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銅鐸コミュの銅鐸と水(神)

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2007年12月24日 12:01、「銅鐸談話室」の中で、オモイカネさんが次のような発言をされました。
********************************************************
昨日日記に「銅鐸と水」について、取り上げました。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=662032674&owner_id=14042810
どどんたくさんのリクにお答えして談話室で意見交換しませんか?

銅鐸談話室開設時(07/11/8)にも「銅鐸と水」取り上げましたが
その後、金属成分や鉛同位体比の方に話題が行ってしまいましたからね。
「銅鐸と水」については
正直皆さんあまり関心がないんじゃないかと思ってました…

「銅鐸は何故埋められたのか…?」
コミュの皆さんのご意見お聞かせください
********************************************************
これを受けて、この「銅鐸コミュニティ」の中で、「銅鐸と水(神)」をメインテーマにしたトピをたてることにしました。
みなさん奮って参加してください。

コメント(34)

「銅鐸」と「水」とを関係づけて考えるというのは、一つの面白い考え方だと思います。

そもそも「水」というのは、我々にとって必要不可欠なものでありますから、「銅鐸」があるかないかに拘わらず大事にされ、何らかの形で「水」のマツリが行われて当然でありましょう。

以前@niftyで、韃靼人さんが沖縄における「水」の問題を論じておられたように思いますが、小さな島では暫く雨が降らなければ水源の水が枯渇してしまうだけに、「水」というのは生命にかかわるまことに切実で大事な問題であります。

このように本来「水」というものは大事なものでありますから、そこにもしマツリの道具として「銅鐸」というものが出現したならば、「銅鐸」と「水」とが何らかの形で結びついても不思議ではないでしょう。

私の場合は、「銅鐸」と「雷」とを結びつけて考えています。
神様が鳴るのが「カミナリ」であります。
すなわち、「雷」は神様であります。
「雷」はピカピカと閃き、ゴロゴロと鳴り響く恐ろしい神様でありますが、同時に雨を降らせ水をもたらす有り難い神様であります。
この神様を祀る道具として「銅鐸」が使われたと私は考えています。

すなわち私の場合には、「銅鐸」―「雷」―「水」という形で、「雷」と「水」とが結びつくと考えています。

どどんたくさん

トピ立てありがとうございます。
レス遅れて申し訳ありません。

いきなり「雷」ですか〜あせあせ
どどんたくさん持説の「銅鐸と雷神信仰」ですね。

A:銅鐸は雷と関係がある
B:雷は雨を降らせ水をもたらす有り難い神様
C:水というものは大事なもの。水のマツリが行われて当然
D:マツリの道具として銅鐸が出現したならば、銅鐸と水とが結びついても不思議ではない
E:雷は水をもたらす神様だから
F:銅鐸と雷は関係がある

これって循環論法になってませんか?
前提となっている「銅鐸と雷は関係がある」というところを
もう少し詳しく教えていただけませんか?
(コミュの皆さんはどどんたくさんの説を詳しく知らないと思いますので…)
おひさしぶりで、浦島状態ですが、

最近発見したこと。

小牧市の外山神社出土銅鐸あたり。

この出土地近辺は現在も深井戸の水源地です。
すぐそばに、外山水源地なんてのも現在あります。

この斜面から、てっきり「川」を眺めていたのかと思っていたが、
水源だったんだ。。。
水神説、機会があればおいおい。。。(笑

大野勝美さんの本のP250〜
雨乞い祭器説の一文はまた面白く、
?の美良布神社の話は、愛知の神領出土銅鐸と同じ部類でどうして
同時に掲載されていないのかという疑問すら感じる。
さらに地名地でいうならば、
竜王という山関連の地名が銅鐸出土地近辺に多いのは、、、
という個人的な感じもしています。

近世にそう呼ばれるようになったのか、
古い時代から、ようよばれていたのか。

まだまだ、修行が、必要か!!
ペギラさん

>この出土地近辺は現在も深井戸の水源地です。
>
最近、銅鐸出土地と湧水地の関係を追っかけていて知ったのですが、

神戸市東灘区の阪神御影駅前に「澤の井(さわのい)」と呼ばれる湧水があり、
http://homepage1.nifty.com/ishiyagawa/sawanoi.htm
神功皇后の伝説もある霊泉なのですが、
実はこの御影駅の北側の山中に有名な桜ヶ丘銅鐸と渦ヶ森銅鐸の出土地があります。

また、目立った弥生遺跡や古墳が少ないのに何故か銅鐸出土の多い
淡路島・南あわじ市慶野地区には「瑞井(みつい)」と呼ばれる霊泉があります。
http://www.hyogo-c.ed.jp/~rekihaku-bo/historystation/trip/html/129/129.html
http://web.pref.hyogo.jp/aw01/aw01_1_000000105.html

>竜王という山関連の地名が銅鐸出土地近辺に多いのは、、、
>
参考までに「竜王山リスト」載せておきます。
http://www.gsi.go.jp/WNEW/LATEST/special99-00/dora-yama.htm
竜王山は圧倒的に瀬戸内−特に岡山県に多いので
竜王山→銅鐸出土地とはならないと思うのですが、
竜王信仰と雨乞いが関係していることは間違いない。

ただしこの「雨乞い」というのはご指摘の通り
古代〜中世〜近世と重層してますから
私たちが現実に今見ているものは江戸時代の姿なんでしょうねあせあせ
http://f9.aaa.livedoor.jp/~ryuso/t/t034_036.htm
高知の美良布神社や春日井の神領銅鐸の雨乞い神事例は
あくまで江戸時代の人々が銅鐸=鐘と解釈したものと思います。

ただし、竜神が鐘を好むという話の起源は結構さかのぼるかもしれない…
どんたくさん

こんなブログ記事見つけました!わーい(嬉しい顔)
どんたくさんの雷神説とはちょっと違うかもしれませんが…

銅鐸は雷そのもの
http://blog.goo.ne.jp/kitora-aska/e/48bebe99dfdc7872a853b390913e98e2
神と雷のお話
http://www.joumon-uzumaki.com/mobius/modules/uzumaki3/index.php?id=1

写真は殷代の雷字…まさに稲妻そのものですね。
甲骨文字を調べてみると、
http://newtaoyuangu.blogspot.com/2007/09/blog-post_30.html
申、電、雷が元もと同じ字を源流に発達したと考えられ、
時代が下って、電や雷の字に「雨」が冠せられるのは、稲光が雨と共に発生するから
そして、一説には申は「神」の字の古体なんだそうです。
確かに神のつくりは「申」ですね〜
申は稲妻の形を表していて、古代中国では稲妻は神の威光と考えられていたようですウインク
オモイカネさん、こんにちは。

レスが遅くなってすみません。

>こんなブログ記事見つけました!

よくまあ、このようなものを色々見つけ出されましたね。
いつものことながら、感嘆するばかりです。

>銅鐸は雷そのもの
>http://blog.goo.ne.jp/kitora-aska/e/48bebe99dfdc7872a853b390913e98e2

銅鐸と雷とを結びつけるという、私と同じ考えの方がおられるとは知りませんでした。
どうやら関西に住んでおられる方のようですが、会ってお話しすることができたら、話しが尽きないことになりそうな。。。。

>神と雷のお話
>http://www.joumon-uzumaki.com/mobius/modules/uzumaki3/index.php?id=1

大谷幸市さんという方にはお目にかかったことはありませんが、渦が大好きな方のようで、『古代史の海』という季刊雑誌に殆ど毎号何かを書いておられていて、その精力的な活動には感心しています。
この方とはコンタクトをとることができそうです。

>http://newtaoyuangu.blogspot.com/2007/09/blog-post_30.html

漢字の源がうまく整理されていますね。

実は、私はもとは電気屋だったものですから、「電」、「雷」、「神」、「申」などという漢字の源のことを調べ、30年前から「カミナリはカミサマなのだ!」ということを一人でほざいて来ました。

中国だけでなく、日本でも雷が鳴るのが「カミナリ」ですから、結局、中国でも日本でも「カミナリはカミサマなのだ!」というのが私の持論になっています。(^_^)

今まで私一人でそういうことをほざいても、皆さんニヤニヤ笑って聞き流すという状況がずっと続いてきたように思いますが、今回のオモイカネさんのおかげで、どうやら「同志」がおりそうだということで嬉しくなってきました。

どうも有難うございました。
銅鐸と水との関係ということでは、泉だけでなく、谷筋や川筋も入れて考えてもよいかも知れません。

細江町(今は市町村合併で名前が変わった?)で一つの谷筋から銅鐸が沢山出てきていることは有名ですが、手許にあったはずのパンフレットがどこへ行ったか、見つかりません。

代わりに和歌山県の南部川流域での例をここにアップします。

『特別展 きのくにの銅鐸』和歌山県立紀伊風土記の丘資料館 1999.10.2. 所載の「南部川流域の銅鐸出土地」の地図です。

19玉/20雨乞山/21大久保/22久地峠/23常楽/24下の尾
と、6個の銅鐸が一つの川筋沿いに出土しています。
どんたくさん、こんばんは

「雷」に関して鏡関係の資料二つ紹介しますわーい(嬉しい顔)

多鈕雷文鏡(写真1)という銅鏡をご存じでしょうか?
BC4世紀頃、遼寧省地域の青銅器文化で作られ
朝鮮半島に南下して多鈕細文鏡と呼ばれる鏡となります。
多鈕細文鏡は弥生前期末〜中期の日本にも伝わってきますが、
あのすごく細かい複合鋸歯文もルーツは雷文?のようです。
※村上恭通「遼寧式銅剣・細形銅剣文化と燕」『東夷世界の考古学』(青木書店/2000)
写真は『鐸剣鏡(日本原始美術大系4)』(講談社/1977)p.169

奈良県佐味田宝塚古墳出土の家屋文鏡(写真2)
辰巳和弘さんが『古墳の思想―象徴のアルケオロジー』 (白水社/2002)p.100
で指摘されていますが、
高床式で入母屋型の屋根を持つ家(蓋がさしかけられている/A棟)の
屋根の左右に稲妻形模様(いわゆる雷文の一種)が描かれ、
その模様の中に人物像が配置されています。
辰巳さんは天から首長のもとへ「神」が降臨してくる姿と解釈されています。
稲妻形模様と人物像はC棟の竪穴式住居風の家の右上にもあります。
どんたくさん

>銅鐸と水との関係ということでは、泉だけでなく、谷筋や川筋も入れて考えてもよいかも知れません。
>細江町(今は市町村合併で名前が変わった?)で一つの谷筋から銅鐸が沢山出てきていることは有名ですが、手許にあったはずのパンフレットがどこへ行ったか、見つかりません。
>
総論として谷筋・川筋も確かに水ですが、
旧細江町(現浜松市)滝峯の谷の場合は
銅鐸出土地点の1箇所、1箇所が湧水地なんですよあっかんべー
これは私の日記(07/10/30)で紹介した
大野勝美さんの著書に詳しく紹介されてます。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=607617234&owner_id=14042810
この本ホントにオススメですよ

>和歌山県の南部川流域での例をここにアップします
>
ここも興味深い銅鐸出土地ですが
やはり1箇所ごとに意味があるようです。
(ここも大野さんの著書にも取り上げられてます)

やはり現地に行ってみて、個別に検討しないと
銅鐸埋納の秘密には迫れそうにありませんあせあせ
オモイカネさん、

> 大野勝美さんの著書に詳しく紹介されてます。
> http://mixi.jp/view_diary.pl?id=607617234&owner_id=14042810
> この本ホントにオススメですよ

一度この本読んでみたいですね。
どんたくさん

大野勝美さんの『銅鐸の谷』…ペギラさんも絶賛されてますが、銅鐸ファンなら必読本だと思いますわーい(嬉しい顔)
大阪府立図書館にも入ってますよ

ところで、一昨日の鏡の話…いかがですか?

日本に「雷信仰」が入ってくるのはいったいいつ頃のことなんでしょうか?あせあせ
オモイカネさん、こんにちは。

>日本に「雷信仰」が入ってくるのはいったいいつ頃のことなんでしょうか?

電光と雷鳴とは天然自然のコワイ現象だという認識は、古今東西を通じてどこででも持っていたと思います。

そういうことから考えると、カミナリを神またはそれに似たようなものとする考え方は、どこででも自然発生的に生じえたものではないでしょうか。
(例えば、北欧神話などにも雷の神様があります。)

従って、「雷信仰」というのは、何も中国から輸入しなくても、古代日本で独自に起こりえたのではないかと私は考えています。

ただ、俵屋宗達の風神雷神図に見るような雷神の姿(串刺しになった太鼓をいくつも背中に持っている)というものは、その原形が敦煌の石窟に見られますし、これは中国から輸入されたものでありましょう。
どんたくさん

>カミナリを神またはそれに似たようなものとする考え方は、どこででも自然発生的に生じえたものではないでしょうか
>
自然現象を恐れるというところはよ〜くわかるんですが…
それが“信仰”に昇華するのは、どこででも自然発生はしないと思いますウインク

>「雷信仰」というのは、何も中国から輸入しなくても、古代日本で独自に起こりえたのではないか
>
日本で独自に…を可能性の問題ではなく、考古資料や神話を使ってどう説明できるか
古代人がどう認識しどう考えたかなんて、現代人の想像を越えてますからあせあせ

「雷」のもっとも古そうな呼称−「いかづち」は
「いか(厳めしい)」+「づ(のの意味)」+「ち(霊)」
“恐ろしいモノ”というような意味ですから
もともとは「電光と雷鳴」とは結びつかない言葉かもしれません…

どんたくさんが銅鐸と雷を結びつけられた理由は何ですか?わーい(嬉しい顔)
オモイカネさん、こんにちは。

>「雷」のもっとも古そうな呼称−「いかづち」は
>「いか(厳めしい)」+「づ(のの意味)」+「ち(霊)」
>“恐ろしいモノ”というような意味ですから

はい、その通りだと思います。
私は、30年余り前からそのように認識してきました。

>もともとは「電光と雷鳴」とは結びつかない言葉かもしれません…

ピカピカ光る電光と、ゴロゴロ鳴る雷鳴とは、言葉として結びつく・結びつかないの問題ではなく、一つの天然自然の現象として結びついているものではないでしょうか?

>どんたくさんが銅鐸と雷を結びつけられた理由は何ですか?

もともと私が銅鐸と雷とを結びつけて考えるようになったのは相当に古く、今から30年余り前にそのことを小冊子に簡単に書いたこともありました。

丁度いまから10年前の1998年1〜2月に、NIFTY SERVE というパソコン通信の「歴史フォーラム」で「銅鐸を考える」という名前のシンポジウムが開催されました。

正月初めから1月25日まではパネリストの人たちだけが発表し、1月26日からは一般参加者も加わって質疑応答が繰り広げられました。

私もパネリストの一人としてこのシンポジウムに参加させて貰い、1月25日までの間に40回ほどにわたって「どんたく説」を開陳させて戴きました。
その過去ログは今も私のパソコンの中には残っておりますが、相当にボリュームがありますので、その全てをここに再録するわけにもいきません。
そこでこの40回目の最後に纏めの意味で書いた“「どんたく説」エピローグ”だけを別途再録紹介させて戴こうと思います。
(2,000文字/回という文字数制限の関係で、2回に分けて別途アップします。)

これは10年前に書いたものでありますが、ここに書かれている「どんたく説」の概要については、今も基本的には私の考えは変わっておりません。
何らかの参考にして戴ければ幸いです。
NIFTY SERVE における1998年の「銅鐸を考える」シンポジウムでの私の発言を、2,000文字/回という文字数制限の関係から、2回に分けて紹介させて戴きます。
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099/336  どんたく  「どんたく説」エピローグ
(18) 98/01/25 10:55 058へのコメント コメント数:1

みなさん、こんにちは。 どんたくです。

これをもちまして、「どんたく説」シリーズは一応幕を閉じることといたします。

「どんたく説」は、考古学上の遺物である銅鐸を神話と結びつけるという、いわば「邪道」の説であります。

このことが、今まで誰にも相手にして貰えなかった一番大きな理由でありましょう。

しかし、「雷の分布と銅鐸の分布の相関」という点に着目してスタートした私としましては、自然の成り行きとしてこの「邪道」に足を踏み入れて行ったのでありました。

このような「珍説」を読まされることは、皆様にとって、大変迷惑至極だったかもしれませんが、私にとりましては、このような発表の機会を与えられたことを大変感謝しております。

以上、ながながと書いてまいりましたが、「どんたく説」を要約すると次のようなことになりましょう。

(1)銅鐸の出土分布と雷の発生分布との間には、ある程度の相関関係が見られる場合がある。

(2)古代氏族は、天孫系と先住系の二つに分けられる。

(3)銅鐸と古代氏族とが関係があるという諸説を見ると、その古代氏族は何れも先住系である。

(4)古来、先住系の場合には、雷神を祀る習俗があったものと見られる。

(5)銅鐸の埋め方には、一種の「作法」があったように感じられる。
これからみて、銅鐸を埋めること自体が、一種の儀式としてあったように思われる。
(続く)
“「どんたく説」エピローグ” の続きです。
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以上のようなことから、私は、「銅鐸は、先住系の人たちによる、雷神信仰の祭器であった。」というように考えるわけです。

ゴロゴロと鳴り響く雷(=神鳴り)を、神の怒りの声として恐れ、この神の怒りをなり鎮めるために、銅鐸を土中に埋める儀式を行なった。
そうして、雷神から雨の恵みを受けて、農作物の豊穣を祈った。
こんな風に考えるわけです。

まあ、この「どんたく説」は単なる一つの仮説にしか過ぎません。
皆さんも読んでいて「おかしいなぁ」と首をかしげることも多々あったことかと思います。

しかし、この仮説をもとにして、以上述べてきたような色々な事柄を一応は説明できるように思います。

これとは全く違う、誰もが納得できるような仮説をたて、それに基づいて色々な事柄をもっとうまく説明できる方法があるのか、ないのか。

もしそういうものがあるならば、是非とも教えて戴きたいと思っています。

他のパネリストの方々とのバランスもわきまえず、勝手に書き連ねたこと、お許し下さい。

手前勝手な「どんたく説」シリーズをご愛読戴き、まことに有り難うございました。m(_ _)m
どんたく
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[暫しの別れ]
諸般の事情により、残念ながら暫くの間ここから離れなければならなくなりました。
できれば今年度中には復帰したいと思っておりますが、それまでの間お別れということになります。
ただしその間も、少なくともROM(Read Only)だけはできるだけ続けたいと思っております。
皆様方のご発展・ご健勝をお祈りします。
どんたくさんがいなくなるとコミュも寂しくなりますね〜
早く帰って来られるのをお待ちしております。
NIFTY SERVE「銅鐸を考える」シンポジウムのご紹介ありがとうございます。
全部読んでみたいですねわーい(嬉しい顔)

ところで「雷」についてですが、
折口信夫のこんな文章がありました。
「いかづちは古代にも既に雷及び雷神であるが、一方、雷神の原躰としての蛇を同時に考へてゐた」
この文章読んで「ああそうなんだ」と納得させられました(さすが折口翁!)

吉野裕子さんじゃないですが、
雷(いかづち)の「ち」を原始的精霊などと難しく考えるより
「をろち」「みづち」「かがち」と同様、「蛇」の古称と言った方がわかりやすいかもしれません。
たぶんその方が古代人の思考に近い。

蛇=水の神なので、雷も水の神といえばそれでもいいんですが、
古代人が雷だけを特別視していたとは思えません。
「電光と雷鳴」現象の背後にカミがいると感じているわけで、
古代人が想像しイメージできたカミの姿としは「蛇」…まあ雷と蛇−形も似てるといえば似てます。
といっても蛇そのものがカミの実態ではない(ああややこしい)
蛇=カミなら、日本中の蛇が神さま扱いされてしまいますから。
同じように雷そのものを崇拝しているわけではないでしょう。
雷も蛇も古代人がイメージしたカミ=水の神(おそらくは地霊)の顕現したものと考えると
雷も蛇も偶像に過ぎません。

雷そのものをカミと考えたなら、落雷地点は重要な祭場になりそうですが、
はたしてどうでしょうか…あせあせ

どんたくさんは、「雷の分布と銅鐸の分布の相関」という点に着目と書かれてますが、
これは神戸周辺の銅鐸分布と落雷地点に相関関係があるという話
それじゃあ、他の地域の銅鐸はどうなんだと、
出雲は?浜松は?徳島や滋賀は?
銅鐸作っていた河内や大和は落雷が多いのでしょうか?あせあせ

発雷マップというのがあったので紹介しておきます。
http://www.kaminari.gr.jp/kiso/hatsurai.html
全国的に見た場合、落雷の多い地域と銅鐸分布には相関はなさそうです。

銅鐸の分布…青銅器の分布は、古代人が埋めたものですから、
まずは同時代の遺跡(集落や墓)との関係から考えるべきでしょう。
また前期古墳との関係も注目されます。
氏族分布との関連はその次のステップと考えますウインク
銅鐸と水神

アサヒグラフ「別冊」
銅鐸の谷 
加茂岩倉遺跡と出雲  朝日新聞社 1997

この冊子のP94に、森浩一さんの記述があった。

内容を抜粋するならば、
1997年6月14日付の京都新聞の記事
京都市梅ケ畑向ノ地町の丘陵の山頂近くで雨乞いの祭祀遺跡が見つかった。
銅鐸が出土した場所から10mほどしか変わらない場所だった。
といった内容だ。

1967年8月に 文化史研究19号にて
「銅鐸の出土地をたずねて」というものを発表されていると。

銅鐸と水、もっといえば川神・水神との関連について述べたものだった。と。

一度は読んでみたいものです。


これは、以前にオモイカネさんのブログにありますね。

http://doutaku.cocolog-nifty.com/blog/2007/12/post_bbe3.html

> ペギラさん

>#21 一度は読んでみたいものです
>
PDFで送っておきますねウインク
私も銅鐸と水の関係にとても関心を持っています。私は銅鐸は水その物を表現する為に巨大化していったと考えています。銅鐸の変化を見る為の広島から出雲地方を歩いて見たんですが最初牛が付けている鈴くらいの大きさから段々巨大になって2mくらいになっているんですね、もう一つ気になったのが流紋を描くのに引っ掻いて窪んだ線で描かれているんですが途中からは出っ張った線の変化しているんですがこれは銅鐸が水面の輝きの様にキラキラさせる為だと考えています。では何の為にこう言った改良を加えて行ったのかと言うと水面に集まるトンボなど益虫を集まる為だったと推理しております、トンボが集まるとアブラ虫などの害虫が減って来るんですね。
そう考えていくと銅鐸は水田の普及とともに消えてしまったんじゃないかと言う事が導かれきます。昔は陸稲にあつまる鳥害虫の駆除に大変苦労していたんじゃないかと考えています。
yuuyuuさん こんにちは。 

>銅鐸は水田の普及とともに消えてしまったんじゃないか

なかなか面白い発想ですね。
通常は、鏡の普及とともに消えてしまったと解釈されています。
三品彰英の「地的宗儀」から「天的宗儀」に変化して行ったという説です。

銅鐸は舌があってガラガラと鳴ります。
益虫を集める為なら鳴らなくてもよいと思いますが。

            播磨國住人 韃靼人
銅鐸は神を呼ぶもの、銅剣は、悪霊をはらうものと言われています。実際、家庭菜園にアルミ箔で作った銅鐸を吊るして置くとトンボが集まってきます、銅剣をかかげると鳥が逃げて行ってしまうのです。銅鐸は最初は金属音を嫌う熊などを追い払う為に鳴らして使われていたと
思われますが流紋だけの銅鐸もある事から考えて見てもよりトンボが集まる事を目的にして形状が変化して行ったんじゃないかと考えています。また出土する場所も竜王と名前が付く場所が多いとされます。私は竜がトンボの事ではないかとも考えています。十二支と龍と検索すると龍は蛍を食すると書いてありました。ヤゴの姿をうえから見ると翅の部分がタテガミ脚の部分が髭と角に見えてくるのです。
銅鐸がトンボを呼ぶため、銅剣が鳥を追い払う為だったと仮定して銅鐸と銅剣の分布図を見ると稲作の技術や生産量は九州の方が鳥を追い払なければならない程、進んでいたのかな!?など銅鐸と銅剣の使われ方が解るだけでも推理できるような気がしてきます。
はじめまして。

銅鐸とカモ地名、カモ族の関係について大変興味を持ってます。

いろいろと勉強させてください。
>>[28]

いらっしゃい!
なにか、書きこみたい話があれば、どうぞ書きこんでください。
   播磨國住人 韃靼人
>>[29]
ありがとうございます。
言いたいこと、思いっきりありますw

上で和歌山の南部の図が載ってますね。
つまり水源ですね。
古代、高貴な人は水源を使用出来る第一人者であったという事でしょう。
湧き出るきれいな水を使用できる特権を持っていた。
もちろんトイレにも使ったでしょう。

平地に住む平民はそうはいきませんね。

カモ族の語源はカミ、カム。

先日、奈良の名柄に行ってきてつくづく感じました。
水分神社になってる水源、これを使えた人たち、つまりカモ族。
彼らは高天原(現・金剛山)に住むカミガミだったのでしょう。
三輪山にすむ大物主。

これ、だいたいどこに住んでたか分かりますね。
水源のあるところですからね。

昔は山の頂上かなとも思ってたけど、とんでもない間違いです。
そんなところには人間は住めません。

多分この水源付近にも銅鐸があるはずです。

銅鐸は神社の境内でもよく見つかるそうですが、それは逆で神社が水源に建ってるからでしょう。
手水舎は水源ですから。
銅鐸とは直接関係はないのですが、間接的には関係する私のHPです。
ぜひ覗いてみてください。

妃のいない大王
https://o-yan216.wixsite.com/mysite
カモ、ミワ地名の以外にもオオタ、太田が訛化したタダも銅鐸出土と絡んでる気がします。
また須賀神社も示唆的ですね。
和歌山のの太田遺跡の近くに須賀神社、
東奈良遺跡の近くにも須賀神社、
ことごとく出雲系が絡んでいるのは偶然とは思えません。


古代出雲系に深く関わる名前、または地名。

カモ カム(鴨 加茂 賀茂)カミ カン(神)
ミワ(三輪 美和 三和)
オオ(多 大)
太田、多田、
オオタが訛化した多田(タダ)

こんな感じか。
うちの近くは「オオ」タタネコが住んでいた陶邑ですが、
ミワダニ(現在は上神谷=ニワダニ)、
「オオ」ノ 大野という地名があり、
さらに何故か山間に戎神社があります。

やはり出雲系だったのか。

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