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南北朝コミュの南北朝の歴史の足跡を訪ねました

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勝手にトピ立ててすいません。あせあせ

タイトル通りに自分が訪ねた場所を貼らせてもらいますね。
大塔宮護良親王の主力軍として宮方軍として京に一番乗りし多勢の六波羅軍と小勢で対峙し鎌倉からの援軍の北条一門名越高家を討ち取った武功大の赤松軍が
世の中の人が、信じられぬほどの処遇しかなかった。
後醍醐帝の新政下では、赤松は排除された。
後醍醐帝と大塔宮護良親王の確執が影響したのでしょうね。

官軍に一族郎党に多くの犠牲者を出し奉公したのに報われずに怒りと失意の帰国でした。
その後、久我畷合戦にての赤松の戦い振りを知る足利に請われ北条時行率いる抵抗軍鎮圧の為の東征軍に子息を所望し次男貞範が精兵を引きつれ従軍し鎮圧後に足利と新田の争いに巻き込まれそのまま成り行きで足利に味方する事になり
箱根の合戦で武功を挙げます。
それから、赤松はひたすら足利将軍家を支えます。
円心則村と長男 範資と次男 貞範 三男 則祐 四男 氏範揃って。
しかし、しばらくして四男 氏範は彼の中の義に殉じたのか南朝につきました。
その後、彼は南朝方で活躍されます。
その彼が、京への糧道の一つを断つ為に篭ったのがこの播州清水寺です。
将軍方の山名氏が攻め寄せるも200に満たない兵力だったが撃退し次に細川が攻め寄せるも撃退。困った将軍方は細川に同族赤松を付けて討伐軍を立て攻め寄せました。
これにより、彼はしばしは戦ったもの今はこれまでとこの寺の根本中堂下で大講堂の横付近で一族郎党すべてが自害して果てました。(カメラの左下近くです)
今でも、氏範が腹を切る際に座った石が「切腹石」として残されております。
ちょっと、木で囲ってあるのが私には怖いのですがげっそり

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