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「偽善」について考える会コミュのはじめまして

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はじめまして。
面白い指摘があったので参加させていただきました。
偽善行為。確かにありますね。しかし、この場合の偽善行為である事が何を意味するのでしょうか。
偽善は悪いことなのでしょうか。
事実、とても大きな会社がイメージ戦略の為に援助資金を寄付という形で出す事があります。しかし、その企業が大きいからこそ貧困があるという風にも考える事ができます。
例えば、大きな企業が持っているお金の1%を寄付したとします。そして個人が1%のそれを寄付します。同じ1%なら偽善であろうと無かろうと大した違いはありません。あるのは企業側が大きいがゆえに寄付金が多いということです。儲けが大きいということはその分貧困に加担というか関わっている度合いも大きいのです。ですから、援助額はここでは問題ではないと思うのです。

偽善・・。
うーん。
偽善というのはむしろ現地の状況も知らずに援助しようとする事にあるのではないでしょうか。
偽善とはなんでしょうか。
偽善=自分に適用しない事を他人に押し付ける事と思っています。そう考えると自分たちは貧困ではなく彼らが貧困で状況にする、またはそう考える事が偽善ではないでしょうか。事実、僕たちの国もテロに怯え、仕事に追われ、自殺者が多く、精神病者が多く、虐待もあり・・・と貧困の要素はたくさんあります。

つまり、彼らだけが貧しいと思うこと自体が偽善なのです。彼らから援助を受ける形もあると思います。
この偽善は確かに考えものではないでしょうか。
この偽善は価値観を一つにし、多様性は全くなくなります。
また、それぞれの貧困はさらに深刻になるでしょう。

どうですか。よければ議論を深めてみたいのですが・・。



コメント(36)

はじめまして。

なかなか興味深いコミュニティだと思いました。

『偽善ボランティア』をどういう風にとらえるか、にもかかわりますね。

外国などでは特に盛んなセレブのステイタスとしてチャリティ活動を行う、なんてのは、ただの売名行為、自らのセレブ意識の裏づけとも取れるものはあります。

ただ。
お金持ちや、有名な人が行うことは、無名の一市民である私がチャリティをするよりもはるかに大きな効果を期待出来るわけです。

私自身はボランティア、チャリティは出来る人が出来る範囲で普通にやって当然のことだという意識があるので、ことさらに
『俺・私はこれだけやっている』と吹聴するのは好きではありません。

以前ローカルCMかもしれませんが、エレベーターのCMでボタンに手の届かない車椅子の人の替りに押してあげたシーンのコピーで、『指一本で出来るボランティア』というものがありました。非常に感銘、納得した覚えがありました。
それくらい、ボランティアというのはごく身近日常的に出来るものなのです。
大上段に構えてエラソウに自慢するものではないと思います。

でも。相反するようなのですが。

危険地域に行き、何万もするカメラで写真を撮ってくる。その人がその旅費・カメラ費用をチャリティに回せばたくさんの今苦しんでいる人は救える。
いくらかかったのかがわかれば、何人の人間を救える、とかもはっきりします。

でも、その人が自分の自慢的ボランティアを吹聴したくてブログとか作ったとする。

そうしたら、もっと大勢の人の目に触れ、影響された人がもっともっとたくさん出てくる可能性がある。

今すぐでなくても、何日もたって街角で難民の為に募金を募っているのをみかけた時にいつもは素通りしていたけれど、今日は素通りせず、募金するかもしれない。

音楽によるチャリティが一番如実なのではないでしょうか。
バンドエイド的コンサートに出演するアーティストが通常のギャランティ相当額をチャリティに回すよりも、バンドエイドで集まった金額の方がはるかに多い。
動機が純粋でなくても影響がそれを上回ることがあるなら、それは『偽善』と非難されるべきものなのか、という疑問が私にはあるのです。

ボランティアもチャリティも何にも特別なものじゃない。

大事なのは、動機というよりも、まずは関心の有無ではないかという気がします。
先日アメリカに行く機会がありました。

どこのお店でも(使途がちゃんとしているかどうかは不明としても)レジに募金箱があり、お釣りを入れていく人をたくさん見かけました。
日常的にごく普通にやる、これが定着することが肝要かと思います。そして日本はその点後進国過ぎると思います。

そして、ボランティア・チャリティだからといって、殊更にストイックにする必要も無いと思います。日常生活に密着するべきことなんですから。
思いつめてチャリティしなくても、自分も楽しい・人の助けにもなる、なら最高だと思います。
初めまして

これは私の個人的な意見ですが、

「偽善」だろうとなんだろうと

寄付してるなら人は素晴らしいと思いますよ。

それで助かってる、救われている人が

いる事に変わりないのですからね。

ただ、「偽善」という言葉が独り歩きして

寄付は「偽善」だからカッコ悪いみたいな風潮が

あるのが嫌いです。

そんな事、考えてる暇があれば寄付して欲しいですよね。

どんな思惑があろうとも、寄付をしてる人は

器の大きな人だと思います。
寄付やボランティアは確かにそれをした時点で誰かの役に立っています。

しかし、それらを隠れ蓑にして実はその誰かから多種にわたり多大な利益を得ている場合があるのではないでしょうか。

寄付やボランティアが悪用される場合があるのではないでしょうか。

なので、そのようなやり方で儲けている人たちは偽善者そのもののような気がします。
こんばんわ。
私もユニセフの「マンスリー・サポート」をやっています。
実際に体を使ったボランティアをしていることはほとんどありませんが、出来るのなら寄付という形でも継続的にしたいと思っているからです。

>こういうことが出来ないゆえに自分は”偽善者”だと思ってるわけですが。

私は同等と考えています。
何故なら現地に行き、時間と労力を費やしてボランティアをすることは誰にでも出来ることではありません。乳飲み子をかかえていては(私はかかえてませんが)被災地に行ってボランティアは出来なくても、買物のつり銭を財布にしまわずにチャリティに回すことは誰にでも出来る『可能性』としてあると思うからです。
ボランティアは前にも書いたとおり、普通に密着してしかるべきものだと思うので、環境の悪いところに実際に行って活動している方々はとても素晴らしいとは思えど、それをしない自分を『偽善者』と考える必要も又無いと思うのです。
私はコンビニなどにある募金箱を見ると、小さいおつりは毎回全ていれちゃいます。でも・・・入れる時にも、日常の中でも世界中で起きている貧困を強く意識したりはしてないかも・・・ただ、「困ってる人がいる」→「私なりに出来る事がある」→「だからその出来る事を日常の中に取り入れて実行する」 それだけと言われればそれだけ、、か。

自分のやっている事には誇りを持っているし、それを必要としている人たちの為に誠意を持って実行しています。
「偽善者・・・」 言われたら心地よくないですね。自分のやっている事に対しあまりにもひどい評価・・・やる気も沈んで行きます
 ーこう捉えてみるのは如何でしょう?
(出来る事から少しずつ)個々の可能な範囲内で献金やボランティアを行っている人々、売名行為や自己満足などと言った視点から行動を起こしている人。。。様々な理由があるにせよ、それぞれが一つの事に意識を持ってやっている、そしてそれらを必要としている人々が存在するという状況。 「偽善者」などとそう過小評価せずに、もっと大きな心で見守ってあげても良いのではないでしょうか? いい事をしている人には尊敬の意を示すという心の大きさを周囲が持ち、それらを話し自らもっと周囲に広めて行くと言う相乗効果が大切だと思うんです。ポジティブに捉えて行く・・・

人が人を評価するという行為は余り私には性が合いませんが、なにしろこのご時世、そんな時には優しさをもって行きたいものです。 おかしな行動には否定や拒否では無く、相手に対し自分なりの誠意を持って接して生きたいものです。 否定されたら否定しかされませんし・・・互いが心地よく受け入れられる糸口を見つけて行ける為に日々心がけていきたいものです。
僕が言う偽善というのは、ボランティアをする、しない、寄付をする、しない、ということではなく、1000億儲けている会社は一体どこからその1000億を儲けたのか、というところにあると考えています。

例えば、GAPという有名なアメリカのメーカーがあります。
そのメーカーはすごくお金を持っていて、そしてイメージの為に途上国に寄付したとします。
でもそのメーカーの儲けの裏には途上国の人々の労働があるとします。安い賃金で途上国の人たちを雇って、それでアメリカや日本などの経済先進国でそれを売って儲けているわけです。
そうしたら、そのイメージのための寄付金は、偽善でしかないと僕は思います。

僕達の経済的な裕福さは富の不均等の上に成り立っています。
その意味で僕達とGAPはほとんど違いはないでしょう。
しかし、そのように考えるなら途上国に対して何らかのアプローチをする人たちはすべて偽善者で、何もしないでいる人たちは偽善者ではないでしょう。
その場合は偽善者という言葉は良い意味で定義づけされると思います。
はじめまして。

ホワイトバンドのCMで、有名人が指をパッチンパッチンやるの、うるさくて仕方ありません。というより、あの深刻そうな顔が一番嫌です。ま、キャンペーンなので仕方ありませんが。

たとえ偽善でも、すればしただけ良いとは思います。その分だけその人たちの為になるのだから。だから現地に赴いて活動してる人は偉いと思います。自慢したって別にかまいません。それがきっかけで活動が広がったとか、そういう結果オーライ的なのでも別にいいです。ただ、自分の言動が所詮は偽善であることを自覚していない人、認めない人が嫌なんです。

どんなに「貧困問題について真剣に考えている」と言っても、ならば小遣いを全て寄付して、自分は現地に赴いて何らかの活動して・・・なんて人はまずいないわけで(マザーテレサくらい?)、あれこれ頑張って活動してる人でも、どこかで「自分の分は確保、ここまでなら許せる」という線引きをしてるんです。服やらCDやら買う金があったら、ユニセフに寄付でもしたらどうなんですかね?

だから、もう偽善だと割り切って欲しいです。「俺は裕福な国に生まれて幸せだよ。アフリカの一部の地域みたいな所に生まれなくて本当に良かった。だけどほら、世間体とか色々あるし、余った金で寄付でもしてやるよ。はっはっは」位の態度でいてくれると、スッキリするんですけどね。
貧困問題などに関して、眉間にしわ寄せて語られても困るんですよ。「俺は別に飢えたりしてないから、そんな顔して喋らなくても良いよ」と言いたくなります。現地ならまだしも、ここは日本なのだから、鼻歌でも笑いながら募金箱に小銭でも突っ込めばいいんです。散々贅沢しておいて、都合のいいときだけマジ顔、勘弁してください。

長々とすいません。極端な表現が多くて誤解を招きかねませんが、自分の意見としては大体こんな感じです。そもそも「善」「偽善」って何よ?っていう、哲学的な話もありますし・・・。でも、この一件について考えてから、「飯がまずい」とか口が裂けても言えなくなりました。というか、あんまりまずく感じなくなったんですけど。

P.S.モリゾーさんの仰るニュアンスで偽善と言った場合、自分は「偽善」ではなく「悪」と呼びます(笑
辞書的にはそういう意味らしいんですが、一般的には少し意味がずれてるみたいですね。(このコミュとか)
こんにちわ。

募金や人助けって与える側の気持ちとかよりも行為自体が大切かと思います。目的どうこうよりも、とりあえず行動。

偽善はプラスであることはあってもマイナスではないので、その行為自体は評価するべき。
ジンジャーさん>僕も「悪」と呼びますねw
一般に違う意味で使われているのでは・・ということはよく思います。
僕の中での偽善の定義に照らすのであれば、GAPは「悪」と呼ばれる偽善者であり、なんらかのアプローチをする人たちは「偽善者」と呼ばれる偽善者である気がします。
その違いは搾取に関わっているのが直接的か間接的かということに尽きる気がするのですが、先進諸国の一般的な消費者が消費するもので選択の余地がない場合があり、そのため搾取というものに間接的に関わっていることがあります。

例えば、私達の着ている服はほとんど東南アジア、特に中国の低賃金労働によってできています。本当に搾取に関わりたくないのなら大抵の服は買えないでしょう。べらぼうに高い服を買わないといけなくなります。
そんなことは無意味で無駄であるため中国製の服を着つつも途上国に対してアプローチをする。
見た目偽善ですが、良い意味で偽善です。

一方GAPは直接的に搾取しています。安く品物を作り、莫大な利益を得る。そしてその利益の1部を寄付する。
ああ、かわいそうだ、という感じで。
かわいそうにしているのは、GAPさん自信であり、本当にそう思うのなら、それ相応の賃金を払うべきです。この偽善ぶりは「悪」と呼べる気がします。
そして、その寄付はそのGAPの行為を見事に薄めています。

ですから、その偽善行為は多くの搾取を見えなくする効果があるという意味でマイナスになり得ると思うのですが・・・。ゲルさん。どうでしょう。
>モリゾーさん
うーん、なんか言葉の問題になってきちゃいましたね。でも内容に関しては概ね同意です。
間接的に・・・と考えると毎日が罪悪感の連続になりそうなので、あんまり考えないことにします(経済の話ニガテだし^^;)
>ジンジャーさん
そうですね。
僕も間接的に・・・と常に気にして生きていってません。
生活できなくなりますからw
はじめまして^^

私自身、自分のホームページでも公開しているのですが
「永遠の偽善者」を自らの人生のテーマとしております。

このコミュを発見して
とりあえず参加せねば。。。となりました。

細かい話は
私の松下政経塾ホームページの論文にも書いてありますが、
とにかく「善人」になりきれない私は
「善人のふり」をしつづけよう、と
あるとき心に決めました。
周りの評価とかどうこう関係なく
自分はこうすることがいいと思うことを
行動していって
それが「偽善」だとしても一生続ければ
善にかぎりなくちかずくかなと
感じています。

昨年はアフリカでエイズのプロジェクトを
立ち上げました。
自分が残したものよりも
現地の方々とともに「生きた」という実感だけは
嘘ではないと感じました。

うまくいえないけど
偽善とか善とか理屈ではなく
その場でお互いが、そして
多くの人が幸せになれる道を行動しながら
探していくことが大事だと思う。
こんにちは。はじめまして。

数週間前からこのコミュに入っていて、何度かコメントしようと思ったのですが、なかなか機会がなくてできませんでした。

》ジンジャーさん
どんなに「貧困問題について真剣に考えている」と言っても、ならば小遣いを全て寄付して、自分は現地に赴いて何らかの活動して・・・なんて人はまずいないわけで(マザーテレサくらい?)、

そんなことはありません。僕もそれくらいやりました。4年働いて貯めたお金の半分ほどを使ってNGOで働きました。知人にもっと激しい人は何人もいます。何故こんなことができるか、考えてください。

》潤a.k.aスティッチさん
僕はあなたのような人のこと、偽善者だとは思わないですね。自分の成長の跡をネガティブな言葉で表したらもったいないじゃないですか。むしろ ふくちゃん@徒歩ダーさんのような姿勢こそ好感が持てます。

一応、僕自身の立場を表明しておきますが、まがいなりにNGOスタッフで、NGO批判をしつつ文化人類学を専攻している学生でもあります。

僕自身、とても「偽善」ということで悩んだことがありますが、あるときふと気づいたことがあるんです。まず、善の行いの後、なんらかの見返りを期待するのが「偽善」と呼ばれるものと理解しています。さらに見返りがお金という目に見える価値の場合は、ビジネスとか言われるのに、目に見えない価値の場合が「偽善」になる、こんなところでしょうか。

この前提に立って、「偽善」的な人を表すと、無償ボランティアをやっている人に第三者が期待する内面的心理、こんなふうに表されるでしょうか?

先日、ある大学に呼ばれて講義をしてきましたが、最後に結論づけたのがこういうことです。「NGOが怪しく見えるのは、参加者が自分たちが善行をしていると盲信しているためだ」。これは、前に述べた内面的な問題なのですが、時に表に出てきてしまうのです。例えば、NGOでは保守思想に対する排他性、反政府性などに顕著に表れてきます。言い換えると、非政府を反政府としてしか捉えられなかったり、保守思想を反リベラルとしか理解できなかったりするようです。デモをやったり、プロパガンダを流したりするような、正に「内面的善行=偽善」の発露は時にとんでもない行動を引き起こします。

私見ですが、まず学ぶこと、「偽善」を議論することから脱却する一番の近道だと思います。偉そうですが、ここで成されている「偽善」の議論は、想像上に成り立っているものだと感じます。まずは、「偽善」者と呼んでいる人のことをもっとよく見ること、彼(女)たちの問題意識はなんなのか、何を見いだしているのか、ということを見てから判断すべきことではないでしょうか?
潤a.k.aスティッチさん

》「偽善」とか「善」とかいうことを突き詰めていくと哲学

というところまでは賛同します。「善」に関する議論はすでに18世紀には成されていて、NGOとかボランティアという考え方がこの時代の考え方に立脚していますから。だから、頭でも考えないとダメだと思います。多分今NGOに関わっているほとんどの人達は、必ず「自己満足」とか「偽善」とか自分の内面での葛藤を経ています。それで、保留したり、ずっとこのことを考えながら何年も活動しているはずです。

ボランティアとかNGOというのは必ず対象となる「人」がいるはずで、もし「自分が豊かなになれるモノ」が「自分『だけ』」だった場合、それこそ「偽善」なのではないですか?第三者にも分かってもらえなければ、潤a.k.aスティッチさんが持っている問題点を共有出来ないのではないでしょうか?

難しいことは分からないけど、自分はやりたいようにやる。これでもいいのですが、人間との関係を豊かさの指標の一つにするならば、やっぱり説明できた方が良いと思うんですがどうでしょう?

もし謙虚な気持ちでいられるのでしたら、なおのこと「学ぶ」(何故この人がこうなっているのか、とか、この問題の背景には何があるのだろうとかいうことで、学問ということに限らず)ことをおろそかにしないでいてほしいと思いますが…
偽善とはなにか?というのは非常に難しいですが、「本当に役に立つのか?逆に危害や損害を与えていないか?」考えるのは重要かと思います。
私は最近、黒柳徹子さんの「トットちゃんとトットちゃんたち」という本を読ませていただきました。

非常に深く考えさせられる内容でした。

平和ボケしてる日本人や、私達のような年代に、沢山読んでもらいたいと思いました。
でも絶対に同情してはいけないと思う。
偽善でもなく、奇麗事でもなく、今何をしたらいいのか考えなければなりませんね。
モリゾーさんの言っていることに共感します。
今私たちが住む社会は、物であふれかえっていて、物質的にはとても豊かです。でもそれは、途上国の低賃金・労働環境の規制の低くさを利用して、莫大な利益を得ているからです。こんなにも物が溢れかえっている社会がある一方で、食べるものもろくになく、小さい頃からずっと働き続けているのに生きていくための最低限のものしか手に入れることの出来ない人々、それもできずに死んでいく人々がたくさんいます。この状態を維持しているのは、現在の経済システムであり、私たちの住む豊かな国の大企業たちだと思います。彼らが寄付することは、この事実を和らげ、私たち豊かな国の人々を安心させるためだと思います。「偽善」ということについては良く分からないですが、寄付でよい行いをしているというイメージが、その裏にある見逃してはならない事実を覆い隠しているようではそれはまずいと思います。
そしてちょっと違いますが、わたしは本当に必要なものだけを購入し、それに対する正当な支払いを出来たらいいなと考えています。何でこんなに安いの?なんでこんな大量にあるの?明らかに途上国の人を搾取しなければ作れないでしょ?という感じのものを買わないようにしています。でもスタバやマックはたまに利用してしまいます。GAPもNIKEも買ってしまいます。ディズニーも好きと思ってしまいます。これが偽善というものでしょうか?
言葉足らずで意味不明ですみません。。。
はじめまして、ボランティアが偽善化される
現代の風潮が嫌でたまらない者です。

無いようでよくあるパターンとしては、
JTの悪事をごまかす為の清掃ボランティア、
学校のいじめ問題などをごまかす為のボランティア。

ボランティア行為そのものが悪いわけじゃなかったはずです。
しかし、虚栄心に溺れたボランティア行為や、
それを巧みに利用する悪人があとを立たない現実が、
偽善というのを肥大化させ、実質的な損害も
膨大にしてきました。いわゆる「臭いものに蓋」理論です。

事実、隠蔽体質の学校環境のせいで、
いじめ等の散々な思いをして、
今もうつ病などを引きずる損害を被ったものとして、
このような偽善を絶対に許すことが出来ません。

安易な善意が多くの命を奪う現実を知って欲しい。
目が届きにくく、原因が分かりにくい形でです。
だからこそ、いじめ自殺が後を立たない現実が、
聞くたびにつらくなる日々なのですから。

そういう私ですが、よろしくお願いします。
はじめまして
まず
>「難民」=「アフリカの黒人たち」って多くの人が決め付けてる。
私は多くの人が決め付けてるとは思いません。

「難民」=地震や洪水、ハリケーンの被災者とか、宗教や民族間の争いで住む場所を奪われた人たちなどのことを思う人など、いろいろいると思います。

>また「困っている人を救いたい」と言ってるにもかかわらず、新潟県で地震が発生した際には、テレビでただ傍観し、募金活動の前をただ素通りし、全く興味を見せない方々は本気で人を救う気があるのかと疑問に思うことがあります。
とありますが「ただ傍観しや、ただ素通りし、全く興味を見せない」ってのはかなり主観的だと思います。具体的なことはわかりませんし、その人の事はしりませんが、「困っている人を救いたい」とう気持ちはあっても、その募金活動をしてる団体があやしい団体かもしれないと判断して素通りしたのかもしれません。それがあなたの目には「全く興味がない」ように見えたのかもしれません。

向こうで写真を撮ったり、遊んだり、本を読んだりする人の多くは本心から救いたいのではなく「自分に酔ってる」とおっしゃってますが、確かにそういう人も多少はいると思いますが、大半はそんなことはないと思います。「偽善」でわざわざ難民キャンプや被災地にまで自ら出向かないと思います。私はそういう人達を「自分に酔ってる」というより善が浅いと思っています。善を偽ってるとは思いません。

写真を撮って見せたりするのは現地のことを多くの人に知ってもらおうとしてるんじゃないでしょうか?

遊んだり、写真を撮るだけに行ってる方や団体は「偽善」と思われても仕方ないのかなと思いますが、それだけではなくお金や物資を寄付して、向こうの人と遊んだり、それを写真に撮ったり、するのは、私は偽善だと思いません。

「善が浅かったり、善の行為があまり効果的な結果を生み出さなかった場合」のことと、「善を偽ってたり、悪を自覚してる善」をひっくるめて「偽善」というのは間違ってると思います。

間違ってるかもしれませんが自分なりに「偽善」を考えてみました

長くなりましたがこのへんで。
なかなかいいコミュニティを発見いたしましたので参加させていただきます。

ぼくは、ベトナムを10年間追い続けるフォトジャーナリストです。
ベトナムを追い続けていて思うことは、ただただ偽善行為をしている日本人が多すぎるということ。

大手のNGO、国際援助団体をはじめ、ちいさなNGOやボランティア団体に至るまで。
悲しすぎます。

ここでサンプルをあげることはよしますが、一番問題なのは、「善意」と思ってやっていることが、周りから見れば「偽善」なことです。

もっと身近なところから考えた方がいいと思います。
初めまして。
東南アジア系か沖縄県民に思われる愛知生まれの島根県民です(笑)
宜しくお願いします。

私は近所の親友に2年半に渡って騙されて
8桁の私にとって大金を詐取されました。
欲に目が眩んだのが原因です。
儲け話を持ち掛けられた時に断るというのもひとつの方法です。
長い人生、乗ってみたくなる儲け話もあることでしょう。
その時には持ち掛けた相手にそれ相応の具体的な利益があるか
を慎重に見極める必要があります。
義理・人情は当てになりません。

不安定な時代にひとつの収入源しかないのは危険だと考えています。
複数の収入源を持つ事が必要と考えています。

将来、資産の半分を寄付する事に決めています。
出来るだけ早く財団を設立して
貧困救済・環境保護・世界平和に貢献できれば幸せです。



あなたの中の最良のものを

人は不合理、非論理、利己的です
気にすることなく、人を愛しなさい

あなたが善を行うと利己的な目的で
それをしたと言われるでしょう
気にすることなく、善を行いなさい

目的を達成しようとするとき、
邪魔立てする人に出会うでしょう
気にすることなく、やり遂げなさい
 
善い行いをしても、おそらく
次の日には忘れられるでしょう
気にすることなく、し続けなさい
 
あなたの正直さと誠実さとが、
あなたを傷つけるでしょう
気にすることなく正直で、誠実であり続けなさい

あなたが作り上げたものが、
壊されるでしょう
気にすることなく、作り続けなさい
 
助けた相手から、
恩知らずの仕打ちを受けるでしょう、
気にすることなく、助け続けなさい
 
あなたの中の最良のものを、
世に与えなさい
けり返されるかもしれません
でも、気にすることなく、最良のものを与え続けなさい

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