

1、コミュニティの説明で完璧だと思いました。とくにこのコミュに関係がないひとの例の一覧は、全てに頷いてしまいました。

2、特定の宗教を信仰することと、自分なりの思想を探すことにはどれだけの隔たりがあるのでしょうか。集団と個人の差だけでしょうか、なんなんでしょうか?よくわかりませんね。
自己紹介ではないのですが、monksさんの書き込みに反応してしましました。

信仰と自分なりの思想の隔たり、僕も教会に行くまではわからなかったのですが、今ではこう思います。

信仰は「人間の力ではどうしようもできない」という諦念があり、神や仏という絶対者に自らをゆだねようという価値観に一番大きな違いがあるのではと思います。

自分なりの思想、とはいっても、××主義者の集団が政党や団体を結成することは一般的ですし、かといってキリスト教にも「無教会派」という教会に依拠しない会派もあり、集団か個人かという線引きは難しいかもしれません。

ただ、一ついえるのは、宗教者は「共同幻想」論のような観点が薄く、神の定めた絶対的な真理を、教徒の間で共有していると思っているケースが多いのではと思います。

僕は宗教学を修めたものではないのですが、信仰と不信仰の間にいるものとしての感想です。
>monks、いとけんさん
 難しいところですが、このコミュニティには最適の課題ですね。お二人さえ良ければこの点について別個のスレッドを立てることにしましょう。
 思想と宗教に根本的な差異があるのかどうか、ということですが、僕はやはりあると思いますね。思想というのは徹頭徹尾近代的なもので、市民社会における個人がそれを認めるかどうかという点に全てがかかっていて、だからこそ思想においては倫理・客観性・科学的論拠の必要性が強調されるのだと思います。思想が持つこうした公共性は宗教にはないものですが、思想の難点はそれが前提している個人・社会・テクストの三つの枠組みから逃れられないことで、最終的には個人の主観性の領域に留まらざるをえないのではないかと思います。
 それでいいではないかとも言えますが、それでは個我の問題や社会的実践への取り組み、他者といかに向き合うべきかといった枢要な課題を逸してしまうと思います。いわゆる実存主義哲学はこれらの課題を解消しようと努力したといえると思いますが、ハイデガーの否定神学的なスタイル、サルトルのマルクス主義の導入などは、実存的孤独を解消するには個人を超越するさらに大きな枠組みに頼らざるをえないという結論に終っているとしか考えられません。
 対して宗教は近代的な個人というものを認めませんね。神や宗教団体といったモデルに包括された形でしか個人の意識が許されないわけで、そこにはだから個我の苦しみといった問題がそもそも出てこない。その代わり「汝は信じるか、否か」という選択を迫られるわけですが、これが世界の宗教戦争の根本であることは言うまでもありません。それはさておき一度信仰の道に入ってしまえば、宗教団体という共同体のルールに従ったり、神への信仰にすがれば安泰というわけですから、問題はずっと簡単になります。宗教が呈示する世界観の下に社会参画も可能であれば、神の下には全ての個人が平等で等質であるがゆえに他者を愛することもできる。
 かなりおおざっぱに書いていますが、思想と宗教の相違は、近代の産物である個人をどう捉えるかという点で決定的な差異があると思います。
 
 
はじめまして。私の場合、この世界というものや、この私が存在するということはどういうことかという疑問から神の問題に接近した感じです。
読むものが西洋のものに偏っているので、神となるとどうしてもキリスト教の神様について考えることになってしまいますが、私は今のところ、神と呼べるものが存在するかどうかはともかく、いわゆる啓示宗教が説くような、人格神が人間世界に来臨したり、預言者にメッセージを啓示したりしたということには懐疑的です。しかし存在の神秘性というものがある限り、神の問題というのは自分にとって問題意識であり続けるのではないかと思っています。
コミュに入ったのは結構前なんだけど、やっとご挨拶を。
ぬるい神話ヲタ暦20年です。

「彼ら」が感じていた「聖なるモノ」には
何かを信じることができるまで、到達できないんだと思う。
でも、何かを信じてしまったら、私の知りたいことは
見えなくなってしまうんだろうな。

あらゆる信仰者に嫉妬と尊敬を感じつつ、
そうなってしまっては見えないものを欲しつつ。

よろしくお願いします。
はじめまして。

ヴィヴェーカーナンダの「ギャーナヨガ」をバイブルがわりに読んできました。
小さい時は聖母幼稚園で、毎日イエスの偉大さを紙芝居で見て育ちました。

ヴィヴェーカーナンダで検索したらここのコミュにたどり着きました。

宗教なしの人生は考えられませんが、インド人ではないので、
日本でヴィヴェーカーナンダを尊敬しつつ、どうやって暮らしていけばいいのか、暮らしたいのか真剣に考えたことがありません。

色々勉強できるとうれしいです。

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