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憂国の士コミュの南京の次は重慶?

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http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1520.html

歴史的建造物の残る重慶の街並
昔の建物が残る重慶の街並


まったくどうしようもないアホ連中だと思うのですが、南京大虐殺なるものが実はまったくのでっちあげであることが立証され、もはやこれ以上反論することは、かえって中共や当時の支那国民党が行なった蛮行を世界に晒すことになりかねないという情況になったら、どうやら最近は、中共や日本の左翼は、重慶大虐殺などと騒ぎだしているようです。

まず南京については、真実は、
1 南京で一般市民の虐殺なるものはただの一件も発生していません。
2 中共や日本の左翼などが宣伝に使用した日本軍による南京虐殺の証拠写真なるものは、すべてねつ造や他の時と場所において支那人が支那人や日本人の無辜の市民に対して行なった蛮行の写真であり、南京のものではありません。
3 文書による「証言記録」なるものも、すべて伝聞やでっちあげによるものです。

そもそもなかったことを証明するというのは、実は非常にたいへんなことです。
数学の世界でも、「ないことの証明」ほど難しいものはない。

そこで旧陸軍関係者やその後を継ぐ近代史研究家の方々が、「証拠」とされて提示されているひとつひとつの写真や文書について、長い年月をかけてひとうひとつを丁寧に検証し、それらがいずれも嘘やはったりでしかないことを、いちいち証拠だてて冷静に検証し続けてくださったのです。

これはたいへんに時間のかかる作業です。
なんの報酬もない。ただ軍の名誉のため、英霊となられた方々への誠実のため、そしてなにより真実の追究のために、みなさん自腹をきって努力を積み重ね続けてくださいました。

ある方は、毎月の検証会参加のため、遠く九州や大阪、名古屋から、自腹をきって電車に乗り、会議に参加してくださった。
全部自腹です。
交通費も自腹、資料の調査費も自腹、もちろん時給なんてのもありません。
ただただ誠意のために、地道な努力を続けてくださった。

こうした努力の結果が少しずつ蓄積され、発表され、そしてようやく「これ以上南京問題を騒ぐことは逆に中共の信頼を損ねる」という情況にまで、状況が改善されてきました。

先日、おもしろいことを聞いたのですが、
日本人にとって歴史はヒストリー(事実)である。
韓国人にとって歴史はファンタジーである。
支那人にとって歴史はプロパガンタである。
のだそうです。
実に言い得て妙、うまい表現だと思います。

さてこうして、いわゆる南京大虐殺などというものが、でっちあげに他ならず、これまで悪のりして「証拠」だと騒いでいたものが、実は支那人の支那人による支那人へ蛮行であったことがはっきりすると、これはもう、「これ以上騒いだらかえって中共政府のイメージを損ねる」という状況となってきました。

すると最近になって中共や日本国内の左翼が、新たなプロパガンタとしてでっちあげてきたのが、重慶大虐殺です。

重慶爆撃というのは、支那事変において、昭和13(1938)年12月4日から昭和16(1943)年9月日にかけて、日本軍が支那奥地の重慶にある国民党の軍事施設に対して行なった72回の戦略爆撃を指します。

支那側の発表によれば、この爆撃はいわゆる無差別爆撃で、同じく昭和13年12月4日から、日本側の記録にある昭和16年より2年もあとの昭和18(1943)年8月23日まで合計218回行われ、死者は計1万1,800人、家屋損壊1万7,600棟であるとのことです。

日本が戦略爆撃を打ち切っているのに、それでもなお日本から空爆を受けたというのもおかしな話ですが、さらにいえば、この空爆による死者も、支那の発表では、
2000年07月13日
「死亡した2500人の同胞を」
2001年06月06日
「市民1万1889人が死亡、1万4100人が負傷」
2004年07月14日
「被害者は5万人以上で」
と、年々死者の数が増えています。
この調子でいけば、数年を経ずして重慶で30万人死亡説なども出されることでしょう。

亡くなられた人の数というのは、敵であれ味方であれ、亡くなられたおひとりおひとりが、生きていた人間であって、おひとりおひとりにそれぞれの人生があったということを忘れてはなりません。
ひとりひとりに人間としての尊厳を認めるならば、お亡くなりになった人の数は、実際より少なかったら死者への冒涜になるし、多くてもやはり冒涜です。
人を大切に思うなら、数の間違いなんて、あってはならないことです。

その数が、中共の発表では、年々変化する。
これはいったいどういうことでしょうか。
それってつまり、亡くなられたおひとりおひとりの人命を尊重するという考えではなくて、数にモノをいわせて、おのれの政治的主張を押し通そうとする政治的プロパガンタということなのではないでしょうか。

もっといえば、中共や日本の左翼にとっては、おのれの政治的主張こそが大事なのであって、人に人としての尊厳など、カケラほども持ち合わせていないということです。
こんなバカな話があってよいのでしょうか。

さて、重慶爆撃に話を戻します。
この事件は、支那事変の渦中にあった出来事です。
簡単に経緯を述べると、
昭和12(1937)年に第二次上海事件があり、日本はやむなく支那へ出兵を余儀なくされました。
支那国民党は、ドイツの支援を得て上海エリアに約2万カ所のトーチカを築き、60万の兵力を結集して日本軍を待ち受けたのですが、日本陸軍は勇猛精神を発揮し、これらを破り、上海から蒋介石率いる国民党を駆逐します。

上海から追い出された蒋介石一派は、南京市へと逃げ込み、そこで市民を大量に虐殺した上、南京の城塞周辺にやはり多数のトーチカを築いて日本軍を待ち受けます。

やむなく日本は、南京の無辜の民の救出のために、兵を南京へと進ませるのですが、日本軍強しとわかると、南京にいた蒋介石も、南京防衛軍総司令官の唐生智も、自分たちの兵を置き去りにして、そくさくと南京から逃げ出してしまいます。
このためそれまで立派に戦っていた支那兵たちは総崩れになり、南京城北側にある下関門から揚子江に逃げ出した。

ところが唐生智らは、自分たちが逃げ出す際に「味方であるはずの」支那兵から追われないようにと、揚子江から逃げ出すときに、そこにあった大きな船をみんな焼いてしまったのです。
このため、下関口の港には、少数の小船しか残っていなかった。

そこに何万もの支那兵たちが逃げ出そうと殺到したのです。
大混乱が起こり、船に乗り切れなかった者が船のへりにしがみつく。既に乗っている者がそのしがみついた手首を切り落すなどの蛮行が起こり、挙げ句、しがみつく者たちによって船が転覆するなど、考えられないような事態がそこで起こります。

こうして国民党が出て行った後の南京市には、日本軍が入場し、治安を回復し、町に平和が戻り、南京市から非難していた多くの市民が町に戻り、その平和と安定は、大東亜戦争の終戦時まで続きます。

一方、南京を捨てて逃げた蒋介石らは、南京よりもさらに1500キロ奥地にある重慶に落ち延び、そこを制服して、重慶に軍事基地を設けたのです。

ちょっとここで脱線します。
上述のお話の中で、蒋介石は60万の兵力を上海に結集しました。
これら兵員の食料は、いったいどのようにして賄っていたのでしょうか。

また、命からがら南京を逃げ出した蒋介石らは、漢口、重慶と落ち延びますが、さながら落ち武者となって無一文で逃げ出した蒋介石らの軍は、いったい逃げる間、糧食をどのように賄っていたのでしょうか。

時代は異なりますが、三国志の時代、たとえば赤壁の戦いに際して、魏の曹操は呉と戦うため、80万の大軍を赤壁に移動させました。
その大軍が通った後には、草木一本も生えず、村人たちは皆殺しの憂き目に遭っています。
80万の大軍を移動させるに際し、途中にある民間人は、殺され、軍隊に食べられているのです。
それが彼の国の文化であるということです。

話が脱線しました。
ただ、武器を手にした蒋介石ら一派が、逃げる途中で村人を襲い、老人や子供や女性は殺して食べ、男は兵に徴用するということは、彼の国では、ごく当たり前の軍の常識として行なわれていたということは、ひとつしっかりと押さえておきたいと思います。
我々日本人とは、彼らは考え方がまったく違うということは、覚えておきたいことです。

話を戻します。
重慶を制圧し、そこを本拠と定めた蒋介石らは、英米から軍事物資の支援を得て、最新型の高射砲などを用意して、町の防備を固めます。

一方日本は、地上軍による重慶の攻略を計画するのだけれど、重慶が天然の要害の地である事、なにぶん重慶が遠隔地であり、兵站の補給の問題(日本はちゃんと米の飯を内地から送っているのです)等から、重慶への地上部隊の派遣をあきらめます。
そしてその代わり、「航空侵攻により敵の戦略中枢に攻撃を加える」こととしました。

こうして行なわれたのが、日本の陸海軍による重慶空爆です。
この重慶空爆の体験記として、山本七平の「ある異常体験者の偏見」に、次の記述があります。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜
(日本軍)の欠陥兵器を次々にあげていけば際限ないが、あまり長くなるのでこの章の最初に述べたAさん、陸軍の重爆隊の生き残り、の言葉を収録し、それを敷衍してこの稿を終わろう。
「新聞に出なかったけれどなぁ、重慶・昆明の爆撃はひどかったよ。日本の高射砲は絶対に当たらネーが、中国のは米国製でなぁ、よく当たりやがるんだ。一回行けば八機は落とされた。重爆ってのは九人乗ってたんだぜ、そのたびになぁ、8×9=72人 の遺骨無き部隊葬よ」
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

当時の日本の空爆隊のパイロットというのは、特によく訓練された精鋭です。
一方日本には、爆弾そのものも、数作れるだけの経済力はありません。
ですから投下する爆弾も、米国が日本やベトナムを空爆したときのような、航空機からまるで下痢便を垂れ流すように爆弾を投下し、絨毯爆撃するような派手な爆撃などできない。
一撃必殺で、ピンポイントで空爆をし、帰投するという作戦を実施しました。
実に見事な作戦ですが、それでも米国製の高性能高射砲で、多くの英霊が犠牲となったのです。

けれど、このピンポイント空爆の結果、蒋介石軍は大東亜戦争開戦前には、一時的にせよ戦争遂行能力がなくなるまでに追い込まれています。
そのことは、他の誰でもない、蒋介石自身が日記で、「戦争を単独で遂行することができないまでに追い込まれた」と書いています。

この重慶爆撃について、中共が日本軍による無差別爆撃の蛮行の証拠としている写真がいくつかあります。
下の写真はその中の1枚で、防空壕に戻ろうとして踏みつけられたり窒息したりして死亡した人々の写真で、昭和16(1941)年6月5日のものなのだそうです。

非常に不思議な写真です。
防空壕に逃げようとしていた人々といいながら、何故この写真に写っているのは女性と子供ばかりなのでしょうか。
しかもなぜ、空爆から逃げようとする人々が、下半身ハダカになっているのでしょうか。
上着を胸までまくられた遺体もあります。
どうしてこのような姿になったのでしょうか。
すくなくとも、日本軍は、重慶に地上部隊を派遣していません。

また、後ろに写っている民家は、まるで無傷のようですが、空爆の被災地なのに、どうして木造民家が無傷なのでしょうか。
これが重慶における日本軍の空爆被害写真というなら、実に不思議、不思議な写真です。
私にはむしろ、支那国民党が支那の市民に対して行なった略奪と暴行、殺人の写真にしか見えません。

重慶空爆の被害写真といわれているもの


ひとつだけはっきりと言えることがあります。
蒋介石一味は、米英の援蒋ルートによって、武器や弾薬等だけは、極めて豊富に持っていた、という事実です。
蒋介石は、日本が重慶空爆を打ち切ったあと、日をおかずして自軍の規模を数十万の大軍に膨れ上がらせています。

武器はあるけれど、カネと食い物がない。
当時の蒋介石軍は、法と秩序を持った国家ではありません。あくまでもただの支那軍閥です。

彼らは、どうやって、食い物を調達し、兵を養ったのでしょうか。
蒋介石一派によって、武器を持たない民間人は、女子供を強姦され、殺され、抵抗する男は全員皆殺しに遭いました。
上海しかり、南京しかり、漢口しかり、そして重慶しかりです。

武器の前に言うことを聞く男は、兵として徴発されました。
逆らえば即、死です。
そして暴行され、殺害された死体は、他の兵の食料となっていました。
殺されて、食べられたくなければ、言うことを聞いて国民党軍になるしかなかった。

実際に、重慶で起こった出来事を整理すると、次のようになります。

1 蒋介石率いる国民党軍閥の暴れ者たちが、ある日突然重慶市を遅い、市を占領した。
2 その重慶で、国民党軍は、略奪の限りを尽くし、婦女を強姦し、殺害し、男は兵として強制的に徴発した。
3 日本は重慶への歩兵の進出を企図するが、同地が支那の奥地であり、兵站に問題があることから、同市への空爆を行なった。
4 日本軍による空爆は、ピンポイントで蒋介石軍の軍事施設を狙ったものだった。
5 爆撃の正確を期すために、日本軍は低空からの軍事施設への爆撃を行なったが、このため、蒋介石軍が米英より受け取った高射砲によって甚大な被害を被った。
6 しかし同時に、重慶市に立て篭る蒋介石軍も、軍の体をなさないほど、壊滅的な被害を被った。
7 日本が重慶空爆を停止させると、そのあとわずか数ヶ月で蒋介石軍は、数十万の大兵力を築いている。
  (その兵力をどうやって徴兵したかは、想像に難くない)

もう少し述べます。
いま、重慶空爆について、これを日本軍による無差別爆撃だと、支那共産党政府と、これに従う日本の一部の極左勢力が主張しています。

この点について、6つの点から反論を述べておこうと思います。
この反論は、東近研の落合道夫さんからいただいたものです。

(1) 開戦責任
重慶空爆だの南京虐殺だのと主張する前に、まず支那事変を始めたのは誰かを考えなければならない。
これは台湾の元国民党の高官が言っているように、蒋介石が始めたことは隠しようがない事実です。

すなわち、盧溝橋事件、通州日本人大虐殺事件の翌月、昭和12(1937)8月13日に、蒋介石は5万の大軍をもって上海にいた日本人居留民を襲っています。
これが当時上海事変と言われた支那事変の始まりです。

(2) 無差別上海爆撃
翌8月14日には、蒋介石軍機が上海を無差別爆撃しています。
蒋介石軍は、日本の巡洋艦「出雲」や米国巡洋艦「オーガスタ」を攻撃し、米国人水兵が死亡しています。
さらに蒋介石の爆撃機は、上海の国際租界を爆撃しました。
このため支那人が一千人も死亡しています。

このときの爆撃で、パレスホテルに泊っていた後のライシャワー大使の令兄が爆死したのは有名な話です。
都市への無差別爆撃は、支那側が世界に先駆けて始めたものです。

(3) 無差別南京爆撃
さらに昭和12(1937)12月13日に日本軍が南京を占領すると、蒋介石軍機が南京を爆撃し、多数の支那人を殺しています。
日本陸軍空軍が反撃し、三分の一を撃墜すると、撃墜した飛行機に乗っていたパイロットは、ソ連人でした。
日本は、このとき「敵はソ連だったのか」とたいへんに驚いています。

(4) 講和拒否責任
日本は支那事変の当初から、蒋介石に講和を提案しています。
けれど蒋介石は日本の手の内をみるだけで講和を拒否しました。
これには西安事件以後裏で蒋介石を操っていたスターリンの意向があったといわれています。
そこで日本はやむなく、圧力をかけるべく重慶を爆撃したのです。

(5) 蒋介石の戦争責任
以上から支那事変を始めたのも、都市への無差別爆撃を始めたのも、蒋介石であることがはっきりわかります。
自分たちが無差別爆撃をやっておいて、日本がやったと騒ぐのは、お門違いというものです。

(6) 中共について
いま、中共政府が重慶爆撃について日本を非難していますが、中共は、戦後の大躍進運動の中で四千万人、文革で二千万人、その他で二千万人、合計八千万人も、同じ支那人を殺しています。

そのような中共に、ハーグ陸戦条約を厳守して戦った帝国軍人がシノゴノ言われる筋合いは、まったくない、ということを、この場で明確に宣言させていただきたいと思います。


実はいま中共は、内部崩壊の危機にあります。
当然のことです。
人口の一割にも満たない支那共産党幹部が好き放題に国家を壟断し、贅沢三昧な暮らしをする一方で、それ以外の支那人は、まるで搾取の対照となり、人としてさえも扱われないという歪んだ国家なのです。

そしてこの内部崩壊阻止のために、さかんに行なわれているのが、対日工作であるといわれています。

これは彼らにとって、3つの大きなメリットがあります。
1 支那国内の不満を日本に逸らすことで政権の安定を得ることができる
2 日本を弱体化させることで、日本の尖閣領海の資源を横取りすることができる
3 日本を弱らせることで日本の技術を支那に呼び寄せ、支那の経済的利益を拡大できる。

そしてそのための工作資金は、なんと日本から出ています。
日本人が、日本を崩壊させ、経済も文化も貞操までも支那に奪われ、日本人自身が貧困に追い込まれるために、日本のカネが使われているのです。

一部の人は、それによってメリットを得ます。
けれど、大多数の日本人は、それによって酷い生活を余儀なくされます。

「ひとりを生かせなくて、なんのための政治か」などと気取る政治家をたまに見かけますが、とんでもない話です。
政治は、大多数の幸福のために、ときには小を犠牲にする、言い換えれば最小限の犠牲で最大の幸福を国民にもたらすのが政治というものです。
勘違いもはなはだしい。

南京が、どうやら分が悪いとみたせいか、昨今では重慶大虐殺などというホラ話を支那共産党は仕掛けてきていますが、その仕掛けの裏には、中共と手を組んだサヨクの暗躍があります。

もはやサヨクは日本にいらない、いまのままサヨクを続けたいなら、さっさと国外に出て行け!
私は、そう申し上げたいのです。



第二次上海事変における中国人による日本人捕虜の残虐処刑 (1996 CNN)

ここYouTubeあり

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